ひとつ先の季節の服を着て、カメラの前でシャッターが切られる度にポーズをとる。
今日は都内のスタジオで行われている、メンズファッション誌“M's mode”の撮影に参加している。とは言えオレは、専属モデルである事務所の先輩、翠くんのいわゆるバーターだ。おこぼれをもらっているに過ぎず、誌面に載っても小さいカットばかり。そう分かっていても、一切手を抜く気はない。ひたすら真剣に、レンズと向き合う。
「KEYくん、こっち見て。いいね。じゃあ今度は、そのまま視線外してみて。そう、その感じ」
カメラマンの言葉を嬉しく思いながらも、ここで満足してはいけないと背筋を伸ばす。
翠くんからも、他の事務所のモデルたちからも、現場の雰囲気からだって吸収できるものは山ほどある。もっとたくさんのことを学びたい。オレはオレでいいのだと思えるのが、この場所だから。
オーケーが出てスタジオ隅の控え場所へ戻ると、翠くんがハイタッチを求めてきた。手を重ねパチンと音を鳴らして、隣の椅子へ腰を下ろす。
「希色、なんか最近めっちゃいい感じじゃない?」
「え、そうかな」
「なんつうの、表情が豊かになった。笑顔が内側からにじみ出てきてる感じする。なんかいいことでもあった?」
「えー……うん、あったかも」
「マジ? なになに」
瞳の中を覗きこむように、翠くんが顔をぐっと寄せてくる。全国的人気モデルの整った顔を至近距離で浴びせられ、オレはつい「うわ」と変な声が出た。
日比谷翠、22歳。身長はオレより10㎝も高く、185㎝。スタイル抜群。ここ最近、髪はずっと緑色。まつ毛の長い目は切れ長で、黙っていると恐ろしく感じるほどに美しい。それでいて気さくで、オレなんかのことを弟のようにかわいがってくれている。
初めて出逢った日、翠くんは「いい子が入ったじゃん!」と歓迎してくれた。それから「敬語はやめて、日比谷さんなんてイヤだ翠くんって呼んで!」とぐいぐい距離を詰められた。
スカウトされた事務所・早川モデルエージェンシーを信用できたのも、右も左も分からなかったのになんとかやってこれているのも。この活動が楽しいのも、翠くんの存在あってのことだ。
「うわ、ってなんだよ~。ショック」
「ご、ごめん。だってイケメンが目の前にきて迫力が……」
「え、褒められた?」
「うん、めっちゃ褒めた」
「あは、やった」
機嫌をよくした様子で、翠くんが抱きついてくる。そう言えば兄以外にもここにいた、スキンシップの激しい人が。
翠くんは本当に人懐っこい。初対面だろうと誰とにでも気さくだし、話しやすい空気を作ってくれる。近くを通る雑誌社のスタッフも、今日も仲良いねと当たり前のように声をかけて過ぎていく。
「で? いいことって?」
「えっと……高校で友だち、できた」
友だち、と口にした瞬間、ちょっと頬が熱くなった。桃真のことを“友だち”だと誰かに伝えるのは、照れや喜びが生じるらしい。
「えっ、マジ? よかったじゃん。学校ではひとりだって言ってたもんな。それでそんないい感じなんだ」
「うん、多分。初めてだから。その、仲がいいって言える友だちができたの。いいことって言われたら、それしかないよ」
なにも知らなかった翠くんに勘づかれるくらい、桃真とのことが仕事にいい影響を及ぼしている。オレの推しはやっぱりすごい人だ。
「そっかあ。え~、でも希色にはもう俺がいたじゃん! 俺と仲良くなったのは嬉しくなかったの?」
「まさか! 翠くんと仲良くなれたのだって、すっごく嬉しかったよ! でも翠くんは友だちじゃなくて、先輩だもん」
「確かにそうだけどさあ……そっか、友だち、ね。希色〜」
翠くんの綺麗な形をしたくちびるが、ツンと尖る。なぜか不満げな声を隠そうともせず、抱きついてじゃれてくる。それにくすくすと笑いながら水を飲んでいると、翠くんがスマートフォンのカメラを向けてきた。
「希色、こっち向いて」
「ん……待って、水が」
「そのままでもいいんじゃん? オフショットって感じで」
肩を組んで、翠くんが頭を寄せてくる。高い位置に構えられた画面をふたりで見上げ、翠くんがシャッターボタンを押す。
「いい感じに撮れた。ほら」
「ほんとだ」
「あとでインスタ上げるね」
翠くんはまめにSNSを更新していて、フォロワーもたくさんいる。オレの写真を載せる時は、決まって事務所の後輩だと紹介してくれるのだから優しい。
「希色も投稿する?」
「んー、オレはいいや」
「はは、ほんとこういうの苦手だよね」
「いつも見るだけで満足しちゃって。もっと投稿して、って前田さんにも言われてるんだけど」
仕事を始めるまでは、本当に閲覧するためだけのアカウントを持っていた。宣伝になるからとの事務所からの助言で改めて取得したけれど、まだ3回ほどしか投稿したことはない。なにを撮って、なにを書いてアップしたらいいかピンとこないからだ。オレとの写真をアップする時、毎回KEYのアカウントへのリンクも貼ってくれる翠くんには、申し訳なく思っている。
「ま、そういうところも希色らしくて俺は好きだけどね」
「そうかな。ありがとう」
午後を過ぎた頃、オレの撮影は無事に全て終了した。翠くんと共に控え室に戻り、ひと息つく。
「希色ー、俺コーヒー飲むけど希色も飲む?」
「ううん、水飲むから平気」
「コーヒー飲むようになったって言ってなかったっけ」
「うん、そうなんだけど。好きなお店があって、そこの……」
「お待たせしました! お昼買ってきましたよ!」
翠くんと話していると、外に出ていた前田さんが元気よく戻ってきた。ひとつひとつ味を説明しながら、サンドイッチをテーブルに広げてくれる。
「おー、めっちゃ美味そう! 俺これもらっていい?」
「あ、翠くんは待ってください!」
「えー、なんで」
「翠くんには車で食べてもらおうと思ってたんですよ、そろそろ出なきゃ!」
座ったまま食べ始めようとした翠くんを、前田さんが急かす。翠くんはこの後、隣県に移動して屋外での撮影予定が入っている。すぐにそちらへ向かわなければいけないようだ。
「ちぇー。じゃあちょっとだけ待って、今インスタ上げてるから」
けれど翠くんはそう言って、サンドイッチを開封してしまう。片手でスマートフォンを操作して、バッグを掴みつつサンドイッチにかじりつき、オレの頭をぽんと撫でる。器用なものだ。
「じゃあな希色、気をつけて帰るんだぞ」
「うん」
「送ってあげられなくてごめんね、KEYくん。変な人についていったら駄目ですからね」
「もう、翠くんも前田さんも……子どもじゃないんで大丈夫ですよ」
「はは、そうだな」
過保護な先輩とマネージャーを見送って、もらったサンドイッチを食べる。カラフルな野菜やエビ、チーズが入ったおしゃれなサンドイッチは味も絶品で、ぺろりとたいらげてしまった。
髪のセットやメイクはそのままで、私服に着替える。次の撮影をしている雑誌社の人たちに挨拶をし、日曜日で人の多い外へと出る。少し悩んだけど、意を決してコーヒーショップのほうへと歩き出す。
五月ももう下旬。コーヒーショップへは、二年生に進級してから一度も行っていない。四月からこっち、仕事で褒められたことがなかったわけではないけれど。
学校で桃真に顔を見られたことは、一度もない。だから今まで通りショップへ行っても、桃真にクラスメイトの望月希色だと気づかれる心配はない。そう分かってはいるけれど。騙すことになるような気もして、行くに行けずにいた。
でも今日は、どうしても行きたい。翠くんにコーヒーを飲むかと聞かれた時に断ったのは、コーヒーをどうせ飲むのなら、あのショップのブレンドがいいと思ったからだ。それになにより、店員姿の桃真を見たくてたまらない。もう限界だった。
店の10メートルほど手前で、一旦立ち止まる。桃真は出勤しているだろうか。中の様子を窺うと、レジにその姿を発見できた。つい頬が緩むのを感じつつ、深呼吸をひとつ。
店内に入ると、今まで来ていた時と同じように胸が高鳴る。友だちになっても、やはり推しは推しだ。そもそも今は、友だちとして顔を合わせるのではないのだし。このショップで会えることは、やはり特別だ。
「いらっしゃいませ」
見つめていると、桃真と目が合った。でも少しだけ目を見開いたかと思うと、ほほ笑んでくれることもなく視線を逸らされてしまった。どこか強張った表情に見える。
どうしたのだろう。オレが望月希色だと気づいた、という線はなさそうだ。もしそうだったら、あんな顔はしないだろうし。だとしたら、なにかに緊張している? それとも、嫌なことがあった?
注文の待機列に並びながら、ぐるぐると考えこむ。知らずの内になにかしでかして、嫌われてしまっただろうか。ここに来るのは久しぶりで、なにかなんてしようもないはずなのだけれど。
そこまで考えて、ふとひとつの可能性に思い至った。オレは慌ててスマートフォンを起動する。開くのは、翠くんのインスタアカウントだ。そこには、先ほど撮ったツーショット写真がアップされていた。投稿されたのは、一時間弱前。すでにコメントも多くついていて、“KEYくんと本当に仲がいいね”だとか、翠くんと自分の距離の近さを喜ぶようなものが多い。それは以前からで、特になにを思うこともなかったけれど。
翠くんのファンである桃真がこれを見て、面白くないと感じていても不思議ではない。客としてここに来るオレを、モデルのKEYだと認識しているのか定かではなかったけれど。桃真の様子を見るに、気づいているのかもしれない。
今日ばかりは、他のスタッフのレジがいい。それとも、コーヒーは諦めてもう帰ってしまおうか。そんなことを考えているうちに、
「お待たせしました。お次の方、こちらへどうぞ」
と桃真のレジへ呼ばれてしまった。運がいいのか悪いのか。うつ向きがちに、おずおずと一歩前へ出る。
「いらっしゃいませ」
「……こんにちは」
「店内でお召し上がりでよろしいですか?」
「あ……え、っと」
その言い回しは、いつも店内を利用していることを覚えてくれているからこそのものだ。今までだったら、内心はしゃぐところだけれど。今日はテイクアウトしてしまおうかと迷う。桃真にとっては、一刻も早く目の前から消えてほしいかもしれないから。
そうと決まればと、ボディバッグの紐をぎゅっと握りながら顔を上げる。けれどそこには、なぜか眉をしゅんと下げた、どこか気づかわしげな桃真の顔があった。
「お客様。あの、すごくお節介しちゃうんですけど」
「…………? はい」
声を潜め背を屈める桃真につられ、オレも少し耳を寄せる。
「もしよかったら、甘いものも一緒にいかがですか」
「……え?」
「急にすみません。もしかして、お疲れなのかなと思って。甘いものを食べると、疲れが取れませんか? コーヒーともよく合いますよ」
桃真はそう言って、隣にあるショーケースを指差した。その中にはケーキやクッキーなどが陳列されている。桃真に視線を戻せば、「もちろんご無理なく」とひと言を添えてくれた。断りやすいようにとの配慮だろう。
桃真はオレがKEYだと気づいている。だから翠くんと仲がいいオレに会いたくなかった。それは考えすぎだったのかもしれない。表情が強張ったように見えたのも、思い過ごしだったのかも。
「っ、あの、それじゃあチョコレートがかかってるドーナツをひとつ、お願いします」
思い悩むオレは桃真の目に疲れているように映ってしまい、元気づけようとしてくれた。その優しさを受け取らない選択肢など、オレにはなかった。
「ほんとに? あ、勧めておいてすみません。無理をされていないかなと」
「全然です。あの、甘いの大好きなので」
「それならよかったです。コーヒーはいつものでよろしいですか? 今の時期だと、アイスもおすすめです」
「じゃあ、アイスでお願いします。お店でいただきます」
「かしこまりました」
コーヒーとドーナツを受け取って、隅の席へ腰を下ろす。初めて注文したアイスコーヒーは、透明なプラスチックのカップに注がれていた。混雑しているのに、桃真は今日もペンギンくんの絵を描いてくれた。今回はなんと吹き出しつきで、ペンギンくんが「ごゆっくり」と労わってくれている。あまりに嬉しくて、黒のマジックなのに虹色に輝いて見える。
まずはコーヒーをひとくち。夏も近づいている青空の下、スタジオからここまでつい早足で来てしまったし、桃真とのやり取りもイレギュラーなものばかりで頬は火照っている。そんな体に、冷たいコーヒーは沁み渡るように美味しい。桃真に嫌われたかもしれない、なんて勘違いが解けた安堵も相まって、また格別だ。
続いてドーナツをかじり、思わず目を見張ってしまった。今までコーヒーしか注文したことがなかったけれど、フードもとびきり美味しい。ちょうどいい甘さにまぶたを閉じて、少し顎を上げてひたる。それからもう一度、コーヒーを口に含む。ああ、本当だ。桃真が言っていたように、甘いものとコーヒーはよく合う。緊張や疲れがほどけていくのも、確かに感じる。コーヒーを飲むのはこの店でだけだから、今まで知る機会がなかった。もったいないことをしてきたのかな、と思いつつ、桃真の勧めで知られたことがオレの胸を明るくする。
ペンギンくんの言葉通りいつまでもここでゆっくりしていたいけど、そうも言ってはいられない。ドーナツの最後のひとくちを食べ、コーヒーを飲み終える。ごちそうさまでしたと手を合わせ、トレイを持って立ち上がる。返却口へ向かいかけ、だがふと足が止まった。
このカップを捨ててしまうのが、どうしても惜しい。だって、初めてのセリフつきだ。いつも通り写真も撮ったけれど。しばらくカップのペンギンくんと見つめ合い、ひらめく。持って帰りたい。本当は今までだって、桃真がペンギンくんを描いてくれたカップを捨てるのは断腸の思いだった。それでも、紙製だからと諦めてきた。けれど今日は、アイス用のプラスチック製だ。綺麗に洗えば、飾っておける。名案だ。
「ドーナツどうでしたか?」
考えこんでいたオレは、桃真の声に弾かれるように顔を上げた。そばにいたなんて、全く気づかなかった。どうやらテーブルを拭いて周っていたらしい。
「あの、すごく美味しかったです。おすすめしてもらえて良かったです、また食べます」
「本当ですか、よかったです。あ、トレイお預かりします」
「あ……あのっ、待ってください!」
「…………? はい」
桃真の手にトレイが渡ってしまい、慌てて引き止める。このままだと捨てられてしまう。でも、持って帰りたいだなんて言ったら変なヤツだと思われるだろうか。全部飲まなければよかったと今になって思う。そうすれば自然と持ち出せたのに。
「お客様? どうかされましたか?」
「あの……」
気持ち悪いなんて思われたら立ち直れない。それでも、どうしても諦められない。
「はい」
「それ、持って帰ってもいいですか?」
「え……このカップですか?」
勇気を振り絞って、視線を逸らしつつカップを指差す。桃真が不思議そうに首を傾げるのが、視界の端に映った。
「……はい。その、ペンギンくんが……」
気まずくなってもうここには来られない、なんてことには絶対になりたくない。どうにかしなければ。上手い言い訳が見つからない。でもカップだって諦めたくない。
言葉の続かないオレに、けれど桃真がそっとほほ笑んだ。
「これ、洗ってくるんでちょっと待っててくださいね」
「……え?」
「すぐですから」
呆気に取られていると、桃真は颯爽とカウンターの向こうへと行ってしまった。そして言葉の通り、すぐに戻ってくる。
「お待たせしました。どうぞ」
本当に綺麗に洗ってあって、テイクアウト用の紙袋まで用意してくれたようだ。なにからなにまで至れり尽くせりで、受け取るのに躊躇してしまう。
「わざわざすみません、袋までもらって……いいんですか?」
「もちろんです。そのまま手に持って帰るのも邪魔になるでしょうし」
「っ、邪魔なんかじゃないです!」
「へ……」
「あ……」
つい大声が出てしまった。やってしまった、と手を口に当てると、桃真の目がやわらかな弧を描いた。
「はは! 本当に好きなんですね、ペンギンくん。俺が描いた下手な絵なのに」
桃真の笑顔がとてもまぶしい。推しの笑顔をこんなに間近で浴びてしまって、心臓が早鐘を打ち始める。
「いえ、あの、店員さんが描いてくれるのが、嬉しいので」
「そうですか?」
「はい、いつもありがとうございます」
ペンギンくんはもちろん好きだ。けれど桃真が描いてくれたからこその価値、というものがある。それはとびきりの、どれだけお金を積まれたって譲れないくらいのものだ。そう力説したくなるが、客に推されているなんて知ったら、それこそ本当に気味悪がられるに違いない。ぐっと堪える。
「それじゃあオレ、帰ります」
「またお待ちしてます」
桃真が声をかけてくれるので、出口へと歩きながら振り返って返事をする。
「また来ます」
「はい」
「えっと、これ、本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
「…………」
途切れなくてくすぐったい会話を、自分から止めるしかないのが辛い。それでもどうにか最後に会釈をし、外へと出た。紙袋を胸に抱き、最後にもうひと目だけ桃真を見たいと振り返る。するとまだこちらを見ていたようで、ガラス越しに目が合ってしまった。クラスメイトとしての自分だったら手を振るけれど、今は桃真にとってただの客で。どうしたものかと固まっていると、桃真のほうから手を振ってくれた。
「うわあ……」
思わず声が出つつもそっと振り返すと、桃真の笑みがぐっと深くなるのが見えた。
早鐘を打ち続けていたからか、いよいよ胸がきゅうと鳴きはじめる。痛いような、甘いような、熱いような。この感覚をずっと覚えていたいな、なんて思ってしまう。
ショップに入店してすぐの時は、桃真の表情に不安を覚えたけれど。来てよかった。躊躇なんてしていないで、またすぐに来ようと思う。
胸に居座る甘さにひたりながら歩きだし、オレは空に向かって大きくゆっくりと息を吐いた。
今日は都内のスタジオで行われている、メンズファッション誌“M's mode”の撮影に参加している。とは言えオレは、専属モデルである事務所の先輩、翠くんのいわゆるバーターだ。おこぼれをもらっているに過ぎず、誌面に載っても小さいカットばかり。そう分かっていても、一切手を抜く気はない。ひたすら真剣に、レンズと向き合う。
「KEYくん、こっち見て。いいね。じゃあ今度は、そのまま視線外してみて。そう、その感じ」
カメラマンの言葉を嬉しく思いながらも、ここで満足してはいけないと背筋を伸ばす。
翠くんからも、他の事務所のモデルたちからも、現場の雰囲気からだって吸収できるものは山ほどある。もっとたくさんのことを学びたい。オレはオレでいいのだと思えるのが、この場所だから。
オーケーが出てスタジオ隅の控え場所へ戻ると、翠くんがハイタッチを求めてきた。手を重ねパチンと音を鳴らして、隣の椅子へ腰を下ろす。
「希色、なんか最近めっちゃいい感じじゃない?」
「え、そうかな」
「なんつうの、表情が豊かになった。笑顔が内側からにじみ出てきてる感じする。なんかいいことでもあった?」
「えー……うん、あったかも」
「マジ? なになに」
瞳の中を覗きこむように、翠くんが顔をぐっと寄せてくる。全国的人気モデルの整った顔を至近距離で浴びせられ、オレはつい「うわ」と変な声が出た。
日比谷翠、22歳。身長はオレより10㎝も高く、185㎝。スタイル抜群。ここ最近、髪はずっと緑色。まつ毛の長い目は切れ長で、黙っていると恐ろしく感じるほどに美しい。それでいて気さくで、オレなんかのことを弟のようにかわいがってくれている。
初めて出逢った日、翠くんは「いい子が入ったじゃん!」と歓迎してくれた。それから「敬語はやめて、日比谷さんなんてイヤだ翠くんって呼んで!」とぐいぐい距離を詰められた。
スカウトされた事務所・早川モデルエージェンシーを信用できたのも、右も左も分からなかったのになんとかやってこれているのも。この活動が楽しいのも、翠くんの存在あってのことだ。
「うわ、ってなんだよ~。ショック」
「ご、ごめん。だってイケメンが目の前にきて迫力が……」
「え、褒められた?」
「うん、めっちゃ褒めた」
「あは、やった」
機嫌をよくした様子で、翠くんが抱きついてくる。そう言えば兄以外にもここにいた、スキンシップの激しい人が。
翠くんは本当に人懐っこい。初対面だろうと誰とにでも気さくだし、話しやすい空気を作ってくれる。近くを通る雑誌社のスタッフも、今日も仲良いねと当たり前のように声をかけて過ぎていく。
「で? いいことって?」
「えっと……高校で友だち、できた」
友だち、と口にした瞬間、ちょっと頬が熱くなった。桃真のことを“友だち”だと誰かに伝えるのは、照れや喜びが生じるらしい。
「えっ、マジ? よかったじゃん。学校ではひとりだって言ってたもんな。それでそんないい感じなんだ」
「うん、多分。初めてだから。その、仲がいいって言える友だちができたの。いいことって言われたら、それしかないよ」
なにも知らなかった翠くんに勘づかれるくらい、桃真とのことが仕事にいい影響を及ぼしている。オレの推しはやっぱりすごい人だ。
「そっかあ。え~、でも希色にはもう俺がいたじゃん! 俺と仲良くなったのは嬉しくなかったの?」
「まさか! 翠くんと仲良くなれたのだって、すっごく嬉しかったよ! でも翠くんは友だちじゃなくて、先輩だもん」
「確かにそうだけどさあ……そっか、友だち、ね。希色〜」
翠くんの綺麗な形をしたくちびるが、ツンと尖る。なぜか不満げな声を隠そうともせず、抱きついてじゃれてくる。それにくすくすと笑いながら水を飲んでいると、翠くんがスマートフォンのカメラを向けてきた。
「希色、こっち向いて」
「ん……待って、水が」
「そのままでもいいんじゃん? オフショットって感じで」
肩を組んで、翠くんが頭を寄せてくる。高い位置に構えられた画面をふたりで見上げ、翠くんがシャッターボタンを押す。
「いい感じに撮れた。ほら」
「ほんとだ」
「あとでインスタ上げるね」
翠くんはまめにSNSを更新していて、フォロワーもたくさんいる。オレの写真を載せる時は、決まって事務所の後輩だと紹介してくれるのだから優しい。
「希色も投稿する?」
「んー、オレはいいや」
「はは、ほんとこういうの苦手だよね」
「いつも見るだけで満足しちゃって。もっと投稿して、って前田さんにも言われてるんだけど」
仕事を始めるまでは、本当に閲覧するためだけのアカウントを持っていた。宣伝になるからとの事務所からの助言で改めて取得したけれど、まだ3回ほどしか投稿したことはない。なにを撮って、なにを書いてアップしたらいいかピンとこないからだ。オレとの写真をアップする時、毎回KEYのアカウントへのリンクも貼ってくれる翠くんには、申し訳なく思っている。
「ま、そういうところも希色らしくて俺は好きだけどね」
「そうかな。ありがとう」
午後を過ぎた頃、オレの撮影は無事に全て終了した。翠くんと共に控え室に戻り、ひと息つく。
「希色ー、俺コーヒー飲むけど希色も飲む?」
「ううん、水飲むから平気」
「コーヒー飲むようになったって言ってなかったっけ」
「うん、そうなんだけど。好きなお店があって、そこの……」
「お待たせしました! お昼買ってきましたよ!」
翠くんと話していると、外に出ていた前田さんが元気よく戻ってきた。ひとつひとつ味を説明しながら、サンドイッチをテーブルに広げてくれる。
「おー、めっちゃ美味そう! 俺これもらっていい?」
「あ、翠くんは待ってください!」
「えー、なんで」
「翠くんには車で食べてもらおうと思ってたんですよ、そろそろ出なきゃ!」
座ったまま食べ始めようとした翠くんを、前田さんが急かす。翠くんはこの後、隣県に移動して屋外での撮影予定が入っている。すぐにそちらへ向かわなければいけないようだ。
「ちぇー。じゃあちょっとだけ待って、今インスタ上げてるから」
けれど翠くんはそう言って、サンドイッチを開封してしまう。片手でスマートフォンを操作して、バッグを掴みつつサンドイッチにかじりつき、オレの頭をぽんと撫でる。器用なものだ。
「じゃあな希色、気をつけて帰るんだぞ」
「うん」
「送ってあげられなくてごめんね、KEYくん。変な人についていったら駄目ですからね」
「もう、翠くんも前田さんも……子どもじゃないんで大丈夫ですよ」
「はは、そうだな」
過保護な先輩とマネージャーを見送って、もらったサンドイッチを食べる。カラフルな野菜やエビ、チーズが入ったおしゃれなサンドイッチは味も絶品で、ぺろりとたいらげてしまった。
髪のセットやメイクはそのままで、私服に着替える。次の撮影をしている雑誌社の人たちに挨拶をし、日曜日で人の多い外へと出る。少し悩んだけど、意を決してコーヒーショップのほうへと歩き出す。
五月ももう下旬。コーヒーショップへは、二年生に進級してから一度も行っていない。四月からこっち、仕事で褒められたことがなかったわけではないけれど。
学校で桃真に顔を見られたことは、一度もない。だから今まで通りショップへ行っても、桃真にクラスメイトの望月希色だと気づかれる心配はない。そう分かってはいるけれど。騙すことになるような気もして、行くに行けずにいた。
でも今日は、どうしても行きたい。翠くんにコーヒーを飲むかと聞かれた時に断ったのは、コーヒーをどうせ飲むのなら、あのショップのブレンドがいいと思ったからだ。それになにより、店員姿の桃真を見たくてたまらない。もう限界だった。
店の10メートルほど手前で、一旦立ち止まる。桃真は出勤しているだろうか。中の様子を窺うと、レジにその姿を発見できた。つい頬が緩むのを感じつつ、深呼吸をひとつ。
店内に入ると、今まで来ていた時と同じように胸が高鳴る。友だちになっても、やはり推しは推しだ。そもそも今は、友だちとして顔を合わせるのではないのだし。このショップで会えることは、やはり特別だ。
「いらっしゃいませ」
見つめていると、桃真と目が合った。でも少しだけ目を見開いたかと思うと、ほほ笑んでくれることもなく視線を逸らされてしまった。どこか強張った表情に見える。
どうしたのだろう。オレが望月希色だと気づいた、という線はなさそうだ。もしそうだったら、あんな顔はしないだろうし。だとしたら、なにかに緊張している? それとも、嫌なことがあった?
注文の待機列に並びながら、ぐるぐると考えこむ。知らずの内になにかしでかして、嫌われてしまっただろうか。ここに来るのは久しぶりで、なにかなんてしようもないはずなのだけれど。
そこまで考えて、ふとひとつの可能性に思い至った。オレは慌ててスマートフォンを起動する。開くのは、翠くんのインスタアカウントだ。そこには、先ほど撮ったツーショット写真がアップされていた。投稿されたのは、一時間弱前。すでにコメントも多くついていて、“KEYくんと本当に仲がいいね”だとか、翠くんと自分の距離の近さを喜ぶようなものが多い。それは以前からで、特になにを思うこともなかったけれど。
翠くんのファンである桃真がこれを見て、面白くないと感じていても不思議ではない。客としてここに来るオレを、モデルのKEYだと認識しているのか定かではなかったけれど。桃真の様子を見るに、気づいているのかもしれない。
今日ばかりは、他のスタッフのレジがいい。それとも、コーヒーは諦めてもう帰ってしまおうか。そんなことを考えているうちに、
「お待たせしました。お次の方、こちらへどうぞ」
と桃真のレジへ呼ばれてしまった。運がいいのか悪いのか。うつ向きがちに、おずおずと一歩前へ出る。
「いらっしゃいませ」
「……こんにちは」
「店内でお召し上がりでよろしいですか?」
「あ……え、っと」
その言い回しは、いつも店内を利用していることを覚えてくれているからこそのものだ。今までだったら、内心はしゃぐところだけれど。今日はテイクアウトしてしまおうかと迷う。桃真にとっては、一刻も早く目の前から消えてほしいかもしれないから。
そうと決まればと、ボディバッグの紐をぎゅっと握りながら顔を上げる。けれどそこには、なぜか眉をしゅんと下げた、どこか気づかわしげな桃真の顔があった。
「お客様。あの、すごくお節介しちゃうんですけど」
「…………? はい」
声を潜め背を屈める桃真につられ、オレも少し耳を寄せる。
「もしよかったら、甘いものも一緒にいかがですか」
「……え?」
「急にすみません。もしかして、お疲れなのかなと思って。甘いものを食べると、疲れが取れませんか? コーヒーともよく合いますよ」
桃真はそう言って、隣にあるショーケースを指差した。その中にはケーキやクッキーなどが陳列されている。桃真に視線を戻せば、「もちろんご無理なく」とひと言を添えてくれた。断りやすいようにとの配慮だろう。
桃真はオレがKEYだと気づいている。だから翠くんと仲がいいオレに会いたくなかった。それは考えすぎだったのかもしれない。表情が強張ったように見えたのも、思い過ごしだったのかも。
「っ、あの、それじゃあチョコレートがかかってるドーナツをひとつ、お願いします」
思い悩むオレは桃真の目に疲れているように映ってしまい、元気づけようとしてくれた。その優しさを受け取らない選択肢など、オレにはなかった。
「ほんとに? あ、勧めておいてすみません。無理をされていないかなと」
「全然です。あの、甘いの大好きなので」
「それならよかったです。コーヒーはいつものでよろしいですか? 今の時期だと、アイスもおすすめです」
「じゃあ、アイスでお願いします。お店でいただきます」
「かしこまりました」
コーヒーとドーナツを受け取って、隅の席へ腰を下ろす。初めて注文したアイスコーヒーは、透明なプラスチックのカップに注がれていた。混雑しているのに、桃真は今日もペンギンくんの絵を描いてくれた。今回はなんと吹き出しつきで、ペンギンくんが「ごゆっくり」と労わってくれている。あまりに嬉しくて、黒のマジックなのに虹色に輝いて見える。
まずはコーヒーをひとくち。夏も近づいている青空の下、スタジオからここまでつい早足で来てしまったし、桃真とのやり取りもイレギュラーなものばかりで頬は火照っている。そんな体に、冷たいコーヒーは沁み渡るように美味しい。桃真に嫌われたかもしれない、なんて勘違いが解けた安堵も相まって、また格別だ。
続いてドーナツをかじり、思わず目を見張ってしまった。今までコーヒーしか注文したことがなかったけれど、フードもとびきり美味しい。ちょうどいい甘さにまぶたを閉じて、少し顎を上げてひたる。それからもう一度、コーヒーを口に含む。ああ、本当だ。桃真が言っていたように、甘いものとコーヒーはよく合う。緊張や疲れがほどけていくのも、確かに感じる。コーヒーを飲むのはこの店でだけだから、今まで知る機会がなかった。もったいないことをしてきたのかな、と思いつつ、桃真の勧めで知られたことがオレの胸を明るくする。
ペンギンくんの言葉通りいつまでもここでゆっくりしていたいけど、そうも言ってはいられない。ドーナツの最後のひとくちを食べ、コーヒーを飲み終える。ごちそうさまでしたと手を合わせ、トレイを持って立ち上がる。返却口へ向かいかけ、だがふと足が止まった。
このカップを捨ててしまうのが、どうしても惜しい。だって、初めてのセリフつきだ。いつも通り写真も撮ったけれど。しばらくカップのペンギンくんと見つめ合い、ひらめく。持って帰りたい。本当は今までだって、桃真がペンギンくんを描いてくれたカップを捨てるのは断腸の思いだった。それでも、紙製だからと諦めてきた。けれど今日は、アイス用のプラスチック製だ。綺麗に洗えば、飾っておける。名案だ。
「ドーナツどうでしたか?」
考えこんでいたオレは、桃真の声に弾かれるように顔を上げた。そばにいたなんて、全く気づかなかった。どうやらテーブルを拭いて周っていたらしい。
「あの、すごく美味しかったです。おすすめしてもらえて良かったです、また食べます」
「本当ですか、よかったです。あ、トレイお預かりします」
「あ……あのっ、待ってください!」
「…………? はい」
桃真の手にトレイが渡ってしまい、慌てて引き止める。このままだと捨てられてしまう。でも、持って帰りたいだなんて言ったら変なヤツだと思われるだろうか。全部飲まなければよかったと今になって思う。そうすれば自然と持ち出せたのに。
「お客様? どうかされましたか?」
「あの……」
気持ち悪いなんて思われたら立ち直れない。それでも、どうしても諦められない。
「はい」
「それ、持って帰ってもいいですか?」
「え……このカップですか?」
勇気を振り絞って、視線を逸らしつつカップを指差す。桃真が不思議そうに首を傾げるのが、視界の端に映った。
「……はい。その、ペンギンくんが……」
気まずくなってもうここには来られない、なんてことには絶対になりたくない。どうにかしなければ。上手い言い訳が見つからない。でもカップだって諦めたくない。
言葉の続かないオレに、けれど桃真がそっとほほ笑んだ。
「これ、洗ってくるんでちょっと待っててくださいね」
「……え?」
「すぐですから」
呆気に取られていると、桃真は颯爽とカウンターの向こうへと行ってしまった。そして言葉の通り、すぐに戻ってくる。
「お待たせしました。どうぞ」
本当に綺麗に洗ってあって、テイクアウト用の紙袋まで用意してくれたようだ。なにからなにまで至れり尽くせりで、受け取るのに躊躇してしまう。
「わざわざすみません、袋までもらって……いいんですか?」
「もちろんです。そのまま手に持って帰るのも邪魔になるでしょうし」
「っ、邪魔なんかじゃないです!」
「へ……」
「あ……」
つい大声が出てしまった。やってしまった、と手を口に当てると、桃真の目がやわらかな弧を描いた。
「はは! 本当に好きなんですね、ペンギンくん。俺が描いた下手な絵なのに」
桃真の笑顔がとてもまぶしい。推しの笑顔をこんなに間近で浴びてしまって、心臓が早鐘を打ち始める。
「いえ、あの、店員さんが描いてくれるのが、嬉しいので」
「そうですか?」
「はい、いつもありがとうございます」
ペンギンくんはもちろん好きだ。けれど桃真が描いてくれたからこその価値、というものがある。それはとびきりの、どれだけお金を積まれたって譲れないくらいのものだ。そう力説したくなるが、客に推されているなんて知ったら、それこそ本当に気味悪がられるに違いない。ぐっと堪える。
「それじゃあオレ、帰ります」
「またお待ちしてます」
桃真が声をかけてくれるので、出口へと歩きながら振り返って返事をする。
「また来ます」
「はい」
「えっと、これ、本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
「…………」
途切れなくてくすぐったい会話を、自分から止めるしかないのが辛い。それでもどうにか最後に会釈をし、外へと出た。紙袋を胸に抱き、最後にもうひと目だけ桃真を見たいと振り返る。するとまだこちらを見ていたようで、ガラス越しに目が合ってしまった。クラスメイトとしての自分だったら手を振るけれど、今は桃真にとってただの客で。どうしたものかと固まっていると、桃真のほうから手を振ってくれた。
「うわあ……」
思わず声が出つつもそっと振り返すと、桃真の笑みがぐっと深くなるのが見えた。
早鐘を打ち続けていたからか、いよいよ胸がきゅうと鳴きはじめる。痛いような、甘いような、熱いような。この感覚をずっと覚えていたいな、なんて思ってしまう。
ショップに入店してすぐの時は、桃真の表情に不安を覚えたけれど。来てよかった。躊躇なんてしていないで、またすぐに来ようと思う。
胸に居座る甘さにひたりながら歩きだし、オレは空に向かって大きくゆっくりと息を吐いた。



