得意教科と呼べるものは正直ない。ただ、より苦手なものはある。体育だ。中でもチームスポーツは大の苦手で、気配を消すことがなによりのチームへの貢献だと思っている。
 4限目、授業開始から間もなくサッカーの試合がスタートした。クラスメイトたちにはやる気が満ちている。みんなの邪魔をしないために、フィールドの端に身を寄せボールが飛んでこないことを祈る。同じチームになった桃真(とうま)はそれほど乗り気ではなさそうだけど、パスがたくさん回ってきている。頼りにされているのだ。
 桃真を目で追っていると、どうしても昨日のことを思い出してしまう。いや、昨日からずっと、桃真との出来事で頭がいっぱいと言ったほうが正しい。
 昨日はコーヒーショップから、急ぎ足で家に帰った。母の「おかえり」への返事もおざなりに自室に駆けこんで、紙袋からカップを取り出した。桃真がペンギンくんを描いて、「ごゆっくり」との吹き出しまでつけてくれたレアものだ。
 そのまま飾るか、ペン立てにするか。悩みに悩みまくった。汚れてしまう可能性に思い至り、ペン立ての案は却下した。その代わりに入れてみたのは、ペンギンくんのぬいぐるみだ。桃真が描いたペンギンくんとぬいぐるみが並んで見えるように、位置を丁寧に調節した。
 そもそもは単なるコーヒー用のカップでも、オレにとっては初めての推しグッズだ。例えばアイドルを推していたら、ライブグッズなどを購入できたのだろうけど。桃真は一般人だ。ペンギンくんのイラストの写真を撮りためてはいても、実体として手にできると充足感は比べものにならない。

希色(きいろ)! 危ない!」
望月(もちづき)!」
「……へ」

 突然聞こえてきた自分の名前に、オレはハッと顔を上げた。桃真のことばかり考えて、ぼんやりしていたらしい。でも、もう遅かった。返事をする間もなく、顔に衝撃と痛みが走る。そのまま尻もちをついた。なにが起きたのか分からない。

「痛ったー……」

 顔を両手で抑えつつも、指の隙間から転がっていくボールが見えた。ああ、ボールが当たったのか。授業中なのに、どれだけぼんやりしていたのだろう。情けなさに乾いた苦笑を漏らすと、誰かが駆け寄ってきた。

「望月! 平気か!?」
川合(かわい)くん?」

 聞こえてきたのは川合くんの声だ。

「顔直撃だったよな。見せてみろ」

 心配してくれている声と共に、川合くんの手が伸びてくる。

「え……」

 その瞬間、反射的に体が強張った。嫌だ、顔を見られたくない。学校で顔を出すのは、どうしても怖い。
 つい体をすくめてしまった時、

「川合! 触んな!」

 との大きな声が響いた。桃真だ。川合くんの手首を掴み、オレから引き離す。

「はっ? 土屋(つちや)お前なに……」
「希色、立てるか? 保健室行こ」

 川合くんの言葉を遮って、桃真が手を差し出してきた。

「う、うん」

 試合が中断し、注目の的になっていることが居た堪れない。そこに追い打ちをかけるように、

「えー! 土屋が行ったら負けんじゃん!」
「付き添わなくてもひとりでも行けるんじゃない?」

 との声が上がってくる。そうだよな、桃真は大活躍していたし、いなくなったら盛り下がるもんな。申し訳なさに苛まれる。

「桃真、オレひとりで……」

 桃真を連れて行くわけにはいかない、そう思ったけれど。大丈夫だから、と桃真はオレにささやく。

「みんな上手いから平気だって。後は任せた!」

 桃真の朗らかな声に、みんなの空気が和らぐのが分かる。桃真はやっぱりすごい人だ。
 保健室に到着すると、サッカー中にボールが当たったのだと桃真が養護教諭の先生に説明をしてくれた。

「じゃあそこに座って。痛いところ見せてもらえる?」
「はい。えっと……」

 桃真がいてくれるのは心強いけど、このままでは顔を見られてしまう。どう言えばいいか思いつかずにいたら、

「俺はあっちで待ってるな」

 と言って、肩をぽんとたたかれた。桃真はそのまま保健室の扉のほうへと行って、こちらへ背中を向けて立つ。

「桃真……」

 ほどなく手当ては終わった。先生にお礼を伝えて、桃真へ駆け寄る。

「桃真、終わったよ」
「希色……どうだった? 当たったの顔だったろ? 傷になってないか?」

 とても心配をさせてしまったようだ。オレより辛そうな顔をしている。

「ちょっと赤くなってるみたいだけど、血が出たりはしてないし、大丈夫だよ」
「じゃあ跡になったりはしないんだな?」
「うん、平気」

 桃真に報告していると、ちょっと呼ばれたからと先生は保健室を出ていった。ありがとうございました、と改めてお礼を伝えて、桃真に向き直る。

「はあ、よかったー……」

 ひどく安堵した様子で、桃真は大きく息を吐いた。けれど、

「尻もちつく時に手もついちゃって、こっちはちょっと擦り傷になっちゃったけどね」

 と軽い気持ちで両手のひらを見せたら、動揺させてしまったようだ。

「は!? マジじゃん……全然気づいてなかった、痛ぇよな」

 親指の付け根あたりのところに、ほんの少し血が滲んでいる。絆創膏を貼るには範囲が広くて、消毒だけしてもらった。そこには触れないようにしながら、オレの両手の指先を桃真は握りこむ。きゅ、とこめられた優しい力加減に、心にも手を当ててもらったような心地になる。

「ほんのちょっとのすり傷だし、大丈夫だよ」
「すり傷って、見た目以上に痛かったりすんじゃん。それに顔も。跡にならないって聞いて安心はしたけど、痛いもんは痛いよな」
「桃真……」

 眉をしゅんと下げて、気づかってくれているのが伝わってくる。こんなに優しい人に、悲しい顔をさせてしまったことが情けない。

「あの、ありがとう。でも本当に大丈夫だよ。そもそも、オレがぼーっとしてたのが悪いんだし」
「気配消してんなあとは思ってた」
「え、見てた?」
「うん。考えごとか?」

 まさかあの盛り上がっている試合中、桃真に見られていたとは思いもしなかった。だいぶ恥ずかしい。苦笑を漏らしつつ頷く。

「ちょっと昨日のこと思い返してたら……はは、周りが見えなくなってた」
「昨日のこと?」

 話しながら、桃真は壁に寄りかかる。その分だけ、少し目線が近くなった。繋がれたままの両手を引かれて、桃真の少し開いた足の間におさまる。距離の近さに、どうにもドキドキしてしまう。

「う、うん。いいことが、あって」
「へえ、どんな?」
「それは……」

 昨日あったいいことなんてもちろん、コーヒーショップでの桃真とのことに他ならない。そのまま伝えるわけにはいかないけれど、少しくらいならいいだろうか。昨日ショップにオレが行っただなんて、桃真は気づいていないのだし。伝わりはしなくても、大切なんだと言葉にしてみたい。

「宝ものができた」
「宝ものって?」
「えーっと……ずっと、手元にほしいと思ってたものがあるんだけど」
「うん」
「昨日、やっとそれが手に入った」
「そうなんだ。それってなに?」
「……絵、かな」
「絵? アートとか?」
「もっと気軽に描いてくれたとは思うんだけど、オレにとってはそうだね」
「へえ、そうなんだ」
「うん。すごく、元気になれる絵。昨日すぐに飾ったんだ」
「ふうん、そっか」
「うん」

 桃真の記憶にもある昨日のことが、オレとのことだとは気づかれないように。探り探りでそこまで言うと、桃真が滲み出るようなほほ笑みを見せた。なんて素敵な顔をするのだろう。思わず見惚れていると、繋いでいる手を桃真が小さく揺らした。

「じゃあ俺も、昨日はいいことあった。まあ元々嬉しかったけど、もっとだな」
「…………? “じゃあ”って?」
「んー、なんでも」

 首を傾げたところで、4限目の終わりを報せるチャイムが鳴った。

「あ、終わったな。教室行くか」
「うん」

 手がそっと離れて、桃真は頭をぽんと撫でてくれた。なんのことかは分からないけれど、桃真にとっても昨日がいい日なのならよかった。そう思いつつ、保健室を出ようとする背中を引き止める。どうしても伝えたいことがある。

「桃真! あの!」
「んー? どうした?」
「本当にありがとう」
「ここに一緒に来たこと? 気にすんなって」
「うん、それもなんだけど……オレの顔、見えないようにしてくれたよね。グラウンドでも、さっき先生に手当てしてもらう時も」
「あー……うん」
「すごく助かった。その、オレ、顔見られるの苦手だから。桃真、気づいてたんだね?」
「まあな」
「そっか。ごめんね」

 桃真が友だちになってくれた。桃真がいるから、川合くんや佐々木くんとも話せるようになった。それでも、顔を出す気には今もなれない。KEYだと知られないようにというのもあるし、小学生からのトラウマが未だにオレに巻きついているからだ。
 いつもそばにいてくれるのに。友だちだと言ってくれるのに。桃真の優しさが嬉しいのと同じくらい、申し訳なさでいっぱいになる。

「なんで? 謝ることないよ」
「でも……」
「希色は見せたくないんだろ? じゃあそれでいいじゃん。誰にでも、秘密のひとつふたつあるって」
「……そう、なのかな」
「そうそう。俺だってあるし。そうだな、ふたつあるな」
「え、そうなの?」
「うん、秘密だから言えないけど。まあでも……」

 昼休みを迎えた廊下は、少しずつ賑やかになってくる。それを遠くのほうに聞きつつ、さっきより離れた距離を取り戻すように、桃真が一歩近づいてきた。そしてまた、手をきゅっと握られる。かと思ったら、指先がそっと絡まった。

「いつか希色に言えたらな、って思ってる。それが言える時は多分、希色ともっと仲良くなれた時だから。ちょっと楽しみにしてる」
「…………? それってどういう意味?」
「なんだろうな。秘密だから言えないな」

 そんなことを言って、桃真がいたずらに笑ってみせる。
 桃真の秘密って、一体なんなのだろう。自分は言えないくせに、すごく気になる。それに、指の間に感じる、桃真の体温。ドギマギと動く心臓が、なんだか甘ったるい。

「あ、いたいた! 望月ー、土屋ー」
佐々木(ささき)くん? 川合くんも」

 呼ばれた名前に顔を上げると、こちらに向かってくる佐々木くんと川合くんの姿が見えた。ふたりとも、まだジャージ姿だ。体育が終わった後、直接こちらに来てくれたのだろうか。

「望月、大丈夫だったか?」
「うん、大丈夫だよ。ちょっと赤くなっただけだったから」
「そっか、よかった」
「あの、川合くん。さっきはありがとう。その、走ってきてくれて」
「そんなん別に……って、あ! 思い出した! 土屋お前、さっきのなんだよ!」
「なんだよってなにが?」

 安心した顔を見せてくれたと思ったら、川合くんは今度はハッとして勢いよく桃真を見た。

「なにが? じゃねえよ! 望月が大丈夫か確認しようとしたら、触んなっつって俺の手掴んだだろ」
「ああ、うん。希色に触らせたくなかったから」
「はあ? なんだよそれ」
「あ、あの、川合くん!」

 一触即発、とまではいかないが、むくれた顔をする川合くんに事情を説明したい。桃真はオレのためにそうしてくれたのだから。

「ん? どうした望月」
「あの、実はオレ、顔を見られるのが苦手で……だから前髪もこんなんで。だから桃真は、ああしてくれたんだ。その、ごめんね」
「あ、そうだったん? てか望月が謝ることないだろ。むしろ、俺のほうこそごめん」
「え? なんで川合くんが……」
「望月のそういうの、全然気づいてなかったから。急に触ろうとして困ったよな」
「そんな! 心配してくれて嬉しかったよ、ありがとう」

 まさか、川合くんから謝られる事態になるとは思わなかった。慌てて顔の前で手を振る。

「そ? ……って、手ぇケガしてんじゃん!」
「マジだ、血が出てるな」

 すると、擦りむいたところが見えたらしい。川合くんは慌てはじめて、佐々木くんは自分まで痛そうに顔をしかめた。

「痛ぇよな?」

 そう言った川合くんに、手を握られそうになった時。川合くんを阻止する手が伸びてきた。桃真だ。

「おい川合、触んな」
「はあ? なんで?」
「桃真?」
「あっは、デジャヴ」

 佐々木くんがおかしそうに笑う。オレと川合くんは、なぜ? と首を傾げる。手に触られても、顔は見られないのに。

「なんでって、嫌だから」
「俺が望月に触んのが?」
「そう」
「お前は望月のなんなんだよ」

 呆れたように川合くんがため息をつく。佐々木くんは今もクスクスと笑っている。

「なにって。……友だち」
「友だちだから土屋は触ってもいいってこと?」
「そう」
「はあ? 俺だって望月の友だちだけど!? え、友だちだよな!? 望月〜!」
「ははっ!」

 独占するような口ぶりにオレは正直ドキッとしてしまったのだけれど、桃真なりの冗談だったのだろう。佐々木くんがいよいよ声を上げて笑って、川合くんはちょっと泣くような真似をする。桃真はと言えばそれを見て、呆れたようにため息をついている。

「えっと、川合くんさえよければ……友だち、だと嬉しいです」
「当たり前だろ!」
「望月ー、俺もな」
「うん。佐々木くん、ありがとう」

 ふたりが手を掲げてくれて、照れくさく感じながらハイタッチをした。ふたりのことを友だちと呼んでもいいなんて。こんな風に楽しい空間に、関係の中に自分がいる。それがすごく不思議だ。
 安心したら腹減った! と言う川合くんに、川合はいつだって減ってるだろと佐々木くんがつっこんで。ふたりの後ろを歩きながら、そっと桃真を見上げる。

「ん? どうした?」

 プライベートにも学校にも、ここ最近はずっと嬉しいことがたくさんある。それは全て、桃真によってもたらされている。桃真と友だちになれたこと自体、今も驚いているのに。桃真はすごいなと、憧れは深くなるばかりだ。

「ううん、なんでもないよ」
「ほんとかー? 笑ってんじゃん」
「ふふ、ほんとだよ」

 隣を歩けることだって、こんなにも嬉しい。


 教室の窓を、梅雨の雨が打っている。放課後を迎えた開放感に、クラスメイトたちが活気づく。けれどオレは、朝からちょっと憂鬱だ。

「希色、帰ろ」
「うん……」

 桃真と帰るのがいつの間にか日課になっていて、今日だって嬉しいのに。沈んだ声で返事をしてしまった。

「希色、やっぱ体調悪いんじゃねえ? 朝から元気ないよな」
「あ……ううん、悪くないよ。平気」

 桃真には、体調が悪いように見えているらしい。一日中心配をかけてしまっている。でも本当に、体は至って健康だ。それならばなぜ、元気がないのかと言うと――朝イチでマネージャーの前田(まえだ)さんから、学校が終わったら事務所へ来るようにと連絡があったからだ。
 学生のうちは学業を優先できるようにと、仕事は基本的に土日に入る。だからこそ、よほどのことがあったのだと推測される。なにかしでかしてしまっただろうか。もしかして、もう面倒を見きれず契約解除とか? 悪いことばかり考えてしまっている。

「ほんとかー? 体調じゃなくても、なんかあったとかは?」

 大きな背を折り曲げて、桃真がじいっと見つめてくる。桃真にはどうにも、全てを見られている気がしてしまう。前髪を通り越して、瞳の奥から心までだ。

「本当だよ! 本当になんともない。平気」

 前髪を押さえながら、必死に平気だと伝える。心配をかけたくはないけど、事務所に呼ばれたから緊張している、なんて言えるはずもなく。ただ取り繕うことしかできない。

「ん、希色がそう言うなら分かった。でも無理すんなよ。心配だから」
「うん、ありがとう」

 昇降口に下り、靴に履きかえる。ガラスに垂れる雨粒を見ながら桃真を待っていると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。確認すると、(みどり)くんからメッセージが届いていた。

《希色の学校の近くに用事あったから、そっち寄る。車だから乗ってって》
「え!?」
「どうした?」

 内容に目を疑って、思わず大きな声が出てしまった。近づいてきた桃真が、後ろからオレの頭に顎を乗っけてくる。翠くんと連絡を取っていると、知られるわけにはいかない。スマートフォンの画面を思わず隠すと、桃真の顎がぐりぐりと刺さってきた。不満だと訴えかけてくるみたいだ。

「……誰から?」
「えっと……バイト先の人。ごめん桃真、ちょっと返事する」
「はーい」

 ちぇ、とでも言いたげな口ぶりで返事をした桃真は、けれどすぐに離れてくれた。かと思えばオレの手を取って、昇降口の端まで歩いて壁にもたれかかる。少し開かれた長い足の間で向かい合って、左手は繋がれたままで。先日の、保健室で話した時みたいだ。
 あれ以来、桃真からのスキンシップは多くなっている。手を繋ぐくらいはもはや日常茶飯事だ。嫌じゃないから拒む理由もなく、オレは常にドキドキしている。

《騒ぎになるからいいよ!》
《車から降りないし大丈夫。校門出て左のほうの角に停まってるからおいで》

 翠くんはどうやら、すでに到着しているらしい。この雨だし、もちろんありがたいのだけれど。
 ――もう少し、桃真と一緒にいたかったな。
 わがままな想いが芽生えている自分に気づく。でも、翠くんの優しさを無下にだってしたくない。気持ちを切り替えて、桃真を見上げる。

「今日バイト入ってるんだけど、そこまで迎えに来てくれてるみたい」
「マジ? じゃあここでバイバイ?」
「そうだね」
「そっか。一緒に帰りたかったんだけどな」

 この高校から最寄りの駅までは、歩いて5分強。乗る電車は別方向だから、一緒にいられるのはそこまでだ。それでも桃真も、その時間すら惜しんでくれているらしい。申し訳なくありつつも、嬉しさは否めない。逸らされてしまった桃真の視線を追いかける。

「桃真、ごめんね?」
「あー、いや。俺も拗ねてごめん。行くか」
「うん」

 校門までのほんの数メートルを、桃真と並んで歩く。傘と雨音が邪魔をして、会話もままならないのが残念だ。

「じゃあ桃真、風邪ひかないようにね」
「希色もな」
「うん、バイバイ」
「おう、また明日」

 翠くんの車はもう見えている。翠くんの姿を桃真に見られるわけにはいかない。校門前で手を振って、走って助手席に乗りこむ。

「希色おかえり~」

 運転席の翠くんが、手を振って迎えてくれる。ハンドルに寄りかかる姿がそれだけで様になっていて、さすが人気モデルだ。

「急に来るって言うからびっくりした」
「サプライズ成功〜」
「翠くんがいるってみんなにバレたら大変だから、早く行こ」
「だな」

 翠くんの袖を引いて、今すぐここを離れようと急かす。するとエンジンをかけ背後を確認した翠くんが、気になることでもあったのか「ん?」と背筋を伸ばした。

「あれって……」
「どうしたの?」

 かけているサングラスをずらし、目を凝らして確認しているようだ。オレも真似て後ろを振り返るけど、雨が窓を流れているのも相まって、翠くんがなにを見ているのか分からない。

「おー、マジか。いとこがいたわ」
「へえ、そうなん……え! 翠くんのいとこ!?」

 翠くんがあまりに普通のトーンで言うので、一瞬スルーしそうになった。つい叫びつつ、オレは再度そちらを見る。でも今は放課後だし、この雨だから中止になった部活も多いのだろう。帰宅する生徒が多くいて、どの人のことだかさっぱりだ。

「うん。そっか、希色と同じ高校だったんだな。アイツが受験合格した時に学校名聞いた気はするけど、完全に忘れてた」

 まさか同じ高校に、翠くんの親戚がいるだなんて。驚いたと同時に、恐ろしくなる。そのいとこには特に、翠くんと一緒にいるところを見られるわけにはいかない。KEYとしての自分ならまだいいけど、今は前髪で顔を隠し、この学校の制服を着た生徒なのだ。そこから芋づる式に、KEY=望月希色だと知られかねない。

「翠くん、早く行こ! 早く!」

 一刻も早くここを離れようと、翠くんを急かす。

「はーい、今出すよ」
「いとこの人にオレのこと、絶対言っちゃダメだよ!」
「うん、もちろん」

 外から見えないようにと、助手席のシートにずるずると体を滑らせ背を低くする。翠くんのいとこがどんな人なのか、興味はあるけど。翠くんの車に同乗する自分を見られないことのほうが、なによりも重要だった。
 車を停めていた場所から、角を三度ほど曲がった。これくらい離れれば、さすがに見つかることもないだろう。大きな安堵の息がこぼれる。

「翠くんは今日はオフだったの?」
「そう。でも事務所に来てーって今朝連絡あってさあ」
「え! 実はオレも……」
「うん、知ってる。だから迎えにきた」
「そうだったんだ。翠くんもって、もしかして同じ話なのかな」
「俺はちょっと聞いちゃった」
「え、そうなの!? ……もしかして、オレ怒られたりする? それか、クビとか……オレ、朝からずっと不安で」
「え? はは、違うよ。悪い話じゃないから大丈夫」

 そんなこと考えてたのか、と笑いながら、赤信号に止まった車内で翠くんが頭を撫でてくれた。そしてそのまま、前髪をかき上げられてしまう。

「学校終わったんだし、こうしといてよ。希色の顔見えないとさみしい。今日もかわいいよ」
「かわいいはあんまり嬉しくない……」
「そこがいいのに」
「……そう言ってもらえるから、この仕事してるけど。でもやっぱり、かっこいい男になりたいよ」
「希色ならなれるよ」
「そうかなあ」

 事務所に到着して、仕事をしているスタッフの皆さんにふたりで挨拶をする。いつだって笑顔で迎えてくれる人たちで、オレはこの場所が好きだ。
 オレたちに気づいた前田さんが自分の席から立ち上がって、そのまま奥の応接スペースへと案内された。翠くんと並んでソファに腰を下ろし、テーブルを挟んだ向かい側に前田さんが座る。

「今日は急に呼び出してごめんね」
「前田さんがなんのことか言わないから、怒られるのかなって希色ビビってたよ」
「そうなの!? ごめんねKEYくん、せっかくならサプライズにしようと思っちゃって」
「サプライズ?」

 首を傾げると、翠くんと前田さん、ふたりの視線がこちらを向いた。翠くんはにやりと笑んでいて、前田さんはどこか得意げに鼻を鳴らす。

「実は……翠くんとKEYくん、ふたりでの表紙が決まりました!」
「え……えっ、表紙!? オレも!?」
「やったな希色~、大抜擢じゃん」
「え……うそ、夢?」
「夢じゃないよ。翠くんが専属のM's mode(エムズモード)から、正式に依頼がきたんだ」

 まっすぐにオレを見て、前田さんはそう言った。嘘なんかじゃないと、そのキラキラと輝く瞳を見れば分かる。体温が急激に上がり、息が浅くなってきた。胸に手をおいて、深呼吸をする。

「どうしよ、すごく嬉しいです……でも、なんでオレに?」

 誌面でもまだ、大きく掲載されたことはないに等しい。それなのに表紙に、なんて青天の霹靂だ。

「まず、翠くんの表紙は決まっていたみたいだね。そこに、現場で君たちの仲がいいのを見ていたスタッフが提案したそうだよ」
「そ、そんなことあるんですね……」
「元々、いつかBLをテーマに表紙を撮りたいって構想はあったそうなんだ」
「…………? びーえる?」
「ボーイズラブの略だよ。男の子同士の恋愛のことだね。翠くんはもちろん、KEYくんも華があるから並んだら絵になる。僕もぴったりだと思うよ」
「男の子同士の、恋愛……」
「希色、俺とそういう撮影はイヤ?」
「え? ううん、そんなことないよ。ただ、恋愛ってピンとこなくて」

 男同士だとか以前に、そもそも恋愛というものに縁がない。誰かに恋をしたこともなければ、そういう想いを抱かれた覚えもない。明確なコンセプトが用意されているのに、表現できるだろうか。表紙に抜擢された喜びも束の間、気が引き締まったのと同時に不安も生まれてくる。

「そうなん? 俺、希色は好きな人ができたんだと思ってたわ」
「……え? なんで?」
「ほら、希色最近グッとよくなったから」
「僕も正直そう思ってたよ。表情が生き生きしてきたし。違ったんだ?」
「っ、全然! オレはその、最近友だちができて、すごく嬉しくて。その影響だと思うんですけど、全然恋とかはないです」
「そうなんだ」
「翠くんには言ったじゃん」
「まあ確かに聞いたけど。恋もしてんのかなあって」
「違うよー……恋なんてしたことないよ」

 オレに変化があったというなら、間違いなく桃真のおかげだ。だって、それ以外に変わったことはない。それなのに。
 それじゃあまるで、桃真に恋をしているみたいではないか。ポンと音が鳴ったかのように、一気に顔が熱くなる。そんなはずはない。ないはずなのに、どうにも鼓動が落ち着かない。

「まあそれはいいとして。詳しくはまた連絡するけど、撮影は八月あたり、発売は十月の予定だよ。KEYくん、初めての表紙、がんばろうね」
「はい!」

 動揺している暇はない。すでに決まっているスケジュールが実感を連れてきて、背筋を伸ばして返事をする。

「今日はこの話を直接伝えたかったんだ。ふたりとも、来てくれてありがとう」
「本当だよ~、俺オフだったのに」
「でも翠くん、KEYくんのリアクション見たかったでしょ?」
「それはそう! 希色めっちゃ驚いててかわいかった。さすが前田さん、グッジョブ」

 翠くんはもう何度もファッション雑誌の表紙を飾っている。慣れている様子に、さすがだなと改めて尊敬の念を抱く。ほんの少しでも近づきたい。そのためには、並々ならぬ努力と時間が必要だ。それでも、今すぐにできることはないかと気が逸る。そしてふと思い至る。オレももっと翠くんのようにSNSを活用して、知ってもらう努力をするべきではないか。

「あの、前田さん。今日のことって、インスタに上げてもいいですか?」
「表紙のこと? まだオフレコだね」
「そっか、そうですよね」
「いや、うーんどうしようか。翠くん、なにかいい案ない? せっかくKEYくんがSNSにやる気出してくれてるから!」
「はは、前田さん必死。んー、そうだな。近々いいお知らせができます、とかは?」
「あ、いいね! KEYくん、それでいこう!」

 未熟なオレに、前田さんはいつも親身になってくれる。翠くんの案を採用することになって、ポケットからスマートフォンを取り出す。

「翠くん、一緒に写ってもらってもいい?」
「もちろん。ふたりでの表紙だしな」
「ありがとう」

 じゃあさっそく、と翠くんに肩を引き寄せられる。顔がくっつきそうなほどに近づいて、学校指定のネクタイを慌てて外し、シャッターを数回押した。

「この写真の中だと……これとか?」
「ん、いいじゃん」

 翠くんにも確認してもらい、一枚の写真を選ぶ。
 “お久しぶりです、KEYです。近々いいお知らせができそうです。喜んでもらえたらいいな。写真は事務所の先輩の翠くんと”
 キャプションを入力し、翠くんに教わりながら翠くんのアカウントをタグ付けする。そうしてやっと、いざ! と気合を入れて投稿した。

「俺のストーリーに共有しとくな」
「それってどうやるの? 今度翠くんの投稿でやってみたい」
「ここをタップすんじゃん? そんでー……」

 翠くんのアカウントに共有されたら、桃真も見てくれるだろうか。翠くんに操作を教わりながら、ふとそんなことを思った。今までだって、翠くんはオレのアカウントに紐づけてくれていたけれど。桃真と友だちになってからは初めて自分のアカウントに投稿するから、なんだか緊張する。見てもらえたら嬉しい。それが叶ってもきっと、桃真は翠くんに釘づけだろうけど。ほんの数秒でも桃真の瞳に映って、推したい、と思ってもらえるくらいのモデルになっていきたい。


 翌日。
 学校に到着し、階段のほうに桃真の姿を見つけた。その瞬間、昨日の翠くんと前田さんとの会話がよみがえる。
 ――希色は好きな人ができたんだと思ってたわ。
 その言葉にすぐに思い浮かんだのは桃真で、そういうんじゃないからと否定した。それなのに、あの時なかなか止まらなかった鼓動が、またトクトクと胸を打ちはじめる。
 いやいや、本当に違うから。昨日あんな話をしたから、その姿を見ただけでちょっと緊張してしまっているだけだ。そう結論づけて、桃真の元へと走り寄る。

「桃真。おはよう」

 桃真の大きな背中を、トンとたたく。うん、普通に話せそうだ。

「ん……はよ」

 けれど桃真はというと、横目にオレを映した後、すぐに前へと向き直ってしまった。

「…………?」

 どうしたのだろう。いつもだったら挨拶のあとも桃真がたくさん話をしてくれたり、頭を撫でられるのが常なのに。
 階段を上がる間も、桃真はこちらを見もしなかった。二年の教室のある階に到着し、桃真の半歩前へ出て顔を覗きこむ。

「桃真? えっと、もしかして具合悪かったりとかする?」
「……いや、平気」

 平気、と言うがくちびるは薄らと尖っていて、ジトリとした瞳がオレを映した。桃真のそんな顔、初めて見た。知らずのうちに、オレはなにかしてしまったのだろうか。胸のあたりが狭まって、苦しくなってくる。

「な、なに? どうしたの?」
「…………」
「桃真?」

 昨日は雨の中、校門前で手を振って別れた。そのあとは、珍しくメッセージのやり取りをすることもなく今日を迎えている。

「希色、あのさ……」
「うん」

 戸惑っていると、どこか言い出しづらそうに名前を呼ばれた。廊下には人が増えてきて、邪魔にならないようにと窓際に身を寄せ向かい合う。騒がしい空間で、桃真だけに意識を集中する。いつもの廊下が不思議と、ふたりだけの世界みたいだ。

「……昨日」
「うん」
「投稿してたじゃん」
「えっと、なんの話?」
「インスタ。KEYの」
「……え?」

 桃真の口からKEYという名前が出た瞬間、血液がぶわりと体中を駆け巡った。
 なんで今、KEYの話が出てきたんだろう。まさか、オレがKEYだと気づいたのだろうか。なんと返事をしたらいいのか、口を金魚みたいにハクハクと開くことしかできない。

「え、っと……」
「あー……ほら、日比谷翠のストーリーに上がってたから、希色も見たかなって」
「あ……ああ、うん。見たよ。見た見た」

 息が止まるかと思ったけど、話の内容から察するに気づかれたわけではなさそうだ。そう確信できて、安堵と共にようやくまともな返事ができた。けれど、桃真がKEYという名を口にした事実に変わりはない。上がったままの心拍に、顔が熱くなってくる。

「桃真も見たんだ? その……KEYのインスタ」
「うん。久しぶりの投稿で嬉しかった」
「え……えっ、もしかして前から知ってたの!?」
「知ってるよ」
「そ、そうだったんだ……」

 オレは今、平静を保つことができているだろうか。全く自信がなくて、両手で顔を覆って俯く。そんなことしなくたって、顔は見えていないと分かっているけれど。けれどそこでふと思い出す。桃真は今、辛そうな顔をしていたのだった。それがどうして、KEYのインスタの話になったのだろう。
 翠くんと仲良くしているKEYの存在が桃真は面白くないのでは、と考えたことがある。あの時は、気のせいだとの結論に至ったけれど。今なら聞いてみてもいいだろうか。桃真の友だちとしてなら。

「桃真、あの、なにか気になることがあったの? その、KEYの投稿で」
「え?」
「元気がなさそうだから。やっぱり、日比谷翠と仲良さそうなKEYって、面白くなかったりする?」
「は? いや、それは全然違う」
「そうなの? 本当に?」
「マジで。誓って違う」

 目を丸くして首を横に振る桃真を見るに、どうやら本当にそういうわけではなさそうだ。それじゃあなにが気がかりなのだろうか。全く分からず、自ずと首が傾く。

「そっちじゃなくて、むしろ……」
「むしろ?」

 桃真の視線が数秒さまよい、目が合った。さっきジトリとしていた瞳は、今はどこかさみしそうに見える。こんなに心細そうな桃真は知らない。いつも桃真がそうしてくれるみたいに、頭を撫でてみようか。けれどそうするよりも早く、桃真がオレの肩に額を乗せてきた。突然のことにびくりと体が跳ねる。すると離れるなとでも言うかのように、シャツの端っこをつままれる。

「と、桃真? あの……」
「ごめん、やっぱなんでもない」
「なんでもないようには見えないけど……」
「はは、だよな。でも大丈夫」
「オレじゃ力になれない?」
「そんなことない。希色じゃないとダメだから、こうしてる」
「桃真……」

 桃真はそう言って、オレの肩に乗せたままの額を揺らした。甘えるような仕草に、胸の底がきゅうっと鳴く感覚がする。いつもかっこよくて憧れで、だからこそ推しになった桃真なのに。なぜだろう、今はすごくかわいく思える。抱きしめたい衝動に駆られて、でもそんなわけにはいかないと浮かせた手をきゅっと握りこんで。せめて、と背中をぽんぽんとたたくと、桃真がくすりと笑ってくれた。

「はは、なんかあやされてる? 俺子どもみたいじゃん」
「嫌だった?」
「ううん、すげー元気になった」
「ほんと?」
「ほんと。ありがとうな、希色」

 桃真の声色が、本当に明るくなった気がする。それでも桃真は離れようとしなくて、ドキドキするから困るけど正直助かった。赤いだろう顔を見られなくて済む。
 そのまま話をしながらどうにか心を落ち着かせていると、空いているほうの肩を誰かにぽんとたたかれた。佐々木くんだ。

「おはよ、望月」
「あ、おはよう」

 その後ろには川合くんもいて、オレにくっつく桃真に気づくと目を見開いた。歩みは止めないまま、桃真の肩をトンと小突いていく。

「土屋ー、イチャつくなら場所考えろよー。目立ってんぞー」
「うっせえ、ほっとけ」

 イチャついている、なんて言われたのに、桃真はそれを否定しない。そのやり取りに、また昨日の翠くんたちとの会話を思い出してしまった。違う違う、とどうにか追い払っても、離れない桃真の体温がまた連れてきてしまう。好きな人、恋をしている人。そういうわけじゃないはずなのに。

「希色? どうかしたか?」
「……いや、なんでもない、大丈夫」
「ほんとに?」

 黙っていたせいか、今度はオレのほうが心配されてしまう。しゅんと眉を下げた桃真が、オレの頬を両手で包んできた。額を合わせ、熱はなさそうだな、なんて言う。こんなのもう、のぼせてしまいそうだ。あまりの至近距離に、息が途切れる。
 そもそも、髪の上からじゃ正確な体温は分からないはずだ。桃真だってそんなこと、分かっているはずなのに。離れてほしいわけじゃないからそう言う気にはなれなくて、桃真もやっぱり離れなくて。指先で頬を撫でてくれている手に、勇気を出して手を重ねた。

「ほんとに大丈夫だよ」
「ん、そっか。それならよかった」

 朝のホームルームの予鈴が鳴って、生徒たちが教室に吸いこまれていく。廊下が大分空いてから、「俺たちも行くか」と桃真がオレの髪を撫でた。

「桃真」
「ん?」
「本当に平気?」
「ああ、うん。凹んでたの、もう忘れてたくらい」
「そっか。よかった」

 桃真と並んで教室へと向かう。なんだか、桃真がいるほうの体が緊張してしまう。
 桃真との出逢いがオレを変えたけど、恋をしているわけではない。本当にそのはずだ。でも、とふと思う。そもそも恋をしたことなんてないのに、なにと比べて違うと言い切れるのだろう。こんな風にドキドキして、触れられて嬉しいだとか、触れていたいだとか思うのも初めてで。経験したことのない恋心だって、桃真に向いていたって不思議ではない。そんな考えに行き着く。

「希色? どうした?」

 いつの間にか立ち止まっていたようで、少し先で桃真が振り返った。首を傾げてほほ笑んでくれている。朝の光が、桃真の周りでキラキラと光っている。思わず息を飲む。

「…………」
「おーい、希色ー?」
「あ……うん。なんでもないよ。行こう」
「ん、ほら、おいで」
「はは、今度はオレが子どもみたいだね」

 差し出された手に、恥ずかしがる手を笑みでごまかして重ねる。
 恋をしているか、なんて答え合わせを今すぐにはできないけれど。誰かを、その人の周りの空気ごと綺麗だと感じたのは、たしかに初めてのことだった。