待ち焦がれた二学期がはじまった。推しとクラスメイトになるなんて事態に、どうにか慣れた一学期だったけれど。今は桃真(とうま)への恋を自覚してしまっていて。また振り出しに戻ったみたいに、いやそれ以上に日々が新鮮だ。
 加えて、二学期はイベントも多い。直近だと球技大会があり、その後は体育祭に文化祭と続く。ぼっちだと憂鬱なばかりで昨年は全部欠席したけれど、桃真がいるから今年は楽しみだ。
 ただ、ひとつ問題が生まれてしまった。桃真に触れられる度、これまでとは段違いにドキドキしてしまうことだ。

「あっちいなー希色(きいろ)
「そ、そうだね」

 四限の音楽が終わり、教室に戻る道のり。オレの背中には桃真がくっついていて、肩に額を擦りつけられている。桃真のスキンシップは以前からだけど、今日はなんだかいつも以上に距離が近いような。声は上擦ってしまうし、触れられている部分が甘く痛むような心地がする。

望月(もちづき)にくっついてるから余計暑いんだろ?」
「それな。土屋(つちや)ー、離れてやれ」

 心音が耳元で鳴っているみたいな感覚もして、川合(かわい)くんと佐々木(ささき)くんのツッコミがどこか遠くに聞こえる。

「なあ希色、俺離れたほうがいい? うざい?」
「へっ……ううん、平気だよ! 桃真がうざいとか、絶対ないし」
「よかった。ほら、うざくねえって」
「俺らもうざいとは言ってないけど!?」

 教室に入ると、クーラーの冷気がいくらか頬を冷ましてくれた。火照った心の中までは、あいにく届かないけれど。

 帰りのホームルームで、来月頭にある球技大会の競技を決めることになった。桃真がいるから今年は楽しみ、それは確かなのだけれど――見事にどれもチーム競技で、オレは口角をひくつかせた。見学という選択肢があればいいのに。

「希色はどれにする?」
「できればどれにもしたくない……」
「マジかあ。俺は希色と同じのにしたいんだけどな」
「嬉しいけどでもオレ、本当に全部下手だよ……」

 うっかりしたら泣いてしまいそうな目で、そっと隣の桃真を見る。桃真と一緒にできるなら、それはすごく魅力的だ。でもそれと同じくらい、足を引っ張ってしまうことが怖い。体育の時間に練習も入ってくるから、情けない姿をたくさん見せることにもなってしまう。

「別に下手でもいいんだよ。でも希色は気になるんだもんな。うーん、じゃあバスケとかは? 希色にボールが回ってきたら、すぐ俺にパスしていいから」
「そんなに上手くいくかな」
「大丈夫。練習の時にパス練たくさんしようぜ」
「桃真……ありがとう。オレ、桃真とバスケやりたい」
「よし、決まりな」

 桃真はどうしてこんなに優しいのだろう。あんなに尻ごみしていたのに、決意できる心をもらってしまった。桃真が掲げてくれた手にハイタッチをしていると、川合くんと佐々木くんがこちらにやってきた。どうやらふたりもバスケにするらしい。

「佐々木バスケ部じゃん。出ていいんだっけ」
「チームにひとりはいていいらしいから、オッケーオッケー」
「望月、一緒に頑張ろうな」
「う……ご迷惑をおかけしないように、それを一生懸命頑張ります」
「あっは、気負いすぎ。大丈夫だからな、楽しめばいいんだから」

 他のクラスメイトたちも次々と競技が決まって、先生がじゃあ今日はこれで終わりと告げて去っていく。教室内が一気に賑やかになった時。女子たちの話し声が、突然際立って聞こえてきた。

「ねえそう言えばさ、昨日の日比谷(ひびや)(みどり)のインスタ! 見た!?」
「あ! 見た見た! 表紙のヤツでしょ!?」

 オレは思わず、びくりと肩を跳ね上げる。
 女子たちが話している“日比谷翠の表紙のヤツ”とはつまり、M's mode(エムズモード)のことだ。KEY(キー)であるオレも共に撮影した、BLをコンセプトにした表紙。出版社の各SNSで、昨日の夕方に公開された。もちろんオレも、“いいお知らせができそうと先日言っていたのは、このことでした”との文章と共にインスタへ投稿している。
 膨大な数の写真の中から選ばれたのは、キスしてしまいそうなくらいに顔を近づけた写真だった。翠くんの首に両手を回しカメラを睨むオレと、オレの顎に手を添えながらカメラを鋭く射抜く翠くん。くびったけな感情と独占欲が現れている、との評価で選ばれたと前田(まえだ)さんが言っていた。

「日比谷翠もよかったけどさ、私はもうひとりの……なんだっけ」
「KEYくん!」
「そうそう! KEYだ! 私あの子初めて見たんだけど、あんなかわいい男いなくない?」
「いないいない、余裕で負けた。でも私はやっぱり、日比谷翠だな~」
「てかイケメン同士のボーイズラブ、最高」
「分かる」

 翠くんの名前を教室で耳にすることは、以前から度々あったけれど。KEYの名前が出てきたのは初めてだ。また体がびくりと跳ねてしまった。
 クラスの女子とは誰ひとり、一度だって会話をしたことはない。モデルの自分のこととは言え話題に上がっていて、褒められているのが変な感じだ。

「希色? 平気か?」

 桃真の声に、ハッと顔を上げる。そこでようやく、深く俯いていたことに気づく。どうやら心配をさせてしまったみたいだ。

「うん、平気。なんでもないよ」
「……なあ、希色も見た? 女子たちが喋ってるヤツ」

 桃真からもM's modeの話題が出て、ドキッと胸が鼓動を打つ。喜びと、どう感じただろうかとの緊張が入り混じる。

「うん、見たよ」
「ふうん。俺も」
「…………?」

 桃真の纏う雰囲気が、急に冷たくなった気がする。声のトーンが明らかに低くなったし、横顔はなんだか怒っているようにも見える。

「……桃真? えっと、日比谷翠かっこよかったね?」
「…………」

 横目でちらりとオレを映し、かと思えばすぐに逸らされてしまう。なぜ急にそんな態度になったのか、ちっとも分からない。かと思えば座ったままの椅子を引きずって、オレにぴたりとくっついてきた。机の下でそっと手を握られ、グッと顔が寄せられる。

「へ……と、桃真? あの、どうかし……」

 桃真はさらに、指同士を絡めるように握り直した。それを思い知らせるような、ゆったりとした手つきで。桃真の手の中にある、指先が火照る。間近から放たれる桃真の瞳の光が頬に当たって、ぴりぴりする。
 今日の桃真はやっぱり、いつも以上にスキンシップが激しい気がする。

「俺はさ、KEYがいいと思った」
「っ、え?」
「日比谷翠も、まあ……でもKEYの表情、すげーよかったと思う」
「……ほ、ほんとに?」

 KEYのことを桃真がそんなに褒めてくれるのは、初めてのことだ。顔が一気に熱くなる。思わず顔を逸らすと、繋いでいる手の甲を撫でられた。指先が跳ねたら、更にきゅっと握られる。

「うん。すげーかっこよかった。希色は? そう思わない?」

 尋常じゃないくらい、心臓が速い鼓動を打つ。自分の体が自分のものじゃないみたいで、呼吸も浅くなる。
 桃真は翠くんのファンなのに、こんなにKEYにも目を向けてくれたなんて。しかも、“かっこいい”と言ってくれた。モデルを始めてかわいいと褒められることはあっても、かっこいいだなんてほとんど言われたことがなかった。そうなりたいとずっと思っていた。他でもない、憧れた桃真がそう言ってくれている。どうしよう。

「……ん、そう、だね。よく撮れてるなって、思うかな」

 やっとの思いで、ようやくそれだけ答えることができた。まぶたの裏がじんわりと熱い。もしオレがもっと勇気のある人間だったら、もっと自信を持てていたら。桃真に抱きついていたかもしれない。

「ん、だよな」

 桃真はどこか満足げに頷いた。でもすぐに、今度は悲しそうな顔をする。眉がしゅんと下がってしまった。

「桃真?」
「んー……なあ希色、あのふたりってさ。もしかして、マジで付き合ってたりすんのかな」
「え?」
「KEYと……日比谷翠」

 本当はこんなこと口にしたくはなかった、といった様子で苦々しく桃真はそう言った。思いがけないその言葉に、オレは目を見開く。

「それはないよ!」

 即座に断言する。でもすぐに冷静になった。オレが言い切るのはおかしい。

「と、思う!」

 慌ててそうつけ加える。すると桃真は、

「そっか。まあ、そりゃそうだよな」

 と笑顔を見せた。桃真は翠くんのファンだから、やはりそこは気になるところなのだろうか。オレなんかのとってつけたような言葉で、ずいぶんと安心してくれたようだ。

「急に変なこと言ってごめんな。……なあ希色、今日なんか予定ある?」
「なにもないよ」
「マジ? じゃあ、帰るのもうちょっと待ってもらってもいい?」
「うん。なんかあった?」
「んー? ううん。ただ、もうちょっとこうしてたいなあと思って。いい?」

 桃真はそう言って、オレの机に頬をくっつけた。オレを見上げながらほほ笑んで、繋いでいる手をゆったりとしたリズムできゅっきゅっと握ってくる。
 ああ、もう。桃真はどうしてこういうことをするのだろう。人の気も知らないで。甘酸っぱい音が胸の中で何度も何度も弾けて、言葉にならないまま頷くことしかできない。

「やった。ありがと希色」

 桃真にKEYのことも推してほしい。それだけじゃなく、オレと同じ気持ちで好きになってほしくなる。もしも両想いになれたなら、どんなに幸せな心地がするだろう。


 あっという間に十月になった。球技大会を明日に控えた今日は、M's modeの発売日だ。

 朝から翠くんや前田(まえだ)さん、それから事務所の早川(はやかわ)社長からも、初の表紙を祝うメッセージが入っていた。放課後には事務所へ行く予定となっている。
 学校に到着すると、教室の中は驚いたことにM's modeの話題で持ちきりだった。登校前にコンビニで買ってきた人がいたらしく、それを中心に女子たちの輪ができている。

「いいなー、私が寄ったコンビニは売り切れだった」
「帰りに本屋寄ってみる?」
「行く行く! 絶対欲しいもん!」
「てか中にもたくさんページあるよ!?」
「うわ、KEYくんかわいすぎほんとやばい」
「日比谷翠は色気がダダ漏れ」

 その歓声は明るく高く、クラスの雰囲気を染め上げている。先に登校していた佐々木くんは女子たちを眺めながら、そのエネルギーに圧倒されているようだ。

「すごいことになってんなー」
「そうだね……」
「まあ俺も買ってきたんだけど。じゃーん」
「えっ! 佐々木くんも?」
「うん、俺毎回買ってるし」
「そうだったんだ……」

 女性たちにも注目してもらえるのは、もちろん嬉しい。けれど雑誌の本来のターゲット層である男性に見てもらえているのは、モデルとして喜びもひとしおだ。こっそり噛みしめていると、佐々木くんの視線がオレの背後に移った。

「おはよー土屋」
「桃真。おはよう」
「……はよ」

 今日は珍しく、桃真のほうが遅かったようだ。騒いでいる女子たちに珍しく煩わしそうな視線を向けた後、どかりと自身の席に腰を下ろした。

「土屋、日比谷翠のファンだったよな? よく望月と話してるし」
「……まあ」

 桃真の机の上に、佐々木くんがM's modeを置く。

「今朝買ってきたんだけど見る? 俺、モデルに注目したことって今まであんまなかったんだけどさー。かわいいな、KEYって。俺ファンになりそう」

 KEYに対してではあるが、佐々木くんにかわいいと言われる日がくるとは思ってもみなかった。正体に気づかれてはいなくても、なんだかくすぐったい。こっそりと視線を窓の外へと逃す。すると、

「ちょ、なにすんだよ。おい、蹴んなって」

 という慌てた佐々木くんの声が耳に届いた。何事かと振り返ると、佐々木くんの足を蹴る桃真の姿があった。つつく程度の軽いものではあるが、むくれた顔でそうする様に、オレはついぽかんと口を開ける。

「はよー。って、あのふたりなにしてんの?」
「オレも分かんない……」

 野球部の朝練を終えた川合くんも教室へやってきた。桃真が繰り出している謎の攻撃に、一緒に首を傾げる。いや、理解できていないのは佐々木くんもか。ストップストップ! と、桃真と佐々木くんの間に川合くんが割って入った。

「なに、どうした?」
「……別になんも」
「なんもって顔じゃねえんだよなあ。な、土屋。俺なんか変なこと言っちゃった?」
「…………」

 佐々木くんはこういう時、険悪なムードにならないようにするのが上手い。しばらく口を開かずにいたけれど、気まずそうに目を逸らした桃真が小さく話しはじめる。

「蹴って悪かった」
「謝るんかい。別に全然痛くないし、それはいいけど……」

 教室の中は相変わらず騒がしいのに、4人の間にだけ沈黙が流れてしまう。それを変えようとしたのか、佐々木くんがワントーン高く声を上げた。

「あ、分かった。この表紙か!」
「……は?」
「こんなカップルみたいな写真見て、妬けちゃうーみたいな? なーんて……」
「あー……うん、そうかも」
「……え?」

 佐々木くんは冗談のつもりだったのだろう。なんてな、と茶化そうとして、けれどそれを遮って桃真が肯定してしまった。佐々木くんとオレ、川合くんは思わず顔を見合わせた。
 翠くんと一緒に写るKEYを見て、桃真は面白くないのではないか。そんな風に考えたことは度々ある。直接そう尋ねた時は、強く否定されたけれど。今回の表紙はボーイズラブがコンセプトだと公表されているし、そこまでとなると辛いものがあるということだろう。

「なんだよ土屋~、お前かわいいとこあんじゃん!」
「うっせ」
「あっは、顔赤くなってんぞ」
「お前もうるせえよ川合」

 空気が一瞬でほどけた。桃真の机に腕を乗せ、しゃがんだ佐々木くんがケラケラと笑う。川合くんも安心したようにオレの前の席に座り、大きなおにぎりをふたつ取り出した。でもオレだけは、発覚した事実に胸が薄暗くなっている。
 オレ自身、翠くんのことを尊敬しているし大好きな先輩だ。だからこそ、桃真が翠くんのファンだと知った時はテンションが上がった。でももうひとりの自分であるKEYが、翠くんを想う桃真の心を乱している。申し訳ないようなさみしいような、そのどちらものような。判断のつかない感情が渦巻いている。
 今は落ち着いたのか、桃真の笑う声が聞こえる。それに少しだけ安堵しつつ、うかがうように桃真へと視線を移す。すると桃真もこちらを見ていたようで。目が合って、眉はまだちょっと下がったままだけどほほ笑んでくれた。
 KEYがオレだと知ったら、もうこんな風に笑ってくれないかもしれない。優しい桃真のあたたかさを、手放すことになるのかも。
 想像するだけで胸はぎゅっと狭くなって、じんわりと涙が浮かぶ。顔を隠していてよかったなとこっそり鼻を啜りながら、3人の話し声に不格好な笑い声を混ぜた。

 放課後になり、駅までの道を桃真と歩いた。改札前で別れ、自宅方面へ向かう電車に乗りこむ。窓の外を眺めながら思い出すのは、今日一日の桃真のことだ。
 朝以降、桃真の様子は一見するといつもと変わらなかった。でもいつもより、スキンシップが多かったように思う。先月の、表紙が公開された次の日を思い出した。頭を撫でられる時も、手に触れられる時も手つきがゆったりとして、まるで味わわれているような感覚。視線を感じて桃真のほうを向けば、眉をくしゅっと寄せた弱々しい笑顔だった。その表情に、オレも苦しくなった。きっと、翠くんのことを想っていたのだろう。もしかすると、そのさみしさをオレに甘えることで紛らわせていたのだろうか。でもなにもしてあげられなくて、むしろ自分がそんな顔をさせる理由なわけで。それでもこの手を離したくないと、何度も握り返した。

「おはようございます」

 自宅で着替えを済ませ、すぐに事務所へと向かった。挨拶をすると、あちこちから「表紙おめでとう!」と声が上がった。優しい人たちに恵まれていると、何度だって噛みしめる。ひとりひとりに丁寧にお礼を伝えていると、奥のほうから翠くんがやってきた。

「希色~奥で社長たち待ってんぞ」
「うん、今行く」

 翠くんはなぜかヘアワックスを手に持っていた。オレの歩くスピードに合わせ、後ずさりながらオレの前髪をいじり始める。事務所に来る時は、学校に通う姿とはなるべく変えるようにしている。髪も簡単にセットしてきたのだけど、翠くんの手によってしっかりセンターパートにされてしまった。翠くんはいたく満足げだ。

「よし、希色のかわいい顔見えた」
「日比谷くん、まるでKEYくんの専属ヘアメイクみたいだね」
「マジ? 副業でやってみようかな」

 親しいからこそのスタッフの冗談に、翠くんも調子よく返事をしている。

「KEYくん、待ってたよ! こっちこっち」
「前田さん、社長。おはようございます」
「おはようKEYくん」

 手招かれるままに、ソファへ腰を下ろす。向かいに社長と前田さん、隣には翠くん。自ずと背筋が伸びるオレに、社長が嬉しそうにほほ笑んだ。

「改めて、表紙デビューおめでとう。売れ行きも絶好調だそうだよ」
「ありがとうございます!」
「編集部のほうから連絡があってね、売り切れの書店も多いみたいで。雑誌では異例のことなんだけど、増刷が決まったらしい。これはすごいことだよ翠くん、KEYくん! 本当におめでとう!」 
「やったな希色~」
「うん……すごいね翠くん」

 増刷だなんて、まさかそんなことになっているとは考えもしなかった。翠くんが手をかかげてきて、ハイタッチをする。髪をくしゃくしゃと撫でられて、口元が緩む。

「今日ね、クラスの女の子たちもすごく話題にしてたんだ。翠くんのファンの子たちが、キャーキャー言ってたよ」
「マジ? さすが俺。で? KEYのことはなんて?」

 鼻高々といった様子のあと、柔らかな声のトーンで翠くんはオレのことを尋ねてきた。オレも話題になっていると確信している聞き方が、強い心をもたらしてくれる。

「表紙が公表された時、初めて女の子たちからKEYって名前が出て、すごくびっくりした。今日も褒めてもらえてて……嬉しかったよ」
「そっか。希色~よかったな!」
「うん」

 無事に発売日を迎えられた安堵と、喜びでいっぱいになる。すると前田さんが、意味深な視線を送ってきた。

「KEYくん、これで話は終わりじゃないんですよ」

 声もなにかを企んでいるような、今まで聞いたことのないトーンだ。

「そうなんですか?」
「そうなんです! 社長、お願いします」
「ああ。KEYくん、今日は大切な話があるんだ」
「……はい」

 翠くんのほうに向いていた体を、改めてきちんと正す。
 五十代らしい社長は、さすがモデル事務所の社長といったところか、端正な顔立ちをしている。その顔にまっすぐに見つめられると、つい緊張してしまう。ごくりと喉を鳴らし、続く言葉を待つ。

「編集部からの連絡はもうひとつあってね。KEYくんをM's modeの専属モデルとして迎えたい、だそうだ」
「え……え!? 本当ですか!?」

 まさか、そんな話になっているとは思いもしなかった。もちろんこの業界にいるからには、と目標にしてはいたけれど。オレが、M's modeの専属モデル――感動に震えた息が、心の奥から溢れてくる。

「今回の表紙は発売前からかなりの反響があったし、今日はSNSのトレンドにも入っている。しかも個人名で見ると、日比谷くんとKEYくんの件数に大差はない。注目されているんだよ。日比谷くんはもちろん、KEYくんもね」
「全然実感がないです……」
「希色はインスタしかやってないもんな。ほら、これ」

 社長の言葉をどこか他人事のように聞いていると、翠くんがスマートフォンを見せてくれた。世界中の人が利用するSNSのトレンド欄に、本当に自分の名があった。

「どうするKEYくん。専属モデルの件、引き受ける?」
「っ、はい! 是非やらせてください! オレ、精いっぱい頑張ります!」
「うん、そう言ってくれると思ってたよ。前田くん、さっそく先方に連絡してくれるかな」
「はい、今すぐに」

 立ち上がった前田さんを見送ると、翠くんが抱きついてきた。突然のことに体勢を崩しそうになって、翠くんの背にしがみつく。

「はは、もう~翠くん」

 抱きしめ返すと「うちの子かわいい」なんて言いながら、そのまま頭を撫でられた。くすくすと零れる笑みが止まらない。

「本当に君たち仲良しだね」

 向かいに座る社長もにこやかに笑ってくれているのが、声色で分かる。

「でしょー? あ、そうだ。社長、今の俺ら撮ってよ! はい、スマホ」
「社長に撮影を頼むとはいい度胸だね。と言いたいところだが、私も撮りたいなって思ってたんだ」
「社長最高!」
「じゃあ撮るよ」

 社長が撮ってくれた写真には、ぎゅっとくっついて嬉しそうな自分たちの姿があった。オレのスマートフォンにも送ってもらっていると、社長とそれから電話連絡から戻った前田さんまで、その写真を欲しがった。

「翠くん、これインスタにアップするの?」
「希色の専属が公表されたらするつもり」
「そっか。じゃあオレもそうしようかな」
「あ、じゃあそん時は同時に投稿しよ!」
「うん、楽しみ」

 まだ先のことになるけれど、うきうきとしながら翠くんと計画を立てる。社長と前田さんはその様子まで見守ってくれていたようで、しみじみとした前田さんの声が届く。

「翠くんは本当にKEYくんがお気に入りだよね」
「んー? うん。後輩はみんな頑張ってほしいって思ってるけど、希色はなんていうか、特別なんだよな。だから今回の表紙の相手が希色で嬉しかったし、それがこうして希色の未来にも繋がっててさ。めっちゃテンション上がってる」
「翠くん……ありがとう。オレも、翠くんは特別大切な先輩だよ」

 M's mode専属の契約などについては、日を改めて行うそうだ。この後撮影が入っている翠くんと共に、オレも立ち上がる。それに続いた社長が、握手を求めてくれた。

「これから忙しくなるね」
「はい。翠くんや他のモデルさんたち、スタッフさんたちの背中に必死に食らいついて頑張ります!」
「期待してるよ。あ、学校の勉強も疎かにしないようにね」
「え……そんな、社長まで」

 全員に笑われ、翠くんに頭を撫でられる。みんなで子ども扱いして、と癪に思いはするけれど、この空気感がオレは好きだ。この事務所にスカウトしてもらえてよかったと、今日もまた噛みしめる。

 早川モデルエージェンシーは、こじんまりとした五階建てのビルに入っている。エレベーターで1階まで降り駐車場へと向かいながら、前田さんが振り返った。

「KEYくん、おうちのほうに向かうから近くまで送ってくよ」
「あ……えっと」

 今日は初めて表紙を飾ったM's modeが発売され、ありがたいことに売れ行きもいい。しかも、専属モデルの話ももらえた。いいことがあった、褒めてもらえた。そうなると、やはりご褒美にあのコーヒーショップへ行きたくなる。でも尻ごみしてしまう。桃真はきっと、KEYに会いたくないはずだ。

「希色? どうした?」

 悩んでいると、翠くんが振り返った。腰を屈めて顔を覗きこまれる。

「翠くん、オレ……」
「うん」

 優しく相槌を打った翠くんは、「先に車に行っといて」と前田さんに声をかけた。そしてすぐに「それで?」と尋ねてくれる。

「……オレ、行きたいところがあって。よく行ってるコーヒーショップなんだけど」
「うん」
「でも、行っていいのか分からなくて」
「なんで?」
「それは……説明が難しいんだけど……」

 翠くんを目の前に、翠くんのファンであるオレの好きな人が、実はKEYに嫉妬しています……だなんて言えるわけがない。口ごもってしまったけど、翠くんはやさしく頷いてくれた。

「おっけ。なにか悩んでんだな?」
「うん」
「ふうん」

 俯いていると、翠くんの両手に頬を包まれた。上を向くように促され、それから頬をむにゅりと潰される。不格好にとがったくちびるを、翠くんがおかしそうに笑う。

「はは、かーわいい」
「ちょ、みろりくん……」
「ふ、ごめんごめん。あのさ、希色」
「うん?」

 頬へ入っていた力は抜かれ、けれど手はそのままに頬をすりすりと撫でられる。あたたかい体温が心地いい。

「行かなきゃじゃなくて、行きたい、なんだよな?」
「……うん」
「じゃあ行っといで。悩むからにはなにかあるんだろうけどさ。行ってみなきゃ分かんないじゃん。案ずるより産むがやすし、って言うだろ?」
「そ、っか」
「それでも万が一、よくない結果になったら連絡して。話聞く」
「翠くん……」
「大丈夫。今日の希色は表紙デビューしたし、専属も決まったしで最強だから」
「最強? はは、そっか。翠くんがそう言ってくれると、なんだか頑張れる気がしてきた」

 翠くんに名言をもらった気がする、と言うと、翠くんは得意げに顎を上げて笑った。多くの人に愛される人気モデルは、本当に心までかっこいい。

「ありがとう、翠くん。オレ行ってくる」
「おう。どういたしまして」
「撮影頑張ってね」
「任せろ」

 翠くんを見送ろうと、一緒に駐車場のほうへ歩き出す。でもすぐに、翠くんが立ち止まった。

「そうだ。希色、これあげる」
「…………? マスク?」

 手渡されたのは、個包装の黒いマスクだった。翠くんが使っているところをよく見るアイテムだ。急にどうしたのだろうと首を傾げると、翠くんは眉を下げて笑った。

「こんだけバズってんだから、そのまま街に出たら気づかれるよ」
「あ……そっか。え、そうなのかな」
「そうだよ。希色はこんなにイケてんだから」
「イケてる……」

 今日はモデルとしていいことがたくさんあったけれど。イケているのだろうか、本当に? まだまだ半信半疑なオレをよそに、翠くんはさっそくマスクを開封しはじめた。オレの耳に紐をかけて、位置まで丁寧に整えてくれた。翠くんには本当に、いつもお世話になりっぱなしだ。

「よし、これでオッケー」
「オレだって気づかれない?」
「うん。まあ俺だったら、秒で希色だって分かるけどな」

 それじゃあ今度こそ、と車に乗った翠くんと前田さんに手を振る。KEYとしての姿で桃真に会うことに、不安はやっぱりあるけれど。翠くんにもらった言葉は大きな力になった。よし、とつぶやき歩き出す。

 コーヒーショップが近づくほどに、やっぱり緊張でいっぱいになってきた。顔を合わせた瞬間に、そっけない態度を取られたらどうしよう。もう生きてはいけないと思うくらいには、絶望してしまうかもしれない。それでもどうしてもあの店の、桃真が作ってくれるコーヒーを飲みたい。
 信号を待つ多くの人々の中で、自分の靴が見えるほどに俯く。青信号に変わり、人波に合わせて歩き出す。止まってなんていられない東京の街は、残酷という言葉がよく似合う気がする。
 大通りから一本曲がり、家電量販店の前でふと足が止まった。「あっ」と小さく息を飲み、目の前のものに駆け寄ってしゃがみこむ。カプセルトイの機械だ。数多く置かれている中に、ペンギンくんの商品のものが一台ある。
 カプセルトイの景品としてペンギンくんのキーホルダーが販売されるという情報は、先月から仕入れていたのに。M's modeの発売時期と重なっていたからか、すっかり忘れてしまっていた。
 ラインナップは5種類で、1回300円。でも財布には2回分の小銭しか入っていない。近くに両替機もなし。今日のところはコンプリートは無理でも、まさかたった2回でかぶりはしないだろう。ひとり頷いて、オレはハンドルを回したのだけれど。
 まさか、と思うようなことでも、時にそれは起こるらしい。だったら、懸念していることはもっと起きやすいのではないか。きっと、いや絶対に桃真はオレの顔を見たくない。たった2回だけでかぶってしまったペンギンくんを手に、オレはため息をついた。同じものでもペンギンくんはかわいいのに、申し訳ない気持ちになる。
 それでもコーヒーショップの目の前に立つオレは、自分勝手な人間だ。おずおずと店内を覗くと、すぐに桃真と目が合ってしまった。マスクをしているのに、すぐにオレだと気づいたみたいだ。わずかに目を丸くした桃真の表情で分かった。意を決して入店し、桃真のレジ前に立つ。

「いらっしゃいませ」
「アイスのブレンドをひとつお願いします。えっと……テイクアウトで」

 顔を上げることがどうしてもできず、桃真の心の内をうかがい知ることも叶わない。オレがいたら桃真の気が休まらないかもと考えて、テイクアウトにした。

「かしこまりました。コーヒーはあちらのほうでお渡しします」
「はい」

 数歩歩く動作すら、ぎこちないものになってしまう。コーヒーを作るかっこいい横顔を見るのも好きなのに、顔を上げる勇気が出ない。心臓が脈打つごとに、心は強張っていく。

「お待たせしました、ブレンドです」
「っ、ありがとう、ございます」

 コーヒーを持って桃真がこちらへやってきた。緊張のあまり、上擦った声が出てしまう。うつ向きがちに受け取ると、ペンギンくんと目が合った。目尻を下げ、やわらかく笑っている。桃真、今日も描いてくれたんだ。カップを少し回すと、そこには吹き出しもあって――書かれていた台詞に、オレは衝撃を覚えた。勢いよく顔を上げる。

「あのっ、これ……」

 吹き出しの中にはなんと、“雑誌買いました”と書いてあった。客であるオレのことを、桃真はKEYだと認識している。推測できてはいたけれど、やはりそうだったという確信と。桃真はKEYの存在が疎ましくないのか、という不安がない交ぜだ。
 どうしよう。金魚みたいにぱくぱくと口が開閉するばかりで、なにも言えない。するとカウンターから少し身を乗り出した桃真が、口元に片手を添えて顔を近づけてきた。つられるように、オレも顔を近づける。

「KEYさんのこと、応援してます。表紙、おめでとうございます」
「っ!」

 思わず変な声が出そうになった。慌てて口を押さえ視線だけを動かすと、桃真は照れくさそうに笑んで会釈をしてくれた。ドドド、と怒涛のように血液が体中を巡るのが分かる。なんだかクラクラしてきたかも。

「ほ、本当ですか? オレのことを?」
「…………? もちろんです」
「ありがとうございます……すごく嬉しいです」

 思わず確認してしまったけれど、感謝を伝えることができた。ああ、足と手の指先がしびれるように熱い。
 翠くんの隣に立つKEYに妬ける、と今朝たしかに言っていたのに。それでも桃真は、KEYを応援してくれているのだ。舞い上がらずにはいられない。
 桃真に推されたいと思っていた、それだけのモデルになりたいと自分を鼓舞してきた。いちばんにはなれないとしたって、こうして応援していると言葉を届けてもらえる。こんな日が本当にくるなんて。
 この喜びを知ってもらうには、ありがとうの言葉だけじゃ到底足りない。
 幸い、今は注文に並ぶ客もいない。どうにか、と頭を回転させたオレはふと思いついた。手に持っていたコーヒーを一度カウンターに置き、バッグの中を探る。取り出したのは、先ほどゲットしたばかりのカプセルトイのペンギンくんだ。

「あ、あの、手……出してもらえますか」

 少しかかとを上げて、今度はオレが手を口元に添えてささやく。

「手? はい、こんな感じですか?」

 桃真はまた先ほどのように身を乗り出して、それから両手を差し出してくれた。
 店員が客からなにかをもらうなんて、もしかしたら怒られたりするのだろうか。他のスタッフがこちらを見ていないことを確認しつつ、桃真の手にペンギンくんのキーホルダーを乗せる。それを見て、桃真はそっと目を見開いた。

「もしよかったら、もらってください」
「え、でもペンギンくんですよ? いいんですか?」
「はい、あの……さっきカプセルのを回したんですけど、被ったんです」
「なるほど。じゃあ、おそろいってことですか?」
「あっ……確かに、そうなりますね」
「はは、すごく嬉しいです。ありがたくいただきます。でも、なんで俺に?」

 受け取ってもらえてよかった。桃真に言われるまで気づかなかったけど、おそろいでペンギンくんを持てるというのも飛び上がりそうなほどに嬉しい。カプセルを回したばかりの時は、不運の兆しにも思えたのに。結果オーライどころか最高だ。
 緩む口をマスクの下でむにゅむにゅと動かしつつ、思い切って桃真の瞳を見る。これだけはちゃんと目を合わせてきちんと伝えたい。

「雑誌を手にしてもらえたのも、応援してるって言ってもらえたのも、本当に嬉しくて。お礼です。あと……オレも、店員さんのこと、その……応援、してます」
「……え?」
「オレ、ここのコーヒーももちろん好きですけど、店員さんに会えるのも実はいつも楽しみで……って、すみません。そんなこと言われても気持ち悪いですよね。っ、あの、じゃあこれで! また来ます!」

 客から応援しているなんて言われても、気味が悪いだろうか。言ってしまってから気づく。そう思うと尻すぼみになってしまった。
 再び顔を上げられなくなり、カップを掴んで走り出す。慌てたように「ありがとうございました!」と言ってくれた桃真の声が、雑踏に飛び出したオレにもよく届いた。

 コーヒーショップから離れ、近くのコンビニ前で足を止める。外壁にもたれ、深く息を吐く。体中どこもかしこも、さきほどの桃真とのやり取りに鼓動を打っている。胸元に手を当てる。暮れ始めた空に顔を上げ、目をつむる。冷たいコーヒーのカップを、火照った頬に当てる。本当に、桃真に応援していると言ってもらえたんだ。
 声をかけられたのは、そうして呼吸を落ち着けながらひたっていた時だった。

「あのー……」

 思いがけずそばに聞こえた声に、驚いて目を開く。するとすぐ目の前に、高校生と思われる女の子が立っていた。視線は確かにオレを捉えていて、何事だろうかと姿勢を正す。

「はい。えっと……?」
「もしかして、モデルのKEYくんですか?」
「えっ……」

 オレはまず、自身の耳を疑った。この人は本当に今、オレをKEYと呼んだのだろうか。マスクだってしているのに。今まで一度だって、街中でKEYだと気づかれたことはなかった。それこそ、ずっと見ていてくれたのだろう人は、桃真だけだった。
 どう答えたものかと戸惑っていると、沈黙は肯定と捉えられたらしい。女の子は声のボリュームをワントーン上げた。

「あ、あの! M's mode買いました!」

 その声は辺りに響いたようで、注目を集めてしまった。何事かと訝しむ人たちの視線が、オレと女の子に突き刺さる。

「あ……ありがとうございます。あの、ちょっと声を……」

 初めて声をかけてもらったのだ、応援してくれる人を大切にしたい。でもなんと言えばいいのだろう。あまり人と接してこなかった弊害か、上手い言葉が出てこない。こういう時、翠くんはどうしているんだっけ。そういった瞬間に居合わせたことはあるのに、混乱した頭では思い出せない。

「私、インスタも前から見てて! 本当にずっと応援してたんです!」
「そうなんですね。えっと……」

 しどろもどろとしている間に、周りに人が増えてきた。その内のひとりは「KEYじゃん!」と大声を上げて、誰かへと電話をかけ始めた。誰だか分からないけどとりあえず、といった風に、スマートフォンのカメラを向けてくる人もいる。
 小さな騒ぎは周囲へと伝染していって、軽く人だかりになってしまった。最初に声をかけてきた女の子はついに、オレの服の袖をつまんでくる。
 このままではまずい。通行人の迷惑になってしまう。意を決して、大きく息を吸う。

「あの、すみません! もう行かないといけないので……」

 不満げに眉を下げる女の子の手の中から、そっと腕を引く。囲んでいる人たちに頭を下げて、そこから走り出した。
 引き止める声はたくさん聞こえるけれど、振り返らずに進む。歩道を走り、角を曲がり、もう少し走って立ち止まる。膝に手をついて、荒い呼吸をくり返す。
 用事なんてないのに、嘘をついてしまった。罪悪感がじわりと生まれる。でも騒ぎになるよりよかったはずだ、と自分に言い聞かせる。
 また誰かにKEYだと気づかれるわけにはいかない。マスクをしていてもあんなことになったのだから、このままではまた同じことになるかもしれない。
 これ以上の変装なんてどうやって、と考えふと思い立つ。最強の変装方法を、オレは身につけているじゃないか。
 きょろきょろと辺りを見渡す。追ってくる人はさすがにいないようだ。道路側に背を向け、翠くんがセットしてくれた前髪を乱雑に崩す。黒いマスクは目立つから、外してしまうのがいいだろう。こうすればいつも通りの、ただの高校生のオレだ。
 これで間違いなく、KEYだと気づかれることはない。コーヒーカップを見ると、桃真が描いてくれたペンギンくんまで汗をかいたみたいに、水滴がしたたっている。まるで、この逃走に一緒に必死になってくれたみたいだ。天を仰いで安堵の息をつく。
 今はただ、桃真にだけ鼓動を打っていたかった。