誰もいないことに甘えて、エアコンの風向きを自分の座る位置へ設定し直す。夏休み明け最初の登校日も、僕は変わらず窓際の席で一人提出課題に取り組んでいた。週の半分を補習にあてていたせいで、教室に久しぶりという感じはなかった。けれど、それも受験生という期間限定の特別な感覚のような気がして、悪くは思わなかった。
実技ではなく知識の面で音楽に携わっていたくて大学に進学することを決めたのは、つい先週のこと。
トントンっ
音がした方向に振り向くと、扉のガラスの部分から教室を覗く咲の瞳が見えた。いつもならノックなんてせずに入ってきて『おはよう』を渡してくれるのに、今日はなにかあるのだろうか。様子を伺っていると、咲がちらちらうしろに目配せをしているのが見えた。その微笑みから、ソワソワして浮ついた雰囲気を感じる。目があって、僕が首を傾げると『こっちこっち』と急かすように手招かれたので扉の前へ向かうと、咲の隣にもう一人女子生徒がいた。初めまして、いや、僕はこの人を知っている気がする。曖昧すぎる記憶だけど、もしかして——。
「……笹月さん?」
「確か桃瀬さんですよね、去年ほんとに少しだけ登校日が被って……」
「やっぱり! お久しぶりですねっ」
一年前に教えったはずの名前すら曖昧な、僕の中で幻に近いクラスメイト。少し前から咲を通して話は聞いていたけれど、実在したんだ。会ったことがあるといっても、記憶はないに等しいから感覚的には初対面も同然。彼女は想像通り、落ち着いていて礼儀正しくて、生徒というより教師のような雰囲気を纏っている。
「……どうかしましたか?」
まずい、頭の中に渋滞した独り言に気を取られて無意識のうちにぼーっとしていた。
「いや、その、実在するんだなって」
どうにかフランクな受け答えを絞り出した結果、思い浮かんでいた言葉をそのまま口に出してしまった。
完全に失態だ。
「実在? ですか?」
「ずっとクラスメイト三人で教室に集まれたらいいなって思ってたんです。でもほら、通信って登校時間自由だからなかなか揃わないじゃないですか。咲から笹月さんの話を聞いてたから、存在は知ってたんですけど実際に本人と対面して、咲が捕まえてきてくれたんだ、みたいな」
なんとか文章を整えて言葉を変換しながら話すことを心がけたのに、自分でも引いてしまうくらいにしどろもどろで、途中から話の終点を見失った話し方をしてしまった。初対面は印象が命なのに、変な人認定を下されたらどうしよう。そうなったら教室に全員で揃うことも、僕のせいで最後になってしまうかもしれない。
「ふふ、桃瀬さんって面白いです。捕まえたって、私のことモンスターかなにかだと思ってます?」
「いや、モンスターというより、どちらかというとユニコーン?」
「幻ってことですか?」
「なんでこんなよくわかんない例えで伝わるんです!?」
笹月さんは、僕が思っていたよりずっと砕けた性格なのかもしれない。
ほとんど無茶振りの冗談が通じてしまうボキャブラリーと、笑う時に口元を覆う上品な仕草のギャップから親しみやすさを覚えた。しっかりしていて真面目な人だけど堅くないと話していた咲の気持ちがよくわかる。
「咲」
『どうしたの?』
「連れてきてくれてありがとう」
咲の顔がパッと明るくなる。
連鎖するように笹月さんの口角も上がって、僕までにやけてしまいそうになる。咲の笑顔は周囲にいる人すら巻き込んでしまう不思議な魔法がある。
すると僕にそっと、メモを向けてくる。そしてアイコンタクトを取るように目を合わせてきた。
『私も桃瀬くんみたいにかしこまらずに笹月さんと話したい』
表情だけじゃなくて、心ごと、言葉まで素直になった咲を僕は心からすごいと思っている。春ごろの出会ったばかりの咲だったら、話したいという気持ちを怖さに呑み込まれてしまっていてもおかしくない。視線を伝って受け取った『伝えてみてもいいよね?』の合図に応えるようにポンっと、背を叩いた。
咲は張り切って頷いたあと、僕に見せていたページを笹月さんに向け直した。
「私もいつ言い出そうかなって迷ってたの、やっぱり最初に先輩後輩の関係になっちゃうと無意識に上下関係を感じちゃう気がして……わかった! 今から一つルールを設けます!」
「閃いた!」と言わんばかりにパンっと手を叩いたその上には、まるで電球のマークが浮かんでいるかのようだった。扉のすこし外側に立っていた笹月さんが軽い足取りで駆けた先は、教壇の上。普段使われないせいで真新しい白チョークを摘んで、黒板に文字が並べられていく。
一文字、二文字……、この時点で完成系が予想できた。最終的に、大きな四文字が書き並べられた。
「このクラスメイト三人の間での敬語を禁止しますっ!」
その四文字というのは言うまでもなく【敬語禁止】だ。
ありきたりな気もするけれど、話し方を変えるのは距離を縮めるための近道なのかもしれない。砕けた口調で交わされる会話に、おそらく変わらないであろう『〇〇さん』呼びが混じるのは違和感があるけれど、それもそれで僕たちが僕たちの意思で仲を深めた痕跡のように感じられて愛着が湧いてきそうだ。
笹月さんからの提案に咲は目を輝かせて頷きながら『ありがとう笹月さん』と、早速ルールに則って書いてみせた。その素直さをみて、この人には敵わないなと思った。
敵わないくらい素晴らしい、素敵な人だと。
だから僕も追いつきたくて——。
「咲も笹月さんも仲良くよろしくね」
堅苦しい語尾をなくしてみた。
教壇から降りた笹月さんは僕の前の席へ、咲はいつも通り隣の席へ着く。それから一時間ほど各々提出課題に向き合って、チャイムが鳴ると二人はバイトに行かなければいけないからと荷物をまとめ始めた。
「桃瀬さんは何時までいるの?」
「僕もあと一時間くらいしたら出ようかな」
『帰り道気をつけてね』
「もちろん! ちゃんと電気と冷房も消してくから安心してっ」
二人に手を振って見送ると、僕はまた教室に一人になった。
でも、今までの一人とは全然違う。
できる限り綺麗に消された黒板にうっすら浮かぶ【敬語禁止】の跡や、微妙に位置のずれている椅子と机。
僕は一人だけど独りじゃない。
ガラッ
勢いよく扉の開く音がして反射的に振り向くと、咲がいた。息が上がっていて、前髪が乱れていて、走ってきたのがよくわかる。忘れ物でもしたのかと思って、さっきまで彼女が座っていた席の机を覗いた瞬間、僕の机上になにかが置かれたのが見えた。
『今度、ちょっと付き合ってほしい』
とだけ書かれたメモの切れ端。
頭の中は疑問符でいっぱい。
付き合ってほしい、ってどう言う意味?
追求する隙もなく、彼女は無邪気に手を振って教室を駆け去っていった。
❀
「そういえば桃瀬さんと浅桜さんってどんな子がタイプなの?」
空は茜色に染まっていて、黒板の影がじんわりと伸びている十六時過ぎ。
不意に、前の席からくるりとこちらを振り返って笹月さんがそう言った。教科書を閉じていた指先がぴたりと止まる。恋話なんてするイメージがない彼女が言い出したせいで空気が一瞬揺れた気がして、隣をみてみるも咲も驚いたまま固まっている。
「笹月さんがそういう話するのイメージにないっていうか、初めてじゃない?」
「さっきの国語で読んだ古文のせいかな、ほらこれ」
教科書で指さされたのは鎌倉時代に詠まれた恋文の解説。
『思ふかたに 聞きしひとまの 一言よ さてもいかにと いふ道もなし』
思いを寄せている人に気持ちを伝えたいけれど、その一言がどうしても言えず伝える手立てもない。そんな切ない心情が込められた詩らしい。
現代に負けないくらい甘酸っぱい。
「なんか恋の詩になると片想いとか両片想いが多くてさ、愛の詩になると両想いとか、人生を添い遂げる相手への詩が多い気がする」
「両片想いも立派な愛なのにな」
「浅桜くん急に真面目な顔で真剣なこと言うね」
「ちょっと前に読んだ小説がちょうど両片想いの二人の話でさ、ほら咲覚えてない? 前話したやつ」
『覚えてるよ、表紙が綺麗な』
他人が読んだ小説の話なんて些細なことを、咲が記憶に残してくれていて嬉しい。
「ってことは浅桜さんも恋愛の興味あるんだね?」
笹月さんから視線を向けられた咲は恥ずかしそうに目をぱちくりさせたあと、なにかを書き始めた。頬から耳にかけてほんのり赤くなっていくのは夕陽のせいなんかじゃなくて、もっと可愛らしい理由。
『ちょっとある』
顔を半分隠すようにノートが掲げられて、照れ隠しのためかブンブン首を振っている。おかしくなって僕と笹月さんが笑うと、やめてよー! と言わんばかりに口元に人差し指を立てて『しー! 静かに!』の仕草をしてみせた。
『からかったなら次は桃瀬くんの番だからね』
「え、僕?」
『桃瀬くんってどんな子がタイプなの?』
なんとか誤魔化せたと思っていたのに振り出しに戻ってしまった。
からかう準備万端と言わんばかりにニヤッと悪い微笑みを浮かべている笹月さん。隣に視線を向けると妙にまっすぐ僕を見つめる咲。
「ショートの子、可愛いなぁって。強いて言うならタイプかな」
どうだ、どちらにも該当しない条件をタイプとして言うことに成功した。
『それってさ、私と笹月さんがロングだから避難のためにショートって言ったんじゃなくて?』
「浅桜さん鋭い! どうなんですか被告人!」
「人を勝手に裁くな!」
今更気づいた、二対一の恋話ってもしかして相当不利なんじゃないか?
笹月さんばかり警戒していたけれど、咲も意外と意地悪に切り込んだ聞き方をしてくることに驚いた。正直僕は、髪がロングかショートかなんて、その人に似合っていればその髪型が素晴らしい派だから、ここで折れてロング派に寝返ってもいい気がするけれど、二対一の構図が固められてしまった以上、素直に勢いに流されるわけにもいかない。
「いーや、僕は列記としたショート派だ」
「それじゃあショートのいいとこ十個言ってよ」
『私書記する! 裁判官は笹月さんに任せた!』
「浅桜さんの字は綺麗で早くて読みやすいからね! 書記適役!」
「だから人を裁こうとするな!」
高校生の放課後らしい。
漠然とそう思った。
教室には三人しかおらず異様な数の空席が並んでいるし、誰一人制服を着ていないし、僕たちは世間一般が持つ高校生のイメージとは遠いところにあるのかもしれないけど、好きなタイプなんて単純なテーマでここまでの心理戦と喜怒哀楽を交差し合えるんだ。
充実している、青春している。
らしさ、なんて言葉は好きじゃないけど、この教室のこの風景は僕が思い描いた高校生らしさそのものだった。
❀
改札を抜けたところで僕はすぐに咲を見つけた。
駅前のロータリーで制服の上にカーディガンを羽織って僕に小さく手を振っている。
「おはよ、咲」
『桃瀬くんおはよ』
普段私服で登校していることもあって、見慣れない制服姿に見惚れてしまう。
昨日の夜、明日はせっかくだから制服っぽい格好で行くねという予告をされてしまってから僕の頭は期待と妄想で溢れていた。コスプレみたいで似合わないかも、なんてかけられた保険すら可愛いに決まってるだろ! と無意識に取っ払って。
「制服似合ってるよ、すっごい可愛い」
『よかった、ちゃんと可愛い高校生になれたね』
照れながらも無邪気にニコッと笑う表情は真昼の空より眩しい。
オープンキャンパスデート。
今度ちょっと付き合ってほしい、の正体はこのことだったらしい。
お堅いイメージのあることすら、咲に誘われてしまえば純粋なイベントとして捉えることができる。緊張してしまうだろうから付き合ってほしいと連絡が来た先週の土曜日は、嬉しさでベッドから転げ落ちてしまうかと思った。
電車を降りて、大学までの街路樹が連なる坂道を並んで歩く。
「……なんか立ってるだけで圧倒されちゃうね」
キャンパスは思っていたよりずっと広くて、学生や保護者、現役大学生らしき集団が行き交って、その人の密度に息を呑んだ。受付で手渡された案内地図を見ながら、手探りで初めましての校舎と人のざわめきをかき分けて進んでいく。
案内された教室に入る。説明会用の資料を手に持ったまま、咲は空いている二人席に座って、僕を手招いた。
「こういうのって保護者と来る人が多いイメージだけど、咲は大丈夫だったの?」
『来月にもう一回あるからそのときにお母さんを連れてくる予定だよ』
「そっか、それならお母さんも安心だね」
『それに今日は私と桃瀬くんの二人きりじゃないと』
「え?」
『デートでしょ?』
あざとい、こんなに突然仕掛けてくるなんてずるい。
僕が動揺して落としたボールペンを手渡してくれたとき、してやったりという顔で笑っていたのも含めて、今のは僕の完全敗北だ。射抜かれた。
熱が冷めないままスクリーンに映る学生生活の様子や、カリキュラムの話が淡々と始まった。長話も退屈と感じなかったのは、咲がときどき身を乗り出して聞き入る姿を横目に見ていたからだと思う。
「いろいろ気になる施設があると思うけど、どこから見て回ろうか」
説明会のあとは、校舎内の自由見学時間。
綺麗に整備された中庭を歩いたり、掲示板のサークルポスターを眺めてはそのユニークさに笑ったり、模擬店の出店を覗いたり。
『学食試食カフェでちょっと休憩しない?』
咲からの提案に乗って壁に貼られた食堂までの矢印に沿って歩く。
食堂のおばちゃんと呼ばれる従業員と料理サークルの学生が運営しているらしく、木目調のテーブルが並ぶおしゃれな雰囲気が漂っていた。僕たちは、おすすめ! と推されていた日替わり定食と中華飯ランチをそれぞれ注文してテラス席に座った。
「はい! お待たせしましたね、日替わり定食の方っ!」
「わぁ美味しそう……ありがとうございます!」
「それと中華飯ランチがこっちのお姉さんね!」
二人の前に空腹を加速させる湯気が昇る。
手を合わせて食べ始めようと僕が箸に触れたとき、彼女の視線がちらちらと動いているのが見えた。
「どうしたの?」
『箸がなくて』
来客の多さから注文が重なって、つけ忘れてしまったのだろう。タイミングよく通りかかった先ほど料理を提供してくれたおばちゃんに声をかける。
「ごめんなさいね! 忙しくって忘れたわ。でもお姉さんもちゃんと自分で言わなきゃダメよ?」
慌ただしい様子で誤って即座に箸を渡してくれたあと、私的混じりの冗談を言って厨房へ戻っていった。気を取り直して手を合わせる、ちょっとだけ大袈裟に『美味しそうだよ! いただきます!』と言って咲を巻き込むように視線を向けると、必要な場面で咄嗟に声を出すことができなかったことに顔を赤らめて俯いてしまっている。
恥ずかしさなのか、自分への悔しさなのか。
今の気持ちを知りたくて、僕はレシートの裏面とボールペンをそっと差し出した。
『大学生になるまでには、喋れるようになりたいな』
咲からは、紛れもない希望が返ってきた。
どう励ますべきかを必死に考えていた僕の頭の中を押し流してしまうような、前向きな言葉。
『なるさ、必ず叶うよ』
僕はあえて文字で言葉を返した。
事実、咲は出会った頃から確実に変わっていっている、殻を破ってる。
無表情だった顔にパッと笑顔が咲くようになって。
元に戻る方法を探す途中で、僕を頼る、人を頼ることを知って。
笹月さんとの距離も咲が、咲の力で縮めて、僕と笹月さんを出会わせてくれた。
もう、元通りを辿るなんて域を超えている。
咲は、誰も知らない素敵な姿に変わろうとしている。
『桃瀬くんが言う「必ず」なら、嘘じゃないね』
そっか、僕の言葉なら、まっすぐ受け取ってくれるんだ。
少しだけ遠回りな『あなたなら特別』を渡されたことに気づく。
だから僕も、遠回りでもいいから『あなたはすごい』って伝えたくなった。
「今日誘うことだって緊張しただろうに、僕に声をかけてくれたのは咲が変われてる証拠だから、だから必ずって言えるんだ」
『緊張はちょっとだけね、でも違うの。今日誘えたのは大丈夫だって思えたから』
本当に、咲はずるい人だと思う。
ずるいくらい可愛らしくて、素敵な人。
声に出せないだけで頭の中にはいろんな言葉があって、僕の知らない伝え方を知っていて、言い回しの種類を持っていて、僕の心を幸せで溢れさせてくれる。
そうじゃないと、こんなこと言えるはずがない。
『当たって砕けろ、って言うでしょ? 桃瀬くんは私を砕けさせないと思ったの』
❀
タイトルは、架空キャンパスライフ。
そう打ったところでキーボードから人差し指を離し、パソコンの画面を閉じた。
現代文で出された実話をもとにした創作小説の課題。
指定されたファイルに提出すると、自動的にAI添削され、文章力、構成力、誤字脱字などの各項目が速やかに採点される仕組みになっているらしいから人物の名前や出来事も恥じずにあったままを描いた。
咲とは一ヶ月以上会えていない。
この小説を読んだ人はきっと、幸せそうだなとか、青春っていいなとか、リア充爆発しろとか、そういう爽やかな色がよく似合う感想を抱くだろう。
そして仮に『この文章を書いた著者の気持ちを答えよ』なんて設問があったとして、片想いの異性との特別な時間を愛おしく思う気持ち、と答えられるのが妥当だと思う。誰も、片想いの異性としばらく会えていない寂しさを埋めるために、幸せな時間の記憶を掘り返して自分自身を慰めようとする気持ち、なんて正解には辿りつかないだろう。
【咲、今夜忙しかったりする?】2025/11/15/16:30
【ごめんね今日は夜までバイトなの……! なにかあった?】2025/11/15/17:30
【十五日だなって思ってさ】2025/11/15/17:32
【もう一ヶ月の半分かぁ、あっという間だよね】2025/11/15/17:40
咲とのやりとりの履歴を先月までさかのぼると、忘れられたあとが残っていた。
十五日の近況報告、恋人でもない僕と咲の間にある唯一の約束。
アルバイトを急遽辞めた人がいて忙しいことは聞いていたし、なにもそこまで十五日にこだわる理由もない。ただ、一ヶ月の折り返し地点で気持ちを整理できたら心の負荷を軽くできるだろうと決めただけだし。
今日は忙しいから明日にしようとか、通話は難しいからメッセージ機能を使って書き残しておこうとか、とにかく咲が十五日の約束について触れてくれたら僕は寂しさなんて抱いていないだろうなんて勝手なことを思ってしまう。
——『覚えてるよ、表紙が綺麗な』
あんなに些細な小説の話を覚えていてくれたのに、二人の約束を忘れられてしまったことがショックでその日はうまく眠れなかった。
なんて感傷に浸りながら最低限の誤字脱字の修正を終えて、提出完了の表示を確認したあとベッドに飛び込んだ。
明日、咲は教室にいるだろうか。
最近は咲どころか笹月さんの姿もみない。
転校してからお世話になっているあの教室を僕は空箱だと思っていた。誰もいなくて、音もなくて、冷たくて、空気もなんだか生気がなくて。だからいつも窓際の一番日が差す席に座ってた。
そこに咲が来て、笹月さんが来て。
賑やかさを知ってしまってからの静かな教室は、時々耐えれないほど寂しくなる。
空箱での孤独感が蘇ってくるように。
ピコンっ
左耳の少し上から、枕に埋もれているせいでこもっている通知音と振動が伝わってきた。手探りでスマートフォンを掴んで画面を見る。
【明後日の雪華祭一緒に行かない?】2025/12/13/24:13
オープンキャンパス以来のデートの誘い。
最近は時間が合わないせいで単なる日常会話が続いていたから、その一通が画面内で幸せな雰囲気を纏って浮いているようにすら感じる。
心が躍るという言葉がよく似合う鼓動の早まり方をしているのがわかる。眠ろうとしているところにハッピーな爆弾を仕掛けられてしまった。
それに、明後日は十五日だ。
朝起きて、夢じゃないことを確認して返信しよう。
決まりきった答えと破裂しそうな嬉しさを抑え込んで目を瞑った。
❀
翌朝、目を覚ますと喉の辺りに違和感を覚えた。
痛い、というか、なにかが引っ掛かっている、というか。誤魔化すように机の上にあるペットボトルの水を飲んでみたけれどよくわからないままだった。
階段を降りると誰もいないはずのリビングから音がして、焦って覗くとなぜか姉の姿があった。
「姉ちゃ——」
——え、嘘、なんで。
「椋おはよ、急に帰ってきちゃってごめんね」
仕事関連らしい書類を広げながら、前回会った帰り際の居心地の悪さなんて取り払ったような優しい笑顔を僕に向けてきた。
「こっちで仕事が入っちゃってさ、せっかくなら帰省しちゃおっかなって思って来たんだけど椋、今日は学校?」
そうだよ、今から登校するはずだった。
それなのに、どうして、怖い、どうして。
「椋、顔色悪いけど……大丈夫?」
スマホ、ベッドの上に置きっぱなしだ。
なにか書けるもの、電話代の横にあるメモ帳と、適当なボールペン。
怖い、いやだ、なんで、だって、昨日の夜まで普通だったのに。
——『声が出ない』
実技ではなく知識の面で音楽に携わっていたくて大学に進学することを決めたのは、つい先週のこと。
トントンっ
音がした方向に振り向くと、扉のガラスの部分から教室を覗く咲の瞳が見えた。いつもならノックなんてせずに入ってきて『おはよう』を渡してくれるのに、今日はなにかあるのだろうか。様子を伺っていると、咲がちらちらうしろに目配せをしているのが見えた。その微笑みから、ソワソワして浮ついた雰囲気を感じる。目があって、僕が首を傾げると『こっちこっち』と急かすように手招かれたので扉の前へ向かうと、咲の隣にもう一人女子生徒がいた。初めまして、いや、僕はこの人を知っている気がする。曖昧すぎる記憶だけど、もしかして——。
「……笹月さん?」
「確か桃瀬さんですよね、去年ほんとに少しだけ登校日が被って……」
「やっぱり! お久しぶりですねっ」
一年前に教えったはずの名前すら曖昧な、僕の中で幻に近いクラスメイト。少し前から咲を通して話は聞いていたけれど、実在したんだ。会ったことがあるといっても、記憶はないに等しいから感覚的には初対面も同然。彼女は想像通り、落ち着いていて礼儀正しくて、生徒というより教師のような雰囲気を纏っている。
「……どうかしましたか?」
まずい、頭の中に渋滞した独り言に気を取られて無意識のうちにぼーっとしていた。
「いや、その、実在するんだなって」
どうにかフランクな受け答えを絞り出した結果、思い浮かんでいた言葉をそのまま口に出してしまった。
完全に失態だ。
「実在? ですか?」
「ずっとクラスメイト三人で教室に集まれたらいいなって思ってたんです。でもほら、通信って登校時間自由だからなかなか揃わないじゃないですか。咲から笹月さんの話を聞いてたから、存在は知ってたんですけど実際に本人と対面して、咲が捕まえてきてくれたんだ、みたいな」
なんとか文章を整えて言葉を変換しながら話すことを心がけたのに、自分でも引いてしまうくらいにしどろもどろで、途中から話の終点を見失った話し方をしてしまった。初対面は印象が命なのに、変な人認定を下されたらどうしよう。そうなったら教室に全員で揃うことも、僕のせいで最後になってしまうかもしれない。
「ふふ、桃瀬さんって面白いです。捕まえたって、私のことモンスターかなにかだと思ってます?」
「いや、モンスターというより、どちらかというとユニコーン?」
「幻ってことですか?」
「なんでこんなよくわかんない例えで伝わるんです!?」
笹月さんは、僕が思っていたよりずっと砕けた性格なのかもしれない。
ほとんど無茶振りの冗談が通じてしまうボキャブラリーと、笑う時に口元を覆う上品な仕草のギャップから親しみやすさを覚えた。しっかりしていて真面目な人だけど堅くないと話していた咲の気持ちがよくわかる。
「咲」
『どうしたの?』
「連れてきてくれてありがとう」
咲の顔がパッと明るくなる。
連鎖するように笹月さんの口角も上がって、僕までにやけてしまいそうになる。咲の笑顔は周囲にいる人すら巻き込んでしまう不思議な魔法がある。
すると僕にそっと、メモを向けてくる。そしてアイコンタクトを取るように目を合わせてきた。
『私も桃瀬くんみたいにかしこまらずに笹月さんと話したい』
表情だけじゃなくて、心ごと、言葉まで素直になった咲を僕は心からすごいと思っている。春ごろの出会ったばかりの咲だったら、話したいという気持ちを怖さに呑み込まれてしまっていてもおかしくない。視線を伝って受け取った『伝えてみてもいいよね?』の合図に応えるようにポンっと、背を叩いた。
咲は張り切って頷いたあと、僕に見せていたページを笹月さんに向け直した。
「私もいつ言い出そうかなって迷ってたの、やっぱり最初に先輩後輩の関係になっちゃうと無意識に上下関係を感じちゃう気がして……わかった! 今から一つルールを設けます!」
「閃いた!」と言わんばかりにパンっと手を叩いたその上には、まるで電球のマークが浮かんでいるかのようだった。扉のすこし外側に立っていた笹月さんが軽い足取りで駆けた先は、教壇の上。普段使われないせいで真新しい白チョークを摘んで、黒板に文字が並べられていく。
一文字、二文字……、この時点で完成系が予想できた。最終的に、大きな四文字が書き並べられた。
「このクラスメイト三人の間での敬語を禁止しますっ!」
その四文字というのは言うまでもなく【敬語禁止】だ。
ありきたりな気もするけれど、話し方を変えるのは距離を縮めるための近道なのかもしれない。砕けた口調で交わされる会話に、おそらく変わらないであろう『〇〇さん』呼びが混じるのは違和感があるけれど、それもそれで僕たちが僕たちの意思で仲を深めた痕跡のように感じられて愛着が湧いてきそうだ。
笹月さんからの提案に咲は目を輝かせて頷きながら『ありがとう笹月さん』と、早速ルールに則って書いてみせた。その素直さをみて、この人には敵わないなと思った。
敵わないくらい素晴らしい、素敵な人だと。
だから僕も追いつきたくて——。
「咲も笹月さんも仲良くよろしくね」
堅苦しい語尾をなくしてみた。
教壇から降りた笹月さんは僕の前の席へ、咲はいつも通り隣の席へ着く。それから一時間ほど各々提出課題に向き合って、チャイムが鳴ると二人はバイトに行かなければいけないからと荷物をまとめ始めた。
「桃瀬さんは何時までいるの?」
「僕もあと一時間くらいしたら出ようかな」
『帰り道気をつけてね』
「もちろん! ちゃんと電気と冷房も消してくから安心してっ」
二人に手を振って見送ると、僕はまた教室に一人になった。
でも、今までの一人とは全然違う。
できる限り綺麗に消された黒板にうっすら浮かぶ【敬語禁止】の跡や、微妙に位置のずれている椅子と机。
僕は一人だけど独りじゃない。
ガラッ
勢いよく扉の開く音がして反射的に振り向くと、咲がいた。息が上がっていて、前髪が乱れていて、走ってきたのがよくわかる。忘れ物でもしたのかと思って、さっきまで彼女が座っていた席の机を覗いた瞬間、僕の机上になにかが置かれたのが見えた。
『今度、ちょっと付き合ってほしい』
とだけ書かれたメモの切れ端。
頭の中は疑問符でいっぱい。
付き合ってほしい、ってどう言う意味?
追求する隙もなく、彼女は無邪気に手を振って教室を駆け去っていった。
❀
「そういえば桃瀬さんと浅桜さんってどんな子がタイプなの?」
空は茜色に染まっていて、黒板の影がじんわりと伸びている十六時過ぎ。
不意に、前の席からくるりとこちらを振り返って笹月さんがそう言った。教科書を閉じていた指先がぴたりと止まる。恋話なんてするイメージがない彼女が言い出したせいで空気が一瞬揺れた気がして、隣をみてみるも咲も驚いたまま固まっている。
「笹月さんがそういう話するのイメージにないっていうか、初めてじゃない?」
「さっきの国語で読んだ古文のせいかな、ほらこれ」
教科書で指さされたのは鎌倉時代に詠まれた恋文の解説。
『思ふかたに 聞きしひとまの 一言よ さてもいかにと いふ道もなし』
思いを寄せている人に気持ちを伝えたいけれど、その一言がどうしても言えず伝える手立てもない。そんな切ない心情が込められた詩らしい。
現代に負けないくらい甘酸っぱい。
「なんか恋の詩になると片想いとか両片想いが多くてさ、愛の詩になると両想いとか、人生を添い遂げる相手への詩が多い気がする」
「両片想いも立派な愛なのにな」
「浅桜くん急に真面目な顔で真剣なこと言うね」
「ちょっと前に読んだ小説がちょうど両片想いの二人の話でさ、ほら咲覚えてない? 前話したやつ」
『覚えてるよ、表紙が綺麗な』
他人が読んだ小説の話なんて些細なことを、咲が記憶に残してくれていて嬉しい。
「ってことは浅桜さんも恋愛の興味あるんだね?」
笹月さんから視線を向けられた咲は恥ずかしそうに目をぱちくりさせたあと、なにかを書き始めた。頬から耳にかけてほんのり赤くなっていくのは夕陽のせいなんかじゃなくて、もっと可愛らしい理由。
『ちょっとある』
顔を半分隠すようにノートが掲げられて、照れ隠しのためかブンブン首を振っている。おかしくなって僕と笹月さんが笑うと、やめてよー! と言わんばかりに口元に人差し指を立てて『しー! 静かに!』の仕草をしてみせた。
『からかったなら次は桃瀬くんの番だからね』
「え、僕?」
『桃瀬くんってどんな子がタイプなの?』
なんとか誤魔化せたと思っていたのに振り出しに戻ってしまった。
からかう準備万端と言わんばかりにニヤッと悪い微笑みを浮かべている笹月さん。隣に視線を向けると妙にまっすぐ僕を見つめる咲。
「ショートの子、可愛いなぁって。強いて言うならタイプかな」
どうだ、どちらにも該当しない条件をタイプとして言うことに成功した。
『それってさ、私と笹月さんがロングだから避難のためにショートって言ったんじゃなくて?』
「浅桜さん鋭い! どうなんですか被告人!」
「人を勝手に裁くな!」
今更気づいた、二対一の恋話ってもしかして相当不利なんじゃないか?
笹月さんばかり警戒していたけれど、咲も意外と意地悪に切り込んだ聞き方をしてくることに驚いた。正直僕は、髪がロングかショートかなんて、その人に似合っていればその髪型が素晴らしい派だから、ここで折れてロング派に寝返ってもいい気がするけれど、二対一の構図が固められてしまった以上、素直に勢いに流されるわけにもいかない。
「いーや、僕は列記としたショート派だ」
「それじゃあショートのいいとこ十個言ってよ」
『私書記する! 裁判官は笹月さんに任せた!』
「浅桜さんの字は綺麗で早くて読みやすいからね! 書記適役!」
「だから人を裁こうとするな!」
高校生の放課後らしい。
漠然とそう思った。
教室には三人しかおらず異様な数の空席が並んでいるし、誰一人制服を着ていないし、僕たちは世間一般が持つ高校生のイメージとは遠いところにあるのかもしれないけど、好きなタイプなんて単純なテーマでここまでの心理戦と喜怒哀楽を交差し合えるんだ。
充実している、青春している。
らしさ、なんて言葉は好きじゃないけど、この教室のこの風景は僕が思い描いた高校生らしさそのものだった。
❀
改札を抜けたところで僕はすぐに咲を見つけた。
駅前のロータリーで制服の上にカーディガンを羽織って僕に小さく手を振っている。
「おはよ、咲」
『桃瀬くんおはよ』
普段私服で登校していることもあって、見慣れない制服姿に見惚れてしまう。
昨日の夜、明日はせっかくだから制服っぽい格好で行くねという予告をされてしまってから僕の頭は期待と妄想で溢れていた。コスプレみたいで似合わないかも、なんてかけられた保険すら可愛いに決まってるだろ! と無意識に取っ払って。
「制服似合ってるよ、すっごい可愛い」
『よかった、ちゃんと可愛い高校生になれたね』
照れながらも無邪気にニコッと笑う表情は真昼の空より眩しい。
オープンキャンパスデート。
今度ちょっと付き合ってほしい、の正体はこのことだったらしい。
お堅いイメージのあることすら、咲に誘われてしまえば純粋なイベントとして捉えることができる。緊張してしまうだろうから付き合ってほしいと連絡が来た先週の土曜日は、嬉しさでベッドから転げ落ちてしまうかと思った。
電車を降りて、大学までの街路樹が連なる坂道を並んで歩く。
「……なんか立ってるだけで圧倒されちゃうね」
キャンパスは思っていたよりずっと広くて、学生や保護者、現役大学生らしき集団が行き交って、その人の密度に息を呑んだ。受付で手渡された案内地図を見ながら、手探りで初めましての校舎と人のざわめきをかき分けて進んでいく。
案内された教室に入る。説明会用の資料を手に持ったまま、咲は空いている二人席に座って、僕を手招いた。
「こういうのって保護者と来る人が多いイメージだけど、咲は大丈夫だったの?」
『来月にもう一回あるからそのときにお母さんを連れてくる予定だよ』
「そっか、それならお母さんも安心だね」
『それに今日は私と桃瀬くんの二人きりじゃないと』
「え?」
『デートでしょ?』
あざとい、こんなに突然仕掛けてくるなんてずるい。
僕が動揺して落としたボールペンを手渡してくれたとき、してやったりという顔で笑っていたのも含めて、今のは僕の完全敗北だ。射抜かれた。
熱が冷めないままスクリーンに映る学生生活の様子や、カリキュラムの話が淡々と始まった。長話も退屈と感じなかったのは、咲がときどき身を乗り出して聞き入る姿を横目に見ていたからだと思う。
「いろいろ気になる施設があると思うけど、どこから見て回ろうか」
説明会のあとは、校舎内の自由見学時間。
綺麗に整備された中庭を歩いたり、掲示板のサークルポスターを眺めてはそのユニークさに笑ったり、模擬店の出店を覗いたり。
『学食試食カフェでちょっと休憩しない?』
咲からの提案に乗って壁に貼られた食堂までの矢印に沿って歩く。
食堂のおばちゃんと呼ばれる従業員と料理サークルの学生が運営しているらしく、木目調のテーブルが並ぶおしゃれな雰囲気が漂っていた。僕たちは、おすすめ! と推されていた日替わり定食と中華飯ランチをそれぞれ注文してテラス席に座った。
「はい! お待たせしましたね、日替わり定食の方っ!」
「わぁ美味しそう……ありがとうございます!」
「それと中華飯ランチがこっちのお姉さんね!」
二人の前に空腹を加速させる湯気が昇る。
手を合わせて食べ始めようと僕が箸に触れたとき、彼女の視線がちらちらと動いているのが見えた。
「どうしたの?」
『箸がなくて』
来客の多さから注文が重なって、つけ忘れてしまったのだろう。タイミングよく通りかかった先ほど料理を提供してくれたおばちゃんに声をかける。
「ごめんなさいね! 忙しくって忘れたわ。でもお姉さんもちゃんと自分で言わなきゃダメよ?」
慌ただしい様子で誤って即座に箸を渡してくれたあと、私的混じりの冗談を言って厨房へ戻っていった。気を取り直して手を合わせる、ちょっとだけ大袈裟に『美味しそうだよ! いただきます!』と言って咲を巻き込むように視線を向けると、必要な場面で咄嗟に声を出すことができなかったことに顔を赤らめて俯いてしまっている。
恥ずかしさなのか、自分への悔しさなのか。
今の気持ちを知りたくて、僕はレシートの裏面とボールペンをそっと差し出した。
『大学生になるまでには、喋れるようになりたいな』
咲からは、紛れもない希望が返ってきた。
どう励ますべきかを必死に考えていた僕の頭の中を押し流してしまうような、前向きな言葉。
『なるさ、必ず叶うよ』
僕はあえて文字で言葉を返した。
事実、咲は出会った頃から確実に変わっていっている、殻を破ってる。
無表情だった顔にパッと笑顔が咲くようになって。
元に戻る方法を探す途中で、僕を頼る、人を頼ることを知って。
笹月さんとの距離も咲が、咲の力で縮めて、僕と笹月さんを出会わせてくれた。
もう、元通りを辿るなんて域を超えている。
咲は、誰も知らない素敵な姿に変わろうとしている。
『桃瀬くんが言う「必ず」なら、嘘じゃないね』
そっか、僕の言葉なら、まっすぐ受け取ってくれるんだ。
少しだけ遠回りな『あなたなら特別』を渡されたことに気づく。
だから僕も、遠回りでもいいから『あなたはすごい』って伝えたくなった。
「今日誘うことだって緊張しただろうに、僕に声をかけてくれたのは咲が変われてる証拠だから、だから必ずって言えるんだ」
『緊張はちょっとだけね、でも違うの。今日誘えたのは大丈夫だって思えたから』
本当に、咲はずるい人だと思う。
ずるいくらい可愛らしくて、素敵な人。
声に出せないだけで頭の中にはいろんな言葉があって、僕の知らない伝え方を知っていて、言い回しの種類を持っていて、僕の心を幸せで溢れさせてくれる。
そうじゃないと、こんなこと言えるはずがない。
『当たって砕けろ、って言うでしょ? 桃瀬くんは私を砕けさせないと思ったの』
❀
タイトルは、架空キャンパスライフ。
そう打ったところでキーボードから人差し指を離し、パソコンの画面を閉じた。
現代文で出された実話をもとにした創作小説の課題。
指定されたファイルに提出すると、自動的にAI添削され、文章力、構成力、誤字脱字などの各項目が速やかに採点される仕組みになっているらしいから人物の名前や出来事も恥じずにあったままを描いた。
咲とは一ヶ月以上会えていない。
この小説を読んだ人はきっと、幸せそうだなとか、青春っていいなとか、リア充爆発しろとか、そういう爽やかな色がよく似合う感想を抱くだろう。
そして仮に『この文章を書いた著者の気持ちを答えよ』なんて設問があったとして、片想いの異性との特別な時間を愛おしく思う気持ち、と答えられるのが妥当だと思う。誰も、片想いの異性としばらく会えていない寂しさを埋めるために、幸せな時間の記憶を掘り返して自分自身を慰めようとする気持ち、なんて正解には辿りつかないだろう。
【咲、今夜忙しかったりする?】2025/11/15/16:30
【ごめんね今日は夜までバイトなの……! なにかあった?】2025/11/15/17:30
【十五日だなって思ってさ】2025/11/15/17:32
【もう一ヶ月の半分かぁ、あっという間だよね】2025/11/15/17:40
咲とのやりとりの履歴を先月までさかのぼると、忘れられたあとが残っていた。
十五日の近況報告、恋人でもない僕と咲の間にある唯一の約束。
アルバイトを急遽辞めた人がいて忙しいことは聞いていたし、なにもそこまで十五日にこだわる理由もない。ただ、一ヶ月の折り返し地点で気持ちを整理できたら心の負荷を軽くできるだろうと決めただけだし。
今日は忙しいから明日にしようとか、通話は難しいからメッセージ機能を使って書き残しておこうとか、とにかく咲が十五日の約束について触れてくれたら僕は寂しさなんて抱いていないだろうなんて勝手なことを思ってしまう。
——『覚えてるよ、表紙が綺麗な』
あんなに些細な小説の話を覚えていてくれたのに、二人の約束を忘れられてしまったことがショックでその日はうまく眠れなかった。
なんて感傷に浸りながら最低限の誤字脱字の修正を終えて、提出完了の表示を確認したあとベッドに飛び込んだ。
明日、咲は教室にいるだろうか。
最近は咲どころか笹月さんの姿もみない。
転校してからお世話になっているあの教室を僕は空箱だと思っていた。誰もいなくて、音もなくて、冷たくて、空気もなんだか生気がなくて。だからいつも窓際の一番日が差す席に座ってた。
そこに咲が来て、笹月さんが来て。
賑やかさを知ってしまってからの静かな教室は、時々耐えれないほど寂しくなる。
空箱での孤独感が蘇ってくるように。
ピコンっ
左耳の少し上から、枕に埋もれているせいでこもっている通知音と振動が伝わってきた。手探りでスマートフォンを掴んで画面を見る。
【明後日の雪華祭一緒に行かない?】2025/12/13/24:13
オープンキャンパス以来のデートの誘い。
最近は時間が合わないせいで単なる日常会話が続いていたから、その一通が画面内で幸せな雰囲気を纏って浮いているようにすら感じる。
心が躍るという言葉がよく似合う鼓動の早まり方をしているのがわかる。眠ろうとしているところにハッピーな爆弾を仕掛けられてしまった。
それに、明後日は十五日だ。
朝起きて、夢じゃないことを確認して返信しよう。
決まりきった答えと破裂しそうな嬉しさを抑え込んで目を瞑った。
❀
翌朝、目を覚ますと喉の辺りに違和感を覚えた。
痛い、というか、なにかが引っ掛かっている、というか。誤魔化すように机の上にあるペットボトルの水を飲んでみたけれどよくわからないままだった。
階段を降りると誰もいないはずのリビングから音がして、焦って覗くとなぜか姉の姿があった。
「姉ちゃ——」
——え、嘘、なんで。
「椋おはよ、急に帰ってきちゃってごめんね」
仕事関連らしい書類を広げながら、前回会った帰り際の居心地の悪さなんて取り払ったような優しい笑顔を僕に向けてきた。
「こっちで仕事が入っちゃってさ、せっかくなら帰省しちゃおっかなって思って来たんだけど椋、今日は学校?」
そうだよ、今から登校するはずだった。
それなのに、どうして、怖い、どうして。
「椋、顔色悪いけど……大丈夫?」
スマホ、ベッドの上に置きっぱなしだ。
なにか書けるもの、電話代の横にあるメモ帳と、適当なボールペン。
怖い、いやだ、なんで、だって、昨日の夜まで普通だったのに。
——『声が出ない』



