「だから、(みどり)くんが来たらまずいって」
「えー、なんで」
「店の中パニックになるじゃん」
「大丈夫だって、気をつけるからさあ。こないだファミレスでだって誰も気づかなかったろ?」
「それはたしかに……」
希色(きいろ)の友だちに会ってみたいし、俺も桃真(とうま)が作るコーヒー飲みたいし! な?」
「んー……」
「ほら、髪はキャップで見えないし! マスクもしてる!」

 十一月になったばかりの日曜日、もうじき午後の3時になるところだ。オレと翠くんはさっきから、前田(まえだ)さんの車の中で押し問答をくり広げている。
 ちなみに今日は、M's mode(エムズモード)専属モデルとしての初めての撮影だった。専属になったことは、年明けの発売号で発表される予定だ。紹介ページでは、写真と共に翠くんとの対談も掲載される予定となっている。

「分かった。でも、絶対バレないように大人しくしててね?」
「やった! 約束する! まあオーラは消せないけどね」
「それはそう。翠くんだし」
「あっは、希色大好き」
KEY(キー)くん、この辺りでいいですか?」

 よく下ろしてもらっている場所につき、前田さんがバックミラー越しに尋ねてくる。

「はい、大丈夫です! 前田さん、いつもありがとうございます」
「どういたしまして。今日もお疲れ様。じゃあ翠くんのこと、よろしくね」
「はい」
「え、前田さんそれ逆じゃない?」
「うーん、翠くんはKEYくんのことになると暴走しそうだからなあ。今日はこれが正解だね」
「ちょ、希色~前田さんがイジワル言う!」
「前田さん、任せてください! 行くよ、翠くん」
「ええ、希色まで……」

 ちぇ、とくちびるを尖らせる翠くんの手を引いて、外に出る。向かうのは、桃真が働くコーヒーショップだ。
 今日は桃真と川合(かわい)くん、佐々木(ささき)くんと会う予定になっている。二日前に済んだばかりの体育祭の打ち上げを、お茶がてらファミレスでする約束だ。待ち合わせはここ、桃真がバイトをするコーヒーショップ。せっかくだからコーヒーでも飲みながら、桃真を待っていようというわけだ。
 入店すると、さっそく桃真と目が合った。手を振ると振り返してくれたけれど、じとりとした目がオレの後ろに立つ翠くんを見ている。口パクで言っているのはきっと、「なんでいんの?」だ。翠くんは意に介す様子もなく、オレの肩に顎を乗せてきた。

「あは、桃真激おこじゃーん」
「突然来ちゃったからね」
「希色冷たーい」
「それより、翠くんはなに飲む?」
「希色と同じの」

 ほどなくして、桃真のレジへと促される。

「いらっしゃいませ」
「ホットのブレンドをふたつお願いします、店内で飲みます」
「かしこまりました。お支払いは後ろの方がどうぞ」
「俺指名? 桃真ってほんと、そういうとこかわいいよな」
「うっせ」

 ご馳走してくれた翠くんに礼を言い、受け渡しカウンターでコーヒーを待つ。今日も桃真が淹れてくれている。桃真とは恋人になったけれど、今だって憧れる気持ちはそのままだ。この瞬間の横顔を眺める時、この先もずっとドキドキするんだろう。

「お待たせしました。希色はこっちな」
「ありがとう」
「ん? 同じの頼んだよな?」
「みど兄はこっち。頼むから静かにしてろよ」

 今日も描いてもらえたペンギンくんは、ふにゃりと笑っている。吹き出しには“あったかくしてね”との優しいひと言つきだ。カップを見て、「希色の好きなペンギンじゃん。なるほど」と翠くんがニヤニヤしながら頷く。
 翠くんはきっと、オレと桃真の関係が変わったことに気づいているのだと思う。好きな人がいると伝えたことがあるし、オレを変えた友だちが桃真だということも翠くんはもう知っている。みど兄に発破をかけられた、と桃真も言っていた。それでも翠くんは追求することなく、見守ってくれている。いつかふたりで伝えられたらいいなと、桃真とも話している。
「翠くん、こっち」
「はいはーい」

 翠くんと一緒に、奥の席へと向かう。川合くんと佐々木くんがすでに来ているのは、入店時から見えていた。

「望月ー」
「川合くん、佐々木くん、お待たせ」
「いーえ。それで、そちらの方は?」
「えーっと、驚かないで欲しいんだけど……」

 そこまで言って、オレは口元に手を添えて背を屈めた。合わせて身を乗り出してくれたふたりに、小さな声で翠くんの正体を明かす。

「先輩の翠くんです。ふたりに会いたいって、一緒に来ちゃったんだ」
「えっ……え!?」
「うわ、マジか」

 大声が出そうになったのか、佐々木くんは慌てて両手で口を塞いだ。毎号M's modeを買っていると言っていた佐々木くんだから、その衝撃は察しがつく。川合くんは一見冷静だけれど、目を見開いてたしかに驚いている。
 ふたりの反応に、翠くんは満足そうだ。キャップを少しだけ浮かせ、マスクをずらして笑顔を見せた。

「初めまして、日比谷(ひびや)翠です。どうしても希色の友だちに会いたくてさ、急にごめんね。コーヒー飲んだら帰るから、お邪魔してもいい?」
「もちろんっす……えっと、川合(あお)です」
「さ、佐々木紅樹(こうき)、です」
「川合くんと佐々木くんね。よろしく!」

 翠くんは店内に背を向ける位置に座ってもらって、オレはその隣に腰を下ろす。川合くんと佐々木くんは目を丸くしたままだけれど、翠くんはひっきりなしに話しかけている。学校でのオレのことを聞いたり、佐々木くんがM's modeの読者だと知って嬉しそうにしたり。
 一緒に行きたいと言われた時はどうなることかと思ったけれど、オーケーを出したのは間違った判断ではなかったみたいだ。後輩の友人まで大切にしてくれる人なんて、そうそういないだろう。自慢の先輩だ。

「どしたー希色、ニコニコして」
「んー? ううん、なんでもないよ」

 ほんとかー? と口角を上げながら、翠くんがオレの頬を指先でつついてくる。そんな翠くんのことを、川合くんと佐々木くんがマジマジと見つめている。

「俺、芸能人って初めて会った」
「俺も! でもさ、望月もそうなんだよなあ。ちゃんと顔出してんの初めて見たからさ、改めて実感してるとこ」

 でもその視線はすぐに、オレへと移った。翠くんに気を取られていたけれど、佐々木くんの言う通りだと思い至る。急に恥ずかしくなって、前髪に触れながらそっと俯く。
 球技大会の日にふたりにも、KEYとしてモデルをしていることは知られることとなったけれど。こうして顔を出して会うのは、今日が初めてだ。

「うう、ちょっと恥ずかしいかも……」
「まあ確かに、佐々木が言うとおり望月も芸能人なんだけど。それより友だちってほうが俺らはデカいからさ。無理はしなくていいけど、慣れてくれたら嬉しい。な?」
「そうそう!」
「川合くん、佐々木くん……うん、ありがとう」

「みど兄、希色に近すぎ」

 四人で声を潜めつつ談笑していると、仕事を終えた桃真がやってきた。空いている席から椅子を持ってきて、翠くんとオレの間に押しこんでくる。

「桃真。お疲れ様」
「さんきゅ。希色もお疲れ」
「あれ、桃真はコーヒーないの?」
「みんな飲み終わる頃だろうと思って」
「そっか。オレのでよかったら飲む? 飲みかけだしもうぬるくなっちゃったけど、桃真が作ったの美味しいよ」
「じゃあひとくち貰う」

 カップを差し出すと、オレの手ごと掴まれてしまった。ドキドキしつつ、飲みやすいようにと手から力を抜く。口をつけながら上目にオレを見て、桃真がほほ笑む。
 憧れで推しで、特別な友だちで……それから、恋人で。ひとりとひとりなのに、様々な関係で桃真と繋がっている。このコーヒーショップは、それをより強く感じられる特別な場所になった。苦いはずのコーヒーが最近はなんだか、腹に落ちてくる頃には甘い気さえする。

「ねえねえ、佐々木くん川合くん。このふたりって、学校でもこの感じなんだって?」
「ですね、もはやデフォっすよ。もうつっこむのも諦めたよな。本人たちが楽しそうだし」
「それなー。土屋がこんなに誰かに構ってんのはめっちゃ新鮮っすけど、友だちとしては嬉しいっていうか。よく笑うようになったし」
「なるほどね」
「てか俺、さっきからめっちゃ気になってるんすけど……土屋、日比谷さんのこと“みど兄”って呼びませんでした?」
「ああ、うん。俺と桃真はいとこだから」
「……え?」
「はぁ!? いとこ!?」

 川合くんの大きな声に、慌てた顔をした佐々木くんが川合くんの背を叩いた。川合くんはハッとしたように口を手で覆う。その気持すごく分かるよ、とオレはただただ頷く。翠くんはと言えばケラケラと笑って、そんなに気を使わないでいいよとふたりに笑顔を向けている。
 三人が仲良くなったみたいで、なんだかオレまで嬉しい。眺めていると、桃真がこちらを見ていることに気づく。目が合えば「楽しいな」とニッと笑って、頭を撫でてくれた。
 ああ、この時間を大事に思っているのは自分だけじゃないんだ。当たり前かもしれないそんなことに、オレはそっと息を飲む。だってオレには、高校の三年間をひとりで過ごすと決意した、中三の冬があるから。改めて四人の顔を見渡すと、なんだか胸がいっぱいになってきた。鼻がツンと痛んで、視界がぼやけだす。それを見逃さないのは、やはり桃真だ。

「希色? どうした?」
「桃真にはちょっと話したことあるけど……オレ、高校なんていつ辞めてもいいって思ってたんだ」

 桃真だけじゃなく翠くん、川合くんと佐々木くんもオレを見ている。伝えたいと思った気持ちを、ここにいるみんなは絶対に受け取ってくれる。そう信じられる自分に出逢えたことは、オレにとって奇跡だ。

「小学生の頃、友だちだと思ってた子から、顔が女みたいだって冷やかされたんだ。他のみんなもそれに乗っかって、からかわれて……あっという間にコンプレックスになって、中学もずっと辛かった。だから前髪伸ばして顔を隠して、同級生が誰も行かない高校を選んだ。それで誰とも関わらなかったら、もう傷つかずに済むって思ったから。でも……オレ今、すごく楽しい」
「希色……」
「桃真が友だちになろうって言ってくれてなかったら、こんな今、絶対になかったよ。だから、ありがとう。みんなの顔見てたらなんか、感動しちゃって。みんなに聞いてほしくなった」

 モデルをしていると明かしても、顔を隠す理由は伝えたことがなかった。小学生の自分が、胸の奥底で顔を上げて笑ってくれた気がする。
 堪えきれずに鼻を啜ると、桃真の大きな手に頬を包まれた。優しい親指が、にじんだ涙をさらってゆく。開ける視界に映るのは、みんなのやわらかな顔で。泣き顔を恥ずかしく思う暇もなく、手が次々に伸びてきて髪をかき混ぜられてしまった。

「う、うわ、ちょ、みんな! ボサボサになっちゃう!」
「望月~これからも学校楽しもうな!」
「土屋もいいけど、俺らとも遊ぶんだからな」
「えへへ、うん。よろしくお願いします」

 川合くんと佐々木くんが手を掲げてくれて、ハイタッチをする。ふと翠くんを見ると、その瞳がうるうると潤んでいる。翠くんのそんな顔は初めて見た。

「なんだろこの気持ち、希色はもはや息子かもしんない。桃真ちょっとどいて、希色ハグするから」
「却下。みど兄は希色に触りすぎ」
「はあ? 桃真にだけは言われたくないけど!?」
「はいはい、うるさい」

 たわむれたり、途切れることなくおしゃべりをしたり、時には言い合いをしてみたり。オレの目の前に広がる世界は、あたたかくて賑やかだ。でもそうか、オレもこの輪の、確かにひとつのピースなんだ。そんなことを考えていたら、また涙が滲んできてしまった。どうにも今日は涙もろい。バレないようにと願っても、やっぱり桃真にはお見通しで。鏡みたいに泣きそうな顔をした桃真が、こちらを覗きこんでくる。

「希色? また泣けてきちゃった?」

 指先をきゅっと握りこまれて、オレもそっと握り返す。

「うん……オレ、すごく幸せだなって思って」

 桃真が色づけたカラフルな世界で、オレはとびきりの幸せ者だ。


「ただいまー」

 あの後は予定通り、ファミレスで体育祭の打ち上げをした。移動する前には、帰ろうとする翠くんをみんなで引き止めた。「若者たちの邪魔をするわけにはいかないんだけど……」なんて言う翠くんに、桃真が「たかが22歳がなに大人ぶってんだよ」と言うからおかしかった。最終的には川合くんの「迷惑だったり嫌じゃなかったら、ぜひ」とのひと言で、翠くんも来てくれた。オレはぶどうパフェ、桃真はマロンパフェ、翠くんと佐々木くんは抹茶パフェを注文した。川合くんはひとり、ハンバーグとカレーライスを食べていた。お昼を食べてなかったのかと思ったけど、きちんと食べてきた上でらしい。さすが川合くんだ。

「お邪魔します……」

 そして今は、オレの家に桃真と帰ってきたところだ。いつか泊まりにきてね、と交わした約束をこんなに早く叶えられて嬉しい。桃真はと言えば、緊張しているようだけれど。

「大丈夫だよ、みんな桃真に会うの楽しみにしてるから」
「会ったら幻滅されたりしねえ?」
「幻滅するところなんて桃真にないよ」

 桃真の背に手を添えてリビングに入る。すると家族三人分の視線が、一気にこちらを向いた。桃真が思わずといったように一歩後ずさる。無理もないよなと、この家の一員ながら強く思う。みんな本当に、桃真と会うのを心待ちにしていたから。なんというか、圧が強い。

「あらあら、いらっしゃい! 桃真くんよね! 初めまして、希色の母です!」
「桃真くんこんばんは。ちょっと今手が離せなくて、ここからでごめんね」

 桃真を迎えるために、今日は夫婦で腕によりをかけて料理をしているらしい。

「いえ、初めまして。あの、土屋桃真です。今日はお世話になります」
「そんなかしこまらなくたっていいのよ〜!」

 桃真が両親に圧倒されていると、今度は兄ちゃんがガバリと抱きついた。ほとんど突進のような勢いだった。

「うおっ」
「桃真くん! すげー会いたかったよ! 希色のマブダチならもう弟みたいなもんだし、俺のことは兄ちゃんって呼んでな!」
「ちょっと兄ちゃん、桃真のこと離してあげて。兄ちゃんのハグ苦しいから」

 兄ちゃんは桃真より背が高いし、体が大きい。なにより、ハグの遠慮のなさをオレは知っている。

「え? わっ、ごめん!」
「いえ、平気っす。えっと、初めまして。よろしくお願いします」
「こちらこそ! 希色のこと、これからもよろしくな」
「……はい。必ず約束します」

 兄ちゃんは友だちとしてよろしくと言っているのに、桃真の返事がオレには別の意味に聞こえてしまう。これからもずっと恋人としてそばにいる、と誓われているみたいだ。なんだか居た堪れなくなって、桃真の手を引く。

「桃真、行こ」
「希色ー、夕飯できたら呼ぶからねー!」
「はーい」

 オレの部屋へと桃真を案内する。家族以外は誰も入れたことがないから、今度はオレがドキドキする番だ。

「ごめんね、みんなうるさかったね」
「全然。いい人たちだな」
「そう言ってもらえると助かる。えっと、ここがオレの部屋だよ」
「お邪魔しまーす。おー、希色の部屋って感じすんな」
「それってどんな感じ?」
「綺麗にしてるとこかな。あと、ペンギンくんがたくさんある」

 リュックを下ろした桃真が、その場でゆっくり回りながら部屋を見渡している。そしてその目が、ベッドのヘッドボードのところで少し見開いた。

「あ、あのカップって……」
「……うん、桃真がペンギンくん描いてくれたカップだよ」
「飾ってくれてるって、前に言ってたもんな」

 保健室に連れて行ってもらった時に、カップのことを宝ものだと言ったことがある。KEYだと気づかれているだなんて、まだ知りもしなかった頃だ。見られるのはさすがに恥ずかしい気がして、クローゼットにでもしまっておこうかと考えたりもした。でも、これだって桃真への想いだから。隠すのはなんだか違う気もした。のだけれど――

「やっぱり、さすがに引く?」

 いざとなると、一気に心配になってきた。

「え? なんで?」
「それは……ほら、いっぱいあるし」
「ああ。たしかに、勝手に1個だと思ってたけど」
「うう、だよね……でも、桃真が描いてくれたものだから。1個も捨てられなくて」

 言わば、推しが描いてくれた推しなわけで。その数、現在6個。冬になってもたまにはアイスを頼もうかななんて、そんなことすら考えているくらいだ。
 ベッドに腰を下ろした桃真が、ひとつひとつを手に取って眺めている。そわそわしながらその様子を見ていると、そっと手を引かれた。気づいた時には、桃真の足の間で後ろから抱きしめられていた。

「っ、桃真……?」
「こんなに大事にしてもらってるなんて思わなかった。すげー嬉しい」

 オレの肩に顎を乗せて、桃真がささやく。少しかすれた甘い声と、首をなぞる桃真の髪。この部屋の空気が、急激に色をまとった。桃真の腕の中でゆっくり振り返る。オレの左手を桃真の右手が握って、額同士がコツンと合わさった。
 オレたちが恋人同士になった夜から、約一ヶ月。あいかわらず毎日のように手に触れたりしているけれど、キスはまだだ。今日はいよいよするのかな。心臓が耳元にあるみたいに、自分の鼓動がドクドクと聞こえる。ちょっと熱い息をそろそろと吐くと、桃真の呼吸も聞こえた。

「希色、あのさ」
「ん?」
「……キス、したい。してもいい?」
「っ、ん、うん。オレもしたい、です」

 緊張した様子で、桃真が切り出してくれた。同じ気持ちだと知ってほしくて、何度もこくこくと頷く。桃真の親指が、オレの頬をやさしく撫でる。

「あー、めっちゃ嬉しい……し、すげー緊張する」
「ん、分かる。心臓壊れそう」
「うん」

 肩を引き寄せられて、桃真の体とぎゅっとくっつく。ゆっくりと桃真の輪郭がぼやけたかと思うと、撫でられていた頬にやわらかなものが当たった。ああ、桃真のくちびるだ。思わずしがみつくと桃真のくちびるがまたたいて、吐息が頬を撫であげる。

「んっ」

 反対の頬、鼻の先に、まぶたにおでこ。ひとつずつキスをして、

「希色……次は、ここ。いい?」

 と桃真がささやく。ここ、と示されたのはくちびるだ。桃真の指先が、ふにふにと沈んでくる。

「……うん、して?」
「っ、希色……」

 桃真が顔を傾けるのを見て、オレもそっと顎をあげる。触れる瞬間、くらくらして目をつむった。一瞬で離れて、だけどまたすぐにくっつく。2秒、また離れて3秒。頭の端っこで、初めてなのにこんなにたくさん、なんて慌てているオレもたしかにいる。だけど、やめられない。桃真のシャツを握りこむ。こんなに欲しがる自分を、オレは知らなかった。
 キスに夢中になっていると、オレの下くちびるを桃真のくちびるが食んだ。

「んぁっ」

 思わずこぼれた声が、本当に自分のものかと疑うほど甘ったるくて。今まさに恥ずかしいことをしているのに、顔がさらに熱くなる。ゆっくりキスが止まった。照れくさいとか、終わってしまってさみしいとか。様々な感情がぐるぐるして、忙しいけれど。桃真と目を合わせると、なぜだかお互いにくすくす笑いだしてしまった。抱きしめられて、そのままふたりして横になる。狭いシングルベッドの上で、ぎゅっと身を寄せ合う。

「あー、すげー夢中になっちゃった」
「うん、オレも」
「大事にするって言ったのに、このままじゃやばかったかも」

 桃真の言うことが、オレにもよく分かる。あのまま止められずにいたら、もっともっと触れたくなった。キスだけじゃ足りないくらいに。まるでそれがよくないことのように桃真が言うから、オレの気持ちを伝えたくなる。

「でも、大事だから、だよね」
「ん?」

 少しだけ体を起き上がらせて、両肘をベッドにつく。桃真に見上げられるこのアングルは、なんだか新鮮だ。

「大事だからしたくなるんだな、って思ったよ。桃真とキス、してて。桃真のこと好きだから、オレはその、こういうこと……したいんだなって」
「希色……」
「はは、ちょっと恥ずかしいね」

 なんだかもう、ずっと心臓はうるさいし、新しい自分に出逢ってばかりで正直戸惑う。また体から力を抜いて、顔を伏せる。すると、大きな手が髪を何度も撫ではじめた。

「希色はやっぱすげーな」
「へ? なにが?」
「希色はさ、オレのおかげで変われた、って言ってくれるけどさ」
「……うん」

 これはきっと、大切な話だ。もちろん、桃真が話してくれることは全部全部、大事だけれど。心を見逃さないようにと、顔を上げてその瞳を見つめる。

「希色と出逢って、俺もすげー変わったよ。川合と佐々木によくドライだとか、去る者追わずーとかって言われてんじゃん? 多分、両親のことが影響してるんだと思う。ちいさい頃から喧嘩ばっかしてるの見てて、別れて……また他の人と結婚して。子どもなりに、愛ってそんなもんか、って思ったんだろうな。だからさ、希色が初めてだったんだよ。自分から話してみたいとか、仲よくなりたいって思ったのとか」
「桃真……」
「おすすめのコーヒー聞いてくれたり、下手くそな絵喜んでくれたり。俺のすることとか中身まで見てくれる希色に救われて、好きでたまらなくなった。変わったっていうか、新しく生まれ変わった気さえする。平坦でモノクロだった毎日が、鮮やかになった。ありがとな、希色。希色に会えて、好きになってもらえて、俺すげー幸せだわ」
「っ、待、って。そんなん言われたら、泣く、って」

 だってそれは、オレが桃真に感じているものそのままだ。桃真のおかげで前を向けて、仕事がいい方向に進んで、毎日が楽しくなって。今までが嘘みたいにカラフルになった。そう思えることがどれほど大きな力になるか、身を持って知っている。その心をオレからも、桃真にもたらしているだなんて。考えたこともなかった。

「はは、俺もなんか泣けてきた」
「桃真も? ほんとだ……一緒だね」
「な」

 お互いの頬を両手で包みあって、ふたりして鼻をすすりながら笑う。桃真の光が、オレの中にまっすぐ落ちてくる。ああ、オレなんか、なんて卑下することはもうできないな。だって桃真が、大好きな人がこんなに大事に想ってくれている。そんなの、胸を張るしかないじゃないか。好きな人に好きだと言ってもらえることは、自分のことも大切にできるということなのかもしれない。きっとそれが、目の前の人に真摯に向き合うことだと思うから。

「ていうことでー」
「ていうことで?」
「もっかいキスしていい?」
「っ、もちろんいいけど……ていうことでって、どういうこと?」
「好きだから、大事だからしたくなるって希色が教えてくれたから。もうちょっと素直になろうかなって」
「あ……うん、そうだったね。えっと、オレもしたいです。桃真が好きなので」
「ん、希色」
「ん……っ」

 うなじを撫でられて、オレは桃真の服をぎゅっと握って、またくり返しキスをする。感触だけで、桃真の気持ちが流れこんでくるみたいだ。オレの気持ちも、この手からくちびるから、桃真の中に入っていきますように。呼吸の合間に目が合うと、桃真が笑ってくれた。ああ、この願いはきっと叶っている。恋しい人が叶えてくれているのだと思ったら、どうしようもなくまた泣きそうになる。
 大切にする、これからもずっとそばにいる。当たり前のように胸にあったそんなことを、やまないキスの合間にこっそり誓った。