「私の噂、咲は嘘って知ってたのにね」
 
「知ってたよ、だから——」
 
「じゃあなんで否定してくれなかったの? 咲があいつとも仲良いのは知ってたし、そこを責める気は一切ないの。私は、私はただ、違うことは違うって、言ってほしかった」
 
「ごめん、でも、中立っていうか、真ん中にいると難しくて」

「……そうやっていい顔ばっかしてさ、大事なことは言えないの? そんなに自分が可愛いの? 人見知りなのか知らないけど、それなら曖昧な返事しないでよ……! 中立とか真ん中とか、都合いい言葉ばっか探して……そんなの自分のこと守りたいだけじゃん!」
 
「それは、それは違——」

 ——「……もういいから、それ以上喋んないで。顔見るだけでイラつく」

 ❀

 高校三年生、春。
 普通なら、こんな時期に転校なんてしない。
 普通なら。
 人が変わる季節を春と言うのなら、私にとってこれは紛れもない春で、そしてきっとよくない春なんだと思う。
 学校らしくないビルのような外装の校舎に入って、階段を登り最上階へ。
 空き教室がひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
 いつつめの部屋には、普通なら【3-1】などと書かれているプラカードに【高校学習室】と書かれていて、そこが今日から通う教室らしい。
 私が転校してきたここは、去年創立されたばかりの通信制高校。
 
 ——「もう一度、浅桜さんが浅桜さんらしくいられるようになるように」
 
 先月まで在学していた高校で面談をした時、当時の担任はそう言って転学に必要な書類を渡してくれた。
 もう一度。なんて都合のいい言葉は、明確な区切りのない人生に通用するだろうか。
 一度ダメになったものは、もう二度ともとに戻ることなんてできないと私は思う。
 そんな後めたさを抱えながら微妙に扉を開いたところで、教室の端で揺れる人影に目が留まった。
 
「新入生?」
 
 その人影が振り向いて、扉越しの私にそう問いかける。
 窓に向かって椅子に座り、アコースティックギターを構える同い年くらいの彼。
 あまりに突然声をかけられた私は、会釈にしても浅すぎるほどの会釈を何度か繰り返す。
 
「新入生——」
 
 左右に数回首を振る。
 
「ではない、それなら三年生——」
 
 今度は上下に数回首を振った。
 
「なんだね、把握把握。とりあえず教室入ったら?」
 
 今度はしっかり会釈をして、廊下側の端の席についた。
 すでに鼓動が早くなっているけれど、どうにか最初の意思疎通をクリアできてよかった。目を瞑って、深く息を吸うことを意識する。落ち着いて、普通にしていれば大丈夫、声が出ないことなんて——。
 
「ねぇ」
 
 彼は目を瞑る私にもおかまいなく、再び突然声をかけてきた。
 反射的に肩が跳ねて、過剰に怯えた反応をしてしまったと反省するけれど、彼はまったく気にしていないどころか「驚かせちゃったねぇ」と呑気にニコッと笑っていた。
   
「名前、なんていうの?」
 
 そっか、最初の意思疎通はまだクリアできていなかった。
 どうしよう。はい、でも、いいえ、でもない答えを求められてまた鼓動が早くなる。彼に手のひらを向けて『ちょっと待ってください』を伝えたあと、鞄のいちばん上にあるメモ帳と、奥底に転がったボールペンを取り出して——。
 
『浅桜 咲』
 
 と走り書きの名前を見せる。
 
「あさくら、さき、さん?」
 
 そっか、私の名前はよく読み間違えられるんだった。
 ひさしぶりの初対面相手にふりがなを忘れていた。
 
浅桜(あさくら)(さく)
  
「浅桜咲、綺麗な名前」
 
 不自然な筆談に戸惑いながらも、彼はその意図に触れずに私の名前を綺麗と言ってくれた。だから私も、彼の名前を知りたくなった。
 
『あなたの名前は?』
 
 浅桜咲、の下にそんな疑問を書く。
 彼の手のひらが柔らかく上を向いて、私はその上にそっとボールペンを置いた。音だけじゃなくて、彼は字でも私に名前を教えてくれるらしい。
 
「ももせでも、りょうでも、好きに呼んでくれたら嬉しい」
 
 桃瀬(ももせ)(りょう)。それが、はじめましての彼の名前。
 私のメモ帳に初めて、私以外の文字が残る。走り書きの私の字とは違う、丁寧で、角が丸くて、少しだけ不恰好な、そんな字。
 
「卒業までよろしく」
 
 普通じゃない時期に転校してきて、声を発さなくて、話しかければ怯えた態度をとってしまう私を、彼は迎え入れてくれた。卒業までよろしく、なんて、彼からしたら単なる挨拶に過ぎないのかもしれないけれど、優しく笑ってくれたから、まっすぐ目をみて言ってくれたから、私は素直嬉しくなって、少しだけ心がくすぐったい。
 私も「よろしくね」って、「ありがとう」って言いたい、言いたいのに、言葉が喉元で詰まって声になってくれない。
 目線が下がっていく。せっかく、目があっていたのに。
 
「浅桜さん……?」
 
 彼は不思議そうに、俯く私を控えめに覗き込んで名前を呼ぶ。
 だめだ、言えない、声が出せない。
 せっかく迎え入れてくれたのに、名前も知ったのに。なんでこいつ喋らないんだろうって変な目で見られちゃう。そしたら次会った時は話しかけてもらえないかもしれない。
 
「——っ」
 
 鞄を抱えて、階段に向かって廊下を駆ける。
 逃げるは恥だが役にたつ。なんて、そんなの嘘だ。
 私は逃げたことで、仲良くなる可能性を失った。彼には不愉快な思いをさせてしまっただろうし、余計な心配をかけてしまっているかもしれない。
 鼓動が速くなって、視界が歪んでいく、涙のせい。
 途中で足を踏み外しそうになって、その衝撃で目の淵に溜まっていた涙が頬を伝った。情けない、結局環境を変えようとダメなものはダメなんだ。
 
 一度ダメになったものは、もう二度ともとに戻ることなんてできない。
 
 ❀
 
 二週間後、二度目の登校。
 変わらず彼は窓際の席に座っていて、今日は窓ではなく机に向かっていた。イヤホンをしているのか、静かに扉を開けて入室した私に気づいていない。
 教室の後方に生徒それぞれの名前が貼られた箱が置かれていて、課題の提出や書類のやり取りは主にその箱を通して行われる。家で済ませた課題を入れようと箱を開けると、二つ折りにされた手のひらほどの紙が置いてある。
 
【初対面なのに急にたくさん話しかけてびっくりさせてごめん。久しぶりの同級生に嬉しくなっちゃってさ。浅桜さんがよければ、仲良くできたら嬉しいな】
 
 丁寧で、角が丸くて、少しだけ不恰好な。
 差出人の名前なんて書いていないのに、すぐに彼からの手紙だとわかった。
 鞄からペンを取り出す、今度は走り書きなんかじゃない。手紙の余白に返信を書くのは少し違和感があったけれど、それより今は伝えたかった。
 
【この間はごめんね、私も仲良くなりたい】
 
 彼の肩に軽く触れて、振り向いてもらう。
 この距離に来て気づいた、彼はイヤホンをしていない。
 
「よかった……! こっちこそごめん、なんて声掛けたらいいかわかんなくて教室入ってきたの気づかないふりしてた」
 
 返信を受け取った彼は、初めて会った日と同じようにニコッと笑ってくれた。
 素直で、人に自分の気持ちがちゃんと言えて、私なんかとは大違い。それなのに彼の眩しさは嫌な感じがしない。
 
『声のこと』
 
 声のこと不自然でごめんね。
 そう書き掛けたペン先を、彼の手が止める。人差し指にインクの点がつく。
 
「聞き間違いがなくていいんじゃないかな?」
 
 私が声を出さないことを可哀想にと同情してくる人もいれば、変なのと嗤う人もいる。そして今ここで「いいんじゃないかな」と微笑んでくれる人を見つけた。
 彼が鞄から取り出した一冊のノートを手渡す。文庫本と同じくらいのサイズ、厚さもよく見るノートより厚い気がする。
 
「僕、おしゃべりなんだ」
 
 それって、つまり——。
 
「いっぱい書かせて手を疲れさせちゃうかもしれないけど、そのお詫びの前借り」
 
 これからたくさん話そうって、私を受け入れてくれてるってことだ。
 初対面の私にここまでの優しさを向けてくれる理由は、正直わからないけれど、私はその気持ちごと差し出されたノートを受け取った。
 
 ❀
 
「通信制の雰囲気にはもう慣れた?」
『思ったより違和感がなくてすぐ慣れたよ、居心地もいいなって思えてきた』
「そっかそっか、僕も去年転校してきた時そんな感じだったなぁ。あっ、先輩面とかそんなんじゃないからね?」
 
 彼は自称していた通りおしゃべりで、よく笑う、にぎやかで眩しい人だと最近肌で感じている。
 この学校には全部で十三人生徒がいて、そのうち一人が同じ三年生だと教えてもらった。決まった登校時間がないから、教室には彼と二人になることが多い。
 
「僕以外の誰かと話せた? というかまず会えた?」
『会えたけど、話せなかった』
「そっか、まぁみんな【高校生】って括りしかされないから先輩か後輩かもパッと見じゃわかんないし話しかけるの難しいよな」
 
 通信制高校に転校してきて、驚いたことが一つある。それは、学年の境目が本当にぼんやりしていること。いろんな境遇の子が集まるからか、歳が同じだからと言って同じ学年とも限らないし、みんな一つの教室に集まるから、彼が言う通りパッと見では先輩か後輩かの判断は難しい。
 
『この間教えてくれた同じ三年生の子、今度会えたら「この子だよ」って教えてほしい』
「あぁ、うん、僕も来たら会わせたいって思ってるんだけどさ」
『けど?』
「去年からいる僕ですら二、三回しか会ったことなくてさ」
『名前は?』
「ささつき、わか。字はね」
 
 ボールペンを手渡して、メモ帳を彼の方に向ける。
 彼は字を書くとき真剣な顔をするけれど、書き終わって「ありがと」と言う時はちょっと頬を緩ませてくれる。
 笹月(ささつき)和花(わか)
 もう一人の、同級生の名前。
 
「咲もだけど、綺麗な名前してるよなぁ。自分の名前が嫌いってわけじゃないけど羨ましい」
『桃瀬くんの名前も綺麗だと思うよ』
「そんなこと言ってもらえるなんてお世辞でも嬉しいな」
『それに、みんな花が入ってる』
「花?」
 
 浅桜咲。
 桃瀬椋。
 笹月和花。
 私は三人の名前を並べて書いて、桜、桃、花を丸で括った。
 
「わぁ、ほんとだ」
『並べるとあらためて綺麗だね』
「それに気づけたのも咲の字があったからだな、聞き間違いがないより素敵なところが見つかった」
 
 私の字があったから。
 そんなこと、初めて言ってもらえた。
 返答を書いている無言の時間に急かすような視線を送られたり、そのせいで焦って書いて読みづらくなった字に目を細められたり、首を傾げられたり、そんなことばっかりだった。そのすべて、私が悪いと言い聞かせて気持ちを抑え込んできたけど、今気づいた。認めてもらえるってこんなに心が暖かくなる。
 
『ありがとう』
「こちらこそこちらこそ」
 
 ——待って。
 そんな声に出せない言葉を込めて、自席へ戻っていく彼を袖を引いて引き留めた。
 
「どうかした?」
『普通に喋ってほしい、って思わないの?』
 
 自分の首を絞めるようなことを、そして出会って日の浅い彼にするには踏み込みすぎたことを尋ねる。
 彼は返答に迷いながらも、困った表情をしているようには見えなかった。その沈黙が私には少し怖かった。でも、即答よりずっといい。その沈黙はそれほど真剣に考えてくれる彼の優しさが生んだ時間だとわかったから。
 
「咲はどうなりたい?」
 
 私は、私は……。
 
『喋れるようになりたい』
 
 声を失ってから、ずっと変わらない、変わりたいこと。
 
「詳しい理由は聞かないけどさ、その声が出せないのって身体の理由? それとも心の理由?」
『心』
「そっか、心が理由か」
『声が出せなくなった理由、書いてもいい?』
「咲がいいなら教えてほしい。どこまでも読むし、手が震えて書けなくなったら途中だろうとペンを置いていいから」
 
 ❀
 
 二年生に進級した頃、極度の人見知りだった私には、高校で初めての友だちが二人できた。
 私が鞄につけていたアーティストのライブグッズをきっかけに親しくなった紗良(さら)と、席が前後だったことから一緒に行動するようになった夏希(なつき)
 
「紗良またライブ行ったの!? 羨ましすぎ!」
「今度旅行も兼ねてみんなで行こーよー!」
「でもチケットがなぁ……」
「ふふんっ! ファンクラブ会員の私に任せなさいっ」
「さっすが紗良!」
「咲もこっち来なよ! 先週のライブの話してんの!」
 
 紗良は私が一人でいると、眩しい笑顔とよく通る声で五、六人の集団に手招いてくれる。

「咲っ、お昼中庭で食べない?」
「いいねいいね! せっかくだし購買寄って行かない?」
「ありだねぇ、でも咲がお弁当じゃないなんて珍しっ」
「昨日の夜に準備を忘れちゃってさ」 
 
 夏希は特別な用事がない限り、私を一人にしないでいてくれる。移動教室、休み時間、帰り道のバス停まで。特別な用事というのは、遅刻のせいで職員室に呼び出されることが大半で、その間一人になった私に紗良が声をかけてくれるのが日常。私は、すごく友だちに恵まれている。
 常に賑やかな人たちの中心にいる紗良と、二人組を好む夏希。二人は対照的で、紗良は夏希を、夏希は紗良を、あまりよく思っていないことはなんとなく察していた。それでも、私は二人が好きで、私が二人それぞれを大切にできていればいいと思っていた。
 
 あの夏さえ来なければ。
 あんな噂さえ生まれなければ。
 
 ◇
 
 夏休みが明けて一週間が経った頃。その日は朝から夏希の姿が見当たらなくて、私は一人で席について提出期限の迫った課題をしていた。まだ働き出したばかりの頭には優しくない数式と睨めっこしていると、視界の端に忙しく揺れるミニスカートが映った。どこか険しい表情の紗良だ。そのままいつもの五、六人の中に溶け込んで——違う、紗良は私に向かって歩いてきている。
 
「咲、ちょっと話があるんだけどさ」
 
 いつもなら、眩しく笑っておはようって言ってくれるのに。いつもなら、目を見て話してくれるのに。紗良は「これ、見て」とだけ言って、スマートフォンの画面を私に向けた。
 
【紗良友だちの彼氏と二人でご飯行ったらしくてさすがに無理】
【自撮り上げてるけど加工やばすぎて誰かわからんw 新手の詐欺だろw】
【群れでしか動けないとか動物かよ】
【バイト先の知り合いに聞いたけど、紗良めっちゃ評判悪くて笑っちゃった】
【紗良って結局友だちのこと駒としか見てないでしょ】
 
 その言葉たちを見た私は、指先から力が抜けていくような感覚に襲われて、返す言葉を探すことさえも忘れて固まってしまった。恐る恐る顔を上げて紗良を見ると、平静を保とうと怒りを抑えているのが伝わってきて胸が苦しくなった。
 
「……これ、何?」
「夏希の裏垢」
「え、今、なんて——」
「このユーザーネーム【72キ】もだし、他の投稿で顔は映ってないんだけど自撮りが上げられてて完全に夏希のアカウント」
 
 次に見せられた画像に映っていたのは、間違いなく夏希本人だった。
 以前休日一緒に遊んだ時に着ていたワンピースに、右手首の二つ連なったほくろ、耳たぶに残っているピアスの跡。このアカウントが本当に夏希のものであるか、真偽を疑っている私に、容赦なく情報が注がれていく。
 
「これってさ、本当に夏希なのかな」
「ここまで証拠揃ってて夏希じゃないって考える方が難しいでしょ」
「いや、でも、もしかしたら誰かが夏希になりすましてたり——」
「じゃあこの投稿見てもまだ夏希じゃないかもって言える?」
 
【咲と話したいのに一緒にいられると邪魔なんだよね、どうせ咲のことだって見下してるんだろうし、咲も一緒にいるだけ紗良の駒になってるって気づけよ】
 
 画面が震えて見える。端末を持っている紗良の手が震えているのか、私の瞳の湿度が高くなっているのか。それくらい、衝撃の大きな言葉を受けた。
 喉の方まで心臓が上がってきたと錯覚してしまうくらい鼓動がうるさくて苦しい。嘘であってほしい、そうすれば夏希は私の知ってる素敵な夏希のままだから。でも、紗良が酷いことを言われていて、傷ついている事実は変わらない。私はどうすればいいんだろう、わからない。でもわからないからこそ一つずつ、本当のことを確かめていけたら——。
 
「夏希、どこにいるかな」
「さっき一緒に呼び出されて、まだ帰ってきてないからたぶん職員室」
 
 そっか、それで朝から姿が見えなかったんだ。
 
「……いつ帰ってくるかな」
「直接聞くの?」
「私は、そうしたい」
「仲良いの知ってるから否定はしないけどさ、あんまり期待しない方が咲のためだと思うよ」
 
 いつ帰ってくるか。への返答はなく、紗良は少し呆れた表情で私の席を離れていった。ホームルーム開始の鐘が鳴って現れたのは、担任ではなく隣のクラスの副担任。先生は諸用があって来れないので、と言っていた。まだ夏希との話は続いているらしい。結局その日、夏希と会えたのは放課後になってからだった。昼休みに送った「放課後に昇降口のところで待ち合わせしよう」のメールには、会う直前に既読がついて、返信はなかったけれど夏希がいるという実感に私はすごく安心した。
 
「咲ももう知ってるでしょ? あのアカウントのこと。生徒指導の対象らしくて一日教室戻してもらえなかった」
「明日からは戻って来れるの?」
「わかんない、ずっと『お前だろ』って詰められてばっかでさ。否定しても、難癖つけられての繰り返しだし」
「……やっぱり、夏希じゃないの?」
 
 その時、今日初めて目が合った。一日中問い詰められては否定され続けていたであろう夏希に、私まで疑いの目を向けてしまわなくてよかった。夏希の目の縁は赤く腫れていて、今も少し潤んでいる。視線を落とすと、手の震えを抑えようと両手を包むように擦っているのが見えた。その手を掬い取るように握ると、夏希は躊躇いながらも「聞いて」と口を開いてくれた。
 
「彼氏と夏休み中に別れたんだ」
「えっ……あんなに仲良かったのに」
「向こうが他の女子と二人で海行ってる写真送られてきてさ。どういうこと? って聞いたら逆ギレされてそのまま」
 
 夏希の彼氏は学年でも優しいと評判で、付き合った当初から極度に一途な印象が合ったからか話を聞いてもまったく想像がつかない。
 あのアカウントの話と、彼氏の話にどんな関連性があるのか私にはまだ全然わからないけれど、とにかく夏希が伝えてくれる言葉を精一杯受け取ろうというのが今の私のスタンス。
 
「それでね、別れる直前に脅されたの」
「脅し……?」
「お前の居場所なんてなくしてやる、って」
「それって——」
「あのアカウント、あいつが作ったんだと思う」
 
 夏希の無実に安心するはずなのに、頭が真っ白になってそれどころじゃない。器用にリアクションすらできない。
 紗良についての投稿が多いのは、付き合っていた頃に夏希が「苦手なんだよね」と相談の意図を込めて話をしていたからで、私の名前が上がっているのは夏希の友だちとして彼が私を認知していたからだろうと教えてくれた。そして、あの画像についても。
 
「これ、自撮りにしては不自然だって思わない?」
「顔も写ってないし、言われてみれば身体の角度もぎこちないかも……」
「この写真、本当はあいつとのツーショットでさ。私のとこだけ切り取ってるの、だから身体はちょっと斜め向いてるし、あいつの影が映らないように顔が除かれてる」
 
 すべてに合点がいった瞬間だった。
 やっぱり、夏希は悪いことなんてしてなかった。苦手な相手の相談くらい誰だって恋人にするだろうし、投稿された言葉たちに夏希の意思なんて含まれてない。本当に彼が夏希になりすましてアカウントを動かしているのか、私は彼と直接話したことがないから確かめることはできないけれど、夏希に着せられている嘘を、嘘だと伝えることはできる。少なくとも、友だちである紗良には。
 
「協力させてくれないかな」
「……え?」
「夏希じゃないって、紗良に私から伝えさせてくれないかな」
 
 私の手を握る力がギュッと強くなる、膝から崩れ落ちるようにしゃがんで「ありがとう」と震え混じりの声で何度も言ってくれた。紗良に本当のことを伝えきれるか、いざその時になると緊張してしまいそうで正直少し怖い。でも、私はここで教えてもらったことを、話してくれた夏希の勇気を無駄にしたくないから。
 
「明日の朝、時間とって聞いてもらえるようにするよ」
「……いいの? 咲が嫌な思いしちゃわない?」
「大丈夫、ちゃんと誤解を解いてくる。約束ね」
 
 ◇
 
 翌朝の教室には、嫌な騒がしさが漂っていた。
 誰かを標的にして嗤ったり、貶したりする、集団の灰汁(アク)をかき集めたような騒がしさ。
 
「紗良、ちょっと話したいことが——」
「咲もさ、夏希との付き合い方考えた方がいいかもよ」
「……どういう意味?」
 
 向けられた端末を目で追うと、そこには不特定多数の生徒に対する誹謗中傷がいくつも投稿されていた。発信元は昨日と同じ【72キ】のアカウント。単語の過激さに加え、盗撮のような画角の画像付きの投稿、確実にエスカレートしている。
 
「違うの、これ、本当は夏希じゃなくて」
「だから言ったでしょ? あんまり期待しちゃだめって。こんなに広まって、まだ夏希じゃないなんて言ってるの咲だけだよ?」
「でも違うって知ってるから……教えてもらったから」
「やってる奴ほど『私がやりました』なんて言わないでしょ」
 
 紗良はこんな時でも、賑やかな集団の中心にいた。女子特有の嫌味や皮肉が飛び交っているのに、溺れず息をして強く真ん中に立ち続けている。その光景に内心怯えていると、紗良の隣にいる女子が私をじっと見つめているのに気がついた。
 
「ねぇ紗良」
 
 彼女は私を見つめているのに、紗良宛の言葉を吐く。
 
「浅桜さん、なんでずっと違うって言い張ってんの?」
「仲良いと庇いたくもなるんじゃない? まぁ、さっすがに無理あると思うけど」
「そんなもんかぁ、可哀想にね浅桜さん」
「皮肉はそこまで。まぁ、夏希に関しては言い訳も苦しいし、それこそ今度は咲に非があるようにも見えてきちゃうから庇うのはもうやめにしなよ」
「でも」
「咲は自分への悪口が投稿されても同じように庇える? 即答できないなら、もう首突っ込まない方がいいよ」
 
 なにも言い返すことができない自分が、消えてしまいたいくらい惨めだった。自分から協力させてほしいと言ったのに、夏希に教えてもらったことを疑う気持ちなんてこれっぽっちもないのに、それなのに私は怯えた心に負けてしまった。
 放課後、今日も夏希と待ち合わせをしている。どんな顔をして会えばいいのかわからないまま、廊下の遠くの方に夏希を見つけた。胸の辺りで小さく手を振ってみる、目が合ったのに、また俯かれてしまった。
 
「夏希——」
「最低」
 
 私の声を遮るように、あまりに鋭い二文字を言われた。
 言葉の意味を理解しないように頭が一瞬鈍くなったような感覚になる、それでも数秒の時差を経て、私は確かに夏希から最低と言われた事実を突きつけられる。
 
「どうしたの? 急に」 
「こっちのセリフ」
「……え?」
「私の噂、否定してくれるんじゃなかったの?」
 
 紗良が、朝の会話を“夏希と仲のいい咲も、あの投稿が夏希によるものだと認めた“と担任に報告したらしい。だから嘘をついても無駄だ、いい加減認めろ。そう告げられた夏希は、言葉を口にする気力もなくしてただ頷いてしまったと。
 
「昨日話したこと、本当は嘘だって思って聞いてたの?」
「そんなことない、私はちゃんと信じてた」
「協力させてとか、優しそうな言葉で期待させてさ、私が見てないところでは夏希がやってましたって認めちゃうんだもんね」
「違うよ、それは、それは本当に誤解で」

 夏希が呆れた様子でため息をこぼす。
 その瞬間に感じ取った、今の私の言葉に説得力なんてないんだ。
 いくら違うと否定しても、信じていると訴えても、仮に叫んだとしても、私の言葉だというだけで夏希に届けることはできなくなってしまったんだ。
 終わりの見えない沈黙が続く、胃が握り潰されているように痛む。
 
「私の噂、咲は嘘って知ってたのにね」
「知ってたよ、だから——」
「じゃあなんで否定してくれなかったの? 咲があいつとも仲良いのは知ってたし、そこを責める気は一切ないの。私は、私はただ、違うことは違うって、言ってほしかった」
「ごめん、でも、中立っていうか、真ん中にいると難しくて」
「……そうやっていい顔ばっかしてさ、大事なことは言えないの? そんなに自分が可愛いの? 協力するとか、大丈夫とか、約束とか、無責任な言葉ばっかりじゃん……! 人見知りなのか知らないけど、それなら曖昧な返事しないでよ……! 中立とか真ん中とか、都合いい言葉ばっか探して……そんなの自分のこと守りたいだけじゃん!」
「それは、それは違——」

「……もういいから、それ以上喋んないで。顔見るだけでイラつく」

 私からの言葉を待つことはなく、夏希はそのまま学校を後にした。
 翌朝、学年主任から『誹謗中傷行為による二週間の停学を課した生徒がいる』と朝会で報された。
 
 ❀
 
「なるほどなぁ……無責任な言葉で傷つけちゃった、っていう罪悪感が邪魔して言葉を声に出せなくなったってことか」
 
 ノート数ページ分に、私の去年の出来事を書いた。
 簡易的な相関図を書いて矢印を引っ張ったり、ジェスチャーを挟みながら伝えたり。声を出さずに伝えきるには長い内容も、彼は嫌な顔ひとつせず最後まで理解しようと誠実に汲み取り続けてくれた。
 
「話聞く限り、咲が悪いなんて僕は思わなかったけどね。向き合った証拠っていうかさ、どっちも大事だったから空回っちゃったっていうか」
『それがよくなかったんだよ』
「そっかそっか、否定はしないけど僕の中ではすべてのヘイトが夏希さんの元彼に向いてるから。だから僕に今後またこの話をする時、咲は自分が悪いなんて一ミクロも思わなくていいから」
 
 まっすぐな優しさに、はやくなっていた鼓動が静かになっていくのがわかる。
 
「大丈夫、大丈夫っ」
 
 その言葉で私は夏希を傷つけたけれど、彼の大丈夫は心が穏やかになる。不思議、同じ言葉なのに彼と私が言うのでは真逆の効果を与えてしまう。
 (のろ)いと(まじな)いみたいに、同じ形で、人の心を壊すものと、癒すものに分かれている。
 
「力になるよ」
 
 その声を聞いた瞬間、顔を上げて、すっと自然に目を合わせてしまった。
 
「喋れるようになりたいんだろ」

 訴えるように頷く、彼は私の気持ちを汲むように頷き返してくれた。
 
「無理になにかするとか、僕に変な気を遣うとか、そういうのは無しで。咲が話せるようになるまで一人じゃないって安心してくれたら僕も嬉しい。それに、咲の声を僕は聞いてみたいし!」
 
 優しさに溢れた言葉を、彼は当たり前のように口にしていく。
 柔らかく微笑んで、温かい声色で、彼の持っているすべてで私に大丈夫を与えてくれる。だから、私も。
 
『ありがとう』
 
 たったの五文字しか返せないことに申し訳なさを覚えながらも、なにより伝えたい言葉を綴った。彼はニコッと笑って返答を私の字の下に書いてくれた。
 誰かからのありがとうに、いいよ、でも、どういたしまして、とも違う『こちらこそ』を返してくれる彼に、私の心は惹かれ始めている。

『ありがとう』
『こちらこそ』