その【ごめんね】は、一緒に花火を観れなかったことに対してか、それとも捕えきれないほどの罪悪感にまとめて頭を下げるための言葉だったのか。
 会えていない代わりに声が聞きたくて通話に誘っても、理由をつけて断られてしまう。最近はメッセージの返信も心なしかスローペースになっている気がする。年が明けてすぐに送った【あけましておめでとう】への返事すら、すぐには返ってこなかった。
 しかたない、私は桃瀬くんの恋人でもなんでもないのだから。
 寂しさに言い訳をして、果報は寝て待て戦法で乗り切っている。
 言葉の通り、寝て待つのだ。彼からの返信に心が支配されそうになったら、気が済むまで眠る。昼夜逆転した生活も冬休みを言い訳にしたら許される気がするし。
 
 ……まだ来てないか。
 
 今だって、彼を理由にした眠りから覚めたばっかり。
 結局、一時的に気を紛らわせたところで私の頭の中から桃瀬くんがいなくなることはなくて、私の意識はずっと彼に向いていることに気づかされる。その寂しさで寝起きのぼやっとした頭のもやが晴れていく。
 カーテンの隙間から朝の光が部屋へ注がれる七時過ぎ。
 変な体勢で寝たせいで痛くて重い身体を起こして、蛇口から出てくる水が暖かくなるのを待たずに顔を洗う。クローゼットの前に立って、適当な服を手に取る。
 
「咲出かけるの? ずいぶん家を出るのが早い気がするけど」
『ちょっと用事があってね』
「そう、気をつけてね。何時頃に帰ってくる? 夜ご飯は?」
『夜は家で食べるよ、そんなに遅くならないと思う』
 
 八時、溶けきれず地面に積もっている雪が眩しい光に照らされてきらきらしている。
 バイトへ行く時とは反対方向のバスに乗り込んで窓の外を眺める、初めましての景色が広がっていく。絵に描いたような住宅街の中に幼稚園と小学校があって、この時間帯特有の空気を吸いながら朝散歩を嗜む老夫婦がちらほら見えるけれど、数えられるほどしか人の姿は見られない。
 辿り着いたのは以前教えてもらった桃瀬くんの最寄り駅。
 予告もなく家の近くまで来てしまうなんてストーカーのような行為に躊躇う気持ちはあったけれど、眠って気持ちを誤魔化しても、待っていてもしかたがないなら、動いてみるのも大事なんだと言い聞かせる。
 と言っても、彼の家がどこかなんてわかはずもなく、道が続くまま歩くことしかできない。バス停が近いから寝坊してもセーフなんだ、と言っていたからきっと今いる場所からそう遠くないはずだけど。
 
「……浅桜さん?」
 
 突然声をかけられて、思わず足が止まる。たった一言名前を呼ばれただけでも違いがわかるほど透明感のある綺麗な声、一般人離れしたような。
 見渡す限りこの道に私以外人は一人だけ。そうなると必然的に声の主は数十メートル先からこちらに向かって歩いているあの女性になるわけだけど、帽子を深くかぶって、マスクで顔を覆われているせいで誰なのかまったく見当がつかない。
  
「やっぱり! 見せてもらった写真と雰囲気違うなって思ったけど間違いない!」
 
 ヒールの音が小刻みにコンクリートを叩く。桃の瑞々しい香りがふわっと感じられるほどの距離にいる彼女が帽子とマスクを外すと見覚えのある姿が現れた。可愛らしくて印象的な八重歯、両目下の泣きぼくろ、記憶を蘇らせれば私は昨日もその声を聞いていた。誰もが一度は耳にしたことがある某有名音楽番組に出演していた“ADUKI“って名前のアーティスト。あまり詳しくないけれど、サビを流されたら口ずさめるくらいに彼女の楽曲は知名度がある。そんな人がどうして私のことを——。 
 
「桃瀬杏月(あづき)、椋の姉です!」 
 
 ——え。
 いやいやいやいや。
 数十秒間で注がれるには情報量が多すぎる。
 桃瀬くん、てっきりひとりっ子だと思ってた。
 で、そのお姉さんが有名歌手で……?
 仮に桃瀬くんが私の話をしていたとして、わざわざ遠くから駆け寄ってくれるくらい覚えられているのはどうして?
 
「浅桜咲さんだよね……? あれ名前間違っちゃった? 急に声かけてびっくりさせちゃったかな」
 
 困惑の対象がたくさんありすぎて、なにに対してびっくりしているのか一つに絞るのが難しい。でも、とにかくなにか答えないと。寒さと緊張のせいで手が動かしづらい。
 
『間違いないです。浅桜咲です。まさかお会いすると思ってなくて』
「私も私も! 椋から話を聴いてるばっかりでまさか会えるとは」
『そんなふうに言っていただけて嬉しいです、ありがとうございます』
 
 すると杏月さんはニコッと笑って、少し身を乗り出すようにして手を差し出してくる。柔らかい手のひらを握り返しながら戸惑う私に——。
 
「もし浅桜さんがよかったら、ちょっとお茶しない? 時間どう?」
 
 ❀
 
 押しに負ける、の意味を身をもって知った気がする。
 
「そーんな緊張しないでよ、椋のお姉ちゃんってだけで全然フツーの人だからさ?」
 
 いや、どこも“フツー“じゃないですよ。
 偶然通りかかった人が好きな人のお姉さんで、その人が著名人なんて、展開までフツーじゃないです。
 店内は落ち着いた照明のおかげかゆったりとした空気が流れている。窓際の席に案内され、向かい合って腰を下ろした。髪をふわっとひとつまとめにした杏月さんとは対照的に、私はまだちょっと胸が騒がしくて指先に力が入っていた。
 
「ここのシフォンケーキすっごく美味しいの知ってる? ちっちゃい頃から好きでさぁ、あっ! クリームソーダもおすすめ!」
 
 手際よくメニュー表が開かれて一推しが指さされていく。
 顔は似ているというより面影を感じるくらいなのに、指の形はそっくりだった。左手人差し指のほくろまで同じ位置についている。眩しい雰囲気を纏っているのに嫌な感じがしない距離感もそっくり。
 
『教えてもらったシフォンケーキとクリームソーダにしたいです』
「了解了解! じゃあ私は紅茶のシフォンケーキ頼むから半分こしない?」
 
 私の声についてすでに桃瀬くんから聴いているのか、前置きや断りをいれていない文字での受け答えを自然に受け取ってくれた。
 注文した料理がテーブルの上に運ばれてくる。
 お皿の上のケーキはフォークを入れる前から柔らかいとわかって、その衝撃に思わず杏月さんと目を合わせてしまった。
 
「ふわっふわでしょ?」
 
 得意げに笑いながらクリームソーダのアイスをスプーンで掬っている。涼しげなグラスの中でラムネ色の泡が静かに弾けるように、さっきまでの緊張が嘘のように解けていく。それなのに、二人の間を漂う空気が絶妙に重たく感じるのはどうしてだろう。杏月さんは明るい口調で、眩しい表情を浮かべてくれているのに。
 
「椋のこと心配してきてくれたのは、きっと私の勘違いじゃないよね」
 
 その一言に、すべての疑問符が吹き飛ばされる。
 杏月さんの顔つきが“一人の女性“から“姉“へ切り替わる。
 
『突然最寄り駅まで来るなんて非常識でしたよね。心配が勝ってしまって、踏みとどまれなくてごめんなさい』
「謝るのは私——いや、椋のほう。咲さんの優しさに甘えすぎだって見てて思う」
『そんな、むしろ優しさに頼りきりなのは私の方です』
 
 ふふ、っと口元に人差し指を当てて笑う。
 なにに笑っているのかはわからない、でもきっと、悪い意味ではない。
 
「そっかそっか、そりゃこんなにすぐ素敵な返しができる子なら頼っちゃうのも無理ないね」
 
 心に扉なんてわかりやすいものはないのに、心を開く、という言葉がこの世にはある。でも今、確かに聞こえた。心が開かれた音。ガチャッ、よりも柔らかくて繊細な音。
 
「椋と最後に会ったのはいつ?」
『十一月に一緒にオープンキャンパスに行ったきりなので二ヶ月前ですかね』
「かなり時間経ってるねぇ」
『冬休みに入っちゃったり予定が合わなかったりで。私もなかなか積極的になれなくて』
「それなら心配になるのも無理ないし、さっき咲さん非常識って言ってたけど全然そんな不誠実なものじゃないよ」
 
 杏月さんの共感が軸にある聴き方には安心感を覚える。
 自責に駆られる私を庇いながら、桃瀬くんを責めることのない返答のおかげで、私が話したことによって彼が悪者になってしまったという罪悪感を抱かなくて済んでいる。
 
『桃瀬くんは元気ですか?』
「どうなんだろう、私が咲さんに教えてもらいたいくらい」
『どういう意味ですか?』
「椋が元気な姿ってどんな感じなのか、私にはわからないから」
『離れて暮らしてると家族であっても知らない面ってきっとありますよね』
「それもあるけど……私の場合は、私が椋に元気を張り付けさせるようにしちゃった気がしてるから」
 
 桃瀬くんと私の関係性があまりに曖昧、そんな前提が頭をよぎると杏月さんの意味深な呟きについて深入りしていいものか躊躇う気持ちが生まれる。ただ一方的に好意を寄せているだけだと言われてしまったら否定できない私が、桃瀬くんの内側の繊細なところに、それも家族というプライベートなことに踏み入っていいものなのだろうか。
 
「私と椋ね、五年前に絶縁寸前の喧嘩してるんだ」
 
 打ち明けられた一言に、白紙の上で進み方に迷っていたペン先が動き出す。ページの真ん中に、いつもより丁寧な字で。
 
『そのお話、聴かせていただいてもいいですか』
 
 柔らかく頷いてくれたあと、杏月さんが慎重になりすぎている空気を吸い込んで浄化させるように深呼吸を一つ。話は、桃瀬くんが通信制高校に移る前についてから始まった。
 
「歌手になりたいって、音楽科がある高校で声楽を専攻してたの。父も母も反対気味だったんだけど、好きこそものの上手なれって言うのかな、特待生で入学して技術での評価も結構いいところまで行っててさ」
『初めて会った日の桃瀬くん、教室でギターを弾いて歌を口ずさんでました』
「ほんとにどうしようもないくらい歌うことが好きだったからね」
 
 杏月さんの微笑み方は優しい、でも、寂しい。
 純粋に弟を愛おしく思う笑い方の奥に、取り戻せないなにかを懐かしんでいるような雰囲気が隠されているように感じる。その表情の理由を知りたくて、私はただ待つように頷いた。
 
「あんまり自分から名乗るのも好きじゃないんだけど、私ね“ADUKI“って名前でアーティスト活動をしてるんだ」
『昨日の歌番組観ました』
「あはは、なんか照れる……」
 
 喜怒哀楽。人の感情は大きく四つに分けられているけれど、笑い方の種類は数えきれないほど存在して、そのすべてを綺麗に分類することなんてきっとできないと思う。今の杏月さんの笑い方は、少量の喜と、隠したくても溢れてしまうほどの哀、そして誤魔化したいという願いによって作られている。

「私は間違いなく恵まれている側の人間だったと思う。心身ともに丈夫で健康で、指導者との相性も良くて、学んだことがすぐに仕事に繋げてもらえる機会も与えてもらって。私が、私と反対側の立場にいたらきっと嫉妬してただろうなって思えるくらい」
 
 私には欠けているものがありすぎて、生まれながらに長けているものを兼ね備えている人の話に共感はできないけれど、杏月さんの言葉はスッと心に入ってきて、彼女がどんな人物像でここまで生きてきたのか容易く想像できてしまう。
 きっと杏月さんは、私がずっと焦がれてきた眩しい人間的属性を与えられた人なんだろう。
 人見知りな私が、華々しい存在感を持つ紗良や、はっきり自己主張ができる夏希に対して密かに抱いていた感情——羨ましいは、嫉妬を可愛らしく変換した言葉だと思うから——。
 
『私はきっと、杏月さんの反対側で嫉妬してる側の人間だと思います。きらきらしてていいなとか、あの子みたいになれたらなって心の中で羨ましがってるタイプです』
「いいことばっかりじゃん、って思うじゃない? でもね、夢とか理想に手が届いていく代償みたいに、隣にいる人との距離が空いていったんだ」
 
 遠くに置いてきたその代償と呼ばれるものを見つめているかのように、杏月さんは窓の外に一度視線をやったあと、さらに言葉を続けた。

「ADUKIとしてメディアに出させてもらう機会が増えていくとね、椋は“椋“じゃなくて“ADUKIの弟“って扱われるようになっちゃったの。サイン貰ってきてよとか、当時は顔を隠して活動してたから『兄弟なら写真くらい持ってるでしょ?』ってねだられたり。それに嫌気がさした椋から無視されるようになっちゃって。椋からしたら、とんとん拍子で報われていった私が憎らしかったんだと思う」
『それが喧嘩のきっかけなんですか?』
「まさか! そんな些細なことで十数年築いてきた兄弟の絆が壊されてたまるか!」
 
 迷う隙もなく笑って否定してもらえてよかった。相手想いの桃瀬くんと、頼もしい優しさを持っている杏月さん。こんなにも素敵な二人の仲が他者によって崩されてしまったなんてあまりに酷すぎて、私の中にあるすべての“怒“の感情が溢れてしまいそうだった。
 
「久しぶりに休みをもらえたから二人でご飯を食べに行ったの。でも椋、全然喋ってくれないどころか目すら合わせてくれなくて、さすがに私も悲しくなっちゃって『周りのせいで椋との距離が遠くなるのは嫌だ』って伝えたの。そしたらさ」
 
 次に告げられた数年前の桃瀬くんが杏月さんに宛てて発した言葉は、私の中にある桃瀬くんとはかけ離れていて、拒絶や相手に対する嫌悪すら感じられるほどトゲだらけだった。
 
「才能だけで勝ち上がったやつにはわかんねぇよ、って言われちゃった。私が辿ってきた過程とか全部運みたいな言い方で。それが頭に来て、次の日の朝に私が家を出てったの。幸いにも繋がってた仕事関係の人に家が見つかるまではお世話になってね。だから私の一人暮らしのきっかけは仕事とか卒業なんてかっこいいものじゃなくて、感情任せで身勝手なものだったんだ」
 
 兄弟喧嘩なんて既存の言葉では括れない、生身の感情の衝突。
 ひたむきに努力を重ねている途中で成功を羨む気持ちも、輝かしい結果を持っているが故に日陰での苦労を見てもらえない寂しさも、どちらも違う種類の苦しさを持っているからこそすぐには理解し合えなくて、それがまた新たな苦しさとなって喉元に埋まり、言葉と息をつまらせるんだろう。杏月さんの細い指先が、グラスに伝った水滴を涙を掬うように優しく拭う。いつもなら目に留めることもない水の粒ですら感傷的になってしまう。
 
「もう実家になんて帰ってやるかって思ってた。でもその一年後に、椋に声帯の疾患が見つかったって母親から連絡があって……結局放って置けなくて一時的に戻ってきた」
『声帯の疾患、って?』
 
 人伝えに知るには重すぎる秘密を知ってしまった、果たしてそれは、私が知ってしまってよかったのだろうか。
 杏月さんによるとその疾患は、体質や風邪による炎症など様々な理由があるけれど、桃瀬くんの場合は声の使いすぎによる酷使が主な原因だと診断されたらしい。
  
『距離があっても支えが必要な時に駆け寄ってきてくれるって、杏月さん素敵ですね』
「自責の念っていうのかな。椋の歌をずっと聴いてたけど、負担がかかるような歌い方なんてしない子だったから。私との喧嘩が引き金になって、やけになって歌わないとって焦ったんじゃないかなって思ったの。椋の担任に尋ねても、前より明らかに練習時間が増えたって言ってたし間違いないなって」
 
 私のせい、と、君のため、は紙一重な感情なのかもしれない。
 
「だから転学と病院の資料を集めて、治療に専念することも視野に入れてほしいって頭を下げたんだ。そしたら椋が、あの時のことは無かったことにして兄弟として普通の関係に戻りたい、って謝ってきてね」
 
 私のせい、と焦燥感に駆られた結果、それを埋め合わせて償うように、君のため、の行動をとるのだと話を聞いて思った。
 
『それからどうしたんですか』
「すぐに心から許すことはできなかったけど、私も謝って、表面上の仲直りをしたよ。あとは時間が解決するのを待って、今はもう元通り」
 
 杏月さんが向けてくれたスマートフォンの画面には一枚の写真が映っている。そっくりな手で作られたピースが、美味しそうな料理の横に添えられている写真。二人が言い合いになってしまった時に訪れていたレストランにリベンジ訪問をしたのだそう。手元しか映っていなくてもわかる、画面の外にある表情は素敵すぎる笑顔だろう。
 私が口角を上げてピースサインを返すと、杏月さんはニコッと笑った後にそっと画面を閉じて話の続きを始めた。
 
「私は環境に恵まれてたけど、ちゃんと努力してきたの。でも、努力を人に見られるのが苦手だった。こいつはできるやつだって期待に、苦労してるそぶりを見せずに応え続けていたかったから。本当は寝ずに遅くまでスタジオ借りて喉が潰れるまで歌ったり、そのセルフケアを知るために声帯についての勉強もしてた。同期の子が励まし合ってる輪に混ざりたかったけど、プライドなのか恥ずかしさなのか、私自身がそれを許さなくて」
 
 和花ちゃんと話を夜に知ったことを、私は改めて知らされている。
 それは誰にでも弱さがある、なんて当たり前のようで先入観が忘れさせる大切なこと。年が上でも、有名アーティストという社会的地位を持っていても、なくすことができない器用に隠された弱さ。それと同時に気付かされたことは、誰もが持っている弱さには生きてきた背景の影響が色濃くあるということ。
 
「厄介な性格してるってわかってる。でも、私には素直になる器用さが欠けてたの。だからそこに目を背け続けてた。メディアが大袈裟に才能だ天才だって持ち上げても、奇跡の才能が開花って肩書きを背負わされても、笑って『私はきっと、咲けちゃっただけだから』って自分に言い聞かせてきた」
 
 努力と結果で話をしているせいで難しくなっているけれど、これを花の話に置き換えてみればいい。どれだけ贅沢な肥料や適切な量の水と光を与えられた恵まれた環境で育てられた花にも、種、芽、蕾、と咲くまでには必ず過程がある。その状態や期間に個体差はあるだろうけど、種が花へ突然変わることはない。人も、過程がない人なんていないはずなんだ。
 
「でも、椋には期待しちゃってたんだと思う。椋なら見ててくれてるよね、って私が頑張ってたの知ってるよねって思い込んじゃってた。だから気持ちが抑えきれなかったんだよね。頭に来た、って言ったけど込み上げてきた気持ちは怒りじゃなくて、悲しみの方だと思う」
 
 杏月さんが桃瀬くんへの期待を捨てきれなかった気持ちが、私にもちょっとわかる気がする。弟だから、でも、家族だから、でもない。桃瀬椋という暖かさの象徴のような彼なら、見えるはずもない心の中のすべてすら包み込んでくれるだろうなんて希望を抱いてしまうのだ。
 私が彼を頼れたのだって、似たような理由だと思う。
 この人なら、私の情けない過去を打ち明けても受け入れてもらえるかもしれない、笑わずに、貶さずに、変わりたい気持ちを肯定してくれるかもしれない。
 そういう希望を持たせてしまうのも、桃瀬くんの素敵なところの一つだろう。
 
『初めて知ることばっかりで戸惑いました、でも、知れてよかったです。お話聴かせてくれてありがとうございました』
 
 当たり前だけれど、私は杏月さんについてはもちろん、桃瀬くんのことも知らないことばっかり。私が抱く声を取り戻したいという夢を叶えようとそばにいてくれる桃瀬くんに、挫折の経験があることも知らなかったし、鋭利な言葉を口にしている姿なんて想像したことがない。私ばっかり受け止めてもらっていたことに今更になって気づく。遅すぎるけれど、手遅れなんてことはないだろう。桃瀬くんのことを知って、心ごと受け入れたいと思っている。
 会いたい、会って話がしたい。
 なにから話せばいいか、どこから話を切り出せばいいか、きっと戸惑うだろうけど今の私にはそれすら取っ払えてしまうくらい強い意志がある。
 
「おっと、そろそろ時間だ……たくさん聴いてもらっちゃってありがとう」
『これからお仕事ですか?』
「んー仕事っていうより、お祭り要員?」
 
 今にもスキップしながら鼻歌を奏でそうな雰囲気を纏いながら笑っている。
 ちょっと待ってねぇ、と呟きながら杏月さんは鞄の中でなにかを探している様子で、しばらくすると私に一枚のパンフレットを渡してくれた。
 
「椋がもともと通ってた高校の学園祭があってね、私はそこの卒業生だからゲストとして呼んでもらってるの」
『音楽科の学園祭ってことは、ステージライブとかするんですか?』
「どうなんだろうねぇ、とりあえず頼まれてるのは歌唱オーディションの公開最終審査があるらしくて、その審査員なんだけど……もしかしたら歌うかも? みたいな」
 
 私の直感が言っている、いや、叫んでる。
 そこに行けば桃瀬くんに会えるって勘が、内側から心に圧をかけている。その勘に根拠なんてないけれど、ここで動かなければ後悔してしまうと思う。
 
『杏月さんが大丈夫でしたら、一緒に連れていってもらえませんか』
 
 ❀
 
 二年ぶりの光景に嫌な懐かしさを感じる。
 僕も、ここの生徒だったんだ。
 音楽科が主軸となっている学校なだけあって、学園祭もパレードみたいに賑やかだ。各方面から弦楽器、管楽器、打楽器、の音が聞こえてきて、校内放送よりもよく通る歌声が会場の複数箇所から発されて、空間で交差して響き合っている。
 親子もカップルも老夫婦も、見渡す限り純粋な笑顔ばかり。音を楽しむ、と書いて音楽だけれど、音で楽しませる、とも捉えられるんじゃないかと、彼らの表情を見て思う。
 
「あれ、桃瀬?」
 
 呼ばれた方に振り向くと、見覚えのある二人が僕の方へ駆け寄ってくる。奇抜な髪色や見慣れない服装のせいで認識するまでに時間がかかったけれど、あの二人は声楽科に在籍していた頃、毎日のように顔を合わせていた同級生だ。
 
「学園祭来るなら言ってくれたらよかったのにー」
「ごめんごめん、急遽行けるようになってさ」
「にしてもほんと久々だよなぁ、二年間会えてないもんな?」
「……確かに、結構期間空いちゃったよね」
 
 合わせる顔がなくて逃げていた、避けていたというのが正直なところ。仲が悪かったわけではないし、どちらかというと親しくしていた方だと思う。ただ言葉を選ばなければ、夢のために蹴落としあった相手だから純粋な元クラスメイトや友だちという目線で接することが難しい。誰にも、先生にすら見つからないまま、ただ溢れる来場者の一人として過ごせることを望んでいたのに。底に沈めたはずの不安が喉元に上がってくるのがわかる。
 
「ってか椋、身長とか顔とかそのまんまだな! 俺なんて二十センチは伸びたぜ?」
「お前それは伸びすぎだろ! まーだ俺の背にすら追いついてねぇよ」
「二人とも大人っぽくなった雰囲気あるよ、僕は確かに身長とかそのままかも」
「入学した頃は椋が一番デカかったもんなぁ、俺なんて小指くらい」
「今度は極端にちっさい!」
 
 ほこりを被った記憶が掘り起こされるような感覚。クラスメイトそれぞれが、お互いに対して緊張感がつきまとう関係性だったけれど、教室内はこんなふうに砕けた会話がよく飛び交っていた。だから転学して一人きりの教室が慣れるまで異様に寂しかったんだっけ。
 
「なんか椋、キャラ変わった? そんなおとなしかったっけ」
「え、おとなしいかな?」
「前なら『まだまだお前らちっさいなー!』って返すような感じっていうかさ」
「まぁ二年もあれば人は変わるのかもね、あんまり自覚してないけどね」
 
 ギリギリの淵で保っていた自分像が迷子になっていく。
 器用に動揺を隠して受け答えできていると思っていたのに。
 この人たちの前での僕って、どんな僕だったっけ。
 二人は良くも悪くも男子高校生感満載で、意味もなく廊下を走るし、誰かがボケたらノリツッコミがマストで、賑やかで明るいやつだったと鮮明に覚えてる。
 それじゃあ僕は? 
 同じように賑やかだったのか、それとも二人の横で笑っている側だったのか。わからない、在学当時の記憶を避け続けたせいで記憶にもやがかかりすぎている。
 
「そいえばもう卒業でしょ? 二人は進路とか決まったの?」
「それがさ! 奇跡的に同じ音大の声楽科行くことになったんだよ!」
 
 とにかく話を逸らすことに意識が向いてしまったせいで、地雷を踏んでしまった。
 僕の中にある、誰かの眩しい今と比べることで爆発してしまう地雷。
 
「桃瀬は?」
「通信って言ったって進路の幅は広いんだろ? 桃瀬も音大か?」
 
 やめて、話を持ちかけたのは僕だけど、それ以上なにも言わないで。
 やっと、僕は僕の決めた将来に『これでいいのかもしれない』という小さな自信のかけらを少しずつ集められるようになってきたところなんだ。それなのに二人みたいなきらきらしたものを前にしたら、無意識に天秤にかけてしまって、また僕が惨めになる。
 
「僕は——」
 
 言えない、やっぱり、僕の夢は人に言えない。
 口に出そうとしても、言葉が喉元に詰まって出てきてくれない。声になってくれない。
 咲の声が出ない感覚って、これに近いのかもしれない。だとしたらすごく苦しい。指先から体温が奪われていくのがわかる、寒さのせいなんかじゃない。焦るたびに血の気が引いていく、怖い。
 夢を持っていることは誇らしいことのはずなのに、僕が目指しているものだってきらきらしているはずなのに。
 僕の夢、というだけでどうしようもなく無価値に思えてしまう。
 
「……悪い! 俺らそろそろステージ演奏の準備行かないとだ!」
「せっかく会えたのにごめんな! またいろいろ終わって会えたら会おうぜ! ……桃瀬せっかく来たなら最後まで楽しめよ!」
 
 なにも言えずに固まった僕に向けられた二人の愛想笑いに罪悪感が積もっていく。
 公演開始時間から逆算しても、まだ準備まで時間があることは元内部生だからわかってしまうし、会えたら会おうぜで会える確率がほぼゼロに等しいほど低いことも知っている。
 やっぱり僕は、誰にも会うべきじゃなかったんだ。
 楽器の音も、歌声も。落ち着かせようと必死な頭を乱暴に引っ掻いてくる。
 耳を塞ぎたい、目も瞑ってしまいたい。
 過去を受け入れたなんて勘違いで、ここに来たこと自体間違いだったのかもしれない。
 怖い。
 苦しい。
 誰か、助けて——
 
 
「——せくん」
 
 
 今、確かに誰かが僕の名前を——
 
  
   
 ——「桃瀬椋くん……!」
 
  
   
 すべての音がノイズのように霞んでいく中に一つ。
 彼女の、咲の声だけが僕の耳にまっすぐ届いた。
 
 その瞬間(とき)、僕は初めて咲の声を聴いた。