人が入り乱れるコートの中で、その人は、スポットライトを浴びたように輝いて見えた。
 俺は、思わずその姿を目で追う。
「おーい、そこの一年生! えーと、名前……」
「あ、はい! 早瀬(はやせ)将樹(まさき)です!」
「早瀬! ボーっとしてないで、こっち!」
「うす!」
 俺は先輩に呼ばれて、横並びになる新入生の端につく。しかし、本当は振り返りたい。あの人を見たい。俺のまぶたの裏に焦げ付いた輝きを。
 そんな俺の想いも知らず、自己紹介をさせられる。俺は、今日からこの高校の男子バスケ部に入部した。
 新入部員は全部で九名。特段、強豪校というわけではないが、俺も「青春」とやらを味わってみたいと思い、入部した。
 そう思った途端、俺はいきなり「青春」に真正面からぶつかったようだ。
 名前を言うだけの簡単な自己紹介のあと、準備運動をして簡単な練習メニューをこなす。俺はその最中も、ずっとその人を見ていた。高い位置で一つに括った長い髪が激しく揺れる。汗すらも、美しく見えた。

「早瀬だっけ。お前、ずっと梅岡(うめおか)先輩のことを見てただろ」
 更衣室で、同じく新入部員の男子に話しかけられる。名前は確か、前原(まえはら)
「あの人、梅岡先輩っていうのか?」
 俺は食い気味で前原に訊く。
「女バスのポニーテールの人だろ? 梅岡美織(みおり)先輩だよ」
「なんでお前が知ってるんだよ」
「俺の姉貴が梅岡先輩と同学年なんだよ」
 俺は、か細いながら、あの人との繫がりを作れたことに、雄叫びをあげたい気分だった。
「まじか!」
「姉貴からすごい美人がいるとは聞いていたけど、まじで美人だよな」
「やばかった。俺、一目惚れかも」
「見てりゃわかるよ」
 前原は肩を震わせて笑っている。
「おい、笑うなよ」
「悪い悪い。でも、無理だと思うぜ。あの人、どっかの大企業のお嬢様らしいし。性格も良くて、狙っている男、大勢だってさ」
 俺は額を押さえる。「青春」ど真ん中だと思ったのに、前途多難だ。
 だが、俺は諦めない。
「絶対、俺は梅岡先輩を諦めない!」
「早瀬、お前おもしろいな! ま、同じ部活だし、仲良くやろうぜ」
 前原が俺の肩を叩いた。グータッチをする。
 進学早々、友達ができて幸先が良い。

 前原の姉貴経由で梅岡先輩を紹介してもらおうと思ったのに、前原の姉貴は同学年というだけで、特に梅岡先輩と親しいわけではないらしいと聞いたときは、大袈裟ではなく膝から崩れ落ちた。
 俺は一ヶ月経った今も、練習中に梅岡先輩を盗み見ることしかできない。前原には、「ヘタレ」といじられているが、事実なので言い返せない。
 梅岡先輩は、優しい人だった。世話焼きというか、困っている人がいたら放っておけない性格のようだ。
 女バスの一年生がシュートの練習をしていたら、その横について、フォームを直していた。スタミナ切れでへたり込んでいる部員には、スポーツドリンクやタオルを運ぶ。お嬢様だと聞いているのに、偉ぶった様子は全くなく、皆に慕われていた。
 俺は、梅岡先輩にどんどん惹かれていく。しかし、ヘタレな俺は何もできない。
 ヤキモキしていたある日、事件は起こった。
 高い悲鳴が体育館に響いた。生徒たちが一斉に振り向く。二人の影が重なって倒れていた。おそらく女子バスケ部員だ。タイミング悪く、顧問が体育館から離れている時だった。
 俺は、自然と体が動いていた。
「大丈夫っすか!?」
「この子たちがドリブルの練習中に衝突しちゃったの!」
「頭を打っているかもしれない。下手に動かさないほうが良いっすよ! 先生と救急車を……」
 俺はそのとき、会話の相手が梅岡先輩であることに初めて気づく。思ったより近い位置にあるその整った顔に、思わず言葉を失う。
「そうね。動かさないほうが良いかも。ありがとう。ねぇ! 先生を呼ぼう!」
 梅岡先輩は声を張り上げる。俺は、衝突事故に加えて、先輩と話せたことに、呆然としていた。

 衝突した二人は、大事をとって救急車で運ばれた。ほっとしたとき、後ろから肩を叩かれた。
 梅岡先輩だった。
「ありがとね。男バスの一年生?」
 俺は急速に体温が上がっていくのを感じる。
「あ、えっと、早瀬将樹っす! 一年生です!」
「そっか。助かったよ。わたし、動揺しちゃって。真っ先に駆けつけてくれて、ありがとう」
 花のような笑顔に見入ってしまう。
「どうかした?」
「あ! いえ! 何でもないです!」
 前原が俺の後ろで笑いをこらえているのを感じる。邪魔をするな。
「早瀬くん、ね。練習、安全に頑張ろうね」
 梅岡先輩は、小さく手を振って女子バスケ部の一団に戻っていった。
「良かったな」
 首に腕が回される。前原だ。
「ついに話せた……」
「一歩が小さすぎだろ」
「小さすぎても一歩だろうがよ」
「そうだけどよ」
 俺は夢見心地のまま練習を再開し、シュートをすべて外して、男子バスケ部の先輩に叱られた。

 梅岡先輩は俺を見かけると、挨拶をしてくれるようになった。手を軽く上げる程度のものだが、俺は嬉しかった。
 その日は、俺が片付けの当番だった。体育倉庫で備品をチェックしていると、入り口に影が差した。
「あれ?」
 梅岡先輩だった。
「え、どうしたんですか」
 鼓動が暴走する。気取られぬよう、何でもないように訊いた。
「ちょっとごめん。あ、あった。ボール入れにタオルを間違えて入れちゃったんだ。どこにやったかと思ったよ」
「見つかって良かったですね」
 自然に会話できている。千載一遇のチャンスに、俺は正気を失っていたと思う。
「あの、梅岡先輩!」
「ん?」
「好きです! 俺と付き合ってください!」
 言ってしまってから、血の気が引いた。いくらなんでも唐突すぎる。ほとんど話したこともないのに、俺は何をやっているんだ。
 終わった、俺の青春。
「わたしで良ければ……」
 控えめな声は、聞き間違いだろうか。
「え?」
「何度も言わせないでよ」
 梅岡先輩は、回収したスポーツタオルで口元を抑えている。
「早瀬くん、いろいろ気がつくよね。ボールが危ない位置に転がっていたらどけるし、体調悪そうな子がいたら一番に気づく。そういうことがたくさんあった」
 俺にとっては当たり前の行動だったが、梅岡先輩が俺のことを見ていてくれたことに感動する。
「たいしたことでは……」
「優しい人だな、って思ってたの。だから」
 ここで言わなければ。
「梅岡先輩、俺と……付き合ってくれますか」
「はい」
 先輩は俺に飛びついた。細い腕が背に回される。俺はここで死んでも良いと思った。

 前原に報告をすると、見たことがないほど驚いていた。
 梅岡先輩と連絡先を交換して、頻繁にメッセージを送りあった。帰りは途中まで一緒に帰る。
 先輩は、いろいろな表情を見せてくれた。笑顔も、真剣な顔も、子供っぽくむくれることも。どれもが魅力的で可愛くて、俺はそれを一人占めできることが嬉しくてたまらない。
 まだ、帰宅のとき以外にデートは行けていないが、毎日学校で会えるから、それで十分だった。
 俺は、幸せの絶頂だ。

 家に帰ると、俺は手を洗ってから、すぐに仏壇の前に座る。
「親父、今日も一日、無事だったよ」
 俺の父は、一年ほど前に亡くなった。今は、母と俺の二人暮らしだ。
 部屋着に着替えてテレビをつけると、夕方のワイドショーで、大手自動車メーカーのハクバイ自動車のリコール問題が取り上げられていた。俺は、テレビを切る。
 立ち上がって、洗濯物の取り込みを開始した。

 その日は、よく晴れた日だった。梅雨明けが知らされて、夏本番だ。もうすぐ夏休みだが、夏休みも男女ともバスケ部の活動はあるので、先輩とも会える。
 部活の帰り道、俺と先輩はファーストフード店に寄り道していた。部活では縛られている長い髪は下ろされている。
 他愛のない会話に花が咲く。
「わたしはそろそろ受験の準備をしないとなぁ」
「俺は迷っていて……早く就職したほうが良いのは間違いないんですけど、大卒のほうが給料高くなるらしいですから、長い目で見て大学に行くべきかと……」
 梅岡先輩には、俺がシングルマザー家庭であることは話してあった。先輩はその話が出ると、少し居心地が悪そうになるのを忘れて、俺はまた話をしてしまった。
「あ、俺のことはどうでもいいっすよね。先輩、どこの大学が志望なんですか?」
 慌てて話題を変える。梅岡先輩の目は真剣だった。
「どうでも良くないよ」
「いや、その……」
「……お父さん、どうされたのか、聞いて良い?」
 梅岡先輩は神妙に訊いた。先輩には話しても良いかもしれない。
 俺は迷ったが、口を開く。
「……実は、一年前に亡くなりまして」
「えっ!」
 先輩は驚きと悲しみを顔いっぱいに映して、口元を手で覆う。やはり話さないほうが良かったか。
「ごめん、踏み込んだこと聞いて……」
「いえ、自分勝手な親父なんですよ」
「自分勝手?」
 つい口が滑った。俺は「やってしまった」と想いながら、後頭部を掻く。
「……自殺なんです」
 先輩は、目を丸くして絶句している。あまり、人に聞かせる話でもない。
「すみません、こんな話。人には話さないようにしているんですけどね……」
「……ううん。ごめんね、話させて」
 気まずい沈黙が流れる。変に明るい話題にしても、きっとギクシャクしてしまう。それなら、全部知ってもらったほうが良いのかもしれない、と思った。
「すみません、もう少し聞いてくれますか?」
「……うん」
 先輩は緊張した瞳で俺をまっすぐに見た。俺はジュースを一口飲んでから、話し始める。
「俺の親父、ハクバイ自動車に勤めていたんです。そこで部長をやっていたんですけど」
 先輩が驚いた顔をした。
「どうしました?」
「あ、気にしないで。続けて」
 俺は怪訝に思いながらも話を続ける。
「ハクバイ自動車って、部品の欠陥でリコール問題が出ているじゃないですか。それが原因の事故で死者も出てしまって。テレビとかでもやっていますけれど、その主犯と言われている調達部の部長が俺の親父だったんです」
「まさか……あの……」
「はい。報道でもあるとおり、俺の親父は故意で安い欠陥品を調達して、差額を懐に入れたとされて、背任行為で懲戒解雇。そして、自殺しました」
 先輩の目が潤んでいるように見える。しかし、悲しみよりも驚きのほうが大きいように見えるのは何故だろうか。
「これも報道されていますが、遺書には『冤罪だった』とありました。でも、俺たち家族にはどうしようもなくて……わけのわからないまま、一年が経ってしまったんです」
 俺はもう一口、ジュースを飲むと、窓の外に視線を投げる。小さい子供とスーツ姿の父親が、手を繋いで歩いている。
「近所には俺の父の死と原因はすぐにばれて、俺も中学生のときはいじめられました。暴力とか、あからさまないじめ、というよりは無視でした。触れてはいけない、みたいな感じで孤立しました。だから、誰も同じ中学がいない、遠いこの高校に進学したんです」
 俺はニッと笑う。
「いろいろあったんですけど、俺、この高校でたくさん友達できたし、部活も楽しいし、何より梅岡先輩と一緒にいられるし、今は楽しいですよ! 辛気臭い話でしたけど、今が良けれはOKですよね!」
 先輩の顔は、真っ白だった。驚愕と絶望といった言葉が似合う表情を浮かべている。初めて見る顔だ。
「あの、先輩……?」
「ごめん、帰るね」
「え?」
 先輩は鞄を肩に引っ掛けて小走りで店を出ていった。
 やはり、余計なことを言ってしまったのかもしれない。俺は壮絶に後悔していた。先輩の優しさに甘えてしまった。
 もしかしたら、俺はふられるかもしれない。
 暗澹たる思いで、俺もファーストフード店を出た。

 そのとき以降、先輩から連絡が来なくなった。
 俺がメッセージを送っても、そっけない返信ばかりだ。部活で目が合っても、すぐにそらされる。一緒に帰ろうとしても、俺よりも早く帰っている。
 明確に、避けられていた。
「最近、梅岡先輩とどうしたんだよ」
 前原にも勘付かれた。部活の休憩時間中に、体育館の隅に座って、話をする。
「俺が余計なことを話しちゃったんだよ。多分それが原因」
「余計なことって?」
「俺の家族の話」
 隣でスポーツドリンクを飲んでいた男子バスケ部の二年生の先輩が、話に入ってくる。
「梅岡だろ? 多分今、それこそ家が大変なだけなんじゃないか? 余裕がなくてお前に構っていられないんだろう」
「どういうことっすか?」
 俺は先輩を見上げて訊く。
「あいつ、今問題になってるハクバイ自動車の社長令嬢だからな」
 俺は、頭が真っ白になった。
 梅岡先輩が、ハクバイ自動車の令嬢……?
 前原も目を丸くしている。
「大企業のお嬢様とは聞いていましたけど……地元で一番の企業じゃないですか。そんな名門企業のご令嬢がなんでこんな普通の学校に?」
「私立受験の日に熱を出して、お嬢様学校を受けられなかったんだとさ。このあたりの地域では、中学受験も一般的ではないしな」
 先輩の話が遠くから聞こえるようだ。
 俺の死んだ親父は、ハクバイ自動車で不正を主導し、得た金を自分のものにした疑惑で解雇され、死を選んだ。
 梅岡先輩が俺を避けていた理由がわかった。しかし、知ってしまったからには、俺も今までと同じではいられない。
 俺は、梅岡先輩とどう接すれば良いのだろうか。
 梅岡先輩が、俺を避けていた理由が、痛いほどよくわかった。

 俺は、梅岡先輩に連絡も取らなくなってしまった。二人のメッセージ欄は、先輩の実家を知ってしまったあの日から、動いていない。
 梅岡先輩のことがきらいになったわけではない。部活で見かける先輩は、生き生きとしてきれいで、相変わらず優しい人だった。
 梅岡先輩のことが好きなのに、俺は先輩に連絡すらできずにいる。
 苦しい。
 簡単に諦められる恋ではない。
 俺は、どうすれば良いのか、悩み続ける。

 夏休みに入っても状況は変わらなかった。
 部活には顔を出している。梅岡先輩の姿を見ると、恋しさがこみ上げる。
 話したい。
 手を繋ぎたい。
 あの笑顔を近くで見たい。
 しかし同時に、俺の親父を自殺に追い込んだ会社の社長令嬢であるという事実が心臓を締め付ける。
 何もできないまま、時間だけが過ぎていく。
 このまま、自然消滅してしまうのかと思っていたとき、ハクバイ自動車のリコール問題に動きがあった。
 それは、スマートフォンのニュースアプリからの通知から始まった。

──
 【速報】ハクバイ自動車のリコール問題、部品調達の指示は梅岡泰彰(やすあき)社長によるものという内部告発
──

 自室のベッドに寝そべって、動画アプリのお笑いチャンネルを見ても笑えずに白けていた俺は、その通知を見て凍りついた。
 うるさい漫才を指で飛ばし、通知をタップする。
 内容は、ほぼタイトルのとおりだった。情報量は少ない。
 ハクバイ自動車のリコールの原因となった欠陥のある部品調達と差額の取得は、俺の親父の仕業とされていた。しかし、調達部長である親父の目を欺いて欠陥品を注文し、私腹を肥やしていたのは、ハクバイ自動車社長・梅岡泰彰氏だった。そのような内部告発画あったという記事だった。
 ハクバイ自動車の社長、それはつまり……。
「梅岡先輩の、父親……」
 俺は、その事実にスマートフォンを落とす。スマートフォンはベッドにバウンドする。
 俺は頭を抱える。
 つまり、俺の親父は冤罪だった。その罪を着せたのは、真犯人の梅岡社長。梅岡先輩の父親が、俺の親父の名誉を傷つけ、死に追いやった。
 憎い。この梅岡泰彰という男が憎くてたまらない。俺の親父は、どんな無念で死んでいったのだ。
 いつの間にか涙が流れている。
 梅岡先輩は知っていたのだろうか。だとしたら、俺は……。

 翌日も、重い体を引きずって、部活に行く。
 休むことも考えたが、家でじっとしていても、ネガティブな方向にしか思考が回らない。
 速報はマスメディアでも大々的に取り上げられ、母は寝込んでしまった。自分の世話は自分でできると言うので、俺はその言葉に甘えて、部活に向かった。
 体育館の雰囲気は、異様だった。その空気の出どころは男子バスケ部ではない。女子バスケ部だ。
 梅岡先輩は部活に出ていた。
 しかし、「いないもの」とされていた。
 誰かに話しかけても無視。
 パスを出そうとすると全員が顔を背ける。
 ミスをすれば小さく意地悪な笑いが起きる。
「おい、女バス大丈夫かよ」
「まぁ、気持ちはわからんでもないけどさ」
「でも、梅岡自身は悪くないだろ」
「そうは言っても、梅岡の親父の悪事で車に欠陥が出て、事故で人も死んでいるんだぜ」
 男子バスケ部の先輩たちも、女子バスケ部を気にしながら、ヒソヒソと話している。
「おい、大丈夫か。あれ」
 前原にそう問われても、俺は答えられず、黙々と練習メニューをこなしていた。
 練習時間も残り半分といったところだった。
 男子バスケ部は休憩中で、俺は女子バスケ部の様子が気になって仕方がない。女子バスケ部は、順にシュートを打っていく練習をしていた。
 梅岡先輩の番になったとき、その後ろにいた二年生の女子部員が足を出した。梅岡先輩は、その足につまずいて派手に転ぶ。鈍い音がした。
 俺は思わず立ち上がる。そして、聞き逃さかなかった。その足をかけた二年生女子は、こう言った。
「殺人犯の娘のくせに」
 梅岡先輩は倒れたまま、その女子を怯えた目で見つめていた。
 俺は思わず走り出す。
「梅岡先輩!」
 先輩に手を差し伸べて、細い手首を掴む。先輩が立ち上がったのを確認すると、俺は一目散に駆け出した。
「おい! 早瀬! 何やってるんだ!」
 誰かが叫んでいるが、俺は振り返らない。屋内用のバスケットシューズで、外を走っていく。
「早瀬くん……」
 梅岡先輩の涙声が後ろから聞こえてくる。それにすら答えず、俺は先輩の手を引いて、ただ夏の空の下を走った。

 部室棟の裏にたどり着いた。
 急に走ったせいで、俺も梅岡先輩も息が切れている。
「ちょ……ベンチに座りましょう……」
「うん……」
 しばらく話せていなかったことも忘れて、俺は先輩をベンチに誘導した。
 二人で汗をかきながら並んで座り、息を整える。三分ほど経って、ようやく話せる程度の余裕ができた。
「なんで……助けてくれたの……」
 先に口を開いたのは、梅岡先輩だった。
「助けられたのか、わかりませんが。ただ逃げただけかも」
「茶化さないで」
 梅岡先輩は、泣いていた。
「なんで……なんで、わたしなんかを助けたの……」
 泣き顔すら可愛いと思ってしまう俺は、心底この人に惚れているのだろう。先輩の涙は止まらない。
「わたしは知らなかった。でも、わたしの父が、あなたの……早瀬くんのお父さんを殺したようなものなのに……」
 俺は目を伏せる。
「そう、ですね。ニュース見ました。本当は不正をしていたのは、梅岡先輩のお父さんだって」
「そうよ!」
 先輩は立ち上がる。
「わたしの父が自分でやった不正を! あなたのお父さんにかぶせて、会社をクビにして、自殺にまで追い込んだの! わたしはそんな男の娘なのよ!」
 俺もゆっくりと立ち上がり、先輩と向き合う。そして、梅岡先輩を抱きしめた。
「汗臭くてすみません」
「なんで……」
 先輩は、しゃくりをあげて泣いている。子供のようで、思わずあやすように背をなでる。
「俺も、正直混乱しています。俺の母親は、あまりのことに寝込んています。親父が残した遺書の言葉は本当だった。親父は冤罪だった。俺は、親父の名誉を傷つけ、死ぬまで追い詰めたやつが憎くてしかたない」
 先輩が俺の腕から逃げようと、身をよじらせる。
「それなら、もう離して! 早瀬くんとはもう、一緒にいられない!」
「好きです。先輩」
 先輩の動きが止まった。
「きっと、先輩から離れるのが正しいんだって、わかっています。でも、俺、どうしても先輩のことが好きなんです」
「でも!」
「先輩は、梅岡泰彰さんじゃないです。梅岡美織さんです」
 俺は、腕をゆるめる。先輩は少し見上げる形で、俺の目を見つめる。
「でも……」
「先輩、さっきから、『でも』しか言っていない」
 俺が笑うと、梅岡先輩の頬に朱色が差した。
「ねぇ、先輩。俺、先輩のこと、どうしても好きなんです。たとえ先輩のお父さんが俺の親父を死に追いやっても……どうしても好きなんです。どうしようもないんです」
 俺の目にも涙がたまってくる。泣きたくなんてないのに。
「先輩。俺たち、親とは別の人間じゃないですか。好きなんです。それだけじゃ、だめですか?」
 先輩は、俺に抱きついた。大声で泣き出す。
「ごめんね! ごめんね! もうわたし、どうして良いかわからないの!」
 ああ、届かないのか。俺の想いは。親を殺された憎しみすら越えた恋は。
「でも、わたしも早瀬くんが好きなの! 離れたくない! 離れなきゃいけないのに……ごめんね! 自分勝手で!」
 その言葉通り、梅岡先輩は俺をきつく抱きしめる。
 俺は選んだ。心の底から湧き上がってくる怨嗟ではなく、心を包む恋心を選んだ。
 この人を憎んで何が変わるのか。何も変わらない。でも、この人を愛して変わるものは、あるかもしれない。
 母は納得しないかもしれない。誰にも祝福されないかもしれない。
 それでも、その恋が、俺の恋だ。
「……好きです。美織さん」
 先輩は、ぱっと顔を上げる。
「名前……」
 俺は今さら照れくさくなって、そっぽを向く。
「言っといて照れないでよ!」
 先輩は目に涙をためながら笑った。
「やっぱ、美織さんは笑顔が最高です」
「あ、ちゃんと言った!」
「ちゃんと言いました」
 俺は、先輩の背と後頭部に手を回す。
 そして、唇を落とした。

 俺は先輩を恨めなかった。恨みきれなかった。
 どうしようもない恋心を止められなかった。
 俺はこの優しい人が傷つかないように、守っていきたいと思ってしまう。

〈了〉