「……ここまでしろってわたし言ったかな」
空美ちゃんは引き気味につぶやいた。まあ、それもそのはずだ。家の掃除をしてほしいと言われたわたしは、一日かけて家中をピカピカに磨き上げた。掃除機や雑巾がけはもちろん、窓の汚れ、洗濯物、水回りの汚れエトセトラをすべてやり切ったのだ。個人的にも納得のいく仕上がりだった。
「やり始めたら止まらなくって……」
そして今は、キッチンを借りて紅茶を淹れている。ここにクッキーでもあったら最高だが、材料がないので難しそうだ。
「年末の大掃除じゃないんですから、ここまでする必要はなかったけど……とにかく、今日はありがとうございました。気持ちがすっきりしてきました」
きちんと礼をする姿が、やはり海斗さんに似ている。わたしは完成した紅茶を空美ちゃんに差し出し、彼女の正面に腰を下ろした。
「その気持ち、わかります。掃除した後の部屋って、心がすっきりするような感覚になりますよね」
自分が掃除する側ならなおさらだ。空美ちゃんも、うんうんとうなずき肯定してくれた。
「まあ、家事の中では一二を争うめんどくささはありますけどね」
「でも、結局一番面倒なのは料理じゃない?」
「それ、わかります! 毎日毎日メニュー考えて作らなきゃいけないのって大変ですよね、そのうえ栄養まで考えなきゃいけないなんて……!」
そこからしばらく、家事談議に花が咲いた。話の内容から察するに、どうやらほとんどの家事は空美ちゃんの役目だったらしい。海斗さんの役目は、洗濯物と洗い物だったらしい。なぜかは分からないが、高校生で、勉強が忙しかったからかもしれない。
その話の中で、空美ちゃんが海斗さんの話題を持ち出すことはなかった。それとなく聞いてみたりもしたが、見事にはぐらかされてしまった。
海斗さんがいつ、どうやって亡くなったのかは分からないが、もしかしたら、亡くなってからそんなに経っていないのかもしれない。少なくともひと月半以上は経っているだろうが、それ以上は分からない。
そんな話をしていると、ふとまた、あのにおいが鼻を掠める。ほどなくして、海斗さんがリビングまで入ってきた。無論、空美ちゃんには見えていない。
「……こんなに綺麗だったか?」
開口一番、出た言葉はそれなのか、という突っ込みはするべきだろうか。普通もっと、懐かしいとか言うべきだろうに、と思う。
わたしが視線を向けていることに気づいたのか、海斗さんは軽い会釈をして、
「その、戻りました」
と言った。わたしも軽い会釈をした。
その間も空美ちゃんのマシンガントークは続き、しまいには学校の話に変わっていたが、彼女の気持ちが軽くなるならと、わたしはその話を聞き続けた。時折、海斗さんがばつの悪そうな顔をしていたのは、ここだけの話だ。
それから一時間ほど話し込んだ後、わたしは次回の日時を伝えて見上家を後にした。
駅への道中、周りに誰もいないことを確認して、海斗さんに声をかける。
「どうでしたか? ルートは見つかりそうですか?」
「まだ少し考えている途中です。まあ、無理ではないでしょうが、できるだけ、簡単に行ける道を探します」
「はい、よろしくお願いします」
そこでいったん会話が途切れ、お互い無言で歩く。不意に、「空美はどんな様子でしたか?」と海斗さんは問うてきた。
「思ってたよりも可愛らしくてびっくりしました。海斗さんにそっくりでしたし」
言われ慣れているのか、海斗さんは微妙な反応を見せた。
「……やっぱり、海斗さんのことは何も言いませんでしたね。一瞬だけお兄ちゃんって呼んだんですけど、すぐにごまかされちゃって」
「……」
「でも、マシンガントークができる元気はありそうで安心しました。本当に心が弱っている時に、そんなことなんてできませんから」
「そう、ですよね。それだけは少し安心しました。あの様子だと、空美は美歌さんのことを気に入っているようだったので、すぐにでも心を開いてくれますよ」
本当だろうか、とも思うが、空美ちゃんを一番よく知っている海斗さんが言うのだから、信じてもいいだろう。
「ありがとうございます、これからも頑張りますね」と言って、満面の笑みを作ってみた。
ふと、海斗さんが複雑そうな表情を浮かべていることに気づく。わたしは足を止め、彼の双眸を見据える。
「どうかしましたか?」
「え、あ……」
海斗さんは一瞬動揺するそぶりを見せたが、すぐに、
「なんでもありません。ほら、もうすぐ駅に着きますよ」
と言うだけだった。
初めて見上家を訪れてから早半月、春休みに入ったわたしは、朝から夕方まで空美ちゃんと家事を通して言葉を交わしていった。それだけではなく、何回か彼女と遊びに出かけたこともあった。
初めて見たときよりも素直になった彼女の様子を見ていると、心を開いてくれているんだと思って嬉しくなった。
ちなみに、初日のあの掃除以来、空美ちゃんが稀にわたしを師匠と呼んでいるのを、海斗さんは複雑そうな表情で見ている。どうやら尊敬されてしまったらしい。わたしもお母さんが亡くなってからは家事全般を行っていたので、これに関しては完全に慣れなのだが。空美ちゃん曰く、わたしには家事の才能があるらしい。
「空美、完全に美歌さんに懐いてますね」
ベランダの壁にもたれながら、海斗さんはつぶやいた。「単純すぎて少し心配になるんですが……」と続けて言った。
「まあまあ、いいことじゃないですか」と洗濯物を取り込みながら答えた。この時期は取り込む前に花粉を落とさなければならないから、少し面倒だ。
「俺が死んでから、まだ二か月ちょっとしか経ってないんです。だから最初、もっとふさぎ込んでると思ってました。もしかしたら、玄関を開けることすらしないんじゃないかって……」
「……」やはり、死んでからはそんなに時は経っていないのか。でもそのわりには、空美ちゃんには元気がある気がする。
「ですが、ああやって笑ってくれていて、すごく安心しています。それは、美歌さんのおかげでもあると思うんです」
「ええ、そんな……」
確かに、空美ちゃんが少しでも元気になるようにと思っているが、今の彼女のことを、わたしのおかげというのは、少し言い過ぎではなかろうか。
「謙遜しないでください」と、海斗さんは言う。「あなたの優しさが、空美に届いたんですよ。少なくとも、俺はそう思います」
どこまでも純粋そうな言葉に、わたしの胸中は乱れる。自分にそんなことを言ってもらえるような資格はないと思ってしまう。
この世に生れ落ちることが分かった瞬間から、お母さんを苦しめ続けたわたしに、そんな言葉は似合わないのだと。
だからこそ、この〝優等生〟としての生き方が今は苦痛なのだ。
それなのに、
——海斗さんのその言葉に、泣きたくなるほど嬉しくなってもいるのだ。
彼は風流れる方向をぼんやりと眺めていて、表情を見ることはできない。いったい彼は今、何を思い、何を感じているのか。
分かるはずもないことなのに、考えずにはいられなかった。
三月の最後の週、わたしはまた見上家を訪れていた。今回は海斗さんも一緒に来ていた。今彼は自室におり、リビングで空美ちゃんとふたりきりだった。
仕事が一段落着いたわたしは、空美ちゃんの勉強を見ていた。もはや家庭教師である。
「あー疲れた……」
「一時間集中してたら疲れるよね、いったん休憩しよう」
「はーい」と言いながらペンを置き、ワークを横によけた。わたしもキッチンで紅茶を淹れて、持参したクッキーをお皿に乗せて持って行った。
「わーい! 美歌ちゃんのクッキーだ!」
前まではさん付けだったが、今ではちゃん付けだった。心を許された証拠だ。だからこそ、今日こそは言わなければならないのだ。
「……ねえ、空美ちゃん」
クッキーをつまむ空美ちゃんに、意を決して声をかける。
「ん、なあに?」
「空美ちゃん、初めて会った時、ちょっとだけお兄ちゃんの話をしてたよね」
しん、と耳が痛い沈黙が下りる。怖くて、空美ちゃんの顔が見れなかった。
「それからずっと、そのことが気になってて……それでね、わたし」
「——なんで」
「え」
そこでやっと、空美ちゃんの顔を見ることができた。今にも泣きだしそうな幼い子供が、そこにいる気がした。
「ずっとずっと、考えないようにしてたのに、どうしてそんなこと言うの?」
今にも泣きだしそうな声だった。
「お兄ちゃんが自殺しちゃって、わたし、ずっとずっと自分が嫌で……それで考えないように、思い出さないようにしてたのに……! 思い出させないでよ!」
最後まで言い切るよりも先に、空美ちゃんは滂沱した。必死に重しを乗せて、思い出さないようにしていたことが溢れ、爆発したのだと悟った。ふと、あのにおいが強くなる。海斗さんが近くに来ているのだ。
「……ごめんなさい、今日はもういいから、ひとりにさせてください」
そう言って、空美ちゃんはリビングから出ていく。その際に、海斗さんの体をすり抜けていった。
途端に静かになったリビング。海斗さんはいまいち状況が呑み込めていないのか、呆然と立ち尽くしていた。
わたしもまた、呆然とするほかなかった。
荷物を手に、重たい足取りで駅に向かう。
カードを改札口に通してホームの椅子に腰かける。幸か不幸か、他に人はいなかった。時刻表を調べると、まだ十五分ほど電車は来ないらしい。
誰もいないのをいいことに、わたしは椅子の上でだらけた。
「……一応俺がいますよ」
わたしの心を読まないでもらいたい。本当に読心術がある訳ではないが、いい気分はしなかった。
「……さっきは、何があったんですか?」
しばらく黙り込む。頭の中で状況を整理するためだ。そして、おもむろに口を開き、先ほどのことをすべて話した。
「……そう、だったんですね」海斗さんは、沈痛ともいえるような表情をした。「まさか、俺のせいでそこまで追い詰めていただなんて……」
「空美ちゃん、お兄ちゃんは自殺したって言ってましたけど、どうなんですか?」
彼は最初、転落事故だと言っていたが。
「あの日、トイレに行っていた空美を待っていたんです。その時、俺は柵から少し身を乗り出していて……発作を起こして、そのまま転落してしまったんです。ですが、柵が壊れたわけではなかったので、自殺として片づけられたんです」
警察も案外いい加減である。
——そのせいで、空美ちゃんは自分を責めている。
自分が兄から目を離したせいでああなったのだと。
「でも、今の空美ちゃんの気持ち、わたしには少しわかるんです。大切な人が、自分のせいで死んでしまったっていう絶望」
「え、っと、それは……」
困惑している。でも、彼も薄々感づいているはずなのだ。わたしが何かを隠していることぐらい。
「……聞いてくれる? わたしも、楽になりたいから。その代わり、海斗さんにも自分のことを、話してほしい」
だいぶ我儘なことを言ったつもりだったが、海斗さんは覚悟を決めてくれた。表情からもそれがよくわかる。
「もちろんです。美歌さんが話してくれるなら、俺も話します」
海斗さんは、わたしの隣に腰を下ろした。そしてわたしは語り始める。
わたしを苦しめる、絶望の話を。
わたしは、自分で言うのもなんだが、小学生の時から模範少女だったと思う。
成績は上から数えたほうが早かったし、運動も平均以上にはできた。本を読むのも好きで、生徒会にも入っていた。
そんなわたしは、誰が見ても優等生だった。
でも、ある日を境に、その優等生という肩書きを背負うことがしんどくなった。
きっかけは一年前。祖母が亡くなる前日に渡してきたノートだった。
わたしはずっと、祖母を避けて生きていた。嫌い、とはっきりと言われてしまうのが怖かったからだ。
むかしから祖母には冷たい態度をとられていて、父がそれを窘めるのが、恒例となっていた。そんな中、祖父はわたしにめっぽう甘かった。典型的な孫バカで、家に行くといつも新品の児童書と甘い飲み物が用意されていた。祖母のことは好きにはなれなかったけれど、祖父がいてくれたから、なんと心の平穏を保つことができた。そんな祖父も、母が亡くなる半年前に病気で亡くなったのだった。時が経つにつれ、わたしは祖母の態度を、よくある嫁姑問題だと解釈するようになった。わたしは彼女の孫だが、顔立ちは母似だったから、わたしのことも嫌っているのだろうと。
でも、今思えば、そっちの方が何倍もマシだった。
ある日、わたしはひとりで祖母のお見舞いに行った。普段は父に誘われてしぶしぶついて行っていたのだが、もう彼女が長くないと知り、なけなしの勇気を振り絞ったのだ。
「……お、お祖母ちゃんは、わたしのこと、嫌い……なんだよね?」
たどたどしく尋ねると、祖母はしばらく黙った後、サイドテーブルの引き出しの奥から一冊のノートを取り出した。
驚いた。それは、わたしが宝物のように手元に置いていたお母さんの日記の続きだった。おそらく、わたしが生まれた時のことなどが書かれているであろう、幻の五冊目。
「遺品整理の時に、これだけ抜き取っておいたんだよ。見られたら都合が悪いからねえ……それを見るかはアンタ次第だ。アタシはもう知らんよ」
それが、わたしが聞いた祖母の最後の言葉だった。次の日の早朝、彼女は帰らぬ人となった。
お葬式が終わり、一段落着いた頃、わたしは意を決してその中身を読むことにした。見られたら都合が悪いこと、その真実を知りたかったのだ。
最初の一ページ。それを見た瞬間、わたしの時が止まった。
『二〇〇六年 八月十三日 お義父さんに体を触られた。そして、襲われた。秀太さんはいなかった。怖くて何も言えなかった。これからお盆の間、ずっとここにいなくちゃいけないの? 明日はお義母さんと寝よう、そうしよう』
「……は」
体を触られた、襲われた、それらの言葉が分からないほど、わたしは鈍感でも、純粋でもなかった。
怖くなって、数ページ飛ばしながら読んだ。楽しい話題もないわけではないが、暗く悲痛な内容が圧倒的に多かった。
そして、
『二〇〇六年 十二月一日 病院に行った。生理が来なかったからだ。きっと何かの間違いだと思った。ストレスか、大きな病気だと思った。そうであってほしかった。でも、現実は残酷だった。わたしのお腹には、赤ちゃんがいるらしい。妊娠四か月弱らしい。わたしは病室で卒倒してしまった。駆けつけて来た秀太さんは、わたしを抱きしめて、「心配したよ」と言ってくれた。そして、「子供ができてうれしいよ」と言った。わたしは泣いた。秀太さんは大丈夫だって言ってくれたけど……違う、違うんだよ。もういっそのこと、みんながわたしを最低だと罵ってくれればどれだけいいことか。秀太さん、この子はきっと……あなたの子供じゃないんだよ』
その瞬間、わたしの心が真っ黒な何に満たされて、そしてひび割れ、じわじわとしたたり落ちてゆく。絶望とはこんな感覚なのかと、初めて感じた。
わたしは、不義の子だった? わたしの存在が、お母さんを追い詰めていた?
それ以上に、大好きだった祖父が、母に乱暴していたという事実に、激しい絶望感を感じた。
震える手でページをめくっていく。怖くてしっかりと読むことはできなかった。ただ、お母さんはわたしがお腹の中で育っていくたびに、胸が張り裂けそうになっていた、ということだけは、ひしひしと伝わってきた。
そして、最後のページを見て、わたしは絶叫した。
『二〇一八年 六月二十日 もう無理です。ごめんなさい。大好きな人たちを愛せないわたしが嫌になったんです。さようなら。あなたたちを愛していました』
書かれている日付けは、お母さんの命日だった。
この日記を書いた後、お母さんは赤信号の道路に飛び込んで亡くなった。警察は事故として処理したし、わたし自身もそう思っていた。でも、本当は違った。
お母さんが死んだのはわたしのせい。わたしが生まれたせいで、お母さんは精神を病んで、自ら命を絶ったのだ。
その日から、わたしは自分の存在が気持ち悪くてしょうがなかった。お母さんを苦しめた人の血が流れている事実に、強烈な吐き気を催した。
こんな気持ち悪い存在が、優等生として生きられるだろうか? 無理だった。少なくともわたしは、そんなに強くはなかった。
お母さんを殺し、汚れた血が流れるわたしが、優等生らしく生きて、賞賛されるなんて、あってはならないことだと思った。
それと同時に、わたしはこれまで以上に、幽霊に声をかけるようになった。幽霊は、人の魂を掠め取れる。わたしはそれを知っていた。
だからこそ、幽霊を頼った。源氏物語の夕顔が、怨霊に魂を掠め取られたように、わたしの魂を奪ってこの世から消してもらうために。
わたしを殺してもらうために……。
話し終わった時、自分が泣いていることに気づいた。洟をすすって、涙を止めようとするが、腹の底から渦巻く熱は、わたしの水分を涙として流し続ける。
空美ちゃんの話を聞いたとき、この子はわたしと似てるんだと思った。自分の存在が憎くて憎くて仕方がない。でも、空美ちゃんは思い出さないことによってそれを解決させようとしたのだ。少なくとも、死という選択肢は取らなかった。
——わたしと違って……。
海斗さんは、何も話さない。言葉が見つからないのかもしれない。
彼は前、わたしに「人気者ですね」と言ったのだ。正直、あれも少し堪えた。もしかして、過去の自分の発言を悔いているのだろうか。だとしたら申し訳ない。
「……美歌さんは、自分のような大切な人を傷つけた人間に、生きる価値なんてない。そう思ってるんですよね」
「……」
「でも、俺は一度、あなたに救われたんです」
わたしはぽかんとした。「どういうこと、ですか?」
「あなたはきっと、覚えてないでしょうが……」
海斗さんは、自分のことを滔々と語り始めた。病気こと、空美ちゃんのこと、死んだ日のこと、そして、病院の屋上で、わたしと出会っていたこと……。
「気づかなかった……」
確かに、一度だけ屋上で歌ったことはある。祖母が亡くなる前日だ。だが、その時に出会っていただなんて。
「あの歌を聴いたとき、俺はまたあなたに会いたいと思いました。だから次の通院まで頑張って生きようって……そう思えました」
驚きのあまり、言葉が出ない。わたしは別に、音楽経験者ではない。そんなわたしの歌が、知らないうちに人を救っていただなんて。
「それに、あなたが歌っていなければ、あの雑踏の中で、あなたを見つけることなんてできませんでしたよ。あなたの歌声を知っていたからこそ、俺はあなただと分かったんです」
「そ、そこまでいわなくても……」
もう十分だ。
「美歌さん」海斗さんが真剣な声色で言う。「あなたが優等生でいたくないなら、それでもいいんじゃないんですか? あなたの今の友人は、優等生の皮をかぶってまで付き合いたい人なんですか?」
わたしはハッとした。海斗さんは続ける。
「美歌さんの出自については、あなたは何も悪くないんです。それなのに、なぜあなたがこんなにも傷つかなければならないんですか! あなたも分かっているはずでしょう、自分が納得したいがために、そうやって思い込んでいるだけだってことに」
「あ……?」そんなかすれた声が漏れた。
「俺は……美歌さんが何者であろうとも、あなたを受け入れます。世界の全てがあなたを蔑み嗤っても、俺はずっと味方です」
海斗さんの声が震えている。ほどなくして、その瞳から大粒の涙が流れ始めた。それにつられて、わたしも涙が溢れてくる。
「お願いです、自分を……そんな風に言わないでください。俺まで、辛くなるじゃないですか」
「海斗さん……」
この人は、本当にいい人だ。赤の他人のことでこんなに泣いて、自分まで心を痛めて、どれだけお人好しなんだろうか。
わたしは、おもむろに立ち上がる。「どうしたんですか?」と海斗さんは問う。
「わたし、もう一度空美ちゃんのところに行きます」わたしはゆっくりと、海斗さんの方を向く。「あなたのおかげで、勇気が出たので」
「‥‥‥そうですか」
憑き物が取れたような晴れやかな顔だった。「そういうことなら、俺も行きます」
わたしは荷物を手に、駅を飛び出した。
家まで戻ってきたわたしは、ダメもとで何度もインターホンを鳴らした。五回ほど押して、やっと出てきた空美ちゃんの髪はしっとりと濡れていて、お風呂に入っていたことが分かった。
上気した顔だったが、目が腫れているのが手に取るように分かった。
「空美ちゃん……わたしね」
「ごめんなさい!」
言い切るよりも先に、空美ちゃんが頭を深々と下げてきた。きょとんとしていると、彼女は、
「完全に八つ当たりだった。お兄ちゃんがわたしのせいで死んじゃったって考えたら、辛くて辛くて仕方がなくて、もう思い出したくもなくて……」
引いていたであろう涙が、空美ちゃんの瞳からまた溢れてくる。
「でも、美歌ちゃんが思い出させてくれて、わたし、思ったの。お兄ちゃんのことを忘れちゃったら、本当の意味でお兄ちゃんは死んじゃうんだって……だからわたし、もう逃げないって決めたんだ」
「‥‥‥」
やっぱり、空美ちゃんはすごい。
確かに、その通りだった。どんなにこの世に未練が残っていたとしても、人から忘れられた幽霊は、この世に存在できない。人は忘れられた時、本当の意味で死ぬのだ。
それにしても、彼女の覚悟は賞賛に値する。わたしがもし彼女の立場なら、すぐにでも自殺していただろうから。
「ううん、いいんだよ、いいんだよ……!」
わたしは空美ちゃんを抱きしめる。温かくて、小さな体だった。
「……美歌ちゃん、わたしのこと、嫌いになってないよね?」
「もちろん」
嫌いになっていたら、そもそも戻ってこない。そう伝えると、空美ちゃんは慟哭した。
わたしもつられて号泣する。
後ろで微かに、海斗さんが洟をすする音もした。
♢
瓦町駅から志度線に乗り換えて、琴電屋島駅で降りる。そこからはバスに乗って山頂まで向かう。移動中、なんとなく喋りたくなくて、窓の外をぼんやりと眺めていた。
三月も終盤に差し掛かり、暖かい日が増えてきた今日、わたしは海斗さんと共に屋島を訪れていた。無論、海斗さんの遺品を回収するためである。つまり、わたしの命日になる日だ。父とは、今朝仕事に行く前に言葉をひと言ふた言交わしただけだったが、悔いはなかった。
「こっちです、ここからなら下に行けます」
といいながら藪を指差した。目を凝らしてその先を見ると、確かにわずかな獣道が見えた。言われなかったらまず気づかなかった。よく気づいたな、と感心した。海斗さんに促されるがまま、道無き道を下っていく。
ちらりと海斗さんの顔を見る。難しそうな顔をしていた。
——この関係も今日で終わりか。
そう思うと、感慨深いものがあった。三月の頭から始まったこの関係、終わらせてしまうのは寂しいが、どっちにしろわたしも死ぬのだ。そしてらまた、死後の世界で彼と再会すればいい。どうせ時間は無限にあるのだから。
そして、目的の場所まで辿り着いた。真上に例の柵がある。
「ここです、ここ」そう指さす先には複雑に絡んだ茶色い蔦がある。その中に、ミント色の何かが見えた。これか、と思い、わたしはそれらをかき分け、思い切り手を伸ばした。なんとか絡め取り、ゆっくりと手繰り寄せた。
「あ……った、これで合ってる?」
ミント色の袋。口には白いリボンがついている。長時間雨風にさらされたことによって少し汚れてはいるが、袋の素材を見る限り、中身は無事だろう。
「はい、これです!」
海斗さんは声高々に言った。ようやく見つけてもらえて、テンションが上がっているらしい。
「ありがとう、ありがとうございます……!」
「まだ喜ぶのは早いですよ。これからこれを渡しにいかないといけませんから」
「で、ですね……」
そう言って苦笑する。ずっと思っていたが、彼は気持ちがはやると突っ走ってしまうタイプなのだろうか。そんなところも可愛らしく見える。
「さて、じゃあ空美ちゃんのところに行きましょう。というか、急いでいかないと約束の時間の時間に遅れちゃうから」
ここからだと、見上家までは二時間近くかかるのだ。
「そ、そういえばそうですね。では、急ぎましょう」
わたしはうなずき、元来た道を戻る。海斗さんの顔を再度見た時、今度は少し、寂しそうな顔をしていた。
それを最後に、あの甘い香りが消失した。
空美ちゃんに海斗さんの遺品を手渡すと、彼女はまるで珍しいものを見るかのように観察していた。
いつも通り仕事をして、話し込んで、すっかり日も傾いた頃。窓から風を取り込んだリビングで、わたしは海斗さんから預かったプレゼントを渡した。
「えっと、これは……」
空美ちゃんは困惑している。
「実は、これを海斗さんから預かっていたんです」
「え」
驚いた表情をしている。当然だ。
「うん、もし空美ちゃんの卒業まで生きられなかったら渡しておいて欲しいって言われてたんです。ごめんね、ずっと黙ってて」
「ううん、それはいいんだけど……美歌ちゃんって、お兄ちゃんの知り合いだったの?」
「えっとね……」わたしは海斗さんとの出会いについては、病院で偶然知り合い、同年代だったこともあり仲良くなった、ということにした。一応わたしたちは病院で一度会っていたようなので、嘘はついていない。
「そうだったんだねえ……」
窓の外に視線を向け、その瞳を細めた。網戸から入ってきた風が、その髪を揺らした。そんな姿もよく映える。
「……美歌ちゃん」
「ん?」
「春休みが終わっても、たまには遊びに来てね。待ってるから」
「……」答えられなかった。これからわたしは、海斗さんと共に死ぬのだから。彼と共に、死後の世界へ……。
——あれ。
ふと気づいた。あの甘いにおいがしない。この一ヶ月の間、ところ構わず香っていたので気づかなかった。そういえば、瓦町駅を降りたあたりから、海斗さんの声が聞こえない。
総身が冷える思いがした。
いてもいられなくなって立ち上がる。
「ごめん、今日はもう帰るね」
そう言い残し、わたしは家を飛び出した。後ろから空美ちゃんの声が聞こえたが、構っている余裕はなかった。
「海斗さん! 海斗さん……!」
叫んだ、叫び続けた。喉が裂けるほどに、声が出せなくなるほどに。だが、海斗さんの声を聞くことは叶わなかった。
海斗さんと、あの幽霊特有のにおいの消失。そこから真っ先に考えられることは、たったひとつだ。
——海斗さんが、成仏してしまった?
♢
まるで、本物の幽霊になったような気分だった。そうだとしたら、どれだけよかったのだろうか。閑散とした端岡駅のホームで、ひとり考えた。
海斗さんの姿が見えない。あのにおいもない。どこにいるのかわからない。彼は幽霊だ。生きた友達のように連絡は取れないし、誰かに頼んで探してもらうこともできない。
わたしの知らないところで、海斗さんはもう成仏してしまったのだのだろうか。彼の未練が晴らされた今、無意識のうちに成仏してしまっていてもおかしくはないのかもしれない。あの日、学校で出会った幽霊のように。
あの時、わたしが感じたのは、間違いなく失望感だった。今回もだめだった、次こそは、という気持ち。
だが、今回はまるで違った。彼が成仏したことに失望なんてしていない。ただ、強い喪失感を覚えた。わたしの魂の一部を形成していた何かが、ごっそりと抜け落ちてしまった、そんな感覚があった。
「……ふふっ、変だなあ」
最初、海斗さんからの頼み事は、人生最後の親切のつもりだった。死後くらい楽になれますようにという下心だった。しかし、海斗さんがわたしのために泣いてくれた時、『俺は……美歌さんが何者であろうとも、あなたを受け入れます』——そう言った時、わたしは彼の意思がこもった瞳と声に、息を呑んだ。有り体に言えば、わたしはきっと、あの時海斗さんに惚れたのだ。
始まった時からすでに終わっていた恋とは、まさにこのことだ。相手に忘れえぬ人がいたとか、そういう話ではない。そもそも相手が儚くなった——死んだ人だったのだ。
——もう全て、終わらせてしまおうか。
そうだ。最初からわたしは、生き続けるつもりはなかったのだ。海斗さんが成仏しようがしまいが関係ない。むしろ、冷静な判断力が消失し、完全に崩壊した心のまま、生き続けることができるはずがない。
それに、死後の世界にはきっと、海斗さんがいる。怖いことなんて何ひとつない。
そんな決心をしたわたしに、神様は味方してくれた。快速電車の通過を告げるアナウンスが流れた。わたしの身体は、自身の意思とは関係なく椅子から腰を上げ、ふらりと線路の方へと向かってゆく。もうすぐだ、もうすぐわたしは楽になれる。
そして線路の先から電車が向かってくる。ただの移動手段でしかなかったそれが、これからわたしの救世主になる。そう考えると何か笑えてくる。
「海斗さん……」
——大好きでした。
もし、こんなわたしでも、あなたと同じところに行けたのなら、わたしを永遠の花嫁にしてください。
その想いを胸に、わたしはその汚れきった身を投げた。
「ありがとうございました」
診察してくれた先生に頭を下げ、診察室を後にした。足が痛くて歩きにくかったが、自業自得だった。
「あの、大丈夫だった?」
待合室で待っていた空美ちゃんが駆け寄ってきた。
「うん、ただの打撲と捻挫で、骨は大丈夫だから」と報告すると、空美ちゃんはホッとしたように胸を撫で下ろした。
「ごめんね、わたしのせいで……」
「……ううん、いいんだよ。だって、空美ちゃんがいなかったらわたし、あのまま死んでたんだよ」
わたしはあの時、快速電車が通過する線路に飛び込んだ——いや、実際は飛び込めなかった。
身を投げようとした瞬間、後を追っていた空美ちゃんに腕を掴まれたのだ。そしてそのまま、ホームへと引きずり戻された。突然のことで、困惑するわたしをよそに、空美ちゃんは言葉にならない声を漏らして泣いていた。騒ぎを聞きつけた他のお客さんや駅員さんに送ってもらい、今は近くの病院に来ていた。
「あの後、美歌ちゃんが荷物を忘れてたのに気づいて、急いで追いかけたら、なんだか今にも死にそうな背中で……気づいたら身体が動いてた」
滔々と言うが、実際に行動に移せるのは相当すごいと思う。もしかしたら、警察官とかに向いているのかもしれないと思った。
「とにかく……生きててくれてよかった。わたし、美歌ちゃんまで失いたくないよ」
そう言って、わたしの腕に擦り寄ってきた。その様子がとても可愛くて、もし妹がいたならば、きっとこんな気持ちなんだろうなと思った。
見上家へ戻った後、わたしは空美ちゃんに、全てを話した。わたしは霊感があって、幽霊となった海斗さんに頼まれて、あなたのところへ来たこと、プレゼントを渡したこと、そして、わたし海斗さんのことを好きになってしまったこと。
空美ちゃんは驚きつつも、最後は笑って、「今度、霊感がある友達がいるって、みんなに自慢しちゃおっと」と上機嫌になった。
そんなことを話しているうちに、あっという間に朝になっていた。頭は痛かったけど、自身の出自を知ってから初めて、心の底から幸せだと思える朝だった。
♢
四月に入り、春休みも終盤に差し掛かったある日、わたしは高松駅を降りて、駅に併設された商業施設に足を運んだ。空美ちゃんへの入学祝いだ。三十分ほど吟味した後、天色の花のモチーフが付いた髪飾りを購入した。空のように綺麗な彼女には、この色が映えるだろうと思って選んだのだ。
明日また会う時には、手作りのケーキでも持って行こう。そして楽しくお茶会だ。今から心が浮き立つ。
施設を出た頃には五時を回っていたが、まだ空は明るかった。人の流れに沿って、わたしも歩き出す。あの甘い匂いはなく、春特有のしっとりと温かい香りがした。
——海斗さん……わたしはまた、あなたに会いたいです。
思うだけ甲斐ないことを思い、空笑いした。
そしてまた、ゆっくりと歌い出す。この歌を歌い続ける限り、わたしは海斗さんとつながり続ける。少し恥ずかしい気持ちを抑えながら、わたしはメロディー唇に乗せ、小さな声で歌った。
「あ、あの……!」
懐かしい声が、耳朶を打った。薄らと、あの甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
足が止まる。心臓が早鐘を打ち、一気に熱が溢れてくる。その熱が目頭にも伝播して、涙腺を急激に刺激した。
あの日のように、わたしは立ち止まり、おもむろに振り返った。
ひとりの青年が、わたし同様に立ち尽くしている。わたしと同世代の、切れ長の凛々しい瞳。彼の両脇を、多くの人がすり抜けてゆく。
「俺のことが……見えてるんですか?」
あの日と、同じ言葉。そして、わたしはまたこう言ったのだった。
「……っ、はい!」
「ねえねえ聞いてよ、すっごく面白い話があるんだ」
わたしは今日仲良くなったばかりの子に話をふる。今はとりあえず、恋バナの真っ最中。その子は「何々?」と興味津々だ。
「これはとある人から聞いた話なんだけどね、とある霊感のある女の子が、幽霊の青年と出会って恋をしたんだ」
「え、何それ何それ!」
興奮を抑えきれない彼女を横に、わたしは続ける。
「でね、その女の子は成仏したいと願う青年のために奔走して、無事成仏した……でも、彼のことが好きだった女の子は絶望して身投げしようとしたところを、その青年の妹に救われるの」
「ガチか! ベタだけど燃える展開きた!」
テンションが最高潮に上がったその子は、「で、結局どうなるの?」と結論を急いだ。
「で、その女の子は青年への思いを秘めて生きていくんだけど、ある日なんと、その青年の幽霊と再会するの!」
「マジで!? じゃあ、その青年は成仏してなかったってこと?」
「そうなの、どうやら青年の方も、その女の子のことが好きになってしまったらしくて、今度はそっちが未練になっちゃたらしい。で、今はその女の子の守護霊として、いつかふたりで死後の世界へ行こうって約束したの」
「これでこのお話はおしまい」と、物語を締めくくると、彼女は黄色い悲鳴を上げながら、両頬に手を添えて悶えた。「つまりそれは、ふたりの愛の物語なんだね! というか、それって実話? 実話なの?」
わたしは少し間を置いた。そして、とびきりの笑顔を作って、
「えへへ、それは秘密だよ!」
と答えた。
わたし——見上空美は、今日もこの素敵なお話をみんなに教えていく。
お兄ちゃんと美歌ちゃんの愛が、未来永劫続くように。
将来美歌ちゃんが、本当の永遠の花嫁になれるように。