電車に乗って、自宅の最寄駅から二駅先で降りる。
 辿り着いた四階建てのビルの中には数えきれないほどの教室があって、中学受験合格を目指す小学生が必死に知識を積み上げている。この学習塾が、私をバイトとして採ってくれた。
 深呼吸をひとつ。
 心の波を沈めて、ガラス扉に手をかけた。受付の女性職員が柔らかく微笑みながら奥にある教材室で待っているよう教えてくれた。
 
「遅くなってごめんなさいね、授業が長引いちゃって」
 
 しばらくして教科書を抱えながら忙しく現れたのは、母親くらいの年齢の女性。彼女の登場に釣られるように起立して、会釈にもならない浅い礼を繰り返してしまった。そんなに緊張しなくていいのよ、と和ませてくれる優しさに安心して、改めてしっかり頭を下げた。私なりの『よろしくお願いします』。
 
「講師の若松(わかまつ)です! 年は干支二回りくらい離れてるのかな? 仲良くしてね」
 
 愛嬌があって可愛らしい、表情だけじゃなくて声色まで。
 こういう人を見ると喋れるっていいなと強く思わされる。
 
「咲ちゃんには採点とかの事務作業と、模試のスケジュール表の張り替えとかの環境整備をお願いしたいです! 不安なこときっとあると思うんだけど面接担当の方から話は聞いてるし、浅桜さんの状況を知ったうえで一緒に働きましょうって私たちは思ってるから。少しずつ慣れていってくれたら嬉しいな」
 
 若松さんは『声』という言葉を使わずに、私に大丈夫だと伝えてくれた。その繊細な気遣いが沁みる。指示通りに動けるか、教えてもらったことを吸収できるか、人生初めてのバイトを前に、私の中にある不安は声に関することだけじゃなかった。だからそれをまるごと大丈夫と言ってもらえたように感じて嬉しかったのだ。
 
「もうちょっとしたら浅桜さんにいろいろ教えてくれる教育担当の子が来るはずなんだけど……あっ! わっかちゃんこっち! おーい!」
 
 わっかちゃん、わっか、わか。
 どこかで聞き覚えがある。
 少し前に観たドラマのヒロインか? 小説の友人Aか? どの記憶にも当てはまらないけれど、確かにその名前を知っている気がする。
 
「この間話してた新人さん、ですかね?」
「そそ! わっかちゃんから自己紹介!」
「初めまして、笹月和花です。時間帯も業務内容も一緒になることが多いんじゃないかな、よろしくお願いしますね」
 
 スラッとした長身で、スーツを着ていながら気怠けな雰囲気を持つ彼女。首から下げられた名刺に目をやると、頭の中に無数に浮かぶ『ワカ』候補のひとつがパッと光って連鎖するように記憶が蘇ってくる。
 笹月和花。
 彼女は桃瀬くんが教えてくれたもう一人のクラスメイトだ。
 本当にそう? いやでも、きっとそうに違いない。まさかこんなところで出会うなんてあまりの偶然に疑ってしまうけれど、笹月という苗字も、和花という名前も珍しい気がするし、その二つがくっつく同姓同名が近くにいるとは考え難い。
 
「じゃっ、あとはわっかちゃんに任せたよ」
 
 若松さんが退室して、教材室には二人きり。
 鞄からメモ帳を取り出して、あらかじめ自己紹介のために名前を書いておいたページを開く。同じ高校に通っているかもしれないと伝えたかったけれど、初対面で触れるにはプライベートなことだと踏みとどまった。笹月さんは目が悪いのか、少し前屈みになって目を細めながら読んでくれている。
 
「浅桜咲さんね、春らしい名前」
 
 大人っぽさを感じるのは細い手首に巻かれた時計が似合っているからか、それとも冷房の風に運ばれて私の鼻口をくすぐっている爽やかな匂いからか。
 笹月さんの隣が私のデスク。と言っても、教材室へ行ったり廊下で掲示物の整理をしたりで席につくことは休憩時間以外あまりないらしい。
 
「早速なんだけど来週から始まる夏期講習の準備を一緒にしてほしくて。配布するテキストの部数確認と仕分け、各フロアの階段にスケジュール表を貼って行こうか」
 
 国語、算数、理科、社会、英語。カラフルな教科書が十数冊積み重ねられた束が十束。この量を遊びたいであろう夏休みにこなす小学生を思うと感心のあまり固まってしまう。そのうちの一束と指定部数の載ったリストが渡されて、書かれている通りに分けて、準備ができたものから配布物を入れる箱へ運ぶ。スケジュール表も貼り終え、私は席へ戻った。
 頼まれたことが終わってしまって手持ち無沙汰になっている。
 要領がいいとか、覚えが早いとか、そんなかっこいい理由じゃなくて、勤務初日の私にできることがすぐに終えれてしまうほどの量しかないのだ。かと言って、なにか手伝えることはありますかなんて尋ねるのは、笹月さんの邪魔をしてしまいそうで躊躇ってしまう。
 
「あ、もしかして終わった?」
「じゃあちょっとこれ見てほしいんだけどさ」
 
 様子を察して声をかけてくれたことに救われた気持ちだった。
 笹月さんの細長い人差し指によってクッと向けられたパソコンの画面には製作中の『頑張りカード』が映っていた。
 
「受講する小学生の生徒さんに配るカレンダー兼記録表なの。勉強時間を記録して目標時間を達成するごとにご褒美があったらいいなって思うんだけど、なにが喜ばれるんだろうって迷っててさ」

 スイカや海といった夏を感じる挿絵が散りばめられていて、学習塾オリジナルキャラクターからの吹き出しには「毎日えらい!」「ときには休んで夏バテ撃退!」「夢に近づいてるよ!」と、励ましと労りが綴られていた。世界一優しいカレンダー。印刷によってモノクロになってしまうのが寂しい。
 
『ご褒美って、たとえばどんなものですか?』
「文房具とかお菓子とかが無難だけど……ありきたりな気がしない?」
 
 他の業務に加えて私への指導があり忙しいはずなのに、なにをすれば相手を喜ばせることができるかで頭を悩ませる笹月さんのまっすぐさに惹かれた。迷っていると声をかけてもらえたからには少しでも役に立ちたくて、思いつく限りのご褒美を探して頭の引き出しを開ける。
 
 ——あった、一つ。幸せだったご褒美。
 
 一ヶ月前、その時はご褒美だなんて思っていなかったけれど、あれは彼がくれた私へのご褒美だったんだ。
 
『アイスとかどうでしょう』
「アイス?」
『お菓子と違ってその場で食べないと溶けちゃうから、勉強頑張ったね、って認めてもらった嬉しさをすぐに味でも感じられるって素敵だなって思って』
 
 小学生がなにで喜ぶかの感性は、パッと思い出すことができないくらいに記憶とともに遠くへいってしまったけれど、頑張ったときにもらって嬉しい優しさを受け取っていたおかげで、一つ案を出すことができた。
 
「季節的にもちょうどいいし職員用の冷凍庫は普段あんまり使われてないからそこで保管できそう! 浅桜さんの案、もらってもいい?」
 
 笹月さんの顔が明るくなって、素早く動く指先で「頑張ったら甘くて冷たい夏を味わおう!」と打ち込まれた。
 ありがとっ、と笑いかけてくれたのが嬉しくて、私もニッと笑い返した。
 類は友を呼ぶ、という言葉を疑ってしまうくらい私の周りは素敵な人ばかりだ。笹月さんのおかげで緊張に取りつかれていた初日をいい日だと思えているし、隣にいない日でさえ桃瀬くんは記憶の中で私を支えてくれる。
 
『お疲れ様でした、お先に失礼します』
 
 あっという間に三時間が過ぎていた。
 七月の十八時はまだ明るくて、日中の暑さがしぶとく残っている。
 アイスが食べたい。
 暑いからじゃない、どちらかというと今は効きすぎた冷房で冷えた身体にこの熱がちょうどいい。
 それでも今アイスが食べたい。
 もっと言うなら、今日あったことを彼に話した後に一緒にアイスを食べたい。
 もっともっと素直になるなら。
 
 私は今、彼に会いたい。
  
 ❀
 
 仕事を教えてくれる笹月さんはとても丁寧で、説明を省くことなんてないし、わからない専門用語を突然使ってくることもない。休憩中はフランクで、会うたびに笑う回数が増えていくのが嬉しい。それと最近気づいたことだけど、笹月さんは事務作業の片手間によくサバを食べている。
 
「一週間経ってみたけどちょっとは慣れた? どう?」
 
 今も、サバをつまみながら来月の模試の予定を打ち込んでいる。
 
『教えていただいたことから少しずつできるようになってきました』
「よかったよかった。いただいた、って緊張抜けないんじゃない? タメ口とまではいかなくても緩い敬語で大丈夫だからね」
 
 容姿と言動両方から溢れる大人っぽさに圧倒されて、いつまでも堅苦しい敬語が抜けない。同じ高校に通っている疑惑についても、まだ聞き出せていない。
 
「そういえばもう少ししたら大学生が六人くらい来るから教材室の軽清掃しに行こっか」
『大学生って、どうしてですか?』
「夏期講習期間に講師のボランティアで来てくれるの。去年会ったけど、すっごいフランクな人たちだから覚悟してた方がいいよ」
 
 ニヤッとからかうように笑って立ち上がると、お菓子の入ったカゴを持って教材室へ入っていった。そのままピクニックに行ってしまえそうなフットワークの軽さで机を拭いて床を掃くと職員用玄関のインターホンが鳴る。
 
「和花ちゃーん! 今年もいたのね! 嬉しいよーん!」
 
 直接教材室へ繋がっている細い通路を通ってきた先頭の一人が、入室した途端勢いよく笹月さんに抱きついた。私とはかけ離れた眩しい人間タイプに驚いたけれど、学習塾という場を弁えて声を抑えながら喋っている姿をみて、悪い人じゃないんだとすぐに受け入れることができた。
 
「お久しぶりですね、今年は新しい子も増えたので夏期講習期間の職員室は賑やかになりそうですよっ」
 
 すかさずその輪の中に、私を巻き込んでくれたことに安心感を覚えた。
 声については若松さんから話をしてくれているらしく、会釈の後に名前の書いたページを見せた。
 
「可愛らしい子が来てくれたんだねぇ、芹川って言います、よろしくねん! 」
 
 浅桜咲、の横に書き足した塾のオリジナルキャラクターを指差しながら微笑んでくれた。ふわっと頭に甘さが回るような、笹月さんとは違う種類の大人っぽい匂い。それとは対照的に口調は無邪気で、語尾にいやらしくない『ねん!』とか『よん!』がついている。
 
「私たちは同じ大学の三年生、だから頭がいい大学生が来たなぁじゃなくて仲良さげな六人組が気まぐれで勉強のぞきに来たなぁって思ってくれて大丈夫よん。そのくらいの方が緊張しないでしょ?」
 
 授業から戻った若松さんに挨拶を済ませた六人は、担当授業の時間まで教材室のソファーに座って笹月さんが持ってきたお菓子を摘んでいた。就活の面接中に起きた珍事件や個性強めな教授について話をしてくれて、完全な身内ネタなのに、私や笹月さんまで自然に笑いが溢れる。
 その砕けた空気感を、私も知っている気がした。

 ——『咲もこっち来なよ! 先週のライブの話してんの!』
 ——『咲っ、お昼中庭で食べない?』
 
 そっか、紗良と夏希といたとき、私はこんなにも楽しげな輪の中にいたんだ。
 下の名前で呼んでもらえることも、無邪気に笑ってくれることも、ちょっと雑に話が振られることも、こんなに暖かかったんだ。六人の輪を側からみて気付かされる、私にも、キラキラしてる時間があったんだ。不意に思い出して、どれだけ願っても二人と前向きな再会ができないことに悲しくなる。
 
 ピロンッ

 六人のスマートフォンから一斉に鳴った愉快な音を合図に速やかに話が中断され、全員画面をみて前髪を整え始めた。
 
「あれ、和花ちゃんと咲ちゃんやってない?」
「なにをですか?」
「通知がなって二分以内に写真を送るアプリ! 知らない?」
 
 笹月さんと目が合う。あぁ二人とも知らなかったんだなぁと察して笑ってしまった。その隙をつくように六人に囲まれて、そのスピードに驚いている間に写真は撮り終えられていた。
 
「大丈夫っ、私たちしか見れない設定になってるから!」
「ってか二人も入れたら? 女子高生なんだし写真は取り得だよんっ」
 
 勢いに押されるようにアプリのインストールページへ。大袈裟ではなく、気づいたらホーム画面に追加されていたと言っていいくらいのスピード感だった。ユーザーネームを設定して、そのままの流れで笹月さんと【フレンド】になった。
 バイト先の先輩で、おそらく同級生で、アプリ内では友だち、なんとも不思議な関係性。SNSに対しての抵抗がなくなったわけではないけれど、芹川さんの無邪気さと、笹月さんが抱かせてくれた安心感が心の壁をちょっとずつ削って薄くしてくれたから。そうやって、私の中に大丈夫が増えていく。
 大丈夫、私はちゃんと元通りを辿れてる。
 
 ❀
 
【ってことがあってね、笹月さんとの距離もグッと近づいた気がするの。思ってたよりずっといい感じかも】
 
 毎月十五日は、桃瀬くんとお互いの近況報告をする。
 些細なことを小さいことだからと流さずに共有できるように、言いづらいことを報告だからと理由をつけて言い出しやすくなるように交わした私たちの日常の約束。
 それに最近は、嬉しいことがあるとすぐに話したくなる。だって。
 
「怖がってた咲がいい感じって思えてるの嬉しいなぁ、笹月さんも話を聴く限り素敵な人なんだって伝わってくるし幸先いいね!」
 
 心の過程をしっかり覚えてくれていて、成長を一緒に喜んでくれるから。
 一週間ぶりに彼の声を聞けた。通話を繋いで、彼は音声で、私はメッセージ機能を使って伝え合う。彼の声を聞いて文字を打って、私の文字を読んで彼が喋ってくれる。二人だけの特別で特殊なやりとり。
 
【でもまだ同じ高校に通ってることは確かめられてなくて、切り出すタイミングに迷ってるの】
「確かに学校ってなるとプライベートな感じあるからねぇ」
【同い年だけどバイト先では先輩後輩の関係だからね】
「不思議だね、でもいいね。関係性が一つじゃないって、笹月さんのいろんな側面を知れるってことだね」
 
 本当に、どこまで素敵な人なんだろう。どうしてこんなにスッと、素敵な言葉を口にできてしまうんだろう。
 素敵という言葉には、素晴らしくて敵わないという語源があると聞いたことがある。だから何度でも言う、彼は素敵な人だ。感性も、優しさのかけ方も、言葉の選び方も、私じゃ敵わない、素晴らしい人。
 
【今度は、三人での関係性も築けたらいいね】
「クラスメイトってことかな?」
【三人で教室に集まりたいね】
 
 彼が嬉しそうに笑う、私も同じくらい嬉しい。
 出会ったばかりの頃教室で話した『できたらいいね』が叶いそうなんだから、嬉しいにきまってる。声が出せたら、この喜びも彼みたいに声色で伝えられるんだと思うと、頑張らないとと背中を押される。
 
【桃瀬くんの近況報告も聴きたいな】
「最近……あ、人生で初めて恋愛小説読んだよ」
【急だね⁉︎ どうして?】
「用事があって楽器屋に行ったんだけど、併設されてるリサイクルショップに寄って眺めてたら表紙がすっごい綺麗でさ」
【一目惚れだね】
「だね、間違いない」
 
 ちょっと待ってね、と言われてすぐ表紙を映した画像が送られてきた。彼が一目惚れした書影より先に、小説を持つ彼の細い指に目がいったことは内緒だ。
 
【一目惚れも納得なくらい綺麗だね】
 
 青が基調の青春感溢れる背景の真ん中に、ヒロインと思われる少女がこちらを振り向いて笑いかける構図で描かれている。小説自体あまり読まない私だけれど書店へ立ち寄った時、本棚の前で目を留めるかもしれないと想像できるくらいには綺麗で、儚い雰囲気があった。
 
【手に取っちゃうかも】
「それはもう一目惚れじゃん!」
【かもね笑】
 
 違うよ、私は書影に一目惚れしたとしても目に留まるところまで。手に取るのは、素敵な感性を持つ素敵な人が惹かれた小説だと知っているから。同じものをいいと思いたい、なんて単純な好奇心についても彼には内緒だ。
 
【どうだった?】
「んー、僕にはまだ早かったかも?」
【早かった……?】
「お互い好きなのに片想いって思い込んでる二人の話なんだけどさ、途中で『好きってなんだろう』って自分の気持ちに迷う描写があってね」
 
 通話越しに、ページを捲る指と紙が擦れる音が聞こえてくる。小学生の頃、放課後の図書館で司書の先生が絵本を読み聞かせてくれた時と同じ懐かしい音。今より人見知りが激しくて教室ではずっと無表情だった私の口角を自然にグッとあげてくれる魔法みたいな時間と、この時間が重なる。
 
【好き】
「え」
【この時間すごく好き】
「びっくりしたぁ、恋愛小説辿ってる時に言われたら勘違いしちゃうでしょ!」
 
 笑って許してくれた彼の声に若干の焦りが混じっているように感じて、勘違いできちゃうようなの関係性なんだと安心した。ありがとうにこちらこそと返された日から、私は彼に惹かれている。それが人としてなのか恋愛としてなのかはさておき、そんな彼との関係が支え、支えられ、だけなのはあまりに頼りない気がしていたから。私が打った『好き』に彼を試す意図はなかったけれど、結果的に知れてよかった。
 
「結局二人はその迷いに自分の答えを見つけるんだけど、ちょっとついていけなくて。極端に表現が詩的だったとかじゃないんだけど、二人に感情移入して読んでいくほど『それじゃあ僕にとっての好きってなんだろう』って考え始めちゃったら頭がこんがらがってさ」
「咲は好きってなんだと思う?」
 
 唐突に振られて、鼓動が跳ねる。
 うまく言葉にできないけれど、心臓スレスレに先の鋭利な指し棒を向けられたような感覚。
 
【なに、って難しいね】
「じゃあ、好きってどういう気持ちなんだと思う?」
 
 好き、確かに、好きの気持ちってなんだろう。
 喜怒哀楽の感情とは違うなら、もっと感覚的なものなのだろうか。
 一目惚れならまだ説明がつく。その人の容姿や特徴が自分の中にある好みに瞬間的に当てはまったってことだと思う。ならそれは好きというより、受けた衝撃を吸収するために好きと錯覚させている心の働きなんじゃないか?
 だって誰かを好きになるまでには過程があるはずだ。
 重ねた時間か。
 触れた回数か。
 相手について知っていることの数か。
 思い出補正か。
 情か。
 本当だ、こんがらがってくる。
  
【難しいね、私にもまだちょっと早いかも笑】
 
 青春真っ只中の高校生男女が二人きりの通話で考え込んでも答えが出ないなら、この問いは人生で出会う問題の中でもかなり難易度の高いものなのかもしれない。
 砕けたように二人で笑って、彼は照れ隠しのように小説内の小ネタを教えてくれた。
 
「片想いにもどかしくなった主人公がさ、ヒロインに大量のカスタネットを渡すんだよ! もう意味わかんなくてさ! 恋愛小説読んでるのかギャグ漫画読んでるのかわかんなくなった!」
 
 声は出なかったけれど、吹き出してしまった。
 カスタネット、カすタねっと、カタカタ、片想い、という流れだったらしいけれど説明されてもなお、理解が追いつかなかった。真剣な話題も、他愛ない会話も、すべて心に楽しさを残してしまうのだから桃瀬くんは本当にすごい。
 
「そろそろ日付が変わっちゃう、早いね」
 
 酸欠になってしまいそうなくらい笑ったあと、ふーっと息をついて時計に目をやる。あっという間、通話時間は三時間を超えているのに体感はまだ一時間もたっていないくらい。
 
【ほんとだ、明日も学校?】
「その予定、咲はバイト?」
【明日はバイトがないからちょっと身体を休めようかなって思ってるよ。学校にもずっと行けてないから行かないとっては思ってるんだけどね】
「焦る必要ないさ、自分の歩幅で登校できるのも通信のいいとこだし」
 
 バイトが始まってから学校に行けていないけれど、正直出席日数的には問題ない。私が学校に行かないと、と思っているのは会いたい人がいるから。卒業まで折り返し地点を過ぎているのに会える機会を逃していることを実感すると焦ってしまう。
 
「今月も近況報告完了ですねっ!」
【忙しいのに時間とってくれてありがとね】
「大切な人の今を知れるってすっごい幸せなことだって思わない? だからこちらこそありがとね」
 
 ……通話の最後にそんなことを言われたら勘違いしちゃうじゃん。
 切りたくない、まだ声を聞いていたい。
 わがままだけど、夜が開けるまで優しい言葉で包んでいてほしい。
 あぁ、今更気づいた。
 そしてちょっとだけわかった、難易度高めの問題の答えについて。
 小難しい考え方なんて必要なくて、好きってもっと単純でいいのかもしれない。
 大量のカスタネットを渡してしまう主人公の気持ちもわかってしまえそうなくらい、好きってよくわからないんだと思う。
 彼が読んだ小説の二人が、どんな大人っぽい答えに辿り着いたのかわからないけど、今、私が抱いている想いもきっと好きって気持ちの一つの答えなんだと思うよ。
 桃瀬くんは素敵な人。
 素晴らしくて、敵わない人。
 そして。
 私にとっての、好きな人。
 
 ❀
 
「この成績はなんですか? 先生方は一体なにを教えてらっしゃるんですか?」
 
 怒鳴り声とともに、一人の母親がヒールの音を鳴らして入ってきてはカウンターまで詰め寄った。目は血走っていて、手にはぐしゃぐしゃになった模試の結果用紙が握られている。その姿に職員たちが一瞬動きを止める。受付の女性が宥めるような声で。
 
「お母様、どうか一度おかけになって——」
「座ってなにが変わるんですか! 夜遅くまで塾に通わせて、高い学費払って、なんのためだと思ってらっしゃいます? 第一志望どころか滑り止めも危うい成績なんて……ありえないじゃないですか!」
 
 ヒステリックが加速する母親の声の次第は震え、怒りの奥に焦りと不安が滲んでいる。他の子はもっと伸びてるんだ、夏に伸び悩むなんて致命的だ、我が子の将来に傷が付いたらどうするつもりだ。耳にするだけで抉られる言葉が並べられていく、ふっと顔を上げて様子を伺うと、首のあたりまで真っ赤になりながら遠目でも怯えてしまう表情をしている。
 
「なに? 新しいバイト?」
 
 え、私……?
 まったく面識のない、誰の母親なのかすらわからないけれど間違いなく目が合ってしまっている。こんなことになるなら顔を上げずに手元を見つめて忙しいふりをしていればよかった。笹月さんは配布物管理のために席を外していて、助けを求めるように見渡しても職員の大半は授業に出払っていて、残った数人には目を逸らされてしまって誰ともアイコンタクトが取れない。
 その瞬間に察した。
 今この場のどこにも逃げ場はないんだ。
 
「ろくな授業もできないのに対応する態度も悪いって、呆れるわ」
 
 背筋が冷えて身体を支える軸から震える。
 それでも矛先が向けられてしまった以上、私が抑えなきゃ、誰かが来るまでこの女性の怒りを吸収しないと。足をぎこちなく動かしながらカウンターへ向かう。
 対面しても、情けなく俯いて立ち尽くすことしかできないけれど。
 
「あなた大学はどこを出てらっしゃるの? 馬鹿にデタラメ吹き込まれるために通わせてるわけじゃないの。さっきから受け答えもまともにできないで、黙ってないで答えなさいよ!」
 
 ぐい、と腕を掴まれて反射的に身体が動いた。
 声なんて、出るわけがない。
 震える指先で喉元を押さえてみたけれど、首が強張ってしまって横に振ることすらできず、埋め合わせるように小さく頷いた。
 
「頷くってなに? 塾講師は時給がいいからって舐めた理由で指導されちゃ困るの! あんたみたいなのがいるから——」
「申し訳ございません。担当の者をお呼びしますので、少々お待ちいただけませんでしょうか」
 
 冷静でありながら芯のある声が職員室に響く。
 背後から現れた笹月さんは深く頭を下げ続けていて、ならうように私も頭を下げた。何分にも感じられる数十秒が経ったあと、女性は無言で椅子へ腰掛けた。彼女の怒りが鎮まったわけではないけれど、笹月さんの謝罪によって作られた沈黙が彼女に恥ずかしさを与えてその場を収めることができたんだと思う。その後、授業終了の鐘とともに職員室へ戻ってきた若松さんがその母親を面談室へ連れて行き、しばらくして不服そうな表情を残したまま帰っていった。
 
「ごめんね浅桜さん」
 
 退勤前、パソコンの電源を切った笹月さんが申し訳なさそうに呟く。
 
「来るの遅くなってごめんなさい、怖かったよね」
 
 唇を噛んでいるのは悔しさからか、でも、なにに悔しさを感じているのかわからない。
 あの瞬間、笹月さんはヒーローだった。
 声が聞こえた時に恐怖が解かれていくように指先の感覚が戻り始めた。そんな笹月さんの表情に、横からでもわかるくらい悲しさが宿っていく。どうして? 頭の中が疑問で埋め尽くされていくせいでペンを取る手が止まってしまう。笹月さんは潤んで透明な膜が張った瞳に、誤魔化すように目薬を差した。
 そして何度か瞬きをした後に。
 
「たかがバイトって言われちゃうかもしれないけど、私にとって浅桜さんは初めてできた後輩だから。学校の部活でも経験できなかった“先輩“を、浅桜さんが来てくれたことで私は味わえてるの。だから、嫌な思いしてほしくなかったんだ」
 
 ❀
 
「……サバ?」
 
 翌日の休憩中、ぐっと背伸びをして眼鏡を外した笹月さんにサバ缶を渡した。
 
『昨日、助けてもらったので』
「それで、サバ……」
『いつも食べてるじゃないですか』
 
 あれ、思っていた反応と違う。
 確かにお礼としてサバ缶を渡すのはなかなか珍しい気もするけれど、ほぼ毎日食べるほどサバが好きならお菓子より喜んでくれると思っていた。いや、そもそも、実はサバがそんなに好きじゃないのかもしれない。私が勝手にサバ好き認定してしまっただけで——。

「よく見てるねぇ、それで好きって思って買ってきてくれたんだ」
 
 ふふっと笑いながら、笹月さんはそれを両手で受け取ってくれた。
 
「あと缶のデザインすっごい可愛いね」
 
 昨日の帰り道に食品に力を入れてる雑貨屋の缶詰コーナーで選んできたこともあって、パッケージを褒めて喜んでもらえてすっごく嬉しい。
 でも、最初の反応を見るにおそらく——。
 
『もしかして、あんまりサバ好きじゃないですか?』
「近所のスーパーでいつもサバ缶が安いの。だから箱で買って毎日食べてるだけ、ルーティーンみたいな感じかな?」
 
 ごめんなさい、と書いて伝えると気を遣わせてしまう気がして、気づかなかったですの気持ちを込めて手を合わせた。雰囲気的には、フランクに謝っているような感じ。笹月さんは笑いながら「いいのいいの! 嬉しかったから!」と。
 
「浅桜さんからプレゼントしてもらったおかげでサバ缶かなり好きになっちゃった」
 
 相手の気持ちごと包み込んでしまえそうな優しさの余裕を肌で感じて、同い年ということに自信がなくなってきた。こんなにも柔らかい包容力を持っているなんて、と圧倒される。あとでいただくね、と言って机付属の引き出しを開ると、不意に、大学のパンフレットと一目見ただけでも破られたとわかってしまうほどビリビリになった願書が見えた。
 
「……見た?」
 
 慌てて扉を閉めたあと、そう尋ねられたけれど嘘が苦しくなってしまうくらいはっきりと見えてしまった。
 首を横に振るのが、きっと私視点での正解なんだと思う。
 でもきっと、私にそれが見えてしまったことを笹月さんはもう知っていると思う。それなら不自然に嘘をついて誤魔化すよりも、潔く認めるほうがお互いにとっての正解なんだと思った。
 
「教師になるのが夢なの」
 
 見えてしまいました、と書いて伝えると笹月さんはパンフレットを取り出して机の上に広げてくれた。

「中途半端に知っちゃったあとに隠し事されるのってさ、なんかいい気しないでしょ?」

 私が見てしまったことを責めないどころか、気遣いまで添えられてしまって申し訳なくなる。
 取り出されたパンフレットには某国立大学の教育学部についてが書かれていた。卒業生の声、キャンパスライフについて、寮について。開かれていたページに掲載されていたのは学費について。
 
「忘れてね、叶わないから」
『どうしてですか』
「よく言うじゃん? 願い事は人に言ったら叶わないって」
『それは神社とか流れ星とかの話ですよ』
 
 茶化すように浮かべられた笑顔は苦しくて、見ている私まで息が詰まりそうだった。無責任に励ますことは好きじゃないけど、私からなにも発さずに笹月さんからの次の言葉を待つことのほうが今はよっぽど無責任に感じる。
 嘘じゃなければいい、そう言い聞かせてペンを走らせる。最近は密かに字を丁寧に書くことを心がけていたから、これは久しぶりの走り書きになる。
 
『笹月さん教えるのもわかりやすいし、守ってくれる時すごく優しいし、素敵な先生になってる姿、すっごい想像できます』
「でも無理そうなんだぁ、学校もまともに行けてないし」
 
 学校、そのキーワードが発されて切り出すなら今しかないと、私の中の小さな私が指先に力を入れさせた。
 出会って一ヶ月。バイト経験すらなく、人付き合いも不器用な私が辞めることなく、嫌がることなく出勤し続けているのが、目に見えない信頼関係において唯一可視化された証拠だと思う。今なら、踏み込んだことに触れても大丈夫だろう。
 
『私、海の近くにある通信制高校に通ってるんです』
「え、何年生? そういえば年齢とか聞いてなかったよね」
『三年です、たぶん、同級生』
 
 驚くと同時に「サプライズすぎるよ……」と目を細めてくれたことが嬉しかった。こんな偶然あるんだね、なんて私が初日に受けた衝撃を一ヶ月の時差を経て笹月さんが受けていることに面白くなる。
 
「そっかそっか転校してきたのか、それなら知らなかったのも納得だ」
『なかなか学校で会う機会ってないですもんね』
「って言うより……今年まだ一回しか登校できてなくてさ」
 
 その言葉を聞いてすぐに思い浮かんだのは職員室の隅に貼られたシフト表だった。笹月さんの欄には、ほぼ毎日出勤の印がついている。それも夜遅くまで。週に三、四回出勤する私の隣にいつもいてくれたことに対して疑問を抱いたことはなかったけれど、確かに学業との両立なんてとてもできるスケジュールじゃない。
 それなら、その日のために時間をもらえたら。
 笹月さんの二回目を一緒に迎えられればその表情に、心に隙間が生まれるかもしれない。無理、をちょっとだけでも歪ませられる光が差し込む隙間。
 
『一緒に行きませんか』
「え」
『日付は合わせます、一緒に登校してくれませんか?』