十二月の打ち上げ花火なんて普通じゃない。
 普通、花火と言ったら夏だろう。
 でも冬の花火も綺麗だから、普通じゃなくても綺麗に咲くから。
 人間だってきっとそう、普通じゃなくても素敵に、綺麗に咲ける。
 学校に行けなくても。
 人に隠したい家庭環境でも。
 責任感故に唯一の居場所だと思っていたバイトを無責任に辞めても。
 きっと普通じゃないって指を指されてしまうような私でも、大丈夫なんだ。
 毎年雪華祭で打ち上げられる花火を観てはそう言い聞かせて、自分を保ってきたけれど、そんな子供騙しにも限界がきてしまったみたいだ。
 
 ❀
 
 ——『笹月和花様の携帯電話でお間違いないでしょうか』
 
 三時間前、いつもならセールスだと思って応じることのない知らない番号からの電話に応じた。
 妙に冷静で義務的な声の女性から「今お時間大丈夫でしょうか」と尋ねられたとき、私は夕食を作っていた手とコンロの火を止めた。
 
 ——『お母様が先ほど緊急搬送されました』
 
 衝撃に頭が追いつかず、そのあとに言われたことはよく覚えていないけれど医師が処置を行っているとか、できるだけ早く病院に来てほしいとか、そんなことを言われていた気がする。
 病室で母が眠っている様子を確認したあと、談話室という場所に連れて行かれた。
 簡潔に言うと、母は自殺を図ったらしい。
 駅のホームに身を投げようとしたところを警備員に止められたことでパニックを起こし、呼吸が乱れてその場に倒れたのだそう。
 
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
 
 向かいに座る医師と看護師に、どうして私が頭を下げているんだろう。
 大丈夫ですから、と宥める声が後頭部をかする。大丈夫じゃない、全然大丈夫じゃないのに。この人たちはなにを持って大丈夫と言っているのだろう。母親が死のうとしたのに、平気でいられるわけがない。
 でも、私が顔を上げなければずっとこの部屋から出られない。母の経過を確認したいし、一人家に残してきた妹に連絡もしたい。そう割り切って、再び医師と目を合わせた。
 
「ここ数日のお母様のご様子をお伺いしてもいいですか」
「様子……」
「服薬についてや、体調、変わった様子があったかなど。わかる範囲でかまいませんので」
「精神科から処方されている薬を服用していて、変わった様子は……特に見当たりません」
 
 嘘をついた。
 嘘をつくことで、母は正常だと自分に言い聞かせたかったんだと思う。
 本当はここ数週間の母の様子はちょっと奇妙だった。
 日中は身体が泥のように重いと嘆いてベッドから動けないのに、夜になると部屋から物を壊す音や時には誰かと一緒にいるような笑い声がしてくる。食事も、水すら口にしない日もあれば、家にあるインスタント食品を片っ端から食べ尽くしてしまう日もある。饒舌な日、目がうつろな日、よく笑う日、死んでしまいたいと泣きついてくる日。
 死のうとした今日は、昔の母が乗り移ったように明るい日だった。
 朝から「ちょっと出掛けてくるね」と、手を振って家を出て行った。
 戸惑ったけれど、私は行ってらっしゃいと言えたことが純粋に嬉しかったのだ。
 和花って呼んでくれたことが幸せで、おかえりが言えないなんて考えてすらいなかった。
 
「お母様も大切ですが、和花さん自身の心を守る必要もあります。なので、こちらをご検討いただけないでしょうか」
 
 差し出されたのは、カウンセリングができる心療内科のパンフレットだった。
 中学の頃にも一度、家庭訪問へ訪れて母の様子に驚愕した当時の担任に勧められて半ば強制的に受診させられたことがある。話せる範囲の家庭の状況を伝え終えると、カウンセラーは。
 
『大変だったね』
 
 と、私の話を総括するように言い放った。
 補足するように『すべての気持ちをわかってあげることはできないけど、辛いのはわかるよ』と。
 悔しくて涙が止まらなかった。
 わかってたまるか、と率直に思った。
 私が泣いている理由を知った気になって背中をさすってくるカウンセラーの手を切り落としてやりたいとすら思ってしまった。
 自暴自棄になって暴れる母親に怖がる妹を慰める難しさ。
 母親が割った皿やグラスの処理で切れた指先の痛さ。
 どれだけ気を遣っても穏やかだった頃の母親からかけ離れていく姿を見る虚しさ。
 たった数十分話を聞いただけの相手に、わかられてたまるか。
 
「大丈夫です。母も、疲れが溜まっていただけだと思います」
 
 同じ方法で傷つきたくないし、誰かを憎くも思いたくなくもない。
 パンフレットを戻して丁重に断ったあと、意識の戻った母の様子を確認するため看護師とともに再び病室を訪れた。
 生気なく丸くなった背中でベットにもたれながら、うつろな目で私を見ている。親が娘に向ける視線にしては冷たすぎる。かける言葉がひとつも浮かんでこない。かけていい言葉すら、もう私にはわからない。
 大丈夫?
 ——この状態で大丈夫なわけないでしょ
 無理しないで
 ——口で言うだけなら簡単よ
 なにかあったら言って
 ——あんたに言ってなにが変わるの?
 なにかできることはある?
 ——なにもできなかったからこうなってるんでしょ
 口に出すべきか迷っている途中で、母からの答えが浮かんでくる。
 与えたい優しさも、温かさも、母は受け取る前に『要らない』と捨てる人であることを私は知っている。十八年間一緒にいた日々の中で、嫌でも知ってしまった。
 いつもなら捨てられることを承知で「要らない?」と尋ねるように言葉を渡しているけれど、今日はなにも言わないことにした。これ以上、私の心には傷をつける余白が見当たらなかった。
 病室を出て待合スペースの椅子に座っていると別の看護師に声をかけられた。話によると、心身共に経過観察が必要と判断されたために、母は今日家に帰れないらしい。緊急外来窓口にて診療費数千円を支払う。これで三日分の食費が消えた。
 
【連絡遅くなってごめんね、ご飯なにか食べた?】
【戸棚にあったカップ麺食べた! お姉ちゃんいつ帰ってくる?】
【よかった、日付変わるまでには帰るよ】
【そっか、お母さんは?】
【お母さんは用事が長引いちゃって今日は帰ってこられないって】
【わかったじゃあ先に寝ちゃってるかも。ちゃんと帰ってきてね】
 
 普段既読がつくまでに半日はかかる妹からすぐに返信がくる。十二歳であることを疑ってしまうくらい自立していて物分かりがいいあの子にも、幼いところと誰かを頼りたい気持ちが残っていることに安心してしまっている。いつも飄々としていて、いまいち本心がわからないから。私が十二歳の頃の家庭環境は最悪だったから、同じ苦しませ方をさせないように手探りで妹を守ってきたつもりだ。
 それなのにあの子は、どんどん空気を読むのが上手になって、母との距離を器用にとって、一人で暮らせてしまえそうなくらいの生活能力をいつの間にか習得していて。
 まだ十二歳なのに、早く大人に近づけさせてしまった。
 私は妹の、子どもでいられる時間を守れなかった。
 
【ちゃんと帰るからあったかくして寝ててね】
 
 でも、今日はまだ帰りたくないんだ。
 帰って妹の顔を見てしまったら、私が姉として強がってきた時間まで否定されたように感じてしまう。
 
 ❀
 
 高台から見下ろすと、住宅街の各家庭から橙の灯りが溢れている。
 そっとコンタクトを外した。
 私は目が悪いから、裸眼では橙の光の粒もぼやけて光の絨毯のように見える。
 アルバイトでのお給料を初めてもらった時、私はコンタクトを買った。眼鏡で十分だと思っていたけれど、仕事中に何度も掛け直す手間が億劫だったのと、顔に器具をつけている違和感を取り払いたくてネットで一番日割りの安いものを買った。
 外に出て目を開けた時、世界が生まれ変わったように綺麗に見えた。
 大袈裟なんかじゃなくて、本当にすべてが輝いていた。
 人の顔のパーツどころか表情まで、遠くで親子が繋いでいる手の形、帰り道に私を見つけて駆けてくる妹の笑った頬のしわまで見えた。
 数ミリのレンズによって、それまでモヤに埋もれていた幸せがはっきりと見える感覚は不思議で、生きていることを実感した。目が乾燥して痛くなってもまだ見ていたいと瞬きを繰り返してしまうほど。
 それなのに、今の私は他人の幸せを猛毒と感じてしまう。
 暖かい灯りから、笑顔で食卓を囲む光景が連想できてしまう。
 お父さん、お母さん。なんて、無邪気に呼ぶ声すら聞こえてくる気がする。
 幸せの集合体のような夜景を直視できるほど、私の心に余裕はない。
 視力が補正できた代わりに感受性が過敏になって、見えなくていいものまで見えてしまうようになった。
 せめて花火くらいは綺麗に観たいから、そのときは眼鏡をかければいい。
 いやこの際、花火すらぼやけていても構わない。この視力のまま帰路を辿って、途中で轢かれてしまってもいい。今の私には、そんな馬鹿げた覚悟ができてしまう。ある意味、無敵なのかもしれない。
 
 ピロンッ
 
 空気も読まずに鞄の中で鳴り響いた通知は、芹川さんの勢いに流されるがままインストールしたアプリからのもの。
 更新は、その日みんなで撮った写真で止まっていた。
 この【写真が更新されていません】と表示された期間の私が見ていた景色は——。
 洗い物が溜まったキッチン。
 母の薬の殻が落ちてる床。
 掃除が行き届かないせいでカビが残ってしまった壁。
 いくら振り返っても、私の日常に人に見せられるようなものはなにひとつない。
 このアプリの対象年齢は十五歳以上。
 じゃあ対象人間は?
 キラキラしてる子、素敵に生きてる子、きっとそうに違いない。
 ありふれた日常を共有しよう! なんて謳い文句が添えられているけれど、載せれる日常があるなんて幸せなことだと思う。ありふれた、なんて言葉でくくるにはあまりにもったいない。
 アプリを起動して、スマホのレンズを空に向ける。
 花火はまだだけど、催し物の提灯で祭らしい雰囲気が画面内に収まっている。
【写真が更新されました! フレンドの日常もチェック!】
 最初で最後の、自発的な投稿になるだろう。
 夜が明けたらまた、私の日常はくすんだものばかりになる。
 私はそっと画面を閉じた。
 
 夜風は、頬をなぞるときだけヒヤッと冷たい。
 知らぬ間に左頬だけ湿っていた。拭って、重い足を引きずるように坂を下った。
 二十一時を回ろうとしている、帰らないと。
 頭がぼーっとする。
 視界も、ぼやけていく。
 ただはっきり見えるのは、穏やかな夜に似合わない鋭い光。
 
 ——キィィィィッ
 
 タイヤがアスファルトを擦る音が耳をつんざく。
 
「危ねぇだろ! 死にてぇのか!」
 
 怒鳴り声が飛んでくる、顔を上げると開けられたトラックの窓から運転手がこちらを睨んでいた。応じるように浅く頭を下げたけれど、その怒声は私の内側にはまったく届いていないのがわかる。
 轢かれそうだったんだ。
 死にそうだったんだ。
 死に損なったんだ。
 霞んだ頭の奥でこの三つが交差している。感情の波は凪いだまま、動こうとしない。
 
 ただひとつだけ、引っかかっている。
 ……そうだ、あのとき。
 身体が投げ出される前に、確か——。
 腕を、掴まれた。
 その感触だけが、やけに現実味を持って残っている。
 ハッとして振り返ると。
 
「……浅桜さん」
 
 肩を上下させている、明らかに走ってきたあとの息遣い。
 腕にはまだ微かに彼女の手の温かさが残っている。
 
「なに、してるの……?」
『そんなこと私が聞きたいよ、なに考えてるの笹月さん』
 
 スマートフォンに打たれた文字自体に感情はないけれど、その震えた手や怒りのこもった瞳を見たとき、ようやく少しだけ現実が戻ってきた。
 浅桜さんが、私を助けてくれたんだ。
 
 ❀
 
 落ち着いて話そう、と坂を登った先にある神社の石段に笹月さんを連れてきてしまった。俯いている横顔は髪がかかってよく見えないけれど、丸くなった背中から容易に表情が想像できてしまう。
 
「……どうして私の場所、わかったの?」
 
 呟くようにポツリと空間に放たれた問いに答えるように、私は一枚の写真を彼女に向けた。
 
「これ……投稿してちょっとしか経ってないのに、見てたの?」
『フレンドが久しぶりの投稿をしたら通知がくるみたいでね。この写真見た時、行かないとって思ったの。雪華祭の会場内にいたからすぐに来れたの』
「どうして?」
『いつもと違うことをするとは、なにかあった合図だって思ってるから』
 
 直感で、会いにいかないといけない気がした。
 そして少し前、笹月さんと突然会えなくなったことを彼に相談した時にもらった「待っていてもしかたがないなら、動いてみるのも大事」という言葉に背を押されてここへ来た。
 まさかあと数秒駆け出すのが遅れていたら——なんて、考えることすら恐ろしい。
 ここへ来るまで手を繋いで来たけれど、笹月さんの手は冬の気温のせいにできないほど冷たかった。
 
『ココアとお茶どっちがいい?』
 
 そっと端末の画面を見せる。
 電子的な文字は気持ちが分かりづらくて好きじゃないけど、暗い環境ではこうするしかない。
 
『どっちもあんまり好きじゃないかな?』
 
 微動だにしない笹月さんを見ていると胸が苦しくなる。
 理由なんてわからないけれど、傷ついていることだけはわかる。ただ、どうすればいいかわからない。傷は優しさで覆ってあげたいけど、その優しさがなにも言わずに隣にいることなのか、溢れてくる涙を拾うように頷いたあとに気の利いた言葉をかけることなのか、私の頼りない人生経験では答えが出しきれない。
 
『そこの自販機で買ってくるからちょっと待っててね』
「——ないで」
 
 微かに聞こえた言葉は聞き間違いか。
 もう一回言ってほしい、の意味を込めて人差し指立ててみる。
 
「いかないで、ここにいて」
 
 普段弱さを器用に隠している人が吐く弱音は、どうしても聞き間違いを疑ってしまう。それは無意識のうちにこの人は強い人だと決めつけてしまっているようで、自分の浅はかさに申し訳なくなる。
 笹月さんの手を離さずに握っているのに、一向に暖かくならない。涙と一緒に体温まで溢れていくようで、私は耐えきれずそっと笹月さんを抱きしめた。
 
「……サバ缶」
 
 耳元で囁かれた、なんの脈絡もないその単語の意味を知りたくて文字を打てない代わりに、背中に回していた手をポンっと一度弾ませた。
 
「私ね、缶のココアが好きなの。でもそれ以上に浅桜さんがくれたサバ缶が好き、心があったかくなるの。でも今はないから、だから寒くてもいいからここにいて」
 
 笹月さんは笑顔を作れなくなるほど傷を抱えた状態になっていながらも気を遣って、冗談で引き止めた。私の耳元から彼女の頬が離れて見えた表情は、奇妙のくらい落ち着いていた。どちらが慰められているのかわからないくらいに冷静で、こんな時まで大人びているのにいつも感じる余裕を感じられないのは、笹月さんが感情を抑え込もうとしているからだと思う。
 
「バイト、なにも言わずに辞めちゃってごめんね。急に欠員出て大変だったよね」
 
 建前だったとしても、素直に弱さをみせられない性格のせいだったとしても、笹月さんはこんな時まで人を思いやれる性格で、その強がりが頼ってほしいと覚悟を決めている私にとっては壁に感じられた。
 
『心配しないで、スケジュール組み直しやすいのも通信の特権だもん』

 だから、吹っ切れたように伝えてみる。
 本当は『心配しないで』って言葉も『あなたなんていなくても大丈夫』と捉えられないか不安でたまらないけど、不自然に優しく寄り添うよりいいのかもしれない。人の気持ちなんてわからないから、かもしれない、の勘を頼りに本当の想いを探していきたい。
 
「浅桜さんも慣れてきたから辞めちゃっても大丈夫だったよね、すごいなぁほんとに……。私に割り振られるはずだったこともしてくれたんだよね、ありがとね」
 
 これだから言葉は難しい。
 声で感情のベールを着せられない文字は尚更難しい。
 喋りたい。喉元に手を当てて口を開けてみても、言葉は出てきてくれなかった。頭から降りてきた言葉が喉で固まって詰まるような感覚。
 無理だ、やっぱりまだ声は出せないんだ。
 そう悟った瞬間に指先が動き出して、喉元で詰まっていた言葉が溢れていくように文字になっていく。俯いている笹月さんの肩に触れて、私の方を振り向かせた。
 
『大丈夫だけど、大丈夫じゃなかったよ』
『心配した。シフト表の笹月さんの欄に斜線が引いてあって、若松さんに聞いてもなにも教えてもらえなかったからすっごい心配した』
 
 伝えるって、すごく難しい。
 伝えたいことをすべて意図を歪ませずに相手に渡すことは、どれだけ人類が進化しても課題として残り続けると思う。
 あの日、出勤確認で笹月さんの名前が呼ばれなかった日。シフト表の斜線をみた瞬間の困惑も、デスクの端に積んであったサバ缶がなかったことに気づいた時の衝撃も、突然のことに事情を確かめられず連絡先を交換していなかったことへの後悔として自分を責めたことも。すべて、心配、という言葉に収まってしまうのが憎い。
 全部文字にして伝えてみたらいいのかもしれないけど、言葉を選んで文章を整える過程を挟んでしまうと、作り物のように見えてしまいそう。
 
「ごめんね」
 
 謝ってほしいわけじゃないのに、と反射的に思ってしまったけれど今の私にならわかる。その一言に至るまで、捕えきれないほど膨大な感情の背景があるんだろう。
 
「ずっと言ってなかったけど、私の家……普通じゃないんだ」
 
 笹月さんの両手を包む。
 聴くことしかできない私が示せる最大の誠意と、どうか私に話をしている間だけでも心を許して安心感を抱いてほしいという願いを込めて。
 
「お母さん、精神的な病気を抱えてて、最近また調子がよくないみたいなの。六つ下に妹がいるから家のことは自然と私の役目になってて」
「生活費のために毎日バイトに入ってたんだけど、最近はお母さんの状態が悪くて、一人にするのが本当に危ない状態になちゃって。そばについていなきゃいけなくなって、欠勤が続くのは迷惑がかかるだろうから、ちゃんと話す間もなくて申し訳ないんだけど辞めることにしたんだ」
 
 その現状を嘆くわけでも、可哀想でしょなんて同情を求めるわけでもなく、ただ事実として、連絡事項として淡々とした口調で告げられてしまったことがより一層残酷だった。
 笹月さんは想像していたより辛い状況に在る、という前に、私は心配していたばっかりで最初から彼女がどんな状況に在るのか想像すらできていなかった。
 私は今動揺している。
 同じ年数を生きてきた子が、当たり前のように家族の面倒をみて、自分を犠牲にしていることに対して、理解したくないと頭が言っている。理解してしまったら、彼女が苦しんでいる現実がしょうがないことだと認めたことになってしまいそうで、必死に頭が拒否している。
 
「それにね、辞めるのはバイトだけじゃないの」
 
 無駄に冴えた勘によって浮かんだ次に言われることの予測を拭うように唇を噛む。
 十八歳の私たちが辞めるもの。
 逆を言うなら、十八歳の私たちが属しているもの。
 そんなの、そんなのもう、答えは一つしか——。
 
「学校も、退学することにした」
 
 あまりに予測を裏切ってくれないせいで握りしめていた手の力が抜けて、スマホの重みが太ももに落ちてくる。
 嘘だ。
 笹月さんは今の自分だけじゃなくて、未来の自分まで犠牲にしようとしている。
 嘘だと言ってほしい、その声で——。
 
「看病と家事とバイトで手一杯で、学校のことまで手が回らなくて。結局、単位が足りなくなって卒業できませんってこの間登校した時に言われちゃった。そんな状況で教師目指すとか、無茶な話だよね。自分でも笑っちゃうよ」
 
 今の笹月さん。
 未来の笹月さん。
 そして『教師になりたい』と素敵な夢を抱いていた過去の笹月さんまで、笑っちゃうよねと見放して犠牲にした。
 私の大切な人が三人、彼女が逆らうには重すぎる現実によって無慈悲に潰された。
 
「置かれた場所で咲きなさい、って言葉あるでしょ? あの言葉聞くとさ、一人だけ阻害されたような……省かれたような感覚になるんだよね」
「生まれた瞬間から、咲けるか咲けないかは決まってて、私は咲けない側の人間だって思い知らされるの。生まれる前に両親が離婚してるから父親は顔すら知らないし、お母さんは私が支えないといけなくなって。頼れる人なんていなかったし、誰かを頼る賢さもなかった。気づいた時には頼られる人でいないといけなかった。背が高いせいで大人っぽい印象を持たれるから、それを裏切っちゃいけないプレッシャーもあったし。全部しょうがなかったの、そういう環境に生まれちゃったんだから」
 
 そう言い終えたところでやっと目があった。
 一仕事終えた、みたいな解放感すら感じられる大袈裟な背伸びをした彼女は、私の頬をクッと摘んでほぐすように揺すった。母親が我が子に笑って言うように。
 今、この空間に声はないけれど言葉は聞こえてくる。
 そんなに硬い顔しないでよ、笑ってよ、酷な話をしてて私だって戸惑ってるんだからそんな顔されたら余計困るよ。
 でも、私は愛想笑いすらしたくなかった。
 言っちゃいけない言葉があるのと同じように、笑っちゃいけない場面もあると思う。
 
「今度、退学届を提出したら全部綺麗に済むんだ。卒業したかったけど、高校生の勉強ちゃんとして大学生になって教師になりたかったけど、叶わないならしかたないって言い聞かせてる。お母さんの病気が良くなるなんて思えないし、妹に学費で不自由な思いはさせたくない。家事もしないわけにはいかないし、不器用な私には、それを両立できる自信はない」
 
 無表情だったであろう私の顔が口元あたりから歪んでいるのがわかる。
 唇から、鼻、頬、目だけは閉じちゃいけないと必死に堪えている。
 目の奥が痛くなるのを感じて急いで端末の画面に触れる。視界がぼやける前に、指先が濡れてしまう前に。私が、慰めの言葉を渡されてしまう前に。
 
『いかないで』
 
 笑顔を作れない代わりに本音で、笹月さんを引き止めないと。
 
『いかないで、ここにいてほしい』
 
 言葉を選ばず、文章を整えず、建前と嘘を除いた本音は無責任な言葉ばかり。
 笹月さんが犠牲にした三人の笹月さん。私としては、全員守られてほしい。
 でも、未来と過去の笹月さんを守れるのは、今の笹月さんしかいない。
 それなら、私ができることは今の笹月さんを守ること。
 
『直接的に生活を支えることは難しいのかもしれない、でも、たとえば作った食事を持っていくとか、妹さんに家庭教師代わりに勉強を教えるとか。私にもできること、探せばきっとあるはずだから』
『だから力にならせてくれないかな』
 
 最後の言葉は、私の好きな人からの貰いものだ。
 塞ぎ込んでいた私が、顔を上げて差し伸べられた手に気づけるようになったきっかけの言葉。
 笹月さんは一瞬深刻そうな表情を浮かべて、それを打ち消すように深く息を吸い込んで。
 
「浅桜さんの優しさを、私は拒みたくない。でも、そんな、たった数ヶ月前に出会ったばかりの浅桜さんにかけれる迷惑の量じゃないよ」
『たった数ヶ月?』
「違うよ、浅桜さんとの関係性を軽んじてるわけじゃない。ただ、出会って間もない相手が背負うには重すぎると思うんだ」
 
 諦めの選択肢で視野を塞いでしまっているせいで発された言葉に胸が締め付けられる。笹月さんの言っていることは、間違いじゃない。誰かを頼るなら、大きなことを任せるなら、それなりに長い付き合いの中で信頼関係を気づけた相手を選ぶのがいい。でも、彼女の場合は違う、だからこそあえて折れずに言葉にし続ける。
 
『十八年生きてきて頼れる存在に出会えなかった。きっと、過ごした月日なんて関係ないんだよ。それなら。たった数ヶ月の仲だったとしても、頼れる存在になれるか、試す価値くらいあると思う』
 
 動悸がする、理由はわかっている。
 夏希を言葉で傷つけてから、いや、生まれて初めて、傷つける覚悟を持って言葉を使ったから。
 頼り方がわからないことへ抱いた笹月さんの葛藤を否定して、だから私を信じて。って、強引に。手を差し伸べるなんて表現じゃ足りない、腕を掴む勢いで彼女を説得したかったから。
 頼っていい人がわからないなら、私で試してみたらいい。
 その裏に、試した上で私が頼りなかったら捨てられても構わない、なんて私らしくない覚悟がある。
 笹月さんが傷ついてしまっているなら、一緒に傷ついて構わない。大丈夫になるための過程で傷の舐め合いをしたとしても、その先で一緒に笑えていたら私はそれでいいと思った。
 私のために、先に傷ついてくれたのは笹月さんだから。
 忙しくて、生活に余裕なんてなくて、無駄な仕事も邪魔もされたくない時に、寛大に受け入れて歩み寄ってくれたから。
 
『笹月さんの隣にいさせてほしい』
 
 彼女の力になることは、数分前に打ち明けられたことの実態に触れることだと思う。
 置かれている環境の悲惨さを痛感するだろうし、家庭環境に窮屈さを感じたことがない私自身の状況と重ねて胸が痛くなることもあるだろう。目を瞑ることも背けることもできない中で、それでも私は力になれたらという思いは揺らがなかったから。
 だから今も、笹月さんとずっと目を合わせていられるんだ。
 
「じゃあ一つ、お願い叶えてくれるかな」
『私に叶えられることならなんだって』
「下の名前で呼んで?」
 
 笹月さんの願い事はあまりに単純で、それでいてきっと深い意味を含んでいる。
 
「私が留年して、学年的に私が後輩になっても下の名前で呼んでほしい」
 
 退学の未来が、留年に変わった。
 
『和花ちゃん』
「そう、そしてね——」
 
 ——「ずっと友だちでいてほしいんだ」
 
 “笹月さん“の仮面が砕けて、和花ちゃんの頬に滴が伝った。
 
『私はずっと、和花ちゃんの友だちでいる』
 
 聞き間違いがなくていい。
 音声では気づけない言葉の綺麗さに気づける。
 そして今、もう一つ気づけた声が出せないからこそのいいこと。
 この言葉が、永遠に文字として残ること。
 友だちになろう、なんてやり取りを最後にしたのは幼稚園くらいだろうか。遠すぎて覚えていない。それくらい、友だちは成り行きでなるもので、止める間も与えられないくらい突然辞めてしまうものだと思う。
 私たちは、決して脆くない約束を交わした。
 
「家庭環境がこんなんだからさ、保護者の間で噂が回っちゃったりして、友だちみんな離れていっちゃうの。お金なかったり、放課後の時間も融通聞かなかったり、付き合い悪いとか言われたりもしたし。それならもう友だちなんて要らないから家族のために時間を使おうって思って通信に入学したんだけど——」
 
 濡れた頬と未だ涙が溜まり続ける目の淵を拭う。
 
「留年間近になって友だちになりたい子と出会っちゃうなんてね」
 
 和花ちゃんの目には、打ち上がる夜空の花々が反射して映った。
 偶然だけど、俯いていたら映るものも映らないんだから、これは偶然だけじゃない。
 
「咲ちゃん」
「私がずっと言えなかったこと、助けを求めたり、友だちになってほしいとかの言葉、引き出してくれてありがとう。死んじゃう前に言えてよかった……!」
 
『私もずっと友だちがほしかった、でも誰でもいいってわけじゃないから』
『和花ちゃんと友だちになれてすっごく嬉しい』
 
 小さくてカラフルな花火の連打が止み、大きな純白の花が世界を覆うように咲いた。
 視界がパッと明るくなって、彼女の笑顔と頬の涙の跡まではっきり見える。
 これもきっと、偶然だけじゃないと思う。
 和花ちゃんの表情が素敵だと思えるのは、この数分間の私たちが在ったからだ。
 なにも知らずに入ったバイト先に彼女がいたことも。
 私たちに友だちがいなかったことも。
 私たちがなかなか素直になれない性格だったことも。
 だからこそ、理解しあえて心を許し合えたことも。
 人生は偶然と片付けるにはもったいないくらい素敵なことで溢れてるんじゃないかと思えてくる。全部全部、余すことなく、意味があるんじゃないかって思える。
 
『生まれてきてくれてありがとう』
 
 だから、唯一の完全な偶然に感謝を伝えた。
 突然の大規模なありがとうに和花ちゃんは戸惑っていたけれど、すぐに受け取って言葉の代わりに抱きしめてくれた。
 それからは、二人して今夜の主役を眺めた。
 次に打ち上がる色を当てたり、空で歪になったキャラクターを模った花火の正体を当てたり、高校生らしい空気感に包まれながら。
 
「でも、咲ちゃんどうして一人で?」
『どういう意味?』
「桃瀬さんと一緒に来てるのかなって」
 
 少し前の教室でのやり取りといい、和花ちゃんは意外と恋話を自分から振ってくる。
 
「咲ちゃんと桃瀬さん両想いなのかなって二人のことみて思っててさ」
 
 両想い、だったらいいのに。
 せめて片想いなら、そうと知らせてくれたらいいのに。
 桃瀬くんとの連絡は、誘いを断られたところで止まったまま。
 彼も今、この会場内にいるのだろうか。この花火を観ているなら、その隣には誰がいるんだろう。
 考えるほどわからない、わかりたくない。
 どれだけ考えたって、隣に私がいないことは変わらないんだから。
 
『好きだよ、私はとっても』
 
 初めて、人に好意を明かした。
 赤くなってしまった顔を花火の赤が誤魔化してくれているのは、桃瀬くんへ【また誘うね】と返信できた私へのご褒美だと思う。
 
 ❀
 
 冬の夜空に咲いた花を、僕は部屋の小さな窓から見つめていた。
 卒業して進学のためにこの街を出る僕にとって、最後の花火。
 
「ここからでも結構綺麗に見えるのね」
「……姉ちゃん」
「あー無理に声出さなくて大丈夫だから、様子見に来ただけだし」
「お医者さんも言ってた通りパニックになって出せなかっただけだから」
「様子って別に身体のことだけじゃないからね? あんまり言っても鬱陶しいだろうけどさ」

 冬に似合わない薄いスウェットを着て、マグカップを包むように持って暖をとっている。
 きっとリビングは暖かいんだろう。窓も大きくて花火だって見えるのに、気を遣ってわざわざ寒い僕の部屋に来てくれたんだ。その優しさに罪悪感を抱いてしまう。

「雪華祭、誰かに誘われたりしてなかったの?」
「咲から……、この前話した転校生の子、ほら写真も見せたじゃん?」
「好きなんだ」
「いや、別に」
「じゃあ嫌い? 無関心とは言わせないよ?」
「僕は好きだよ、言えないけど」
 
 気を遣った姉は廊下から声をかけ、そのまま部屋に入らずに階段を降りていった。
 扉のすぐ横にある鏡に僕が写っている。不貞腐れて情けない顔だけじゃなくて、かっこ悪い猫背まで偽ることなく、しっかり。
 
「あー、ああー」
 
 喉元に手を置いて適当な発声をしてみる。
 鎮痛剤で消しきれなかった痛みや、掠れ、意思と関係なく裏返ってしまうなどの違和感はあるけれど、まったく出ないわけではない。
 不幸中の幸い、なのか。
 それでも最短の受診日と指定された時間が雪華祭の日時が被ったことに焦点を当てれば、幸中の不幸なのか。
 どちらにしても、咲と一緒に花火を観れなかったことは心残りだった。
 咲は誰と花火を観ているだろう。
 笹月さんでも誘ったのか、それとも部屋の窓から僕と同じ構図で観ているか。
 
【花火綺麗だね】
 
 きっとこの瞬間同じものを見つめているのなら、せめて気持ちの共有ができたらと文字を打ったところで僕の視線は指先の少し上へ向いた。
 
【明後日の雪華祭一緒に行かない?】2025/12/13/23:14
【ごめん、用事ができちゃって行けそうにないんだ】2025/12/14/15:03
【それならしかたないね、また誘うね】2025/12/14/15:06
 
 いや、誘いを断っておいてそんな白々しい態度を取るのは違う気がする。
 ごめんなさい、咲。
 すれ違ってばっかりでごめんなさい。
 そして十二月の近況報告会を、僕がないものにしてしまって——。
 
 ——【ごめんね】2025/12/15/22:34