「奈々《なな》に言ったっけ? 俺、彼女と別れたから」
「え? 早すぎ。まだ一ヶ月じゃない」
私は目の前で胡座をかいている男に平然とそう答えながらも、心の中に小さな喜びが芽生えてしまう。
「やっぱキツいなって」
「どういうこと?」
「うーん……」
首を捻っている男の名前は光輝《こうき》で私が密かにずっと想いを寄せている人物だ。
私たちは同じ大学に通っていて同じアウトドアサークルのメンバーなのだが、入学してからずっとただの友達だった。
そんな私と光輝の関係が、ただの友達と呼ばれるモノから変わったのは半年前だ。そのせいで私はこうして深夜に光輝に呼ばれて、光輝の一人暮らしの部屋を訪れている。
「やっぱさー……気持ちないと無理だなって悟った」
その言葉に私の小さな胸はズキンと痛んだ。
「まだ夢香《ゆめか》のこと好きなんだ」
夢香というのは私の親友の名前だ。
「はっきり名前出すなよなー」
肯定と取れる返事をした光輝は煙草を取り出し火をつける。
「ちょっとベランダで吸えば?」
「いいじゃん別に」
「夢香の前では吸ったことなかったくせに」
「タバコ嫌いの夢香に嫌われたくねーもん」
「あっそ」
光輝は半年前まで夢香と付き合っていたが、交際一ヶ月でフラれている。フラれた理由は夢香の方が好きになれなかったから。
「これ一ヶ月縛りの呪いだわ」
「なにそれ。違うと思うけど」
「はいはい。そうですよー、どうせ俺なんて、好きじゃないの。ごめんねって言われた男ですよー」
「あ、夢香にそんなふうに言われたんだ」
「奈々は傷に塩塗り込んでくるタイプだよな」
私が手に持っていた缶チューハイを最後まで呑み干すのを見ながら、光輝がわざとらしく私を睨む。
「はぁ。気持ちってなくす時のがムズいよな」
(それは同感)
そう心の中で相槌を打ちながら私は真逆の言葉を口に吐く。
「私は恋愛とか面倒くて無理」
「あー、フラれたことあるって言ってたっけ?」
(そうだよ。まだ告ってもないけどあんたにね)
「そうだよ。ま……どうでもいいじゃん」
私は缶チューハイのせいで、あやうく口に出しそうになったのをうまくはぐらかす。その時、私のスマホが震えた。
ポップアップ通知に目をやれば、相手は夢香だ。
『明日あいてる? 美味しいイタリアン見つけた』
メッセージと一緒にURLも添付される。
私はスマホを眺めたまま、光輝へと視線を戻した。
「夢香に返事しなくていいのかよ」
「明日、家帰ってからする」
「……俺も夢香とイタリアン行きてー」
「偶然装って来れば?」
「それガチで言ってる?」
「さあ」
「……てか夢香、彼氏できた?」
「知らない」
私は平然と嘘をつく。だってその方が光輝が傷つかないから。
(夢香、一昨日彼氏できたんだよね)
夢香は誰もが振り返るような端正な顔立ちで、黙っていても男が放っておかない上、性格は明るくコミュ力も高い。それでいて裏表のないサッパリした性格で、自分の美貌を鼻にかけたりすることもなく自然体の魅力がある。
そんな夢香の事が私は控えめに言っても大好きだ。夢香といると居心地がよくて、夢香の周りには男女問わずいつも友達で溢れている。所謂、人たらしというやつなんだろう。
ただ、夢香の唯一の欠点とも言えるのが異性関係だと思う。夢香は恋愛において自由奔放で交際は三ヶ月以上長続きしたことがない。
だから半年前に、夢香から光輝の押しに負けて付き合ったと聞いた時は、羨ましさと同時に時間の問題だと思った。
「てか奈々と俺とのこと、夢香知ってんの?」
「言う必要ある?」
私の言葉に光輝が、あははと笑う。
「そう言うとこ、奈々の良いとこって言うか、ラクだわ」
そう、私たちの関係はラクな関係だ。なんだか一人の夜が寂しいときに一晩一緒に過ごすだけ。
私は半年前に夢香にフラれた光輝の話を聞くうちに、お酒の勢いもあり、この恋愛抜きの身体だけというラクな関係に陥ってしまった。
「いこっか」
光輝はそう言うと短くなった煙草を灰皿に押し付け、部屋の電気を消す。
私がベッドに寝転べばすぐに光輝がパーカーを脱ぎ捨て私に口付ける。
この関係が決して恋愛に紐付くことなんてないのに私はやめられない。
「痛かったら言って」
光輝はいつもそう言ってから行為に及ぶ。暗闇の中で私に好きな人を重ねるように優しく抱く。
今夜で終わりにしよう。そう何度も思うのに、抱かれてる間は光輝に愛されてるような気持ちになって、いつか私だけを見てくれるかもしれないなんて、錯覚を起こす。
行為が終わると光輝がいつものように私を覗き込んだ。
「痛くなかった?」
こういうところが夢香といい光輝といい、見た目や言動から推測するよりも憎めない人間だなと思ってしまう。
「光輝いつも聞くけど……別に初めてでもないし、平気だって」
「そっか。喉乾いたよな、水取ってくる」
私は光輝の背中を見ながら、心が痛くて痛くて堪らなくなる。
きっと何度抱かれても、この関係は変わらない。そもそもきっとこの関係は終わりも始まりもない。望むものは何も生まれない。生まれるのはお互いの寂しさを埋めるだけの空虚な時間。
「どーぞ」
「ありがと」
私は光輝からペットボトルを受け取るとキャップを回す。ぶちまけられない想いを全部纏めて飲み干してしまえたらラクなのに。
私は水を飲み終えると毛布に包まる。すぐに光輝も隣に寝転んだ。
ベッド横の窓からは月が見えてなんだか泣き出しそうに見える。
「……なぁ」
「なに?」
「今日で終わりにしよっか」
光輝の言葉に頭が一瞬だけ真っ白になる。
「……別にいいけど」
「…………」
いつもみたいに軽い感じで言えただろうか。
光輝は何も言わない。
会話の空白に耐えきれなくなった私は口を開いた。
「……光輝って意外と女々しいんだね」
「は? そこは真面目とか、誠実、一途あたり言って欲しいけど?」
「誰が?」
「あーあ。奈々には俺の良さわかって貰えてると思ってたけどなぁ」
「馬鹿でしょ」
「うん。まぁ馬鹿もほどほどにしとかないとなって。あとさ……」
光輝は柔らかい前髪を掻き上げながら私をじっと見つめた。初めて見る真面目な光輝の顔に心臓が跳ねる。
私は駆け足になった鼓動を押さえつけるように心にもない言葉を口にする。
「何……? キモいんだけど」
「あはは、ごめん。俺の勘違い」
なんの?と聞きたかったけど私は言葉を飲み込んだ。
どうせ聞いたところで私の欲しい言葉も返事も貰えない。ラクな関係の代償として、身体は繋がっても互いの心の距離はずっと遠くなってしまった。
もうただの友達にも戻れない。
「……あとでいいから俺のLINE消去しといて」
「めんどい」
「じゃあ、俺がやっとく」
「そうして。もう眠い」
「ん、おやすみ奈々」
私は光輝に背を向けてから頬を伝った涙を拭った。
光輝が寝る前に言う、この「おやすみ奈々」という言葉が私はすごく好きだった。
今夜だけじゃなくて、眠る前のたわいのない挨拶を当たり前にできる関係を心の片隅でずっと望んでいたから。
ベッド横の窓から見える月は涙で滲む。私は光輝の寝息が聞こえてくると身体の向きを変え、光輝の寝顔を見つめた。
「……好きだったよ。ずっと」
初めてそう言葉にすれば、心はほんの少しだけ軽くなる。
私は枕横に置いていたスマホを手に取ると、光輝の名前を浮かべた。そして光輝の名前を何度も目でなぞってからLINEを消去する。
スマホから消してもこの想いが消去できる訳じゃない。けれどこうやって明日から好きな気持ちを少しずつ消去していきたい。
恋の終わりに向き合って前を向くために。
また誰かをちゃんと好きになれるように。
──今度は好きな人の好きな人になれるように。
2025.3.5 遊野煌



