——「桃瀬椋くん……!」
 
 出口を塞がれて奥底へ閉じ込められていた声は、心の準備を挟む隙もなく彼の耳に届いた。
 背中の真ん中を押されて突き飛ばされたら足が前に出るように、転びそうになったとき咄嗟に手が出るように。人混みの中で、私の知らない今にも泣き出しそうな彼を見つけたとき、喉元に詰まっていたものが捕えるのも難しいほどの勢いで押し上げられるように声が出た。
 
「咲——」
「会いたかった、会えてよかった」
 
 心にしまい込んでいた叫びが言葉という形になって、引き裂くように喉を通って声になって溢れてくる。丸くなった彼の目と目が合って、このたった数秒で起きた急展開に理解が追いついてくる。心臓がどくどく言い始めて、戸惑いと、困惑と、桃瀬くんに会えた安心感と、すべての感情のメーターが振り切っているのがよくわかった。
 
「……どうして、声」
「わかんない、でも、桃瀬くんを見つけたから、だから」
「息が苦しそうだよ、無理してるんじゃ——」
「大丈夫、無理なんてしてないよ。私はただ、桃瀬くんを見つけたから振り向いてほしかったの。顔を上げてほしかったの」
 
 彼の瞳が揺れている。
 支えられてばかりだった頼りない私が吹っ切れた態度でいることに対しての驚きと、声が出たという目の前で起きたあまりにも唐突な現実を受け入れようとする必死さが、その瞳には滲んでいる。
 
「本当に、咲の声なんだね」
 
 私が声を発している姿を見たことがない彼からしたら、CGかなにかで合成された映像を見ているかのような違和感を覚えるのだろう。本当に、のあとにハテナがあるような口調だった。それでも、彼の視線に誤魔化しや疑いはなく、まっすぐに私を見つめている。
 だから、本当だよ、と応えるように頷いた。鼓動はまだ騒がしくて、声を出そうと意識を向けると少しだけ喉の奥がきゅっと痛んだけれど、そんなことはどうでもいいと思えてしまうくらい、今は彼に伝えたいことで溢れている。
 
「桃瀬くんを見たら声が出たの、自然にね」
 
 彼は息を呑んで、俯きがちに小さく首を振った。
 その動作が表しているのは否定じゃなくて、二人の間で起こった奇跡の美しさに心が追いついていないことの反応なんだとわかる。
 
「ずっと……ずっと出なかったのに。咲はずっと……」
 
 柔らかくて温かい手が、私の肩に触れる。
 その指先は私の声よりも震えていた。
 
「顔を上げてほしかったって、そんなのずるいよ。初めての咲の声で、こんなに素敵な言葉が聴けるなんて」
 
 彼がふと笑った、泣きそうなのに、目の淵にはもう水の粒が溜まっているのに。
 スピーカーからの会場内アナウンスすら霞んでしまうほど周囲の喧騒と音楽が混じり合った空間でも、彼の声は、私が数ヶ月支えられてきた彼の声だけは、はっきりと輪郭を持って私の中に届いた。
 
「ありがとう、桃瀬くん」
「違うよ」
「え?」
「名前で呼んでよ。さっき、初めて咲の声で呼んでくれたみたいに」
 
 転校前の一件以来、女の子を下の名前で呼ぶことに抵抗があった。距離が縮まったことの証拠のように思えてしまって、二人のことが頭をよぎって怖くなってしまうから。男の子を下の名前で呼ぶことには、中学生あたりから躊躇いがあった。同級生の恋話の中で、呼び方が苗字から名前へ変わっていくのを目の当たりにして以降、異性を名前で呼ぶことは、好意があると誤解されてしまうかもしれないと勝手に恐れていたから。だから彼のことも、出会った当初から『桃瀬くん』と呼んでいた。
 でも、もういいんだ。
 好意があると思われても、それはもう誤解じゃない。
 それになにより彼が、名前で呼んでと言ってくれているなら私はそれに応えたい。
 
「椋くん、ありがとう」
 
 名前とありがとうの間の約三秒には、溢れる嬉しさと、恥ずかしさが混ざりあっている。何度も書いてきたその五文字を声で伝えられたことが幸せで。
 
「こちらこそ」
 
 私が彼に惹かれた最初のきっかけであるこのやりとりを二人の声で交わせたことは、それを上回るくらい幸せだった。
 
「私ね、気づいたことがあるんだ」
「気づいたこと?」
「たぶん最初から、声が出ないわけじゃなくて、出せないように自分のこと抑えつけてたんだと思う」
 
 嘘をついていたわけじゃない、ほんの数分前まではどれだけ意識を向けても声を出すことはできなかった。きっかけが夏希と紗良とのことなのも間違いじゃないけど、きっと捉え方が違ったんだ。二人にしてしまったことの罪悪感が邪魔をして言葉を声にできなくなったわけじゃなくて、私は——。
 
「前に聴いてもらった二人の友だちのことが、心の底から大切で、好きだったから。私と二人、誰かが悪いなんて偏ったことはないけど、誰も悪くないなんて丸く収まることじゃないのもわかってたの、二人には言えなかったけどね」
 
 冷たくなっていく指先を、椋くんの手のひらが包んでくれる。
 手だけじゃない、私の過去と今と、存在まるごと肯定してくれるように暖かく。
 
「対立してる二人のことをいくら考えても、私がどう動こうと収集がつかなくて解決なんてできないって、情けないけど諦めちゃったんだ。でも、どっちのせいにもしたくないってわがままだけは消しきれなくて残ってたの、それが一人の子が停学になる直前に私が抱いてた正直な気持ち」
 
 数えきれないほど交わした会話も、こうしてすべて書き残されている。当時、私の事情を説明するために用いたページを彼に見せながら話を進めている。
 
「だから喋らないでって言われたことで、迷ってた気持ちに答えを出されたように感じたの」
「……答え?」
「強引だけど、どっちのせいにもしたくないなら、私のせいにすればいいって思った。無責任に励ましたり、寄り添ったり、私が二人を傷つけて、関係性とか信頼っていう目に見えないものを壊しちゃったから。そしたらもう大切な人を傷つけない方法がわからなくてね。どっちかに寄り添ったら、どっちかが傷つくって思ったら身動き取れなくなちゃってさ。だから、喋らない、喋れない、っていう呪いみたいな方法を無意識にとってたんだと思う」
 
 実際声が出なくなったことは突然のことで、ここまで綺麗に理由をまとめられるまで考えられたのは今が初めて。私はぐちゃぐちゃになった二人との現実から目を逸らしたくて、私のせいとして無理やり片付けて心を守っていたんだと思う。
 
「声が出せないことで困ってたことはほんと。でも、声が出せてしまっていたから困ってた私がいるのも本当なんだよね、きっと」
 
 一年越しに、私は私と目を合わせた。
 そしてそれを言葉にして、声に出して、当時の私を知らない彼に打ち明けている。
 
「こうやって理由を辿ってたら、さっき声が出せた理由もわかったよ」
 
 そして伝えたいことは過去のことから今のことへ。
 この言葉たちを書き起こしたら、どれくらいのページを埋めるのだろう。すべての会話を保存することはできないけれど、文字では表せない間やトーンをもって心の温度まで伝えることができるのは声の素敵なところだと思う。
 彼にならどんなことも受け入れてもらえるだろうという信頼があるからこそ抱ける、話したい相手がいることの嬉しさを噛み締めながら、私は改めて唇を動かす。
 
「たとえ人混みの中で見えづらかったとしても、私が椋くんに気づいてないふりをして立ち去ったら、椋くんを傷つけると思ったから」
「俯いてた僕は咲があのままどこかへ行ったとしても気づかないと思うけど?」
「私が立ち去ったことに気づかなくても、悲しさに支配されてる時に誰も隣にいてくれないっていう傷は残るでしょ? 私が駆け寄ったら、その傷は負わずに済む」
 
 誰も隣にいない傷の痛さを、私はきっとかすり傷程度しか知らない。
 夏希がいない時は紗良が、紗良がいない時は夏希が。その一件があって引きこもっていた時は家族や担任が。そして不安を抱えて扉を開けた先には優しい彼がいてくれたから。
 
「だからね椋くん」
 
 傷の痛みを知らない代わりに、隣に誰かがいてくれるだけで心の違和感が少しずつ癒えていく感覚を私は知っている。だからこそ、私も誰かにとって“隣にいられる人“になりたいと思っていた。
 だけどその思いだけで、『協力させて』なんて無責任な言葉を口にしてしまったこと——その失敗は、ずっと枷となって記憶の棚に置きっぱなしのままだった。
 
「私の大切になってくれて、本当にありがとう」
 
 ただ彼はその枷すら、取っ払ってくれたから。
 まっすぐ、衝動に押されるまま駆け寄ることができたのは、彼が私の中で紛れもない大切な存在になってくれたからだ。
 
「僕のほうこそ」
「え」
「僕の違和感に気づけるくらい、一緒にいてくれてありがとう」
 
 照れくさそうに彼が笑うから、私まで頬の辺りが熱くなる。
 私が彼を、彼が私を探りながら、次の言葉を探している。甘酸っぱい雰囲気の沈黙が流れているこの半径二メートルの世界には、この輪の外の世界から完全に切り取られているような二人だけの特別感がある。
 
「ねぇ、咲。その手に持ってる袋の中って、カスタネットで間違いないよね……?」
 
 彼の言葉を受けて、私の意識が右手にかかっている重さに向く。
 カラフルなドット柄のビニール袋に詰められた十六個のカスタネット。
 
「そんなにたくさんどうしたの?」
「実はさっき声を掛ける前にね」
 
 それから順を追って、カスタネットが私の手に握られている経緯を説明した。
 会場へ入って最初に向かう受付のすぐ横に【メロフリ】という楽器を中古販売する模擬店があった。メロフリ、というのはメロディーフリーマーケットの略らしい。開封されただけで未開封のハーモニカや、日に焼けて年季の入った色をしたでんでん太鼓、弦のみ交換が必要なアコースティックギターまで。その楽器たちの影に隠れてひっそり佇んでいたのが、このカスタネットだった。
 
「この近くに幼稚園があるらしいんだけど、新しく買い替えるからって寄付されたものなんだって」
「寄付って言ってもその量ってすごいね、いくら中古って言っても楽器なんて安いものじゃないし」
「ふふん、それがね」
 
 どうやら私は、その模擬店を訪れた最初の来客だったらしく運営の腕章をつけた男性にお会計を頼むと、飛び上がるようなテンションで「かしこまりっ!」と上機嫌に対応してくれた。そしていくつ購入するか尋ねられて『差し支えなければすべて購入したい』と伝えると、男性の動きが一瞬止まり、目を丸くされてとても驚かれた。
 私は十六個もカスタネットが欲しかったわけじゃなくて、あの小説を彷彿とさせるシュチュエーションのときめきを買ったのだから、すべて、以外の選択肢が頭になかった。
 
「そんなイレギュラーな購入者を面白がって、五円で売ってくれたよ。このフリーマーケット以外でも素敵なご縁がありますようにって意味を込めてくれたらしい」
「すごっ! この学園祭で起きたエピソードをかき集めてもきっとトップ3には入れる!」
 
 微笑み、じゃなく、爆笑、に寄った笑い方を彼がしてくれたおかげで、このカスタネットたちは無事に一つの役目を果たせた。
 大切な人を笑顔にすること。
 私の直感によってここにある十六個のカスタネットには、きっともうすでに五円以上の価値がついた。
 
「はい、これ椋くんにあげる」
「え?」

 今の私は、なんだってできる、というすべての行動へのハードルがグッと下がる魔法にかけられているんだと思う。これを言ったら嫌われてしまうかもしれない、変な空気になってしまうかもしれない、という恐れを跳ね返す逞しいなにかが私の中にいる。

「教えてもらったあの小説読んだよ。雪華祭のあと、家に帰って読んだ。椋くんは素敵な人だから、そんな人が惹かれるものってどれだけ素敵なんだろうって知りたくて全部ちゃんと読んだ」
 
 通話越しに「人生で初めて恋愛小説読んだんだよ」と教えてもらって「僕にはまだ早かった」なんて素直な感想を聴かせてもらって、そのあとに無邪気に小ネタを伝授してくれて、私はその小説に対して“気になる“で留まることができず、次の日にバイトの帰り道に書店へ立ち寄った。ブックカバーが掛けずに、彼が一目惚れした書影を指でなぞりながら、帰宅してすぐに物語の世界へ。
 
「どうだった?」
「ちょっと難しかったけど……でも、私なりにちゃんとわかったよ」
「好きってなにか?」
「そうだね、特にあのカスタネットのシーンとか好きだった」
 
 彼の左手を掴んで、半ば強引にビニール袋を手渡す。
 小説内の男の子は緊張のあまり『カカカカスタネット……!』なんて可愛らしい噛み方をしていたけれど、私は落ち着いていることができている。だってこの言葉を、何度も心で叫んできたから。予行練習は完璧だ。

「好き」
「咲——」
「私は、椋くんが好き」
 
 相手に抱いている感情を伝えるための言葉として一番わかりやすいのは、好き、と、嫌い、だと思う。
 極端で、使い方次第で毒にも薬にもなる言葉。
 告げる人の声や表情で、重さが変わってしまう言葉。
 勢いで口にしたわけでも、次に会ったら告白しようと構えていたわけでもないけれど、この言葉は私の声で伝えたいと無意識のうちに自分に課していたんだと思う。
 
「……理由を聴いてもいいかな」
「理由?」
「咲は、素敵な人だよ。さっきの小説の話にならうなら、咲が好きになるものはきっと素敵なものばっかりなんだと思う。でも、こんな僕を咲が好きになる理由がわからないから」
 
 彼からこぼされた感情は、恥ずかしさや照れなんてありがちなものではなく不安や疑いに近い、晴々とした告白にはあまり似合わないものだった。
 
「椋くんは、ずっと隣にいてくれる優しい人だよ」
「それは——僕が咲の隣にいたかっただけだよ」
「関わっていくうちにわかったの。椋くんは、私が出会った誰より素敵な人だって」
「……それなら、期待を裏切っちゃうかもしれない。きっと、咲が思っているほど、僕には“素敵“なんて言葉、似合わないよ」
 
 否定と拒絶と、どちらも彼から初めて向けられる反応で戸惑ってしまう。
 不意に、彼を見つけた時の表情が蘇って頭に浮かんだ。
 あの悲しさの理由を私はまだ聴いていない。杏月さんから教えてもらったことが関係しているのかもしれない、ここは以前まで通っていた学校で彼の挫折が滲んだ場所だから。
 
「一つ聞いてもいい?」
「僕に答えられることなら」
「私と会う前、なんで泣きそうな顔してたの?」
 
 人の心に土足で踏み行ってはいけないのはわかっているから、私はまだ、彼の内側にある扉を少しだけ強く叩いている段階で踏みとどまれていると思う。
 立ったまま一定の場所に留まっているのもよくないだろうと、会場内で休憩スペースとして設けられている中庭へ移ってきた。人の波から離れた、ちょっとした逃げ道のような場所で向かい合わせに腰掛ける。
 
「……一年生の頃のクラスが同じだった二人に会ったんだ」
「偶然、ってことだよね?」
「偶然というより事故だね、僕は誰にも会いたくなかったし」
 
 俯く彼の姿に胸が痛むけれど、無理をして笑顔を作られるよりよっぽどいい。
 杏月さんから話を聴いていたこともあって、会いたくない理由に見当はつくし、私がもし以前通っていた学校の学園祭を訪れたとしても夏希や紗良、その他クラスメイトには会いたくないと思うだろうから気持ちは痛いほどわかる。

「進路の話になってさ、そいつらは音大に進って聴いて——なんかすごい、僕の進路に自信が持てなくなってさ」
「進路、か」
「ずっと言い出せずにいたんだけど、僕この学校で声楽を専攻してたんだ。それなのに一年生の冬頃に声帯の疾患がみつかって歌えなくなってね」
 
 杏月さんから聴いたことと内容は変わらないのに、彼の口から直接告げられることで、その言葉たちはより一層重たい空気を帯びている。
 悔しいけれど、私は聴くことによって受け取ることしかできなかった。彼の心を軽くすることも、言葉に楽観的なベールを着せることも私にはできない。
 
「二人はさ、ギリギリまで僕の退学を止めてくれたんだ」
「え——」
「会いたくない、なんて言ったら一見二人が悪者に思えるかもしれないけど、実際二人はすっごいいいやつで、情に厚い友だちにいたら心強いタイプの子でね」
「それじゃあ、その会いたくないっていうのは……」
「仲が良かったからこそ、それであって競い合ってるライバルだったからこそ、僕が歌えなくなったことを気遣って励まされるのが嫌でさ。自暴自棄になってたのもあって『歌えなくなんないと気持ちなんてわかんないよ』って、すっごいめんどくさいこと言っちゃってさ」
 
 当時の自分自身に呆れた様子のまま、その後の回想の話は進んでいった。
 二人は椋くんがどんな態度を取っても、退学する前の最後の登校日まで変わらない接し方でクラスメイトとして隣にいてくれたらしい。彼が声楽科に在籍していたこともあり、声帯に疾患がみつかった彼は腫れ物扱いされることも多く、素直になれなかっただけで二人に救われていたことも多かったと教えてくれた。
 ただ、そんな綺麗な感情で誤魔化していたもう一つの感情は——。
 
「やっぱり劣等感はずっと拭えなくて。僕が歌えない間に二人は歌が上手くなってて、僕が通院してる間に、二人は座学で音楽についての知識が積み上がっていって。そう考え込んじゃうと自信なんてすぐに見失うし、二人のことは好きだったはずなのに嫌いって思い込んで距離を置くことで保身に入ったりで。本当に、人として未熟すぎるよね」
 
 杏月さんから聴いた話は、椋くんの過去を事実としてなぞった姉目線での話。今聴いたのは、椋くんの感情を軸に過去が掘り返されて話としてまとめられていた。内容に優劣なんてないし、私には二人の話がそれぞれの刺さり方をして心に残っているけれど、彼から直接語られた過去には、感情の解像度や生々しさで抉られる成分がこぼしてしまいそうなほど含まれていた。
 
「……だから今も、二人を前にすると自分なんてって思っちゃうってこと?」
「認めたくないけどそうだね。実際今日、進路について聞かれた時なにも答えられなかったし」
 
 あえて明確な言葉にされなくてもわかった。私が椋くんを見つけた時の表情は、答えられずに立ち尽くしていた時のものだったんだ。
 
「もし、言いたくなかったらいいんだけどね」
 
 言葉を選びながら慎重に。出会ってすぐの頃、椋くんが私にかけてくれた言葉を返す準備をしている。私はその言葉をかけられた時、揺らぎそうな意思を再確認することができて、君はこうしたいんでしょ? と背中を押してもらえた感覚になったから。だから、今度は私が——。
 
「椋くんはどうなりたい? 椋くんの夢ってなに?」

 未来の答えを、問いかけてみる。
 何度か口を開いては閉じてを繰り返したあと、彼はスッと息を吸ってその問いに答えてくれた。
 
「僕は歌えなくなっても音楽が好きだから、知識の方面から音楽に携わっていられる人でいたい」
 
 どうしてこんなにも真剣に素敵な夢を語れる人が、自分に胸を張り切れないのか私のほうが悔しくなってしまう。
 
「でも僕は咲みたいに素直じゃないし、まっすぐ折れずに頑張り続けられる自信も情けないけど持てない。ねぇ、どうしたらいいんだろう。どうしたら、僕はちゃんと夢に胸を張れるのかな」
「どれだけ頑張ったって……根を張ったって、咲ける保証がないなんてあまりに残酷すぎない?」
 
 努力は必ず報われる、なんて言うけれど私はその言葉をあまり信じたくないと思ってきた。彼が言うように、時間や労力をかけて根を張ったとしても、叶わないこともあるし、その可能性は低くない。むしろ、叶う可能性のほうがよっぽど低い。
 だけど、そもそも動き出さなければ叶うも叶わないもわからないということを私はこの数ヶ月間で身を持って知ったから。
 
「人間の成長も変化も、髪を切った時くらいわかりやすかったらいいのにね」
「やっぱり、髪短くなったよね」
「切っちゃった、これが私の好きな人のタイプなんだって」
「いつ言い出そうか、可愛いって思いながらタイミングを探ってたんだよ」
「人の内面的な変化ってさ、きっともっと気づきづらくて、ものによっては気付けなくて、言い出すのにタイミングを伺っちゃうものだと思う。でも、私は今椋くんに気づいてもらえて、褒めてもらえて嬉しかった。だから今度は私を、その嬉しさを与える一人にさせてくれないかな」
 
 関わってくれたすべての人のおかげで数ヶ月間折れることなくまっすぐでいられたんだと思う。急かすことなく見守ってくれた両親、転校を無理に引き止めなかった先生、高校三年という時期に生徒として迎え入れてくれた今の担任の先生、喋れない私を採ってくれたバイト先の人、友だちになってくれた和花ちゃん。
 そして私にはもう一人、欠かせない人がいる。
 一度ダメになったものは二度ともとに戻れないと塞ぎ込んで、私という人間そのものを諦めそうになっていた時、元通りになれる可能性を教えてくれた人を、私は好きになった。
 
 変わりたい、そう心の中で叫んでばかり私がずっと言いたかったこと。
 
 ——「私は、椋くんがいたから変われたよ」
 
 誰にだって自分の嫌いなところがあって、他人に羨ましさを抱いて、そんな心の叫びを隠しながら生きている。
 できることなら笑っていたいし、傷つくことも、苦しい思いもしたくない。
 だから変わろうとしているのに、自分を変えることは思っているより難しくて。
 そんな自分がもっと嫌になるけど。
 成功してるあの子は羨ましいけど。
 みんなから好かれるあの子になりたいと思ってしまう時もあるけど。
 私は私のままでいいし、きみもきみのままでいい。だから——。
 
「だから今度は私に、椋くんが変わっていく過程を一緒に走らせてほしい」
 
 好き、なんて二文字より深さと奥行きのある愛の言葉。
 彼の瞳から光の粒が溢れてくる、つられて私の目の奥が痛む。
 
「僕が変わっていくところ隣で見ててほしい」
 
 ❀
 
「このオーディションの主催、僕がもともとお世話になってた先生なんだ」
「一年生の頃の担任の先生とか?」
「まさにそう、出場しないかって声もかけてもらったんだけどね。今年度開催のには間に合わなかったから、もし来年もあるとしたら審査過程でに雑用でもなんでもアシスタントとして参加させてもらえないか掛け合ってみようと思う」
 
 中庭を出て、メイン会場にある特設ステージ。あと数分で歌唱オーディションの公開最終審査が幕を開けようとしている。今は杏月さんがゲストMCとして出演者のプロフィールを読み上げつつ会場の温度を高めているところだ。
 
「アシスタント……確かに運営側に回るからこそ学べる知識ってきっとあるもんね」
「なかなかこだわり強めの先生だからきっぱり断られちゃうかもしれないけど」
「オーディションの声がかかったくらいだよ? 期待してみたもいいんじゃないかな」
 
 来年、私たちはまた二人でここを訪れるのだろうか。
 そんな想像に嬉しくなって自然と口角が上がっているところを彼にみられてしまった。誤魔化す必要もないか、そう割り切ってニッと笑ってみせた。
 
「咲」
 
 私の笑顔を反射させるように笑った顔。
 この人にはやっぱり笑顔が似合う。
 彼はビニール袋からカスタネットを一つ取り出して、小さくコンコンっと鳴らしたあと——。
 
「僕も、咲のことが好きだよ」


 人が変わる季節を春と言うのなら、まだ寒さの残るこの季節も私ときみにとっては紛れもなく春で、とても素敵な季節なんだろうと思った。