——心因性失声症
検索結果としていくつかの症例が載っていた中で、彼女に教えてもらったことに一番当てはまるのがこの病名だった。
精神的なストレスや心的外傷が原因で、声帯や筋肉に異常がないのに声が出なくなる状態のこと。
彼女を病人と括るなんて無礼なことはしないけれど、声が出ないことに対してなにも知らないままの僕と、少しずつでも知ろうとしている僕なら、後者の方が圧倒的に彼女の力になれる近道だと思った。
『まもなく上り電車が到着いたします。黄色い線の内側に下がってお待ちください』
古びたスピーカーから聞き慣れたアナウンスが流れる、駅には僕一人だけ。顔馴染みの駅員さんが「乗らないのかい?」と尋ねるように小さく首を傾げてくれたから「大丈夫です」と答えるように会釈を返す。言葉って案外声にしなくても伝わるんだなと実感しながら、僕は再び端末の画面に目をやった。
「……自然治癒する可能性もある」
ある精神科医の記事には原因となっている環境や人から距離を置くことや周囲からのサポートを受けることで、回復する可能性は十分にあると書かれている。その言葉に希望を感じて、思わずスクリーンショットしてしまった。治る可能性があることはもちろん嬉しい、でもそれと同じくらい彼女に言った「力になるよ」という心の約束を守れることが嬉しかったから。
『まもなく下り電車が到着いたします。黄色い線の内側に下がってお待ちください』
再びアナウンスが鳴って、この後の予定のために普段とは反対方向の電車に乗車する。いつもの車窓から見えるパン屋や商店街の入り口の賑やかな雰囲気が僕は好きだけど、この電車の窓から見える各家庭から暖かい灯りが溢れた住宅街も僕は同じくらい素敵なんだと気づいた。知らないままでいるより、少しずつでも知ろうとすることはいいことだと思う、何事に対しても。
❀
「久しぶりだな桃瀬、元気してたか」
電車を降りて、僕は家でもバイト先でもなく昼時を過ぎて人の波が引いたファミレスに来た。そして目の前に座るアンティークなスーツを着た彼は、高校一年の頃お世話になった担任の先生。
「半年ぶりくらいですかね、先生もお変わりないですか」
「元気元気っ、今日は桃瀬から誘ってもらえたから特に元気」
一昨日、以前通っていた学校を経由して先生に連絡を取った。僕はいいことがあると誰かに話したくなってしまう性格で、今回のいいことは先生に聞いてほしかったから。
「桃瀬が俺に声をかけるって、さてはいいことでもあったんだな?」
「クラスメイトが増えたんです」
「おぉ」
「それも、同級生……!」
「おぉ! 桃瀬のスクールライフに光が差したなぁ」
女子か男子か、その子のことが好きなのか、可愛いのか、なんだそんなことか、といった寂しい言葉を口にするような人じゃないだろうという期待を、先生は裏切らなかった。僕の話した嬉しさは純度を保ったまま、まっすぐに受け取ってもらえた。
「となるとその子が三人目の同級生ってことか」
「いつか三人で教室に集まれたらいいなって」
「それが直近の夢かい?」
「夢って言ったら言葉が大きいですけどね」
「大きくないと夢じゃないなんて決まりはないからな、叶ったら幸せだろうなぁってものが思い浮かぶなら、それはもう立派な夢でいい」
そんなセリフの後には大人っぽくコーヒーを啜るのがお決まりな気がするけれど、先生はお構いなくメロンソーダを飲み干してドリンクバーへと席を立った。飾らずに、先生と生徒でいる前に人として接してくれる先生には、ついたくさん話をしたくなる。
「先生は最近いいことありました?」
今度はオレンジジュースをコップの縁ギリギリまで注いできた先生に尋ねた。僕は先生の話を聞くことも、話すのと同じくらい好きだ。
「よくぞ聞いてくれたねぇ、さては超能力でも身につけた?」
ニヤッと口角を上げると、先生はなにかを取り出そうと鞄の中を探し始める。目当てのものはなかなか発見されず、この様子だと職員室の机上も相変わらず散らかっていそうだなと、懐かしさから頬が緩んでしまいそうになる。
「あった! これこれ、見てー?」
「新人発掘オーディション、先生が主催……?」
「なんかこう、ビビッと頭に電撃を走らせるような声に出会えたらなぁと思ってさ。校内の生徒と、外部生徒からも募ろうかなって」
折り目のついたチラシを差し出されたまま受け取る。記載された主催者コメントからは、声楽専門教師としてではなく声楽変態オタクとしての先生が容易に想像できた。
「最終選考が一月ってことは……」
「学園祭があるだろ? そこで公開オーディションをするのさっ。卒業生で活躍してるやつも呼んで盛大にな」
先生はビールを押し流す勢いでオレンジジュースを飲み干す。オーディションの過程に書類審査はなく、一次審査の段階から先生が出向き、全員と直接対面して合否を決めていくらしく相当気合いが入っているのが伝わってくる。
「すごい熱量ですね」
「すべてはまだ出会っていない声に出会うためだ」
「歌声への探究心にちょっとも妥協がないですね」
「歌声に限んなくても、声ってのはその人の心だからな。音楽に直結させなくたって、人間性とか魅力とか、いろんな要素が詰め込まれてるのが声」
「ちょっとわかるかもしれないです」
「俺は耳で恋してるくらいだからな、理想の声ってのをずっと探してんだ」
僕のクラスに赴任して最初の自己紹介で、先生は『声の収集家』だと自称していたけれど、二年経ってその実態に触れた気がした。三度目のドリンクバーから帰ってきた先生は水を一口含んでゆっくり飲み込んだあと、じっと僕を見た。
「桃瀬、出ない? お前にならシード権あげちゃうけど」
冗談であればいい。
その場のノリであればいい。
感情任せな勢いであればいい。
僕の頭を埋め尽くす逃げたいがための期待を、先生は容赦なく裏切るように僕から目を逸らしてくれない。
「歌ってくんないか、そんでまた俺に指導させてくれないかな」
先生が懐かしむように微笑むから、僕の胸は苦しくなる。先生に恩があることは確かだし、もう一度指導を受けられるのなら僕だってそうしたい。でも、僕にはそれを叶えることはできない。
「すみません、僕、まだ」
「まぁ、頭の片隅にでも入れといてくれ」
残念そうな表情をするわけでも落胆した態度をするわけでもなく、先生は僕の言葉をそのまま受け取った。僕が転校したいと申し出た時と同じように、肯定も否定もしない態度で。
「桃瀬、不安にならないでくれ」
「わかってます」
「俺は人の選択に対する肯定や否定を言葉にするのが得意じゃないんだ」
「よくわかってます」
「ただ受け入れてる。ただ、俺は待ってるからな」
「待ってるって言われても、戻るまでどう進めばいいか」
「やってきたことを辿ればいんだよ。そうやってできたことと課題を整理していって自分を見つめるんだ。そしたらいずれ戻れる、いや、超えれるな」
穏やかなファミレスの雰囲気は居心地がいいけれど、今だけは騒がしくなれと思ってしまう。心臓から伝ってくる鼓動のうるささを誤魔化してほしくて、うまく息が吸えない感覚を人混みのせいにさせてほしかったから。
先生がオーディションのエントリーシートと万年筆を取り出す。裏面の備考欄が埋まっていく。
『推薦枠、二次審査より参加』
三つ折りにして封筒に入れたものを差し出されたけれど、受け取るのも断るのも違和感があって僕は俯いてしまった。
「桃瀬に諦めるきっかけを与えてしまったこと、ずっと後悔してる。時間は戻せないけど、機会を与えることで償わせてほしい」
「諦めるきっかけなんて、そんな——」
「桃瀬も覚えてるだろ」
「なにをですか」
「俺が言ったこと」
「え?」
「俺が初めて、桃瀬の声を嫌いって言ったこと」
❀
『おはよう』
声を出せなくなった理由を教えてもらって一ヶ月が経つ。
彼女は週に二、三回のペースで登校するようになり、その度にこうして『おはよう』と書いた紙を渡してくれるようになった。表情はまだ硬いし、声を聞ける日は遠いだろうけど、少しずつ心を許してくれていると肌で感じられると安心する。
授業終わりの鐘が鳴って、ぐっと背伸びをしている僕の肩に彼女の手が触れる。振り向くとメモ帳を構えて立っていた。
『相談があるんだけどいいかな』
「ちょうど帰るところなんだけど一緒に帰る?」
お互い手際よく荷物をまとめて階段を下り昇降口へ。転校して以来、帰り道を誰かと歩くのは初めてだった。ゆっくり話をするために学校を出てすぐの場所にある海のみえる芝生広場へ向かう。最初の信号が赤になった時、彼女はポケットからメモ帳を取り出してあらかじめ書かれていた相談内容を見せてくれた。
『喋れるようになりたいって言ったけど、なにから始めればいいんだろう』
声が出ない理由が身体にあるのなら、診断を受けて、処置を受けて、検査で経過を見て、回復への過程をそれなりに正確に知ることができる。ただ彼女の理由は心にあって、原因から距離を置いたり、誰かに頼ったり、できることと言ったらそれくらい。喋れなくなるほど傷を負った心に病名がついたところで、それは単なる名札に過ぎなくて、彼女の回復までの進み方を教えてくれるわけじゃない。
『ある日突然喋れるようになるとして、それまでの時間、自分がどれくらい喋れる状態に近づいてるのかわからないのは、頑張り方がわからなくて怖い』
同じ気持ちにはなれないけれど、二人は同じことを考えている。信号が青に変わる、進みなさいと示してくれる。こんなふうに心にも信号があればいい、踏み出すタイミングも、立ち止まって息を抜くタイミングも、わかりやすく教えてくれればいいのに。
広場の方からアコースティックギターと男性の声が聞こえてくる。平日の昼間から青空のしたで誰かが歌を歌っているなんて開放的な光景だ。以前通っていた学校での昼休み、先生が音楽準備室で洋楽を口ずさんでいた懐かしい姿が思い起こされる。
——やってきたことを辿ればいんだよ。そうやってできたことと課題を整理してって自分を見つめるんだ。
記憶の線が、先日の先生の言葉に繋がった。
手探りな僕たちができる確かなことは、来た道を辿ること。彼女にとって声を出すことは真新しい未知なことじゃなくて、少し前までは気にも留めないくらい当たり前だったこと。声が出ない現在地から、まっすぐ元通りの場所に帰ればいいんだ。
「まずはさ、今の咲ができることちょっと考えてみない?」
「そこの日陰に座ってさ、箇条書きでもいいから」
不思議そうな顔をしながらも彼女は素直に僕の提案を受け入れてくれて、真っ白なメモ帳と睨めっこを始めた。箇条書きでいいから、なんて簡単に言ってしまったことにちょっと息が詰まる。僕は、今の僕になにができるのか書き出せる自信がなかったから。歌えなくなったあの日から、僕はきっと止まったままだ。
感傷に浸っていたせいで無意識に俯いていた顔を上げると、視界の端で彼女のペン先が動いているのが見えた。
・週の半分は登校できる
手が止まって僕と目が合うと。
『できないことばっかり』
惨めさを憎むように力が入って白くなったペンを握る指先に気づいた時、僕は初めて喉に言葉が詰まる苦しさを知った。心配も慰めも共感も励ましも、掛けたい言葉が生まれるたびに掛けていい言葉がわからなくなって、声になれないまま溜まっていく息苦しさ。少し前の僕が言った「力になる」がどれほど浅はかだったか、考えるだけで嫌気がさす。結局僕は“声を出せない彼女“に寄り添えている気になっていただけで、彼女の心に歩み寄ることはできていなかったんだ。
「文字で伝えることも怖かったりする?」
強い風が吹けばかき消されてしまうような声量に情けなくなるけれど、知らないままでいることは僕の心が許してくれない気がした。彼女は考えた後に『△』とだけ書いた。その隣に僕が『?』を書くと。
『桃瀬くんは怖くない』
僕が隣にいていいと認めてくれる言葉が綴られた。
目が合うと彼女は恥ずかしさを誤魔化すように柔らかく微笑んで再びペンを握った。ページを捲って、まっさらな面に僕宛ての言葉が紡がれていく。大切な人からの手紙を待っている時のような心のくすぐったさを感じる。
『転校するまでの数ヶ月間、ずっと家にひきこもってた。一人でいるのは気が楽で、誰かが敵になったり、誰かの敵になることもなかったから。このままずっと一人でもいいって思った時も会ったの、でも今は違う』
僕が読み終えたのを確かめるように頷いて、彼女は紙の隅を掬うように摘んだ。もう片方の手で作られたピースは、あと二枚続きがあることを教えてくれている。
『桃瀬くんとだったら。って思えてる』
『だから、今の私ができるようになりたいことに付き合ってほしい』
言葉で大切な人との関係を壊したと自分を責めて、孤独が楽だと人を拒絶していた彼女が、自らの意思で僕を巻き込もうとしている。僕なら大丈夫だろうと判断してくれた心の動きが純粋に嬉しい。人に弱さを見せることも、変わることも簡単じゃない。諦めたり逃げたりするなら一人の方が身軽でいいけど、叶えようとするなら誰かと一緒がいい。
「僕でよければ、力にならせてよ」
『迷惑も時間もかけちゃうけど、それでもいい?』
「どれだけかかったっていい」
『私が諦めそうになったら、無理矢理にでも前を向かせてくれる?』
「無理に前を向かなくたって、俯いたら足元をみてどっちに進もうか一緒に考えてみようよ」
だから僕は、彼女からの頼み事を受け入れた。彼女を隣で支える“誰か“になりたかったから。
『ありがとう』
「こちらこそ」
くしゃっと可愛らしく笑うと、スマートフォンの画面を向けてきた。赤色のチェックマークに【できるようになりたいこと】という太文字が挟まれている。その下に連なる箇条書きに視線をずらすと。
・家族以外と連絡先を交換する
・誰かと友だちになりたい
・少し人が怖くなってしまったから人に慣れたい
・緊張せずに気持ちを伝えたい
・声を出せるようになりたい
項目は増えていくこともあるだろうけど、今の咲の心にある理想が書き並べられていた。僕にはなにができるだろう、それを知るために彼女の気持ちを少しずつでもわかっていきたい。
『SNSから距離を置きたくて転校を機に携帯を買い替えたから、今は家族の連絡先しか持ってないの。元通りになるために顔が見えない状況でも人と繋がってることへの不安をなくしたくて』
「だからわかりやすい手段として連絡先を交換できるように、ってこと?」
『SNSは使ってなくても困らないけど、電話とかメールとかの連絡が取れないって今後関わる相手に迷惑をかけちゃいそうだから』
前はできてたから、元々人見知りだったけど人は好きだから、安心できる存在がいる嬉しさを知ってるから、話したいと思えている気持ちを裏切りたくないから。一つずつ、変わりたい理由を教えてくれた。前は、とか、元々、とか。それらの言葉は間接的に、出会う前の咲について教えてもらえているように感じてとても幸せだった。
『あとね、親にも言えてないことがあるの』
「聴いてもいい?」
『バイト始めたいって考えてるんだ』
なにから始めたらいいんだろうね。と、僕が切り出してすぐに彼女からカミングアウトされた。真剣な表情からは『背中を押して』という願いすら感じられたけれど、気づていないふりを理由をして尋ねた。僕は彼女に理由のある言葉を渡したいから。どうしてそう言ったの? と訊かれた時に、こう思ったからだよ。って迷わず答えられる僕でいることが彼女を支える中での責任だと思う。肯定にも否定にも、言葉の根底にはそう言う誠実さを持っていたい。
『人に慣れたいのが一番の目的なんだけど、学校外の自分の居場所を自分の力で探せたら前に進める気がしたから』
「素敵な考えだと僕は思うけど、親御さんに言えてないのはどうして?」
『働くことはお金をもらうってことだから、私みたいに自分軸な理由だと社会を舐めてるって怒られちゃいそうで。喋ることすらまともにできないのに無理じゃんって言われたら言い返せないし』
インクと自信が同時にこぼれ落ちていって、最後の『し』からは臆病さを感じた。私なんか、という自己否定の殻を破った彼女を次に覆っていたのは周囲からの否定を怖がる気持ち。重たい気持ちを背負っているように猫背になってしまった彼女の背を押したくなった。トンっと押して、背が伸びた反動で俯いた顔も一緒に上がってしまえたらいいのにと願った。
「舐めてなんかない、咲はまっすぐ向き合ってる」
思っているより世界は優しいとか、受け入れてくれる人もいるよなんて綺麗事じみた励ましじゃなくて、隣にいる僕は肯定してるし応援してる。彼女に伝えたいのは僕の確かな想いだけ。
「働く理由が『社会に貢献しよう!』しか許されないなんて生き苦しい話じゃない? お金が欲しいとか、かっこいい仕事してみたいとか、自分のために働くのもきっと正解だよ」
彼女から差し出されたメモの切れ端には、バイトについて向き合った跡があった。声を必要としない業種、学校との両立、今の自分が人に頼らずにできること、一番下には。
『声が出ないことに苦い顔をされてもへこまないこと』
という自分自身との約束事が書かれていた。
僕だったら逃げてしまいそうなほどの感情面での几帳面に圧倒される。あまりに直感的で無責任になってしまうから口には出せないけれど、咲なら大丈夫だ、と思った。
『挑戦してみても大丈夫かな』
「応援してる」
彼女がグッと腕を上げて背を伸ばす、心にまとわりついていた不安を吹き飛ばすように息を吐いてニコッと笑いかけてくれた。よかった、僕はちゃんと咲の背中を押せたらしい。逃げてばかりの僕が誰かを励ますなんておかしな話だけど。はやく、僕も変わらないといけない。
彼女の手が肩に触れる、振り向くと規則的に数字が書き並べられた紙を渡される。
三桁、棒線、四桁、棒線、四桁。
これって——。
『繋がってほしい』
その瞬間、僕の目に映った彼女の表情に愛おしさを覚えた。
恥ずかしさからか口元はメモ帳で隠されているけれど、三日月型になった瞳からよく笑っているのがわかる。心を許してくれた時に感じていた特別感とは、まったく別物の特別を与えられた気分だ。
彼女を素敵な人だと思っていた。
頑張る姿がまっすぐで、友だち想いで、人の心に繊細で、僕は人として彼女に惹かれていた。
なのに今抱いている感情は違う。彼女が僕を連絡先第一号に選んでくれた特別感が刺さってしまったのか、多幸感に似た嬉しさで鼓動が跳ねて、笑った顔を見て安心より先に可愛いと思った。
帰り道、コンビニに寄ってアイスを買った。
サイダー味のそれは歯が沁みるくらい爽やかだったけれど、彼女との間に吹いた風には負けてしまう。
ずっとアイスが溶けなければいい、せめて日が暮れるまでは。
ずっと、ずっと、一本のアイスで笑っていられそうなくらいに今の僕は幸せなんだ。
❀
「愛しの弟が悩みに蝕まれて夜も眠れないって言うから帰ってきちゃったっ」
ちょっと相談したいことがある、と連絡した三日後の朝。
梅雨のジメジメした雰囲気を破るように、姉が帰省してきた。僕のメッセージに『近々飛んでく!』とだけ返信が来て、その後に続く『メールとか通話で聞いてもらえたらいいよ』という補足には既読すらついていない。今日来ることに関しても、もちろん事前の連絡などなく、両親が出勤した直後に突然現れたのだ。
「実家だから気を遣う必要ないしアポ無しでも問題ないでしょ?」
「鍵持ってないんだし、誰もいなかったら困るのは姉ちゃんだよ」
「その時は外で待ってるさっ」
「雨なのに?」
「晴れ女の私を甘くみられちゃ困るね!」
晴れ女を自称した瞬間に雨音が強くなったり、実家なんだから気を遣わなくていいと言いながら律儀に東京土産を買ってきたり、チグハグな人だ。姉とは特別仲がいいわけじゃないけど、四つ年が離れていることもあって普通の弟より可愛がってもらっている自覚はある。あえて名前をつけるなら、小さな母親のような存在。
身体用と荷物用で二枚のタオルを渡して、雨で濡れた場所を拭いてもらっている間に、姉が毎朝飲んでいたココアを入れる。湯を沸かしているとポケットに振動を感じた。
【明後日面接になったよ】
【きっと緊張しちゃうから訊かれそうなこと予想して考えてみたんだ】
志望動機や勤務可能な時間、どうして声を出すことができないのか、コミュニケーション手段についてなど、送られてきたリストには彼女の誠実さが滲んだ質問とその答えが並んでいた。親にも言えないほど不安を抱えていたとは思えないほど逞しくて、かっこいい。
【面接決まってよかったね!】
【対策までお疲れ様! 時間とってちゃんと読ませてもらうね】
【またなにかあればいつでも!】
既読がついて、可愛らしいキャラクターがぺこりと頭を下げるスタンプが送られてくる。画面を閉じると同時に姉がリビングへ到着して、やかんから甲高い音が鳴った。どうやらこの後もリモートでの仕事が入っているらしく、ココアを一口飲んで「やっぱ椋のお湯の量最高!」と褒めたあと、すぐに話は本題へ。
「相談ってなに?」
「大したことじゃないんだけどさ」
「無理言って休みとって来たのに遠慮されちゃ困るなぁ」
「遠慮なんてしてないよ」
「椋はどうでもいいことで相談なんて言う子じゃないの知ってるから」
自分から話を持ちかけていながら強がってしまうくらいに、僕は誰かを頼ることが得意じゃない。いいことがあると話したくなる、でも、迷っていることや悩みは噛み砕けないまま呑み込んでばかり。苦しい感情は、時間が経てば大抵溶けていく。なくなることはないけど、そのほかの感情と混ざって、埋もれて、気にならなくなる。世間ではそれを、時間が解決すると言うらしい。
「ギター、もらってもらうことってできるかな」
「……なに急に」
「気持ちの整理っていうか、いい加減区切りをつけないとなって」
別れた恋人との未練を断ち切るために思い出の写真を消すように、僕は音楽への未練を断つためにギターを手放すことにした。部屋に置いたままでは時間が好きだった頃の記憶や感情を押し流す邪魔をしてしまうから。
「え、ごめん。それだけじゃ椋の考え全然わかんない、詳しく聴かせてくれる?」
わずかにトーンが低くなった声と向けられた真剣な眼差しに身が縮んでしまいそうになりながら、僕は頭に浮かんでいる言葉を辿るように声に出す。
「転校生が来たんだけど、その子声が出なくてさ。前の学校の人間関係で色々あって声が出せなくなっちゃったらしいんだけど。また普通に喋れるようになりたいって頑張ってて、環境変えるために転校したり、自分にできることとできないこと探して考えたり——その姿見て感化されたのかな。僕もうだうだしてちゃダメだって。歌えなくなったくせに未練がましくギター触って、そんなことしてるからずっと変わらないんだって気づいてさ」
悪いことをしているわけじゃないのに、急かされるように言い訳を並べている気分だった。今言ったことが本音か建前か、本当はなにを伝えようとしていたか、考えてもわからないくらいに頭の中はぐちゃぐちゃ。姉の顔が曇っている。二つ返事の「いいよ」を期待していたわけじゃないけど、いざ目の前で否定の表情を浮かべられると不安になってしまう。
「私は椋のお姉ちゃんだけど、椋のギターの託児所じゃない」
「え」
「もらってほしいって言うけど、それって私に預けるってことでしょ? いつでも椋の手に戻せるところにある状況じゃ気持ちの整理なんてつかないと思う」
姉の意見は真っ当だった、それはもう僕の主張が恥ずかしくなってしまうくらいに。
「それに、ギターを手放してなにが変わるの? 私には、変わろうと頑張る人が近くに現れて、変われてない自分に焦ってるだけにしか見えない。無理矢理なんか変化を生み出そうって、考えなしに動いてるようにしか見えない」
「なんでそんなこと——」
「中途半端な人が嫌いなの。それに、まっすぐで誠実だった人が中途半端になるのはもっと嫌い」
厳しくて鋭利な言葉の語尾が悲しそうで胸が苦しくなる。
泣き虫だった僕を姉は歌であやしてくれて、それが音楽を好きになるきっかけだった。使い古されて倉庫に眠っていたギターの埃を綺麗に払って僕に渡してくれて、楽譜の読みかたや歌いかたをすべて教えてくれた。転校前の学校だって「将来のために高校は普通科にしなさい」という両親の主張を一緒になって押し切って、声楽科を探してくれた。
いつだって、姉は僕のいちばんの味方でいてくれた。
椋が頑張りたいなら力になるよ、って。
そんな姉にとって、今の僕はきっと誠実じゃない。僕の中に罪悪感に似た気持ちが生まれてしまっている。
裏切ってごめんなさい、そんな言葉で頭が埋め尽くされる。
「私がいつもお世話になってる楽器屋のホームページ送っておくから。気持ちが固まってるなら、そこに売ることを勧めるよ」
なにも言えないずに、姉が部屋に出ていく足音を俯いたまま聞いていた。しばらくして届いた姉からの通知で、僕はようやく顔を上げた。二件の新着メッセージ。一件目は楽器屋のホームページに繋がるURL、二件目は。
【今の椋は嫌いだけど、見捨てたつもりはないから】
❀
「買取ですね」
淡々とした口調の男性店員にギターケースを手渡す。その焦茶色の表面には、いくつも傷が刻まれていた。十歳の頃、白色を探していた僕が楽器屋で一目惚れした黒色のアコースティックギター。ずっと僕と音楽を繋げてくれたもので、僕の歌声を誰より聞いてくれた存在。
ケースのロックが外されて、慣れた手つきでギターが取り出される。店内の蛍光灯の下で、輝くそいつに僕の顔が映る。反射的に目を瞑ってしまった。
「確認させていただきますね」
店員は静かに弦を弾いて鳴らした。一音聞いただけで、わずかにチューニングがずれているのがわかる。もう、このギターの音を合わせるのは僕じゃないんだ。寂しさというか虚しさというか、心のリミッターが外れてしまったら悔やみが生まれてしまいそうな感覚に陥っている。
「大切に使われていたんですね」
その声に、特別な感傷はないんだろう。ただの業務的な一言、僕は無自覚に抉られた傷を誤魔化すように曖昧に頷いた。
「では、買取金額をお出ししますので少々お待ちください」
カウンターに取り残されたギターの前に立ち尽くしている。手放すと決めたのは僕なのに、生半可な覚悟なんかじゃないのに、こんなにも名残惜しいなんて。
店員が提示した金額は、予想よりも少しだけ低かった。買取書に署名すると、伝票が静かに渡された。この瞬間をもって、僕のギターは正式に僕の手を離れた。
奥に運ばれていくそいつを見送りながら深く息をつく。変われる、振り切れる、ちょっとでも気持ちが晴れる、そう思ってたのに。心には喪失感ばかり残って、これが前向きな決断だったのか自信を持ちきれずにいる。
ピコンっ
ポケットから振動が伝って通知が聞こえた。
浅桜咲から一件の新着、と表示されている。
楽器屋のドアを押し開けると、雨まじりのジメッとした空気が頬を撫でる。画面に目をやると、息が詰まりそうになった。
眩しすぎて。
取り残された気がして。
頑張りかたの正解を突きつけられたと同時に、ひどく自分が醜く思えた。
——【バイト受かったよ】
【あの日背中押してくれてありがとう】
検索結果としていくつかの症例が載っていた中で、彼女に教えてもらったことに一番当てはまるのがこの病名だった。
精神的なストレスや心的外傷が原因で、声帯や筋肉に異常がないのに声が出なくなる状態のこと。
彼女を病人と括るなんて無礼なことはしないけれど、声が出ないことに対してなにも知らないままの僕と、少しずつでも知ろうとしている僕なら、後者の方が圧倒的に彼女の力になれる近道だと思った。
『まもなく上り電車が到着いたします。黄色い線の内側に下がってお待ちください』
古びたスピーカーから聞き慣れたアナウンスが流れる、駅には僕一人だけ。顔馴染みの駅員さんが「乗らないのかい?」と尋ねるように小さく首を傾げてくれたから「大丈夫です」と答えるように会釈を返す。言葉って案外声にしなくても伝わるんだなと実感しながら、僕は再び端末の画面に目をやった。
「……自然治癒する可能性もある」
ある精神科医の記事には原因となっている環境や人から距離を置くことや周囲からのサポートを受けることで、回復する可能性は十分にあると書かれている。その言葉に希望を感じて、思わずスクリーンショットしてしまった。治る可能性があることはもちろん嬉しい、でもそれと同じくらい彼女に言った「力になるよ」という心の約束を守れることが嬉しかったから。
『まもなく下り電車が到着いたします。黄色い線の内側に下がってお待ちください』
再びアナウンスが鳴って、この後の予定のために普段とは反対方向の電車に乗車する。いつもの車窓から見えるパン屋や商店街の入り口の賑やかな雰囲気が僕は好きだけど、この電車の窓から見える各家庭から暖かい灯りが溢れた住宅街も僕は同じくらい素敵なんだと気づいた。知らないままでいるより、少しずつでも知ろうとすることはいいことだと思う、何事に対しても。
❀
「久しぶりだな桃瀬、元気してたか」
電車を降りて、僕は家でもバイト先でもなく昼時を過ぎて人の波が引いたファミレスに来た。そして目の前に座るアンティークなスーツを着た彼は、高校一年の頃お世話になった担任の先生。
「半年ぶりくらいですかね、先生もお変わりないですか」
「元気元気っ、今日は桃瀬から誘ってもらえたから特に元気」
一昨日、以前通っていた学校を経由して先生に連絡を取った。僕はいいことがあると誰かに話したくなってしまう性格で、今回のいいことは先生に聞いてほしかったから。
「桃瀬が俺に声をかけるって、さてはいいことでもあったんだな?」
「クラスメイトが増えたんです」
「おぉ」
「それも、同級生……!」
「おぉ! 桃瀬のスクールライフに光が差したなぁ」
女子か男子か、その子のことが好きなのか、可愛いのか、なんだそんなことか、といった寂しい言葉を口にするような人じゃないだろうという期待を、先生は裏切らなかった。僕の話した嬉しさは純度を保ったまま、まっすぐに受け取ってもらえた。
「となるとその子が三人目の同級生ってことか」
「いつか三人で教室に集まれたらいいなって」
「それが直近の夢かい?」
「夢って言ったら言葉が大きいですけどね」
「大きくないと夢じゃないなんて決まりはないからな、叶ったら幸せだろうなぁってものが思い浮かぶなら、それはもう立派な夢でいい」
そんなセリフの後には大人っぽくコーヒーを啜るのがお決まりな気がするけれど、先生はお構いなくメロンソーダを飲み干してドリンクバーへと席を立った。飾らずに、先生と生徒でいる前に人として接してくれる先生には、ついたくさん話をしたくなる。
「先生は最近いいことありました?」
今度はオレンジジュースをコップの縁ギリギリまで注いできた先生に尋ねた。僕は先生の話を聞くことも、話すのと同じくらい好きだ。
「よくぞ聞いてくれたねぇ、さては超能力でも身につけた?」
ニヤッと口角を上げると、先生はなにかを取り出そうと鞄の中を探し始める。目当てのものはなかなか発見されず、この様子だと職員室の机上も相変わらず散らかっていそうだなと、懐かしさから頬が緩んでしまいそうになる。
「あった! これこれ、見てー?」
「新人発掘オーディション、先生が主催……?」
「なんかこう、ビビッと頭に電撃を走らせるような声に出会えたらなぁと思ってさ。校内の生徒と、外部生徒からも募ろうかなって」
折り目のついたチラシを差し出されたまま受け取る。記載された主催者コメントからは、声楽専門教師としてではなく声楽変態オタクとしての先生が容易に想像できた。
「最終選考が一月ってことは……」
「学園祭があるだろ? そこで公開オーディションをするのさっ。卒業生で活躍してるやつも呼んで盛大にな」
先生はビールを押し流す勢いでオレンジジュースを飲み干す。オーディションの過程に書類審査はなく、一次審査の段階から先生が出向き、全員と直接対面して合否を決めていくらしく相当気合いが入っているのが伝わってくる。
「すごい熱量ですね」
「すべてはまだ出会っていない声に出会うためだ」
「歌声への探究心にちょっとも妥協がないですね」
「歌声に限んなくても、声ってのはその人の心だからな。音楽に直結させなくたって、人間性とか魅力とか、いろんな要素が詰め込まれてるのが声」
「ちょっとわかるかもしれないです」
「俺は耳で恋してるくらいだからな、理想の声ってのをずっと探してんだ」
僕のクラスに赴任して最初の自己紹介で、先生は『声の収集家』だと自称していたけれど、二年経ってその実態に触れた気がした。三度目のドリンクバーから帰ってきた先生は水を一口含んでゆっくり飲み込んだあと、じっと僕を見た。
「桃瀬、出ない? お前にならシード権あげちゃうけど」
冗談であればいい。
その場のノリであればいい。
感情任せな勢いであればいい。
僕の頭を埋め尽くす逃げたいがための期待を、先生は容赦なく裏切るように僕から目を逸らしてくれない。
「歌ってくんないか、そんでまた俺に指導させてくれないかな」
先生が懐かしむように微笑むから、僕の胸は苦しくなる。先生に恩があることは確かだし、もう一度指導を受けられるのなら僕だってそうしたい。でも、僕にはそれを叶えることはできない。
「すみません、僕、まだ」
「まぁ、頭の片隅にでも入れといてくれ」
残念そうな表情をするわけでも落胆した態度をするわけでもなく、先生は僕の言葉をそのまま受け取った。僕が転校したいと申し出た時と同じように、肯定も否定もしない態度で。
「桃瀬、不安にならないでくれ」
「わかってます」
「俺は人の選択に対する肯定や否定を言葉にするのが得意じゃないんだ」
「よくわかってます」
「ただ受け入れてる。ただ、俺は待ってるからな」
「待ってるって言われても、戻るまでどう進めばいいか」
「やってきたことを辿ればいんだよ。そうやってできたことと課題を整理していって自分を見つめるんだ。そしたらいずれ戻れる、いや、超えれるな」
穏やかなファミレスの雰囲気は居心地がいいけれど、今だけは騒がしくなれと思ってしまう。心臓から伝ってくる鼓動のうるささを誤魔化してほしくて、うまく息が吸えない感覚を人混みのせいにさせてほしかったから。
先生がオーディションのエントリーシートと万年筆を取り出す。裏面の備考欄が埋まっていく。
『推薦枠、二次審査より参加』
三つ折りにして封筒に入れたものを差し出されたけれど、受け取るのも断るのも違和感があって僕は俯いてしまった。
「桃瀬に諦めるきっかけを与えてしまったこと、ずっと後悔してる。時間は戻せないけど、機会を与えることで償わせてほしい」
「諦めるきっかけなんて、そんな——」
「桃瀬も覚えてるだろ」
「なにをですか」
「俺が言ったこと」
「え?」
「俺が初めて、桃瀬の声を嫌いって言ったこと」
❀
『おはよう』
声を出せなくなった理由を教えてもらって一ヶ月が経つ。
彼女は週に二、三回のペースで登校するようになり、その度にこうして『おはよう』と書いた紙を渡してくれるようになった。表情はまだ硬いし、声を聞ける日は遠いだろうけど、少しずつ心を許してくれていると肌で感じられると安心する。
授業終わりの鐘が鳴って、ぐっと背伸びをしている僕の肩に彼女の手が触れる。振り向くとメモ帳を構えて立っていた。
『相談があるんだけどいいかな』
「ちょうど帰るところなんだけど一緒に帰る?」
お互い手際よく荷物をまとめて階段を下り昇降口へ。転校して以来、帰り道を誰かと歩くのは初めてだった。ゆっくり話をするために学校を出てすぐの場所にある海のみえる芝生広場へ向かう。最初の信号が赤になった時、彼女はポケットからメモ帳を取り出してあらかじめ書かれていた相談内容を見せてくれた。
『喋れるようになりたいって言ったけど、なにから始めればいいんだろう』
声が出ない理由が身体にあるのなら、診断を受けて、処置を受けて、検査で経過を見て、回復への過程をそれなりに正確に知ることができる。ただ彼女の理由は心にあって、原因から距離を置いたり、誰かに頼ったり、できることと言ったらそれくらい。喋れなくなるほど傷を負った心に病名がついたところで、それは単なる名札に過ぎなくて、彼女の回復までの進み方を教えてくれるわけじゃない。
『ある日突然喋れるようになるとして、それまでの時間、自分がどれくらい喋れる状態に近づいてるのかわからないのは、頑張り方がわからなくて怖い』
同じ気持ちにはなれないけれど、二人は同じことを考えている。信号が青に変わる、進みなさいと示してくれる。こんなふうに心にも信号があればいい、踏み出すタイミングも、立ち止まって息を抜くタイミングも、わかりやすく教えてくれればいいのに。
広場の方からアコースティックギターと男性の声が聞こえてくる。平日の昼間から青空のしたで誰かが歌を歌っているなんて開放的な光景だ。以前通っていた学校での昼休み、先生が音楽準備室で洋楽を口ずさんでいた懐かしい姿が思い起こされる。
——やってきたことを辿ればいんだよ。そうやってできたことと課題を整理してって自分を見つめるんだ。
記憶の線が、先日の先生の言葉に繋がった。
手探りな僕たちができる確かなことは、来た道を辿ること。彼女にとって声を出すことは真新しい未知なことじゃなくて、少し前までは気にも留めないくらい当たり前だったこと。声が出ない現在地から、まっすぐ元通りの場所に帰ればいいんだ。
「まずはさ、今の咲ができることちょっと考えてみない?」
「そこの日陰に座ってさ、箇条書きでもいいから」
不思議そうな顔をしながらも彼女は素直に僕の提案を受け入れてくれて、真っ白なメモ帳と睨めっこを始めた。箇条書きでいいから、なんて簡単に言ってしまったことにちょっと息が詰まる。僕は、今の僕になにができるのか書き出せる自信がなかったから。歌えなくなったあの日から、僕はきっと止まったままだ。
感傷に浸っていたせいで無意識に俯いていた顔を上げると、視界の端で彼女のペン先が動いているのが見えた。
・週の半分は登校できる
手が止まって僕と目が合うと。
『できないことばっかり』
惨めさを憎むように力が入って白くなったペンを握る指先に気づいた時、僕は初めて喉に言葉が詰まる苦しさを知った。心配も慰めも共感も励ましも、掛けたい言葉が生まれるたびに掛けていい言葉がわからなくなって、声になれないまま溜まっていく息苦しさ。少し前の僕が言った「力になる」がどれほど浅はかだったか、考えるだけで嫌気がさす。結局僕は“声を出せない彼女“に寄り添えている気になっていただけで、彼女の心に歩み寄ることはできていなかったんだ。
「文字で伝えることも怖かったりする?」
強い風が吹けばかき消されてしまうような声量に情けなくなるけれど、知らないままでいることは僕の心が許してくれない気がした。彼女は考えた後に『△』とだけ書いた。その隣に僕が『?』を書くと。
『桃瀬くんは怖くない』
僕が隣にいていいと認めてくれる言葉が綴られた。
目が合うと彼女は恥ずかしさを誤魔化すように柔らかく微笑んで再びペンを握った。ページを捲って、まっさらな面に僕宛ての言葉が紡がれていく。大切な人からの手紙を待っている時のような心のくすぐったさを感じる。
『転校するまでの数ヶ月間、ずっと家にひきこもってた。一人でいるのは気が楽で、誰かが敵になったり、誰かの敵になることもなかったから。このままずっと一人でもいいって思った時も会ったの、でも今は違う』
僕が読み終えたのを確かめるように頷いて、彼女は紙の隅を掬うように摘んだ。もう片方の手で作られたピースは、あと二枚続きがあることを教えてくれている。
『桃瀬くんとだったら。って思えてる』
『だから、今の私ができるようになりたいことに付き合ってほしい』
言葉で大切な人との関係を壊したと自分を責めて、孤独が楽だと人を拒絶していた彼女が、自らの意思で僕を巻き込もうとしている。僕なら大丈夫だろうと判断してくれた心の動きが純粋に嬉しい。人に弱さを見せることも、変わることも簡単じゃない。諦めたり逃げたりするなら一人の方が身軽でいいけど、叶えようとするなら誰かと一緒がいい。
「僕でよければ、力にならせてよ」
『迷惑も時間もかけちゃうけど、それでもいい?』
「どれだけかかったっていい」
『私が諦めそうになったら、無理矢理にでも前を向かせてくれる?』
「無理に前を向かなくたって、俯いたら足元をみてどっちに進もうか一緒に考えてみようよ」
だから僕は、彼女からの頼み事を受け入れた。彼女を隣で支える“誰か“になりたかったから。
『ありがとう』
「こちらこそ」
くしゃっと可愛らしく笑うと、スマートフォンの画面を向けてきた。赤色のチェックマークに【できるようになりたいこと】という太文字が挟まれている。その下に連なる箇条書きに視線をずらすと。
・家族以外と連絡先を交換する
・誰かと友だちになりたい
・少し人が怖くなってしまったから人に慣れたい
・緊張せずに気持ちを伝えたい
・声を出せるようになりたい
項目は増えていくこともあるだろうけど、今の咲の心にある理想が書き並べられていた。僕にはなにができるだろう、それを知るために彼女の気持ちを少しずつでもわかっていきたい。
『SNSから距離を置きたくて転校を機に携帯を買い替えたから、今は家族の連絡先しか持ってないの。元通りになるために顔が見えない状況でも人と繋がってることへの不安をなくしたくて』
「だからわかりやすい手段として連絡先を交換できるように、ってこと?」
『SNSは使ってなくても困らないけど、電話とかメールとかの連絡が取れないって今後関わる相手に迷惑をかけちゃいそうだから』
前はできてたから、元々人見知りだったけど人は好きだから、安心できる存在がいる嬉しさを知ってるから、話したいと思えている気持ちを裏切りたくないから。一つずつ、変わりたい理由を教えてくれた。前は、とか、元々、とか。それらの言葉は間接的に、出会う前の咲について教えてもらえているように感じてとても幸せだった。
『あとね、親にも言えてないことがあるの』
「聴いてもいい?」
『バイト始めたいって考えてるんだ』
なにから始めたらいいんだろうね。と、僕が切り出してすぐに彼女からカミングアウトされた。真剣な表情からは『背中を押して』という願いすら感じられたけれど、気づていないふりを理由をして尋ねた。僕は彼女に理由のある言葉を渡したいから。どうしてそう言ったの? と訊かれた時に、こう思ったからだよ。って迷わず答えられる僕でいることが彼女を支える中での責任だと思う。肯定にも否定にも、言葉の根底にはそう言う誠実さを持っていたい。
『人に慣れたいのが一番の目的なんだけど、学校外の自分の居場所を自分の力で探せたら前に進める気がしたから』
「素敵な考えだと僕は思うけど、親御さんに言えてないのはどうして?」
『働くことはお金をもらうってことだから、私みたいに自分軸な理由だと社会を舐めてるって怒られちゃいそうで。喋ることすらまともにできないのに無理じゃんって言われたら言い返せないし』
インクと自信が同時にこぼれ落ちていって、最後の『し』からは臆病さを感じた。私なんか、という自己否定の殻を破った彼女を次に覆っていたのは周囲からの否定を怖がる気持ち。重たい気持ちを背負っているように猫背になってしまった彼女の背を押したくなった。トンっと押して、背が伸びた反動で俯いた顔も一緒に上がってしまえたらいいのにと願った。
「舐めてなんかない、咲はまっすぐ向き合ってる」
思っているより世界は優しいとか、受け入れてくれる人もいるよなんて綺麗事じみた励ましじゃなくて、隣にいる僕は肯定してるし応援してる。彼女に伝えたいのは僕の確かな想いだけ。
「働く理由が『社会に貢献しよう!』しか許されないなんて生き苦しい話じゃない? お金が欲しいとか、かっこいい仕事してみたいとか、自分のために働くのもきっと正解だよ」
彼女から差し出されたメモの切れ端には、バイトについて向き合った跡があった。声を必要としない業種、学校との両立、今の自分が人に頼らずにできること、一番下には。
『声が出ないことに苦い顔をされてもへこまないこと』
という自分自身との約束事が書かれていた。
僕だったら逃げてしまいそうなほどの感情面での几帳面に圧倒される。あまりに直感的で無責任になってしまうから口には出せないけれど、咲なら大丈夫だ、と思った。
『挑戦してみても大丈夫かな』
「応援してる」
彼女がグッと腕を上げて背を伸ばす、心にまとわりついていた不安を吹き飛ばすように息を吐いてニコッと笑いかけてくれた。よかった、僕はちゃんと咲の背中を押せたらしい。逃げてばかりの僕が誰かを励ますなんておかしな話だけど。はやく、僕も変わらないといけない。
彼女の手が肩に触れる、振り向くと規則的に数字が書き並べられた紙を渡される。
三桁、棒線、四桁、棒線、四桁。
これって——。
『繋がってほしい』
その瞬間、僕の目に映った彼女の表情に愛おしさを覚えた。
恥ずかしさからか口元はメモ帳で隠されているけれど、三日月型になった瞳からよく笑っているのがわかる。心を許してくれた時に感じていた特別感とは、まったく別物の特別を与えられた気分だ。
彼女を素敵な人だと思っていた。
頑張る姿がまっすぐで、友だち想いで、人の心に繊細で、僕は人として彼女に惹かれていた。
なのに今抱いている感情は違う。彼女が僕を連絡先第一号に選んでくれた特別感が刺さってしまったのか、多幸感に似た嬉しさで鼓動が跳ねて、笑った顔を見て安心より先に可愛いと思った。
帰り道、コンビニに寄ってアイスを買った。
サイダー味のそれは歯が沁みるくらい爽やかだったけれど、彼女との間に吹いた風には負けてしまう。
ずっとアイスが溶けなければいい、せめて日が暮れるまでは。
ずっと、ずっと、一本のアイスで笑っていられそうなくらいに今の僕は幸せなんだ。
❀
「愛しの弟が悩みに蝕まれて夜も眠れないって言うから帰ってきちゃったっ」
ちょっと相談したいことがある、と連絡した三日後の朝。
梅雨のジメジメした雰囲気を破るように、姉が帰省してきた。僕のメッセージに『近々飛んでく!』とだけ返信が来て、その後に続く『メールとか通話で聞いてもらえたらいいよ』という補足には既読すらついていない。今日来ることに関しても、もちろん事前の連絡などなく、両親が出勤した直後に突然現れたのだ。
「実家だから気を遣う必要ないしアポ無しでも問題ないでしょ?」
「鍵持ってないんだし、誰もいなかったら困るのは姉ちゃんだよ」
「その時は外で待ってるさっ」
「雨なのに?」
「晴れ女の私を甘くみられちゃ困るね!」
晴れ女を自称した瞬間に雨音が強くなったり、実家なんだから気を遣わなくていいと言いながら律儀に東京土産を買ってきたり、チグハグな人だ。姉とは特別仲がいいわけじゃないけど、四つ年が離れていることもあって普通の弟より可愛がってもらっている自覚はある。あえて名前をつけるなら、小さな母親のような存在。
身体用と荷物用で二枚のタオルを渡して、雨で濡れた場所を拭いてもらっている間に、姉が毎朝飲んでいたココアを入れる。湯を沸かしているとポケットに振動を感じた。
【明後日面接になったよ】
【きっと緊張しちゃうから訊かれそうなこと予想して考えてみたんだ】
志望動機や勤務可能な時間、どうして声を出すことができないのか、コミュニケーション手段についてなど、送られてきたリストには彼女の誠実さが滲んだ質問とその答えが並んでいた。親にも言えないほど不安を抱えていたとは思えないほど逞しくて、かっこいい。
【面接決まってよかったね!】
【対策までお疲れ様! 時間とってちゃんと読ませてもらうね】
【またなにかあればいつでも!】
既読がついて、可愛らしいキャラクターがぺこりと頭を下げるスタンプが送られてくる。画面を閉じると同時に姉がリビングへ到着して、やかんから甲高い音が鳴った。どうやらこの後もリモートでの仕事が入っているらしく、ココアを一口飲んで「やっぱ椋のお湯の量最高!」と褒めたあと、すぐに話は本題へ。
「相談ってなに?」
「大したことじゃないんだけどさ」
「無理言って休みとって来たのに遠慮されちゃ困るなぁ」
「遠慮なんてしてないよ」
「椋はどうでもいいことで相談なんて言う子じゃないの知ってるから」
自分から話を持ちかけていながら強がってしまうくらいに、僕は誰かを頼ることが得意じゃない。いいことがあると話したくなる、でも、迷っていることや悩みは噛み砕けないまま呑み込んでばかり。苦しい感情は、時間が経てば大抵溶けていく。なくなることはないけど、そのほかの感情と混ざって、埋もれて、気にならなくなる。世間ではそれを、時間が解決すると言うらしい。
「ギター、もらってもらうことってできるかな」
「……なに急に」
「気持ちの整理っていうか、いい加減区切りをつけないとなって」
別れた恋人との未練を断ち切るために思い出の写真を消すように、僕は音楽への未練を断つためにギターを手放すことにした。部屋に置いたままでは時間が好きだった頃の記憶や感情を押し流す邪魔をしてしまうから。
「え、ごめん。それだけじゃ椋の考え全然わかんない、詳しく聴かせてくれる?」
わずかにトーンが低くなった声と向けられた真剣な眼差しに身が縮んでしまいそうになりながら、僕は頭に浮かんでいる言葉を辿るように声に出す。
「転校生が来たんだけど、その子声が出なくてさ。前の学校の人間関係で色々あって声が出せなくなっちゃったらしいんだけど。また普通に喋れるようになりたいって頑張ってて、環境変えるために転校したり、自分にできることとできないこと探して考えたり——その姿見て感化されたのかな。僕もうだうだしてちゃダメだって。歌えなくなったくせに未練がましくギター触って、そんなことしてるからずっと変わらないんだって気づいてさ」
悪いことをしているわけじゃないのに、急かされるように言い訳を並べている気分だった。今言ったことが本音か建前か、本当はなにを伝えようとしていたか、考えてもわからないくらいに頭の中はぐちゃぐちゃ。姉の顔が曇っている。二つ返事の「いいよ」を期待していたわけじゃないけど、いざ目の前で否定の表情を浮かべられると不安になってしまう。
「私は椋のお姉ちゃんだけど、椋のギターの託児所じゃない」
「え」
「もらってほしいって言うけど、それって私に預けるってことでしょ? いつでも椋の手に戻せるところにある状況じゃ気持ちの整理なんてつかないと思う」
姉の意見は真っ当だった、それはもう僕の主張が恥ずかしくなってしまうくらいに。
「それに、ギターを手放してなにが変わるの? 私には、変わろうと頑張る人が近くに現れて、変われてない自分に焦ってるだけにしか見えない。無理矢理なんか変化を生み出そうって、考えなしに動いてるようにしか見えない」
「なんでそんなこと——」
「中途半端な人が嫌いなの。それに、まっすぐで誠実だった人が中途半端になるのはもっと嫌い」
厳しくて鋭利な言葉の語尾が悲しそうで胸が苦しくなる。
泣き虫だった僕を姉は歌であやしてくれて、それが音楽を好きになるきっかけだった。使い古されて倉庫に眠っていたギターの埃を綺麗に払って僕に渡してくれて、楽譜の読みかたや歌いかたをすべて教えてくれた。転校前の学校だって「将来のために高校は普通科にしなさい」という両親の主張を一緒になって押し切って、声楽科を探してくれた。
いつだって、姉は僕のいちばんの味方でいてくれた。
椋が頑張りたいなら力になるよ、って。
そんな姉にとって、今の僕はきっと誠実じゃない。僕の中に罪悪感に似た気持ちが生まれてしまっている。
裏切ってごめんなさい、そんな言葉で頭が埋め尽くされる。
「私がいつもお世話になってる楽器屋のホームページ送っておくから。気持ちが固まってるなら、そこに売ることを勧めるよ」
なにも言えないずに、姉が部屋に出ていく足音を俯いたまま聞いていた。しばらくして届いた姉からの通知で、僕はようやく顔を上げた。二件の新着メッセージ。一件目は楽器屋のホームページに繋がるURL、二件目は。
【今の椋は嫌いだけど、見捨てたつもりはないから】
❀
「買取ですね」
淡々とした口調の男性店員にギターケースを手渡す。その焦茶色の表面には、いくつも傷が刻まれていた。十歳の頃、白色を探していた僕が楽器屋で一目惚れした黒色のアコースティックギター。ずっと僕と音楽を繋げてくれたもので、僕の歌声を誰より聞いてくれた存在。
ケースのロックが外されて、慣れた手つきでギターが取り出される。店内の蛍光灯の下で、輝くそいつに僕の顔が映る。反射的に目を瞑ってしまった。
「確認させていただきますね」
店員は静かに弦を弾いて鳴らした。一音聞いただけで、わずかにチューニングがずれているのがわかる。もう、このギターの音を合わせるのは僕じゃないんだ。寂しさというか虚しさというか、心のリミッターが外れてしまったら悔やみが生まれてしまいそうな感覚に陥っている。
「大切に使われていたんですね」
その声に、特別な感傷はないんだろう。ただの業務的な一言、僕は無自覚に抉られた傷を誤魔化すように曖昧に頷いた。
「では、買取金額をお出ししますので少々お待ちください」
カウンターに取り残されたギターの前に立ち尽くしている。手放すと決めたのは僕なのに、生半可な覚悟なんかじゃないのに、こんなにも名残惜しいなんて。
店員が提示した金額は、予想よりも少しだけ低かった。買取書に署名すると、伝票が静かに渡された。この瞬間をもって、僕のギターは正式に僕の手を離れた。
奥に運ばれていくそいつを見送りながら深く息をつく。変われる、振り切れる、ちょっとでも気持ちが晴れる、そう思ってたのに。心には喪失感ばかり残って、これが前向きな決断だったのか自信を持ちきれずにいる。
ピコンっ
ポケットから振動が伝って通知が聞こえた。
浅桜咲から一件の新着、と表示されている。
楽器屋のドアを押し開けると、雨まじりのジメッとした空気が頬を撫でる。画面に目をやると、息が詰まりそうになった。
眩しすぎて。
取り残された気がして。
頑張りかたの正解を突きつけられたと同時に、ひどく自分が醜く思えた。
——【バイト受かったよ】
【あの日背中押してくれてありがとう】



