梅雨が明けたら、あっという間に茹だるような夏がやってきた。

「うわ、あっちぃなー」
「うう、空気がもわってしてる……」

 冷たいものが飲みたいという話になって、昼休みに桃真(とうま)と廊下へ出た。呼吸も重たくなるような暑さに、桃真が嘆く。ボタンをふたつ開けたシャツをパタパタと揺らし、汗の浮いた体に風を送っている。それを目撃するといつも、オレの胸は騒がしくなってしまう。気だるげで色っぽい仕草は、推し店員と客の間柄だったら決して見る機会はなかっただろう。心臓がドギマギと困った音を立てる。
 友だち相手にドキドキしてしまうのは、暑さで滅入っているからか、それとも――そこまで考えたところで、オレはいつもハッとする。桃真への感情は恋なのだろうか。その答え合わせは今もできていないままだ。

希色(きいろ)、早く買って教室戻ろ。こんなんサウナだろ」
「そうだね、もうクーラーが恋しい」
「な。あー、アイス食いてぇ」
「あ、オレも」
「じゃあ帰りにコンビニ寄ろうぜ」
「それいいね。楽しみ」
「俺も」

 オレは水、桃真はサイダー。買ってきたばかりの飲み物をごくごくと飲んで、ひと息ついてから昼食を食べはじめる。食欲もとけてなくなりそうな夏だけど、栄養を摂るために食事は抜かないように頑張っている。

「桃真、昨日のインスタ見た?」
KEY(キー)の?」
「えっ。ううん、日比谷(ひびや)(みどり)の……」
「あー、うん。見たよ、海のヤツだよな」
「そう! サングラスが似合っててかっこよかったよね」
「まあな。KEYのはペンギンくんのキーホルダーの写真だったな」
「そ、そうだったね」

 桃真はよくKEYの話をするようになった。桃真が好きだからと翠くんの話を振ったって、こんな感じだ。桃真の口からKEYの名前が出る度に、心臓がひっくり返りそうになる。とは言え、桃真が見てくれるのならとインスタの更新頻度が上がったのだから、オレも現金なものだ。

「……なあ、KEYって全然自撮りはあげないよな」
「あ、うん、そうだね。ほら、自撮りは苦手とかあるんじゃない?」
「ああ、そういうことか。俺は見たいけど、だったらしょうがないよな」
「え、見たいんだ?」
「うん、すげー見たい」

 それにしても、だ。桃真がKEYを知っていたことに、未だにオレは驚いている。それはつまり、コーヒーショップでもKEYだと分かっていた、ということになる。分かった上で桃真は、そっとしておいてくれている。優しさに胸がじわりと熱くなって、けれどその分だけ罪悪感も浮かんでくる。オレは桃真だと認識してコーヒーを飲みに行っているのに、桃真はまさかKEYがオレだとは思いもせず接してくれているのだから。
 大嵐が吹く心の内を悟られないように、なんてことのないふりで話題を変える。

「そ、そうだ。お菓子。今日はラムネ持ってきたんだけど食べる?」
「マジ? 食べたい。あー」
「へ……オレが食べさせるの?」
「うん、入れて」
「ええ……」

 KEYの話題からせっかくお菓子に逃げたのに。桃真が口を開けて待機するので、今度は胸がきゅうきゅうと痛みだす。どう転んだって、オレは桃真に翻弄されてしまうらしい。
 さりげなく深呼吸をし、ラムネを包むセロファンを開いて、桃真の口元へ運ぶ。すると桃真はオレの手首を掴んで、コインほどの大きさのラムネにかじりついた。オレの目を見ながら口内へと転がして、美味しそうに顔をほころばせる。

「ん、あまずっぱ。これ好きだわ」
「そ、っか」
「今度はラムネを色々開拓するか」
「ん、いいね」
「うん。希色が好きそうなの探してくる」

 掴まれたままの手は、桃真の膝の上へと置かれてしまった。そして、手首にあった桃真の手はするりと指先へ移動する。オレの肩が跳ねたのを、桃真は確かに見たはずなのに。手を繋いだまま、桃真は机に頬をくっつけて目をつむった。表情だけ見れば、ただラムネの味に浸っているみたいだ。

「ちょっと、桃真、手……」
「んー? 聞こえね〜」

 ささやき声で訴えても桃真はくすくすと笑って、指先をそっと絡ませる。
 人の気も知らないで、とオレはこっそりくちびるをとがらせる。向かいの席では佐々木(ささき)くんと川合(かわい)くんが、オレたちが手を繋いでいるなんて気づくことなく会話をしている。オレの赤くなっただろう頬も、火照った指先も、桃真だけが知っているということだ。

「桃真、恥ずかしいよ」
「イヤ?」
「イヤではないけど……」
「じゃあもうちょっと」
「もう……じゃあちょっとね」
「ん、やった」

 やられてばかりはなんとなく癪で、握られたままの手で桃真の爪を撫でてみる。すると桃真はくすぐったそうに、嬉しそうに笑った。ああ、桃真のこの顔だって、今オレだけが見ているのか。そう思うとなぜだろう、泣きそうなくらいの幸福に満たされる感覚がした。この時間が、少しでも長く続いたらいいのに。
 きっと今オレの胸は、ラムネよりも甘酸っぱい。


 夏休みに入った。桃真や佐々木くん、川合くんにずっと会えていない。さみしさを覚える夏休みなんて、生まれてはじめてだ。
 とは言え桃真とは、毎日のように連絡を取り合っている。日中はメッセージを数往復し、夜になると通話をする。風呂も済ませ、あとは寝るだけの状態で自室でくつろぎながら、今日も桃真と会話中だ。

『希色と遊びたいんだけど、なかなか予定合わないな』
「そうだね」

 夏休み中、桃真はバイトを詰めこんでいるらしい。オレのほうも、長期休みは都合がいいとばかりにレッスンや撮影の予定が普段よりもある。もう八月も半ばなのに、一度も遊べずじまいだ。

「明日もバイト?」
『そう。もう5連勤』

 けれどオレは、週に1〜2回ほどのペースで仕事帰りにコーヒーショップへ通っている。友人としての会話はもちろんできないけど、推し店員である桃真の姿を思う存分眺め、アイスコーヒーのカップにはペンギンくんを描いてもらえて。心を干上がらせることなく、暑い毎日を乗り越えられている。
 桃真だって遊びたいと言ってくれているのに、一方的に自分だけ会っているようでずるいかも。そう考えるのは自惚れすぎかもしれないけれど。

『希色は? 明日バイト?』
「うん、そう。実は今ドキドキしてる」
『バイトのことで? なんで?』
「うーん、なんていうか……初めての挑戦をすることになってるから」
『へえ。そうなんだ』

 明日はいよいよ、翠くんとの表紙撮影の日だ。スキンケアを念入りにして、今日ばかりは桃真との通話も早めに切り上げて寝なければと思っている。けれどだからこそ、心を落ち着けるためにもう少し、桃真の声を聞いていたい。

「うん。でも楽しみにしてたから、頑張ってくる」
『うん、応援してる』
「ありがとう」


 昨夜は名残惜しくもきちんと早めに通話を終えたけど、すぐに眠ることはできなかった。目をつむっても、どうしても撮影のことを考えてしまったからだ。

「希色、緊張してる?」
「う……してる」

 前田(まえだ)さんが自宅まで迎えにきてくれて、途中で翠くんを拾い、14時頃にスタジオへ入った。いよいよ今日は、M's mode(エムズモード)の表紙撮影の日だ。
 今は控室で翠くんとふたり、着替えとメイクを終えて待機中だ。椅子に腰を下ろし顔を強張らせていると、目の前に立った翠くんが両手で頬を包んできた。

「希色なら大丈夫だよ」
「……そうかな」
「うん。この仕事まだ始めたばっかなのに、よくやってる。現場でも周り見て研究してるの分かるし、家でも雑誌見たりしてるんだろ?」
「うん、してる」
「えらいな。なあ希色、今回のコンセプトとして、確かに俺と仲良いってのは条件だったかもだけど。絶対にそれだけじゃない。ビジュアルはもちろん、人の声にちゃんと耳を傾けられて、見ることができる目がある素直な希色だから、そういうKEYを見てくれてる人がいたから選ばれたんだよ。自信持って一緒にカメラの前に立とうな」
「翠くん……ありがとう。なんか、頑張れる気がしてきた」
「はは、いいじゃん」

 間もなく撮影が始まるとのことで、カメラや機材がセットされたスタジオへ呼ばれた。大勢いる編集部の人たちやスタッフに挨拶をし、カメラの前に立つ。ヘアメイクや衣装担当のスタッフがやってきて、最高の状態で写れるようにと翠くんとオレを今一度整えていく。
 用意されていた衣装は発売時期に合わせ、秋を彷彿とさせるブラウンを基調としたものだった。テーラードジャケットの襟やポケットなどがチェック模様になっていて、きちんとした印象にかわいらしさが混じる。それぞれに違ったアクセントがあしらわれているが、ふたりお揃いのものだ。
 オレの前髪はセンターパートに分けられ、全体的にヘアアイロンで巻き緩くウェーブがかかっている。翠くんの鮮やかな髪は無造作にセットされることが多いが、今日は流す程度にシックに整えられている。

「そろそろ始めようか」
「はい!」

 カメラマンから声がかかり、大きく返事をする。黄色のカラーバックの中心にはソファが置かれていて、翠くんと並んで腰を下ろす。

「じゃあまずは、いつもみたいにイチャイチャしてもらおうかな」
「い、いつもみたいにイチャイチャ?」
「はは、KEYめっちゃびっくりしてる」
「だって、オレたちそんなだった?」
「そんなだったってことなんじゃん?」
「マジか……」

 カメラマンの言葉につい目を丸くすると、翠くんがけらけらと笑った。イチャイチャなんてした覚えはないのに。日頃からそんな風に見えているのだろうか。釈然としないが、翠くんとの会話に多くのスタッフたちが笑い、空気が和んだのが分かる。
 このあたたかい人たちに、ここに立つことを選んでもらえたのだ。改めて背筋が伸びる。望まれているものを、いや、それ以上のものを表現したい。
 ひとつ深呼吸をして、翠くんと目を合わせる。すると翠くんがにやりと笑って、それこそいつものように肩に手を回してきた。翠くんの纏う空気が、一瞬で変わった。見惚れているだけではダメだ。シャッターが次々と切られるのを耳に、ポーズを少しずつ変えてゆく。

「どう? 緊張とけてきた?」
「うん、大分」

 オレにだけ聞こえるボリュームで、翠くんが声をかけてくれる。

「よかったじゃん」
「でも、ちゃんとBLに見えてるかな」
「見えてるんじゃない? いつもイチャイチャしてるらしいし?」
「それ、本当に身に覚えがないんだよね」
「俺たちにとっては普通のことだもんな。んー、じゃあどうせだしもっと近づくか」
「え?」

 もっとだなんて、これ以上どうやって? そう疑問に思うほど、密着していたのだけれど。翠くんの指先がオレの顎をとらえ、グッと顔を寄せてきた。もう片手では、腰を抱かれる。角度によってはキスをしているように見えるかもしれない。突然のことに思わず体が強張ると、妖しく笑んだ翠くんがささやく。

「俺のこと、今は希色の恋人にしてくれる?」
「恋人?」
「難しい?」
「付き合ったことないから、どうしたらいいのかなって」
「じゃあ、好きな人は?」
「……だから、いないってば」
「今頭に浮かんだ人もいない?」
「それは……」

 好きな人というワードに、本当はすぐ桃真の顔が浮かんだ。瞬間、頬がじわりと熱くなる。それが功を奏したのか、

「ふたりとも、そのままこっち視線ちょうだい! うん、すごくいいね」

 と、カメラマンが興奮したように声を張り上げた。誘われるままにカメラを見た後、また翠くんと見つめ合う。

「希色、すごくいい顔してる。さっき浮かんだ人のこと、俺に重ねていいから。その調子」
「翠くん……」

 翠くんの妖艶な瞳に射抜かれている。思わずその頬に手を伸ばし、さらに顔を近づける。本当に恋人だったら、翠くんのこんな表情、きっと誰にも見せたくないだろうな。そんな想いが胸を過ぎる。
 ああ、オレは、この感覚を知っている。そうか、この心が――
 感じたままに、オレたちを切り取ろうとする第三者であるカメラを睨みつける。意図が通じたのか、「それいいね」とつぶやいて翠くんも鋭い視線をカメラに向ける。このシチュエーションにのめり込んでいくほどに、シャッター音の後ろで上がるスタッフたちの歓声がどんどん遠くなるようだった。

 撮影は滞りなく進み、ソファから立ち上がったりカラーバックの色を変えたりしつつ、何百枚もの写真を撮った。カメラマンにも編集部の人たちにも、マネージャーの前田さんにも、それから翠くんにも。たくさんの拍手と褒め言葉をもらった。達成感が胸に満ちて、なんだかぼんやりとしてしまう。

「希色、お疲れ様」
「翠くんもお疲れ様」
「今日これで帰るんだっけ」
「うん」
「そっか。ん~なんか離れがたいんだけど」

 控室に戻って、私服に着替えて。抱きついてくる翠くんを抱きしめ返しながら、くすくすと笑みがこぼれる。

「翠くんはこの後も仕事でしょ」
「そうだけどー。せっかく希色と恋人役したんだからさー、もっとひたりたいわけ」
「そっか。ねえ、翠くん」
「んー?」

 名前を呼ぶと、翠くんが腕をほどいた。

「撮影中に翠くんと話してて、オレ、大事なことに気づいた」
「大事なこと?」
「オレ……好きな人、いたみたい」
「お、マジか」

 まさかそんなはずは、と直視できずにいた想いに、確信を持つことができた。この撮影がなかったら、翠くんと話さなかったら。これからも迷ったまま過ごしていた気がする。オレより先にこの心を見てくれていた翠くんに、知ってほしいと思った。

「うん、でもね……翠くんはその、好きな人のこと、自分に重ねていいって言ったけど。あの瞬間は本当に、翠くんのこと、恋人だって思ってたよ。こんなにかっこいい翠くんのこと世界中に自慢したくて、でも誰にも見せたくないとも思った」
「希色……」
「なんか恥ずかしいね。でも、どうしても伝えたかった。初めての表紙が翠くんとで、オレはすごく幸せ者だよ。翠くん、今日は本当にありがとうございました」

 翠くんへの感謝の想いで、頭を下げる。するとまた、翠くんが抱きついてきた。

「うう、希色〜! 俺も希色と表紙できてめっちゃ嬉しかった! 世界一の彼氏だって思ったよ! あーもう! 希色と恋人気分のまま一緒にごはん行ったりしたかったあ!」
「あ、オレも久しぶりに翠くんとごはん食べたいな。今度行こう?」
「絶対だぞ〜? 約束な! 希色の好きなもの食べに行こうな」
「へへ、やった」


 控え室を出る前に、何枚か自撮りをした。KEYの自撮りを見たい、と桃真が言っていたからだ。今までは苦手だったのに、桃真が望んでくれるなら挑戦したくなる。いちばんよく撮れたものを選んで、“今日はとある撮影がありました”とコメントを添えてインスタにアップする。
 気をつけて帰るように、と今日も今日とて翠くんと前田さんに心配されながら外へ出る。もう夕方の時間だけど、まだうんざりするくらい暑い。とは言え、オレの胸は達成感でいっぱいだ。カメラの前での高揚感も、おさまりそうにない。そうするとやはり、あのコーヒーを飲みたくなるけれど――
 桃真への想いを自覚してしまった。オレは、桃真が好きだ。オレを見る時の桃真の柔らかな表情だとか、こっそり触れてくれる指先だとか。知っているのはオレだけだったらいいのに、と感じていた。桃真の優しいところや、みんなに慕われているところにも憧れているのに。それは全部、桃真を好きだからだ。翠くんと恋人を演じる中で、それに気づいてしまった。
 こんな心で桃真に会って、果たしてオレは冷静でいられるだろうか。落ち着いて、ちゃんと桃真の目を見ながらコーヒーを注文できるだろうか。このまま帰るか迷う。ああでも、やっぱり会いたい。
 人波をすり抜けながらコーヒーショップへ到着すると、ガラス越しに桃真の姿が見えた。昨夜、今日はバイトだと言っていたからいるのは分かっていた。それなのに心臓は、まるで驚いたみたいに駆け足の鼓動を打つ。深呼吸を数回してから、よし、と気合を入れて入店する。

「いらっしゃいませ」

 桃真のカウンターへ促された。目が合うと、そっとほほ笑んでくれた。いつもそうしてくれるのが嬉しくて、今日はまたとびきり感慨深い。緩む口元を堪えるのに必死だ。

「こんにちは。アイスのブレンドをひとつお願いします」
「アイスのブレンドをおひとつですね。店内のご利用でよろしかったですか?」
「はい」
「かしこまりました」

 どうにかいつも通りに注文できた。きっと、多分。他の店員にレジを代わってもらった桃真が、コーヒーを作り始める。他の客の時にどうしているのかは分からないけれど、ここ最近はもうずっとオレのコーヒーは桃真が作ってくれている。
 受け渡しのカウンターで待っていると、桃真がやってきた。手渡されたコーヒーを見ると、今日もペンギンくんが描いてある。よく見ると吹き出しつきで、その台詞にオレは静かに目を見張った。

「っ、“よくがんばりました”……」
「すみません。なんだか偉そうな言い方でしょうか」

 どこか気まずそうに、桃真が眉を下げて笑う。そんなことはないと伝えたくて、オレはぶんぶんと首を横に振る。
 表紙に抜擢されてから、喜びと共にずっと緊張を抱えていた。ついに当日を迎え、無事に撮影を終えることができた。そんな今日のオレに、桃真が添えてくれた言葉はあまりにもぴったりだ。心のすみずみまで沁みこんでいく感覚がする。
 カップを両手で持ち、意を決して顔を上げる。

「あのっ! オレ、実は今日、新しい仕事をしてきたところで」
「そうなんですか?」
「はい。だからこれ、すごくすごく嬉しいです。ありがとうございます」
「よかった……そう言ってもらえて俺も嬉しいです。今日もお疲れ様でした」

 どうしよう。やわらかく笑ってくれる桃真があまりにもかっこいい。恋をしていると気づいたら、ますます桃真が輝いて見える。そわそわと心が浮ついて、もっとなにか伝えたくなる。

「あ……あの、店員さんも、お疲れ様です。ここに来るの、オレにとってご褒美なんです。いつも美味しいコーヒー、ありがとうございます」

 出過ぎた真似をしているだろうか。ただの客がこんなことを言うのはおかしいかもしれない。桃真の反応がこわくなって、顔が上げられない。

「えっと、今日はやっぱり持って帰ります! トレイ準備してもらったのにすみません」
「へ? あっ、お客様!」

 カップを手に取り、ぺこりと頭を下げ足早に出口へ向かう。引き止めようとしてくれる声が聞こえたけれど、立ち止まる勇気はなかった。

 コーヒーショップから角をふたつ曲がったところで、オレはようやく足を止めた。膝に片手をついて息を整える。
 ご褒美だなんて、思い切ったことを言ってしまったかも。でも不思議と、後悔はしていない自分に気づく。それどころか、本当はもっと話したかったなと切なさすら胸にある。
 クラスメイトとして出逢う前は、ほんのひと言でも言葉を交わせたら有頂天だったのに。友だちとしての自分に見せてくれるどこか子どもっぽい口ぶりや、あのスキンシップが無性に恋しい。コーヒーショップに訪れる客としてだけじゃなく、友だちとしても桃真に会いたい。
 ああ、本当に桃真は特別なんだな。こんな欲張りな自分、知らなかった。ずっとひとりなんだと諦めてすらいたのに。桃真はオレに、様々な感情を見せてくれる。

「夏休み、はやく終わらないかな」

 横断歩道の先には、夕陽のとろけそうなオレンジがまだまだ熱を孕んでいる。水平線に落ちたら夜の海でじゅわりと冷えて、早く秋を連れてきてくれたらいいのに。そうしたらまた毎日、桃真に会えるのに。