十五歳になると視えなくなると言われている、あやかしたち。

 そのタイムリミットは、今日の深夜零時。

 これまであんなに苦労してきたのに、なんだか。

「寂しさを感じちゃう?」

 勉強机の上に広げた問題集と格闘していると、後ろから茶々を入れてきた。不満が表に出ないように無表情を頑張って装う。だが、彼の前では難しいかもしれない。

「陽狐」

 後ろを振り向くと黄金色の長い髪を一つにまとめた男――陽狐は、にんまりと笑ってベッドの上に座っていた。この暑い季節でも黒色ハイネックニットを愛用しているあやかしを視て、悠斗ゆうとは首をさすった。悠斗の心の内を知ってか知らずか、陽狐は鼻先で笑った。

「隠すの、下手すぎぃ」
「うるさい」

 悠斗はじろりと冷たい目で陽狐を見る。
 血筋のせいか物心がつく頃には、あやかしを視ることができる体質で生活をしてきた。それを呪ったことは一度や二度じゃない。

 悠斗の家系は平安時代から先は少し有名な陰陽師一族だった。しかも、契約を結んだあやかしと協力するタイプの珍しい陰陽師一族である。

 あやかしと契約するとは邪道とも言われたが、あやかしたちでしか知りえない情報や知識もあることから、互いに合意できた場合のみ、あやかしは契約者の名をどこかに刻むと祖父母から聞いたことがある。実際に祖父母のあやかしも普段見えないところに祖父母の名前が刻まれているのを祖母から教えてもらったことがある。

 しかし、陰陽師一族である悠斗家族や親戚たちも、時代の変化に追随するように、令和の今では普通のサラリーマン家庭になっていった。祖父母は神社で神主と巫女をしているが、共働きの両親は年末・正月・結婚式以外は手伝うこともない。

「なあなあ、今日こそ遊びにいこーよ」

 ベッドの上で手足をばたつかせて、不満を隠すこともせずに訴えている陽狐をみて、悠斗は目を眇めた。このあやかし、陽狐は、悠斗が物心ついたころから悠斗の周りをうろちょろしている、はぐれあやかしだ。いつも暇なのか、悠斗をからかうのが楽しいのか、常に一緒にいる状態だ。正直、ウザい。

「……勉強が終わったら」
「終わらないヤツじゃんか。だって、受験生だろ」
「受験生こそ、勉強しなきゃいけないんだよ」

 来年の三月に控えている高校受験。この夏を頑張れない奴は、受験を制することができないと塾講師に耳にタコができるほど言われているくらい今は大切な夏休みだ。

 それを陽狐の誘いで遊ばないようにするだけではなく、何より怪異に巻き込まれないようにしなければならない。怪異に巻き込まれれば、速やかに解決するようにと祖父母から式神で命令のが、日常になってしまった。
 悠斗には五つ上の姉がいるが、あやかしを視えることができなくなってからは、怪異に関わることも皆無になった。早くそんな日々にならないかと思って、今日まで過ごしてきた。

 だけど、そんな理不尽に対する我慢も今日まで。
 十五歳になればあやかしは視えなくなる。両親もそうだったと聞いている。あと少しの我慢だ。

「でもさぁ、一緒にいられるのは今日が最後かもしれないだろ?」

 勉強しているのもお構いなしに、陽狐は悠斗の肩を揺らしてくる。おかげで勉強に集中もできやしない。
 外は夏真っただ中というのを体現しているかのような日差し。湿度も相まって、クーラーをかけないと室内でさえ熱中症になってもおかしくない。
 陽狐は、あやかしのクセに、昼も夜もずっと悠斗の近くにいる。きりっとした釣り目はいつも人をからかっているような表情を宿していた。

「正確には、あと十四時間くらいだ」
「だったらさぁ、最後の夏を一緒に遊ぼーよ」
「断る」
「もう二度と遊べないかもしれないだろ。そしたら、寂しいだろ」
「別に」
「オレは寂しいんだけどなぁ」
「だから?」
「今日だけだからさぁ」

 口を尖らした陽狐の顔は、小さい子どもが駄々を捏ねているみたいにしか見えない。こうなった陽狐は折れない。自分の要望が通るまで四六時中このままなのは、経験上わかっている。そして、悠斗自身がこんな環境で勉強に集中できないのも。

 頭の中で、この状態を続けさせるか否かを天秤にかけると、あっという間に陽狐を静かにさせる。悠斗は、ため息を吐きながら持っていたシャーペンを机に叩きつけるように置いた。

「静かにしろよ。集中できないだろ」
「そんな態度とって良いのか?」
「は?」

 片眉を上げて煽るような言い方をした陽狐を睨みつける。悠斗が怒っているのを面白い物でも見るかのように陽狐は見ていた。

「オレがいないとなぁんもできないだろ、悠斗は」
「そんなことないだろ」
「いいや、あるね。これまでの怪異事件を解決してきたのは殆どオレなんだから」
「あれは」

 祖父母の命令により、そうやって解決するしかなかったから。
 噛みつくように反論したくなるのをぐっとこらえる。目の前にいるあやかしに言ったところで無意味だ。気分屋でわがままなコイツにそんなことは関係ない。

 こつん。

 窓に何かがぶつかった音がした。それも一回や二回じゃない。
 レースのカーテンをめくると、見慣れた鳥型の式神が窓にぶつかっていた。薄く窓を開けると、すぐさま部屋の中に入ってきた。くるくるっと宙を舞った式神は、ポンと音を立てて白い短冊になる。
 達筆な筆字で書かれた短冊を読んだ時、悠斗は思わず口をきゅっと一文字に結んだ。

「ほら見ろ。ばあちゃんも、オレのことをよーくわかってくれてるじゃん」

 手元を覗き込んできた陽狐は、悠斗の肩に顎を乗せる。

 短冊には一言『陽狐と遊んできなさい』とだけ書かれていた。まるでこちらの様子が見えているかのようだ。

 喉の奥でぐっと言葉をこらえてから、くしゃくしゃに短冊を丸めてごみ箱に力いっぱい投げ捨てた。短冊が投げ込まれたごみ箱を睨みつけ、深くため息を吐く。祖母の指示に反旗を翻すと、その後がめ面倒なことになるは火を見るよりも明らかだ。しばらく考えてから、悠斗は問題集とノートをまとめて乱暴に閉じる。

「……どこ行くんだ?」
「アイス屋!」
「どこのだよ」
「あそこだよ、あそこ。去年学校帰りに寄った、たぬき女将の」
「……あそこか」

 学校から家までの帰り道にある一つの古びた神社の脇道を入って行くと、竹林がある。竹林の歩道を十分くらい歩くと見えてくる昔ながらの駄菓子屋が現れる。そこは、たぬきのあやかしが人間に化けて営んでいる。人間に化けるのが上手すぎるせいで、あやかしが視える人間でも疑うことはほとんどない。悠斗も最初は気づかなかったが、陽狐がこそっと教えてくれたのだ。

「あそこのアイスが良いんだよ」
「はいはい」

 コート掛けにかけていたショルダーバッグを手に取り、帽子を深く被る。横目で陽狐を見ると、鼻歌を歌っていた。僅かな苛立ちを抱えながら、階段を下りて、リビングを覗いてみたが、共働きの両親は、今日もいない。

 外に出ると容赦ない暑さにすぐに家から出たことを後悔した。祖母の指示を無視することができずに、悠斗はショルダーバッグを肩から掛けて、目的に向かってゆるゆると歩き出した。

「今日はストロベリーあるかなぁ。ソーダ味も捨てがたい。そう言えば、悠斗は何にするんだ?」

 浮かれている陽狐の問いを無視して歩く。

 外にいる時は、他の人に視えないものと会話すべからず。

 周りに人がいなくても、それは徹底している。うっかり返事をしたときに、周りに人がいようものなら、変人を見るようなで見られることに違いない。

 だからこういう時は、ひたすら聞き流すに限る。

「なぁなぁ、無視すんなよぉ。今日くらいは良いだろ」

 聞き流すのさえも難しいくらいしつこく話しかけてくる陽狐の話に耳を塞ぎたくなるのを我慢しながら、なんとか無視し続ける。今日は陽炎が見えるくらい暑いからか、不思議と人とすれ違わない。高温注意報が出ている真昼間に歩くのは、社会人か遊び歩いている奴くらいなのかもしれない。悠斗は汗が額から流れる汗を腕で拭った。
 大通りに出ても思ったよりも車も少なかった。腕時計をちらりと見るとちょうどバスが通っても良さそうな時間だが、バスが走る音もしない。

「……まさかな」

 頭の片隅に嫌な予感がよぎった。

 偶然だ。

 そんな言葉で片付けたくなったが、幾度となく直面してきた怪異とあまりにも似すぎている。

「ねぇねぇ、悠斗、気づいてる?」
「……うるさい」

 陽狐が言わんことはわかっている。悠斗は立ち止って耳をすますと、足音が一つだけなのがはっきりとわかった。風の音さえしない。暑いのに、何故か悠斗の背筋に少しだけ寒気が走った。

――キタキタ、ヒトノコ

 金属音が混じったかのような音が耳に入ってくる。明らかに人間の声ではない。

「持ってきた?」

 こそっと耳元で陽狐が問うてきた。何を、と聞くまでもない。
 ポケットの中にあるはずのお守りを探すが、ポケットの中は空だった。舌打ちをしながら、目だけでちらりと辺りを見渡す。ここではっきりと反応してはいけない。相手を調子づかせるだけだ。

――メンドクサイナ。キツネガイル

 陽狐に注意が向いたのを良いことに、悠斗は神社に向かって走り出す。走れば五分もかからないはずだ。

――ニゲタ

 ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。

 後ろから、到底足音とは思えない音がすぐ後ろまで追ってきた。

 振り向くな。振り向けば捕まる。

 幼少期にしていた鬼ごっこを想起させる状態だが、これはそんなかわいいものではない。

「足速くなったなぁ、悠斗」

 こんな時に余裕綽々な声で褒める陽狐に、悠斗は眉をひそめた。

「こんな雑魚でさえ、前はすぐに追いつかれたってのに」

 いつの時の話だ。

「泣きだしたこともあったよな」

 うるさい。黙れ。

 陽狐を怒鳴りつけたくなるが、ぐっと言葉を飲み込む。代わりに少しずつ息が上がってきた。

「そう言えば、あの時はおもらしも」
「うるせぇっ」

 あっと気づいたが、既に後の祭り。陽狐の言葉に思わず反応してしまった。

――ミエルラシイナ

 悠斗が見えたことに気づいた声の主は、すぅっと姿を現した。黒く濃い靄で覆われているせいで体まで視えない。だが、どう見ても人間界には存在していないのは明らかな姿だった。

 腹を括った悠斗は、肩で息を吐きながら辺りを見渡す。先ほどまでの燦々とした太陽も、澄みきった青空もなくなっていた。代わりに、不気味なほどの赤い空と、黒い太陽があった。悠斗は息を整えながら、しっかりと黒い靄を見る。本体がどれかは全く分からなかった。だが、靄から目を反らさずに、一歩だけ下がる。

 あやかし相手に一瞬たりとも油断をしてはいけない。その瞬間に食われる、と祖母から教えられていた。悠斗は右手で顎に流れて来る汗をぬぐいつつ、頭を悩ませていた。それを知ってか知らずか、陽狐が悠斗の後ろで声を上げて笑っていた。

「ばかだなぁ、悠斗は。黙ってれば良かったのにさ」
「そもそもお前が話しかけてくるから」
「というか、コレどうすんの?」
「どうと言われても」

 残念ながら悠斗にこの場を乗り越える技術は持ち合わせていない。、バッグの中は、財布とスマホだけ。通学用のリュックだったら、祖父母が持たせてくれていた呪符とか形代とかを入れてあったのに。何より最後の最後に巻き込まれるとは、とことんついていないらしい。己の運の悪さに、悠斗は自嘲気味に口角を上げる。
 相手も油断している様子はなく、隙を見て逃げ出すこともできなさそうだ。

「お前は何も持ってないのか?」
「軟弱な人間とは違うのよ、オレは」
「悪かったな、軟弱で」
「それにさぁ、最後くらいは、思いっきり暴れたいわけよ、オレも」
「わざとか?」
「何が?」

 それ以上何を聞いてもはぐらかされるに決まってる。陽狐はそういうあやかしだ。

「このまま、ずっと大人しくしていました、というのはオレに似合わないだろ?」

 あやかし、と一言でまとめても、善と悪がある。
 契約を結び、仲間になればその力の恩恵を受けることができる。祖父母はそうしてこの地域随一の陰陽師となった。

 一方の自分は、ただ祖父母から守られるだけの孫だ。陽狐は、たまたま悠斗を気に入って近くにいるだけのあやかし。契約なんてしていない。いつ裏切られるかもわからないヤツに背中を預けるほどの度胸はない。
 目を反らしたなんて意識もしてなかったのに、急に足元をすくわれ、体勢を崩してしまった。

 やばい。一瞬の隙をつかれた。

 靄の中から鎌のようなものが伸びて来て、素早く悠斗の首を狙ってくる。
 絶体絶命とは、このことか。目を瞑り、悠斗は覚悟を決めた。もう少し陽狐に優しくしてあげれば良かったとは……思わない。

「何してんのさ?」

 ちらりと見上げると、ふわっと体が何かに持ち上げられた。目をそっと開けると、さっきまでいたところには、鎌が行き場を失ったかのように地面に刺さっていた。どうやら難を逃れることができたようだ。

「陽狐」
「なぁに驚いてんだよ」

 陽狐は、にやっと歯を見せて笑った。どうしてこのあやかしが自分を守ってくれるような奴なのか、悠斗は未だに理解できなかった。

「お前、俺と契約をしてないだろ」
「そうかな?」

 とぼけたように言う陽狐を問い詰めようしたが、やめた。今は目の前の怪異を解決しなければ、自分の命でさえ危ない。それに、いつまでも姫のように抱き上げられていたい気はない。半ば無理やり陽狐の腕から降りて、靄を睨みつけた。

「何か方法はあるのか?」

 陽狐は、肩に手を置いて悠斗に問う。悠斗は黙ったまま首を振った。これまでは、祖父母がもたせてくれていた呪符とか形代とかで逃れていた。だが、今はそれがない。絶体絶命のこの状況に、背中に冷たい汗が流れるのを悠斗は感じた。

「そう思いつめるなよ、何のためにこのオレがいると思ってんの?」
「……遊びがいあるやつだから?」
「この期に及んで、その反応かよ」

 肩をすくめて、陽狐は悠斗の一歩前を出る。目線を上げると、陽狐の横顔がいつも通り笑っていた。

 こんな状態で、なぜ笑っていられる。

 悠斗は黙って陽狐が何をするかを見ることにした。陽狐は一歩ずつ相手に近づいていく。

「おまえさぁ、オレがいると知っての狼藉か?」

 聞いたことが無いほどの声を低くしていった陽狐は、ぱちんと指音をはっきりと鳴らした。次の瞬間には、渦巻いていた靄がぴたりと止まった。

――マサカ

 少しだけ焦っている声が靄から聞こえてきた。相手の動揺した気配が分かった陽狐はくくっと喉を鳴らしていた。

「ようやく気付いたようだが、遅い」

 陽狐がもう一度の指で音を鳴らすと、目の前の靄に一か所だけ大きな穴が空いた。穴の向こうには、いつもと変わらぬ景色が見えた。

――ヌウ……

 痛みをこらえるかのようなくぐもった声。靄がぐにゃりと揺れ動き始めた。

「なあ、最後はどうしたい?」

 相手をいたぶるのを心底楽しんでいるのが良く分かる声に悠斗は心臓を掴まれた気がした。
 後ろからしか陽狐の様子を知ることができないが、後ろにいてもこれまで感じたことが無いほどのプレッシャーを感じる。これまでへらへらしていた顔しか知らない。
 今更ながら、陽狐のことを何も知らないと気づかされた。こいつにこんな姿があるとは。

「痛みがない方が良いよなぁ?」

 右手を高く掲げ、指音を鳴らす準備をした。その動作に靄が激しく揺れ動く。動揺しているのは間違いない。次に陽狐があの指が音を鳴らすとき、そこにあるのはどんな景色なのかを容易に想像させられた。人に害を及ぼす以上、祓う必要があるのは理解していた。目の前に広がる靄も同じだから、陽狐は間違ったことをしていない。だが、陽狐が暴走し、攻撃の矛先が自分に向けられたらと思うと悠斗は更に胸を締め付けられる気がした。

「そんな不安な顔をするな、悠斗」
「え?」

 掲げた右手で、指音を大きく鳴らすと、一瞬前までいた靄があっという間に消え去った。

「いやー久々に大技使うと、疲れるねぇ」

 首を鳴らしながら、腕を回している。その姿はさっきまでの物々しい雰囲気は欠片もなくなっていた。いつものお調子者の姿に、悠斗はなぜかほっと胸を撫でおろした。

「悠斗が無事で良かったよ」

 陽狐はふっと口元を緩めて笑った。その笑みを見て悠斗はなぜだか胸に寂しさが一瞬だけよぎった。

「……ありがと」

 聞こえるか聞こえないかの小さな声で、悠斗はそう言った。しかし、陽狐には聞こえなかったらしく、首をかしげて悠斗を見ていた。飄々としている陽狐を見て、かすかな苛立ちを覚えて悠斗はそっぽを向いた。

「それよりさ、たぬき女将のアイス、まだあるかな?」
「……さっさと行くぞ」
「お、珍しく奢ってくれるの?」

 陽狐の期待に満ち溢れた問いを無視して、悠斗は店に向かって再び歩き始めた。

 アイスも食べたし、今日の分のノルマ分の勉強もした。夕飯も食べ終えた。最後風呂も入ったら、もう今日も終わりだ。だけど、なんとなく風呂に入る気分になれなかった。
 壁にかかっている時計を見ると針が徐々に十二時に近づいていく。

「なあなあ」

 ベッドの上で横になりながら悠斗がいると、ベッドの脇に立っている陽狐が声をかけてきた。悠斗は目を陽狐に向けた。

「悠斗はどうだった? オレといて」

 なんて答えるのが正解か、わからない。口ごもっていると、クスッと陽狐が笑う声が聞こえた。

「オレは楽しかったよ。最後まで、ありがとうな」

 声だけは明るいが、表情が分からない。部屋の中が暗いせいだと今更気づいた。ベッドから降りて、部屋の入り口にあるスイッチに手を伸ばし、灯りをつけると、そこに陽狐の姿はなかった。

「……陽狐?」

 さっきまでいたはずの陽狐はどこにもいなかった。慌てて時計を見ると、十二時ちょうどになっていた。

「……もうそんな時間だったか」

 悠斗は力なくベッドに座った。ぼんやりと窓の外を見た。星も月も瞬いている。何も変わらない、いつもの夜空だ。
 いなくなれば、せいせいすると思っていたが、違った。胸の中にぽっかり穴が空いてしまった気がした。
 どのくらいそうしていたのか、わからない。

 ふと明日からは塾の夏期講習があることを思い出して、時計を見ることもなく寝ることにした。灯りを消して、ベッドに横になった。クーラーから噴き出してくる風が心地よい。蒸し暑い夏の夜でも、部屋の中は快適だ。
 こんなに静かな夜はいつ以来だろうか。
 部屋の中には、クーラーが冷風を吐きだしている音しか聞こえない。

「静かだな……」

 独り言が静かに闇夜に溶け込んだ。このままだと真っ暗な世界に閉じ込められそうな気がした。悠斗はタオルケットを抱え込んで、無理やり寝ようと枕に顔をうずめる。
 絶対寂しいと感じることは無いはずだった。
 でも、想像していた以上に、胸に押し寄せて来る寂しさに悠斗は何とも言えない感情になった。

(もっとかまってやれば良かったかな)

 いずれ視えなくなるのだから、それくらいしたって良かったかもしれない。いなくなったからこそ気づいてしまった存在感に理解が追いつかない。
 これまでも怪異の調査で何度も助けられたし、助けられたこともあった。契約もしていない相手に良く付き合ってくれたものだ。

 今更後悔しても遅いのはわかっている。

 枕に顔をうずめたまま、眠ることができずに、悠斗は陽狐との思い出をただ振り返っていた。さすがに息苦しくて顔を上げようとした時に、聞きなじみの笑い声が聞こえてきた。

「おーい。そんなんじゃ、窒息するぞ?」

 勢いよく顔を上げると、真ん丸の月をバッグに、窓辺にカッコつけて座っていたのは、よく知っている顔のあやかしだった。

「……陽狐」
「どーもー」

 へらへら笑った顔で悠斗に手を振っている。能天気な笑顔を見て、さっきまで悩んでいたものを返して欲しいくらいに苛立ったが、そこでようやく一つだけ疑問が浮かんだ。

「……なんでいるの?」
「え? だって死んだわけじゃないし」
「なんでお前が視えるんだ?」
「そりゃあ、呪術師の才能があるわけですよ、悠斗には」

 嘘だ、という言葉が口からこぼれ落ちた。

 昨日まで、十五歳になれば、視えなくなると両親にはずっと言われてきた。祖父母のようにずっと視えるのは、類稀なる才能なのだと。両親はその才能はないから、きっと引き継がれることが無いだろうと。

 両親が嘘をついているとは思えない。何故なら、あの二人は嘘が下手だから。

「隔世遺伝って知ってるか?」

 陽狐がいたずらっ子のような笑みを浮かべながら、困惑している悠斗の前に立つ。聞いたこともない言葉に悠斗は首を振った。

「個体の持つ遺伝形質が、その親世代では発現しない。祖父母やそれ以前の世代から世代を飛ばして遺伝しているように見える遺伝現象のこと。つまり?」
「遺伝した……」
「正解」
「で、でも姉ちゃんは視えてないぞ、お前のこと」
「それも、遺伝あるあるだ。つまり偶然、何らかの遺伝的作用により、悠斗には受け継がれたんだ」

 信じたくない話だ。でも、今はそれ以外に理由をつけられない。
 茫然とベッドの上で座っている悠斗の顔の前に手が差し出された。
「これからもよろしく、相棒」

 陽狐の言葉に悠斗は目を瞠った。

「こ、これからも、って」
「そりゃ、お前の式神だし」
「う、噓だ」
「ウソじゃない。お前が四歳くらいか? ちゃんと契約したんだよ、ほら」

 夏でもハイネックを着ていた理由がこの時ようやくわかった。ぐいっと見せられた首筋には、へたくそな字でゆうと、と書かれている。

「保育園に持っていく荷物にはいつも名前が書いてあったからか、お前も真似したんだろ。オレが寝ている隙に血文字で書きやがって」
「血文字?」
「あのとき転んだか何かで、手をケガしていたから、そのまま書いたんだろ。覚えてないのか」

 弱い四歳の出来事を事細かく覚えている十五歳がどのくらいいるんだろうか。少なくとも悠斗には当てはまらない。

「ま、オレもお前を気に入ってたし、相思相愛かと思って受けたんだが」
「相思相愛っ?」
「昔のお前は、オレを見つけては陽狐って呼んでくれたし、保育園の友達よりもオレと遊ぶのを優先していたしな。忘れたか?」
「あ、ああ」
「マジか。お前って結構薄情なんだな」

 陽狐は呆れたように襟を直した。
 あやかしが視えると確かに保育園で言っていたが、それがいつの間にか嘘つき呼ばわりされるようになったのが原因だったのは覚えている。嘘つき呼ばわりされた保育園児は、次第に仲間外れにされていった。
 そして、そのうちこの能力を憎むようになって……。
 今まで全てを無理やり忘れたのかもしれない。自らの意思で。

「そんなお前でも、オレの相棒だからな」

 くしゃっと笑いながら、陽狐は悠斗のベッドに背中を預ける。

「もう寝ようぜ。明日も受験勉強するんだろ」
「……わかってる」

 受け入れるしか道がないのか、明日にでも祖父母に相談することを決めた悠斗は、タオルケットにくるまって再び眠った。
 
 悠斗の健やかな寝息が聞こえてきた頃、陽狐はまだぼんやりと窓から見える夜空を見ていた。

(本当は、お前が手を差し伸べてくれた時に、オレは決めてたんだけどな)

 赤子に付くあやかしで良いものはない。全ては祓われるべきものだ。
 わが孫を危険な目に晒したくない悠斗の祖父母の判断は、恐らく正しい。陽狐もうっかり付いてしまった手前、祓われるのを覚悟していた。

 だが、悠斗だけは違った。

 まだ話すこともできない頃に、悠斗だけが陽狐の手をそっと握ったのだ。そして、満面の笑みを向けた。
 悠斗の笑顔を見た瞬間、陽狐は両手をついて祖父母に頭を下げたのだ。

『十五歳になっても、彼に才があるのならば、命がけで守ります』

 鳩が豆鉄砲でもくらったかのような顔をした祖父母は、自分達の式神にもその場で相談をした。

『恐らく悠斗には才がある。だから、今から命がけで守りなさい。守れない場合は、問答無用です』

 厳しくも揺らがない祖母の言葉に、陽狐はもう一度頭を深く下げた。
 この笑顔を守ることを許されるなら、どんなことがあろうと守る。
 そう心に決めてから、陽狐は悠斗に疎まれながらも、ずっとそばに居続けた。

「それにしても、寝顔は昔から変わんねぇな」

 振り返った視線の先には、寝息と共に健やかな笑顔で眠る悠斗がいた。
 今日も無事で済んだことにほっとしながら、陽狐もベッドに背中を預けながら眠ることにした。