その日、家に帰って、早速ヤングケアラーの人たちのカウンセラーをしている専門家について調べた。『バルーンの会』という、ヤングケアラーたちの集いがあるらしく、そこに所属している心理カウンセラーの人たちが顔写真付きでHPに載っていた。

『困ったことがあれば、いつでもご相談ください。相談窓口はこちら』

 という一文のもと、メールアドレスが記載されている。
 ここにメールをすれば、この人たちに繋がるんだ。
 そうと分かると、メールアドレスをスマホにメモする。
 今すぐメールをする勇気はないけれど、近々連絡させてもらおう。
 心に決めて、その日の家事をこなした。


「梨斗、私、美玖たちに自分の気持ちを打ち明けたよ」

 二十四時、いつものように梨斗と遊園地の観覧車に乗り込んだ私は、早速彼に今日のことを報告した。美玖や恵菜と向き合おうと思ったのは、梨斗のアドバイスがあったからだ。彼に報告しないわけにはいかなかった。

「本当に? どうだった?」

「二人とも、なんでもっと早く話してくれなかったのって言ってた。話してくれたら力になったのにってちょっと怒られちゃった。でも、私のことを考えてくれてるからだって分かって、すごく……嬉しかった」

 もう二度と、美玖と恵菜とは友達でいられないと思っていた。
 でも、ほんの少し勇気を出して本音を打ち明けただけで、今こんなにも清々しい気分で満たされている。

「そっか……それは、本当に良かった」

 梨斗がにっこりと笑う。
 私が大好きな、彼の笑顔。
 いつも見ているはずなのに、どういうわけかこの時は心臓がどきんと大きく跳ねた。

「ん、どうしたの日彩」

「いや、なんでもない! なんか、気持ちが変わると見える景色も変わってくるんだなあ、と思って」

 咄嗟に誤魔化しながら窓の外を見る。梨斗もつられて、「本当だ」と外を見て声を上げた。

「街の灯りがいつもより明るい」

「梨斗にもそう見える?」

「うん、見える。日彩が前向きになってくれて、僕も嬉しいから」

 彼の言葉の一つ一つが、胸にしんと沁みていく。
 この時間は永遠ではない。分かっているけれど、今だけは永遠であってほしいと願ってしまう。
 私、梨斗ともう少し隣に——。
 無意識のうちに身体が前のめりになっていることに気づき、慌てて引っ込める。私ってば、何をしようとしてたの? 恥ずかしくなって、彼と顔を合わせないようにもう一度外を見た。

「隣、座る?」

「え?」

 ふと柔らかな声でそんなことを言われてばっと彼の方を振り向く。

「いや、いつもこうして正面に座ってるから、たまには隣に座るのはどうかなって」

 そう言う彼の頬が、薄暗い中でも上気しているのが分かった。梨斗のこんな顔、初めて見た。思わずまじまじと見つめてしまう。彼は恥ずかしさを堪えているのか、じっと私の方を見たり、窓の方を見たりして視線を泳がせていた。

「う、うん。隣に、座りたい」

 気がつけば口から本音が漏れていた。
 私の答えを聞いた梨斗が、徐に立ち上がり、隣に座る。片方の椅子に二人が座っても、ゴンドラはちゃんと水平を保っている。少しだけ揺れたけれど、すぐに幸福感に満たされた。
 何これ……。私、今すごく幸せだ。
 胸がドキドキとして、隣の彼に聞こえないか心配になったほどだ。梨斗からは、清潔な石鹸のような良い匂いが漂ってくる。彼の匂い。出会ってからあまり意識したことはなかったけれど、この匂いを嗅ぐと、梨斗がそばにいてくれると安心させられる。だから好きな匂いだった。

「少しずつだけどさ、日彩の表情が前より明るくなってるような気がして、僕も嬉しいんだ」

「梨斗……」

 不意に彼が呟いた。そんなふうに思ってくれていることが嬉しくて、それから、どういうわけか切なさに胸が揺れた。
 彼の声色に、私を心配してくれる憂いが滲んでいる。
 梨斗はどうしてそこまで、私を想ってくれているんだろう。
 彼に聞いてみたいけれど、なんとなく、聞くのが憚られた。

「日彩、今度はお母さんとも話してみたら」

 彼にどう声をかけようかと迷っていたら、梨斗の方が再び口を開いた。

「お母さんと?」

「うん。だって日彩が抱えている問題は、日彩だけのものじゃないでしょ。家族で話し合って初めて解決されるんだと思うよ」

 言われてみればその通りすぎて、反論の余地はなかった。私は、今まで家のことを問題だと捉えていなかったけれど、第三者から見れば十分問題なんだ、と改めて悟る。

「分かった。お母さんとも話してみる」

「そうしてみて。またどうなったか、僕に教えてほしい」

「うん」

 梨斗に背中を押されると、ふっと身体が軽くなったような気がするから不思議だ。見えない翼を広げて、このままどこまででも飛んでいけそうな気分にさせられる。

「梨斗、今日はいつもより星が綺麗に見えるね」

「本当だ。ずっと快晴だったからだね」

 観覧車の頂上から、普段よりもうんと近くなった夜空を見て実感する。

「いつか、梨斗のことも知れたらいいな。そうしたら私——」

 その先の言葉を紡ごうか迷ったけれど、やめた。
 ここで自分の気持ちを吐き出すのは野暮だと思ったからだ。
 梨斗の息遣いをいつもよりも間近に感じながら、祈る。
 この二人の温かな空間が、ずっと続きますように。
 そしていつか、あなたに本当の想いを伝えられますように。
 触れた肩から感じる温もりが、初めて彼と出会った日から随分と遠くへと運んでくれたなと思わせてくれた。
「お母さん、今日って夜の仕事ある?」

 翌朝、目が覚めた私は、食卓で朝食を食べながらニュースを見ていた母に尋ねた。

「今日? 今日はお休みよ」

「そっか。じゃあちょっと話があるんだ」

 改めて母に話がある、なんて言うのは少し恥ずかしかった。母は案の定、「何?」と目を丸くしている。

「また夕方に話すよ」

「そう。分かったわ。ちょうど今日、早退しようと思ってたの」

「早退? なんでまた」

「最近体調がすぐれなくてね。上司に相談したら、半休を取るよう勧められて」

「そっか。大丈夫なの?」

「ええ、軽い貧血だろうから半日休めば十分よ」

「分かった。じゃあまた夕方に」

 体調が悪いというのは気になったけれど、淡々と返事をしてくれて、気分がほっと和らぐ。色々と勘ぐられるのは好きじゃない。母の無防備な受け答えが、今の私にとってはありがたかった。


 学校に着くと、昨日までと違って美玖と恵菜が揃って挨拶をしてくれた。

「おはよう!」

「おはよう、美玖、恵菜」

 昨日まで、私たちの間にはギクシャクとした空気が流れていたのに。腹を割って話したことで、気まずい気持ちがなくなっていた。それどころか、前より二人と仲良くなれた気がして嬉しかった。

「私、今日あいつに別れようって言おうと思ってるんだ」

 美玖が決意に満ちたまなざしで言った。

「え、雄太に?」

 驚き。昨日、確かに別れるとは言っていたけれど、昨日の今日でもう行動に移そうだなんて。

「早いよね。美玖っていつもやると決めたら即行動! の人間だから」

「そうだよ。だって、早いとこ部のみんなとも仲直りしたいし、示しをつけたい。そのためには、今すぐ彼と別れるのが一番だって思ったんだ」

「そっか。美玖はすごいよ。頑張って」

 別れ話をするのに「頑張って」というのはちょっと違うのかもしれない。けれど、一昨日見た雄太の性格の感じだと、別れてと言っても食い下がってくる可能性がある。だからどうか、美玖が雄太と無事に別れられますように。

「日彩は? 色々と決心ついた?」

 美玖の目が問いかける。
 決心、というのは彼女が昨日勧めてくれたヤングケアラーの専門家に相談する決心ということだろう。

「うん、少しずつ調べてる。でも今日はその前に、お母さんと一度話しておこうと思って」

「ああ、確かに。家族と話すのが先だね。忙しいみたいだけど、話し合う時間は取れそうなの?」

「大丈夫。きっとゆっくり話せばこれからのことも一緒に考えられると思う」

「そっか。じゃあ、日彩もファイトだね!」

 美玖と恵菜が私に向かって拳を突き出してくる。
 そこに自分の拳をコツンとぶつけた。
 こんな日が来るなんて、思ってなかった。 
 中学で部活を引退してから、二人と私の間には溝ができていると思っていたから。二人の世界に、私はいない。それが寂しくて悲しくて仕方がなかった。
 けれど今、もう一度三人で同じ時間を過ごすことができている。溝はいつのまにか埋まっていて、地続きの現実世界に、私は二人と息をしている。


 無事に学校での一日を終え、放課後になった。 
 美玖たちを部活へと送り出した私は、いつにも増して早々と帰路に着く。
 お母さんと、どういうふうに話そうかな。
 なんて切り出そう。
 頭の中でぐるぐると考えながら帰宅して、玄関の扉を開ける。

「ただいま」

「……」

 返事はない。母は今日半休を取ると言っていたから、とっくに家に帰っているはずなんだけど。コンビニにでも出かけてるのかな。あ、でも、靴がある。よれたパンプスが、玄関の端っこにきちんと揃えて置いてあった。
 だとすればトイレかもしれない。
 ひとまず家に上がって、母の姿を探す。居間へと続く扉を開き、キッチンへと差し掛かった時、信じられない光景を見た。

「お母さん!?」

 キッチンの前で、母が倒れていた。
 仕事に出かける時のきちんとした服を着たまま、床に転がっている。

「お母さん、大丈夫っ!?」

 気が動転しながら、咄嗟に母の身体を揺さぶる。でも、返事はない。背筋に冷や汗が流れる。母の脈を確認する。ちゃんと動いているし、息もしていた。少しだけ安心したけれど、それでも震えは止まらなかった。
 ポケットからスマホを取り出して「119」のボタンを押した。

「あのっ、私のお母さんが、家で倒れてて……!」 

 救急車を呼ぶのは初めてで、声は上擦るし、きちんと状況を伝えることもできなくて泣きたくなった。けれど、救急隊の方が冷静に話を聞いてくれたおかげで、なんとか気を持ち堪える。

「はい……はい、分かりました。そのまま待ちます」

 母が倒れた原因が分からない以上、むやみやたらに身体を揺するのはダメだと聞いて、そっと母の肩に手を添える。不安で不安でたまらない。

「梨斗……助けて」

 咄嗟にこぼれ落ちた彼の名前が、部屋の中でこだまする。 
 助けて、誰か。
 お母さんを助けて。
 泣きそうになりながら、心の中で必死に祈る。
 しばらくして救急車のサイレンが聞こえ、救急隊員が部屋に上がり込んできた時、ようやく少しだけ安堵した。

「娘さんですね。一緒に来てください」

「はい、あ、でもおばあちゃんが」

「おばあちゃん? いるんですか?」

「はい。認知症なんです」

「それじゃあ、おばあちゃんも一緒に」

「分かりました」

 部屋で寝転がっていた祖母を連れて、救急車に乗り込む。

「ちょっと、何よ! 私は家にいたいんだっ」

「いいから来て!」

 イヤイヤをする祖母を救急車に乗せるのに、一苦労した。
 こんな時にどうして。どうして私とお母さんの邪魔ばかりするの!
 早く運ばないと、お母さんが死んじゃうかもしれないのにっ。
 思わず本音が口からこぼれそうになり咄嗟に口を塞ぐ。
 冷静になれ……と言い聞かせても、やっぱり心のざわめきは止まらない。
 おばあちゃんがもっとしっかりしていれば。お母さんが倒れた時にすぐに救急車を呼んでくれたら。
 考えても仕方のないことをぐるぐる、ぐるぐる、永遠に考え続ける。救急車の中で終始怒った顔をしている祖母のことを、空っぽの心で見つめていた。
 母は、蓄積された疲労と貧血で倒れたということだった。
 二、三日入院して安静にしておけばおそらく良くなるだろう、とのこと。
 何か、大変な病気ではなかったことに心の底からほっとした。一人でずっと不安だった。祖母とはまったくと言っていいほど、この不安を分かち合うことができそうにない。
 母が目を覚ます前に、私は祖母と帰宅した。

「あんた誰なの、家に返せ!」

「だから今から家に帰るんだって」

 帰宅するまでずっとこんな調子で祖母と押し問答を繰り広げる。心が疲弊しきっていて、祖母に部外者扱いされることにはもう何も心が動かなかった。
 午後七時。自分は食欲がないので祖母に夕飯を食べさせた後、再び不安が押し寄せてくる。
 梨斗との約束の時間まであと五時間もある。それまで、この不安と一人で闘わなくちゃいけないの……?
 お母さんは大丈夫だと分かっていても、やっぱり身体の震えが止まらなかった。

「おばあちゃん、お風呂入ろう」

 ともあれ祖母をお風呂に入れようと思い部屋を覗くと、すでに眠りこけていた。
 起こしてお風呂に入れても良かったのだが、ふと心の中で、張り詰めていた糸がぷつんと切れた。

「ちょっと出かけてくるね」

 制服から私服へとようやく着替えて、小さな鞄を手にした。スマホと財布、必要最低限のものを入れて、私は家を飛び出した。

 
 普段は乗らない電車に揺られて、見慣れない駅で降りる。名前は知っているけれど、実際に降り立ったことはなかった。自宅から七駅離れた駅で、乗り換えで利用する人が多い印象だ。
 スマホの地図を見ながら、目的地へと歩く。左手には名刺。先日、遊園地の前で葉加瀬さんからもらったものだった。

「あった、ここだ……」

 住宅街を抜け、小さな繁華街に出ると、そこには名刺に書かれていた通り『創作料理梨の花』と銘打たれた看板の立つ店があった。壁は木目調で統一されていて、店名のロゴは温かい家庭料理を思わせる、柔らかな文字だ。
 扉の前で少し迷ってから、引き戸を開け、店内に一歩足を踏み入れた。

「こんばんは……」

 暖色系の明りが灯る店内は、家庭の温かさを匂わせる落ち着いた空気が流れていた。

「いらっしゃいませ。……あ」

 私に気づいたエプロン姿の葉加瀬さんが、目を丸くした。が、すぐににっこりと微笑んで「空いているお席へどうぞ」と私を店内へと促してくれた。

「よく来てくれたね」

「ちょっと気になって……」

 本当は家にいたくなくて、かといって他に行く場所もないから来てみました、なんて事実は言えない。『梨の花』には一品もののメニューもあれば、定食セットもあるようだった。こじんまりとしたお店だが、中にいるお客さんはお酒を飲みながら一品メニューを食べている人が大半だ。私は未成年だから定食を、と迷いながら、「肉じゃが定食」を選んだ。食欲がなかったはずなのに、運ばれてきた肉じゃがを見ると一気にお腹が空いた。

「いただきます」

 ほくほくの肉じゃがを口に運ぶ。じゃがいもが溶けて、ほんのりとした甘みを残す。肉は牛肉だった。柔らかいお肉がジューシーで、玉ねぎと一緒に食べるとさらにコクが出て美味しかった。まだ母親が料理をしてくれていた頃に食べた家庭の肉じゃがを思い出す。

「おいしい、です」

 ちょうど葉加瀬さんが近くを通りかかったので、声をかけた。

「そう? 良かった。この店ではね、“お袋の味”を再現しているんだ。気に入ってもらえて良かったよ」

「すごく味が染みていて、じんときました」

「はは、そんなふうに言ってくれたのはきみが初めてだよ。えっと、名前はなんだっけ」

「深町日彩です」

「深町さん。今日はどうしてここに来てくれたの?」

「それは……」

 さっきは「ちょっと気になって」と言ったけれど、優しい表情で語り掛けられて、つい口が滑る。

「どこにも……居場所がなくて。お母さんが倒れちゃって、おばあちゃんと二人きりの空間が、どうしても嫌で。でも、他に行くあてがなくて、ふと葉加瀬さんのことを思い出したんです」

 葉加瀬さんからすれば、母が倒れたり祖母が認知症だったりする事情について、突然話されてもよく理解できなかったと思う。でも、のっぴきらない事情があることは察してくれた様子で「そうか」と頷いた。

「良かった。きみの逃避行先に選んでもらえて」

「逃避行……」

 謎めいた言い回しをする葉加瀬さんが、梨斗と重なる。

「逃げたくなったらいつでもおいで。私がこの店を開いたのは、大切な人が帰りたくなるような場所をつくりたかったからなんだ」

 大切な人が、帰りたくなるような場所。
 それって、もしかして……。
 頭に浮かんだ梨斗の表情が笑ったり寂しそうだったり、万華鏡のように変っていく。この前、彼に葉加瀬さんの話をした時、怯えたような表情をして「会いたくない」と訴えていた。
 葉加瀬さん自身はこんなにも優くて穏やかそうな人なのに、どうして?

「きみの事情は知らないけど、頼れる場所や人がいるなら、頼った方がいい。泣けるうちに泣くべきだ。いつか、悲しくても泣けない日が来るかもしれない。誰にも助けてと言えない日が来るかもしれない。だから今は、存分に誰かを頼りなさい」

 葉加瀬さんの言葉が、痛いくらいに胸に染みていく。味の沁みた肉じゃがみたいに、私の身体に溶けて、心の一部になった。
 残りの肉じゃがと、副菜の酢の物を一気に平らげる。熱々のご飯が胃袋を満たした。

「葉加瀬さん、あの」

 厨房へと戻ろうとする彼の背中を呼び止める。

「なんだい?」

 梨斗と同じ、垂れた瞳をした彼は、息子と同じ年代の私を、慈しむようなまなざしで見つめた。

「梨斗に、会いたいと思いますか……?」

 詳しい事情は分からない。けれど梨斗は実の父親ではなく、義理の父親と一緒に暮らしている。そして、葉加瀬さんの名前を出すと、はっきりと「会いたくない」と言った。
 彼は……彼の方は、どうなんだろうか。
 私から初めて梨斗の名前を聞いた彼は目を大きく見開いて、それからふっと微笑んで答えた。

「会いたい……に、決まってるよ」

 その言葉の裏には「会えない」という前提が含まれていることが分かって。
 テーブルの上の空っぽになった器を見つめながら、心がくしゃりと泣いた。
「よく連絡をしてくれました。私は、『バルーンの会』に所属している、心理カウンセラーの秋元稔(あきもとみのる)と申します」

「深町日彩です。よ、よろしくお願いします」

 『梨の花』を訪れた二日後、近所の喫茶店で、ヤングケアラーの集い『バルーンの会』に所属している秋元さんと初対面を果たした。
 連絡をしたのは昨日だ。
 初めての問い合わせだったので、メールを送信する時は手が震えた。二時間後に秋元さんから返信が来て、「明日空いているので早速話しましょう」と言われた時は驚いた。まさか、そんなに早くお会いすることになるなんて、思っていなかったから。

「そんなに畏まらなくていいよ。と言っても、緊張するよね」

「い、いえ。そんなことは」

 答えながら、ガチガチに筋肉が強張っていることに気づく。秋元さんは、四十代前半ぐらいの、人の良さげなおじさんだった。今日私の自宅の近くの喫茶店を指定してくれたのは彼の厚意で、おかげでこうして気軽に喫茶店に来ることができている。

「ざっくりとでいいから、深町さんの今の状況を教えてくれるかな?」

 カウンセラーなだけあって、秋元さんにそう聞かれると、落ち着いて話そうという気になれた。

「中三の頃から、祖母の認知症が悪化して、私と母で祖母の面倒を見なければならなくなりました。それまでは母だけで祖母を見ていたのですけれど、状況が悪くなってしまって。母は仕事も忙しく、家を空けていることが多いので、私が家事全般を担っています。それから、祖母の排泄の処理と、入浴介助は私の仕事です」

 こうして冷静に語っていると、それほど大したことではないように感じられた。けれど、私の話を聞く秋元さんの目が、すっと細くなるのを見て、ああ、私って普通じゃないんだと悟った。

「なるほど。分かりました。深町さんは、自分が家事をしたり、おばあさんの介護をしたりすることについて、どう思ってる?」

「それは……」

 鋭い質問を受けて、じわりといろんな感情が込み上げてきた。

「最初は、家族の仕事を家族で分担するのは当たり前だって思って、特に問題だとは思っていなかったんです。家の事情はそれぞれの家庭で違いますし、きっと私なんかよりもっと大変な思いをしている子供だっている。自分は特別じゃない。部活ができなくても、友達と遊べなくても、勉強ができなくても、仕方がないって諦めてました。でも……最近、分からなくなったんです。私は、誰のためにこんなに頑張ってるんだろうって。将来就きたい仕事もあるんですけど、時間やお金の問題で、多分専門学校にも行けません。家族のためだって分かってはいるのに、心がどんどん歪んでいくんです。私は……自分の人生を、生きたいのにって……」

 いつのまにか、私の人生は私のものではないような気がしていて。
 ずっと抱えていた不安が、今日会ったばかりの秋元さんを前にして爆発した。

「話してくれて、ありがとう。深町さんのような中高生に、これまで何人も会ってきたんだ。だから、きみの気持ちは十分理解できるつもりだ。深町さんは、自分が世間で“ヤングケアラー”と呼ばれているのを知っているかな」

「はい。知っています」

「そうか。そのヤングケアラーの人たちの中には、家族を“ケア”しているという認識に欠けている人が多いんだ。深町さんのように、家族を助けるのは当たり前だから、他人に相談することではないと思っている人たちがいる。でもそんなふうに考えることで、僕たちみたいな第三者に助けを求めるのが遅くなって、取り返しがつかないことになることもあるんだよ」

 秋元さんは、真剣なまなざしで遠い目をして語った。彼が今まで出会ってきたヤングケアラーたちのことを思い出している様子だった。

「高校や大学で勉強することは、これからのきみたちの将来を豊かにするためにとても重要だ。一度社会の路線から外れてしまったら、簡単には戻れない。だから僕たちは、きみたちのような若いヤングケアラーたちに、できるだけ早く、何かしらの助けを求めてほしいと思ってる。その点、深町さんはこうして今僕に胸のうちを話してくれた。きっと、かなり勇気がいることだっただろう」

 優しい彼の言葉に、溜まっていた涙が溢れそうになり、目頭を抑えた。それから、ゆっくりと「はい」と頷く。

「きみは、きみの人生を諦める必要はない。おばあさんのことは、介護施設に入居させるという方法もある。本人が嫌がるようだったら訪問介護だってあるしね。とにかく、一人で抱え込む必要はないんだ。それからきみのお母さんのことだけど、違ったらごめん。きみは、お母さんから日々愚痴を聞いたりしていないかい?」

 まるで私の生活を見てきたかのような口ぶりに驚く。

「は、はい。よく愚痴を聞いています。仕事やおばあちゃんのことで疲れが溜まってるから。つい二日前も、過労で倒れてしまって……」

「なるほど。その母親の愚痴を聞くっていうのも、ケアの一つなんだよ。続けていると、君の方が擦り切れて潰れてしまう。だからお母さんと、ちゃんと話した方がいい」

 秋元さんにそう言われて、はっとさせられた。
 母のことをケアしているなんていう自覚はまったくなかった。むしろ、私と母で祖母の面倒を見ているとばかり思っていたから。

「母のことは、正直全然、考えてもいませんでした。でも、言われた通り、母とはちゃんと話がしたい……です」

「そうだね。そうするといい」

 一通り話し終えて、ようやくほっと息をつくことができた。
 秋元さんとは今日初めて会ったのに、自分のことを根掘り葉掘り聞かれても、全然嫌な感じがしなかった。むしろ、どうして今までこの人に相談しなかったんだろうって、後悔したくらいだ。

「また、困ったことがあればいつでも相談しにおいで。『バルーンの会』にはきみと同じようなヤングケアラーたちがいるから、彼らと交流することで、心が軽くなることもあると思うし、単純に僕に会いに来てくれるだけでも嬉しいから」

「はい、ありがとうございます」

 温かい他人の温もりに触れて、冷え固まっていた心が嘘のように溶けていく。
 梨斗と初めて出会った日も、こんな気持ちにさせられた。
 彼と出会ってから、変わらないと思っていた日常が、少しずつ変わっていっていることに気づいた。美玖たちに心のうちを打ち明けて、母ともこれから話し合おうと思えている。何より、梨斗と過ごす十五分間の時間が楽しくて、私に希望と勇気をくれる。
 梨斗は私にとってもう、なくてはならない存在なのだと、この時はっきりと自覚した。
「お母さん、ただいま」

 日曜日の今日、午前中に病院から退院してきた母は、すっかり体調が戻り、顔色も良くなっていた。けれど蓄積された疲労はすぐには治らないらしいので、これからも油断はできない。母がまた倒れてしまわないためにも、ちゃんと母と向き合わなくちゃ。
 祖母は和室の縁側で日向ぼっこをしているらしい。こちらを見向きもしない。

「おかえり。知り合いに会ってきたんだっけ?」

「初対面の人だよ。ヤングケアラーの集いに所属してる、心理カウンセラーの秋元さん」

「ヤングケアラー、心理カウンセラー……」

 ぽつりと私の言葉を反芻した母の顔に、困惑の色が浮かぶ。

「お母さん、私、お母さんとちゃんと話したいことがあるんだ」

 いつになく真剣なまなざしでそう言う私を見て、母の瞳はふるりと揺れた。

「……そう。お母さんも、日彩と話したいと思ってたわ」

 何か思うところがあったのか、母はすぐに応じてくれた。二人でお茶を飲みながら、食卓の椅子に座る。こうして母とゆっくり向かい合うのはいつぶりだろう。もう、思い出せない。

「お母さん、私ね、今の生活に不満があるわけじゃないんだけど、最近分からなくなることがあるの。この生活を続けられるのかなって。このまま家族のために働いて、自分の時間も、将来も、失い続けるんじゃないかって思うと、怖くなる」

 母が目を大きく開き、息をのんだ。
 心臓がドクドクと脈打っている。
 自分の素直な感情を、こうして母に打ち明けるのは初めてで、とても緊張した。親子なのに——いや、親子だからこそ、言えていないことがたくさんあった。

「おばあちゃんのことは大好きだし、お母さんがしんどいのも分かる。だから今まで頑張ってきたんだけど……でも、このままだと私も、お母さんも、おばあちゃんもきっと倒れちゃう。そうなる前に、なんとかしたいと思ったんだ。おばあちゃんを施設に預けるか、訪問介護を頼むか、どれが一番最適なのか分からないけど、考えてみない? お金に関しても、色々と助成制度があるみたいなの。さっきちょっと調べただけだから、詳しいことはまだ分からないけど。このままの生活を続けるのは、嫌なの」

 ……言えた。
 私の本当の気持ち。
 胸の底に溜まっていた澱を吐き出すことができた。
 母は切なそうに瞳を揺らし、そして眉を下げ、泣きそうな顔になった。そんな母から、私は目を逸せない。いや、逸らしちゃいけないと思った。

「日彩……ごめんなさい」

 しゅんと湿り気を帯びた母の声が耳に響いた。
 その一言だけで、いくらか気持ちが和らぐ。
 母はじっと黙り込み、自分の中で考えをまとめているようだった。しばらくの間沈黙の時間が流れる。やがてお茶を一口口に含み、飲み込んだ母がそっと口を開いた。

「ずっと、日彩には申し訳ないと思っていたの。本当なら、部活も友達との遊びも、一番楽しめる時期のあなたを、家に縛り付けてしまっていることを悪いと思ってた。でも……お母さん自身、しんどい時に日彩から何度も助けられて、救われてきたから、日彩がいなくなったらどうして生きていけばいいか分からなくて、現状を維持することしか考えられなかった。だけど、そうよね。日彩は、怖いわよね。勉強だってろくにできていないでしょうし、将来のことだって……。お母さん、日彩のこと、何一つ分かってなかったんだわ。本当に、ごめんなさい」

 心からの後悔の念が目の前で対峙している母から思う存分伝わってきて、胸がぎゅっと締め付けられた。
 お母さんも、辛かったんだね……。
 行き場のない矛盾した気持ちを抱えて、それでも日々あくせく働くしかなくて。娘と向き合えないことに焦りを覚えつつ、どんどん認知症が悪化していく祖母のことも考えなくちゃいけなくて。
 私もお母さんも、膨らみすぎて破裂しそうな風船みたいに、いっぱいいっぱいになっていたんだ。

「ううん、お母さんは悪くないよ。……誰も悪くない。私たちは家族だもん。みんなで支え合って、どうしていくべきか決める。それが、一番みんなが楽になれる方法なんじゃないかなあって……秋元さんや、友達と話してて、気づいたんだ」

 美玖や恵菜、それから大切なあの人の顔が浮かぶ。
 みんな、私の話を聞いてなんとかしたいと思ってくれているようだった。だから当事者である私と母と祖母が、一番考えなくちゃいけない。これからの生活のこと。でもそれは、決して苦しいことじゃない。考えることは、未来への希望だ。

「許してくれてありがとう。お母さんも、いっぱい考えるわ。焦らず、みんなで決めましょう」

「うん、そうする」

 母と目を合わせてにっこりと笑い合う。こうしてお互いの笑顔を見たのもいつぶりなのか、思い出せない。こんなにも大切なことをいくつも失っていたと思うと、過ぎ去った日々が名残惜しく思われた。

「そういえば日彩、話は変わるんだけど。あなた、いつも夜中にどこに行っているの?」

 ぎくり、と胸が震えた。
 毎晩こっそり家を抜け出していることを、仕事で家を空けているか、仕事が休みでもその時間には眠っている母には気づかれていないと思っていたのに。

「……知ってたんだ」

「そりゃ、知ってるわよ。今までは朝まで家にあったゴミが、夜中に出されるようになってるってこと。日彩のことだから危ないことはしないって信じて、口を挟まなかっただけ。でもあんまり続くから、さすがに夜中に女の子一人で出歩くのは危ないと思って」

「それは……」

 母の立場から言わせてみれば、ごもっともといったところだ。もし将来自分の娘が夜毎外へ繰り出していたら、止めるだろう。
 正直に言うべきだと、思った。
「友達と、遊園地で会ってるの」

「遊園地?」

 突如として私の口から出てきた遊園地というワードに、母はきょとんと動きを止めた。

「うん。昔よく行ってたあの遊園地。今は廃園になってるんだけど、その友達の——父親が、今は遊園地の持ち主らしくて。だから友達は、入ることができて」

 話がややこしいので、母にも納得してもらえそうな感じに、話を作り上げた。あながち間違いではないので、嘘をついているわけではない。

「その友達と、いつも夜中に遊園地で待ち合わせをしてる。よく分からないんだけど、その時間しか、その子は予定が合わないらしい、から」

 私も、どうして梨斗が夜中の十二時にしかあの場所に来ることができないのか分からないから、曖昧な言い方になった。

「そう、だったの」

 きっと私の話を半分も理解していないだろうけれど、母はなんとか娘を信じようとしてくれている様子で、躊躇いながら頷いた。

「日彩が仲良くしてる友達が危ない人ではないっていうのは信じるわ。でも、行き帰りの道で何かあったらと思うと、やっぱり心配。だからその子には事情を説明して、昼間に会うように説得できないかしら?」

「昼間に……」

 母が心配する気持ちは十分理解できるし、私だって会えるなら昼間に梨斗と会いたい。でもそんなこと、できるのかな……。

「今日も約束してるの?」

「う、うん」

「だったら今日、提案してみて。難しいって言われたら、またお母さんも一緒にどうするべきか考えるから」

「……分かった」

 頷きながら、困ったことになったとは思った。
 梨斗が夜中にしか会ってくれないのは、きっと何か深い理由があるはずだから。そんなに簡単に、提案に乗ってくれるとは到底思えない。
 じゃあもしかして、今日を限りに梨斗と会えなくなるの……?
 胸にちくりとした痛みが走る。
 梨斗と会えなくなるのは耐えられない。でも、これ以上母を心配させるのも嫌だ。
 どっちつかずな感情のまま、この場だけは平静を装い、母の目を見つめる。

「遊園地といえばさ、昔、お父さんが亡くなったすぐ後に二人で行ったことがあったわよね」

「え? うん」

 母が遠い目をして話し出す。
 確かに母の言う通り、父が亡くなって毎日落ち込んでばかりいた私を、母が遊園地に連れ出してくれた記憶はちゃんとある。

「その時、あんた、迷子になったの覚えてる?」

「……覚えてるよ」

 自分から母の元を離れたくせに、いざ母の姿が見えなくなると不安でたまらなかった。その時、誰かに助けてもらったんだけど、その人の顔はどうしても思い出せない。

「すごく不安でさ。もしかして日彩までいなくなっちゃうんじゃないかって、怖かったのよ。せっかく日彩を楽しませようと連れ出した先で、日彩まで失ってしまったら、やりきれない気持ちになってたと思うわ。だから、日彩のことを見つけ出して一緒にいてくれた少年(・・)にはとても感謝してる」

「少年……?」

 母の口から飛び出してきたとんでもない一言に、息が止まりそうになった。

「私を助けてくれたのって、大人の人じゃなくて男の子だったの?」

「ええ。覚えてないの?」

「覚えてない……。たぶんその時、お父さんが死んじゃって気持ちが不安定になってたから……ところどころ、記憶が抜け落ちてて」

「そう。子供からしたらショックなことだものね。あの遊園地で迷子になったあなたと一緒にいてくれたのは、確かに男の子で間違いないわ。名前とかは聞いてないんだけれど、同じくらいの歳の子だった気がするわ」

 母のその言葉に、頭の隅で何かぱちんと弾けるような心地がした。

——お父さんが、死んじゃって。

——そうなんだ。ぼくも、本当のお父さんと離れ離れになって、かなしいんだ。

——本当のお父さんと?

——うん。今日、ぼくの誕生日だから、お母さんが遊園地に連れてきてくれたのにさ、お母さんの隣には知らない男の人がいた。だからぼく、二人から逃げてきたんだ。

——それなら、わたしと一緒だね。わたしも、逃げたから。

——似たものどうし、よろしくね。

 カタカタと音を立てて回る観覧車の中で、幼い頃の彼が、ちょこんと椅子に腰掛けている。窓の外を二人で眺めながら、ミニチュアみたいな街の風景を見て、遠くへ来たんだなって実感させられた。
 悲しくて寂しいのに、彼が歯を見せて笑うのを見て、ひどく安心した記憶が蘇る。

「梨斗……」

 どうして気づかなかったんだろう。
 あの夜、スーパーの前で話しかけてきた彼は、最初から私のことを——。

「日彩、どうかした?」

 黙りこくってしまった私を見て怪訝に思ったのか、母親が私の顔を覗き込んできた。

「い、いや。なんでもない。とにかく今晩、友達に色々と話してみる」

「そうしてちょうだい。普通に会えるようになるといいわね」

 母がほっとした様子で胸を撫で下ろす。
 たぶん私たちは、普通に会えるようになんてならない。
 梨斗はずっと私に、何かを隠していた。
 その抱えているものを、私は上手く受け止めることができるのだろうか?
 二十三時五十二分。
 遊園地の前には、ちょっとだけ早く着いた。梨斗はいつも二十四時ぴったりに来るから少し待っていよう、と壁に背をもたせかける。
 しかしこの日、彼は二十四時になっても現れなかった。

「遅刻かな」

 いつも定刻にやって来る彼だけれど、たまには遅れることだってある。あまり気にすることなく、彼を待ち続けた。けれど、十分経っても、二十分経っても、三十分経っても、梨斗は現れない。

「さすがにおかしいな……寝坊かな」

 疲れて眠ってしまっているのかもしれない。今日はもう帰った方がいいかな。なんて考える。でも、頭の片隅では、彼が理由もなく私との約束を破ることはないと信じる自分がいた。眠っているのなら仕方がないけれど、なんだか今日は妙な胸騒ぎがしていた。
 帰ろうか、待ち続けるべきか、考えあぐねているところに、ポケットの中のスマホが震えていることに気づいた。
 取り出して画面を見ると、母からだ。
 母はこの時間には寝ているのに、どうしたんだろうと通話ボタンを押す。

「もしもしお母さん? どうしたの?」

『日彩、大変! おばあちゃんがいなくなった』

「え?」

 おばあちゃんが? 
 いなくなったとは、どういうこと?

『さっき、部屋で寝てるのを確認してから遅めのお風呂に入ってたんだけど、お風呂から上がったらおばあちゃんがうちからいなくなってた』

「そうなの? 大変じゃん……!」

 慌てた様子の母の声を聞きながら、頭の中では「徘徊」という言葉がちらついていた。これまで祖母が深夜に外を出たことなどなかったけれど、認知症患者の中には徘徊をする人もいると聞く。とうとう祖母も、一人で外へ出てしまったのだ。

『日彩、心当たりはない!? 私も今近所を探してるんだけど、どこにもいなくて……』

「分からない……でも、私も探す」

『ありがとう。私の監督不行き届きでごめんね』

「ううん、お母さんのせいじゃないよ。とにかく探すから、何か分かったら連絡して!」

『ええ』

 通話ボタンを切り、辺りをきょろきょろと見回す。
 遊園地の前で探したって、こんなところにはいないよね……。
 探すなら家の近所を探すのが妥当だろう。ここは自宅から電車に乗らなくちゃ来られないんだし。
 と、遊園地の前から踵を返し、駅に向かって歩き出した時だ。

「透くうん」

 遠くから、祖母の間延びした声が聞こえてきて心臓が止まる思いがした。

「透くうん」

 声は、遊園地の中から聞こえてくる。
 どういうことだろう?
 訝しく思いながらそっと遊園地の門を押してみる。すると、閉まっていると思い込んでいた遊園地の扉がすっと開いた。
 どうして扉の鍵が開いているのか気になったけれど、それ以上に今は、祖母の声のする方に走り出す。

「透くーん」

 間違いない。祖母は遊園地の中にきっといる。
 メリーゴーランド、コーヒーカップ、ジェットコースター、お化け屋敷……遊具の間をすり抜けて駆け抜けると、いつも乗っている観覧車の前に、祖母が佇んでいた。いつも着ているよれよれの薄いカーディガンが、この時はいつも以上に頼りなげに見えた。

「おばあちゃんっ」

 観覧車を見上げながらぽつんと立っている祖母の前に駆け寄る。私の姿を認めた祖母は、一瞬「誰だ」と私を睨みつけたが、すぐにどうでも良くなったのか、にやりと唇の端を持ち上げた。

「こんばんはー。ここのスタッフの人ですかあ?」

「は?」

 にまにまと笑顔を向けてそう言う祖母は、私を遊園地のクルーと勘違いしているらしい。

「今日はね、嫁と孫が二人で遊園地に来ているの。私は、息子と二人で来たいから、嫁と孫とは別行動をしているんです。老人会があるって嘘ついて、息子とデートなんだ。息子は観覧車が大好きだから、動かしてくれないかしらあ?」

 いつになくはっきりとした物言いで、私に語りかける祖母。
 嫁と孫が二人で遊園地に来ている? それって、私が迷子になったあの日のことを言っているのだろうか。確かにあの日、祖母は老人会の集まりで来ないと母に伝えられた。でも、今の祖母の言葉を信じるなら、老人会というのは嘘で、祖母も同じタイミングで遊園地にいたということ?

「息子が——透くんが、さっき女の子と観覧車に乗るとこ、見たんだけど。なんで今観覧車、動いてないんだい? 点検中?」

 女の子と観覧車に乗るところを見た——もしかしておばあちゃん、あの時私が彼と観覧車に乗っているのを側から見ていたんだろうか。
 彼のことを、記憶の中でお父さんだと勘違いしている。
 そうとしか思えなかった。

「あーあー、透くん、お母さんと観覧車に乗るって、楽しみにしてたのに! 早く動かしてよお!」

 バタバタと駄々をこねる子供のように両手を振り回しながら、私に詰め寄る祖母。
 そんな祖母を見ながら、母と二人三脚で祖母の面倒を見てきた日々の記憶が、弾け飛んだ。
「おばあちゃんっ、いい加減にして!」

 パチンと、祖母の頬を叩いたことに気づいてはっと手を引っ込める。
 私、大好きなおばあちゃんになんてことを……。
 引っ込めた手がぷるぷると震える。祖母は、突然手を上げた私を見て、呆けたようにぽかんと口を開けている。老人虐待、という言葉が咄嗟に頭に浮かんだ。
 最低だ、私……。
 胸に鋭い痛みが走り、この場から逃げ出したくなった。
 けれど、私を見つめる祖母の双眸に、先ほどとはわずかに違う揺めきがあることに気づいて踏みとどまる。

「日彩ちゃん?」

「え……?」

 祖母の口から、確かに「日彩ちゃん」という名前が聞こえて、心臓が止まりかけた。

「ああ、日彩ちゃんじゃない。ごめんねえ、痛かったわよねえ。大丈夫?」

 祖母が両手で私の頬を包み込む。
 叩いたのは私の方なのに。痛いのは、おばあちゃんの方でしょ……?
 そう思うのに、何も言葉が出てこない。頬に触れたしわくちゃの手から、確かに伝わる温もりに、胸がツンと痛くなった。

「おばあちゃん、ずっと心配してたんだよ。お父さんが死んじゃって、日彩ちゃんが可哀想だって……。本当に辛かったわねえ。お父さんの分まで、おばあちゃん、頑張るからね。お父さんがいなくても幸せだって思えるぐらい、おばあちゃんが日彩ちゃんのそばにずっといるから」

 優しくて温かい声が、胸にすっと響いて、溶ける。

「おばあちゃん……」

 頬に添えられている祖母の手にそっと触れる。こうして穏やかな気持ちで祖母に触れたのはいつぶりだろう。もう思い出せない。ずっと、祖母から忘れ去られて泣いていた心が、今ようやく晴れていく。

「おばあちゃん、そのカーディガン、寒くない?」

 一度愛しいと思うと、祖母を心配する気持ちが溢れて、聞いた。

「うん、寒くないわ。これは透くんが誕生日にくれたものだからねえ。おばちゃん、死ぬ時もこのカーディガンを着ていくつもり」

「そっか……」

 愛しい我が子の頭を撫でるように、カーディガンの袖を触る祖母。
 理解できなかった祖母のこだわりが、ようやく分かって胸に引っかかっていたものがすっと取れていくような感覚だった。

「おばあちゃん、ごめんね」

「やあねえ、なんで謝るのよ」

「だって私、今までおばあちゃんにひどいことを」

 思ってたから、と最後まで口にすることはできなかった。
 祖母が、つぶらな瞳が私を見つめながら、「大丈夫よ」と語るから。喉元まで出かかった言葉をすっと引っ込めた。

「ひどいことをしているのは、おばあちゃんのほうでしょう? 日奈子さんにも日彩ちゃんにも、苦労をかけてるのはおばあちゃんのほう。いつもごめんねえ。世話してくれてありがとうね」

 にこにこと、優しい笑みを浮かべる祖母の顔を見るのが限界だった。
 何か言葉を発する前に、嗚咽が喉から溢れ出て止まらない。泣きじゃくる私の背中を、祖母はゆっくりとさすってくれた。
 ああ、私。
 ずっとおばあちゃんに、「ありがとう」って言ってほしかったんだな。
 あなたがやっていることは、ちゃんとおばあちゃんの心を救っているから、無駄じゃないよって言ってほしかったんだ。
 家族のために頑張ることが、無駄な努力じゃないんだって認めてほしかった。
 自分の時間をどれだけ失っても、家族が幸せに暮らしていけるように、頑張って良かったって思わせてほしかったんだ——……。
 私は自分を見失ってなんかいない。
 ようやく自覚することができた。

「今までごめんね、おばあちゃん。私のほうこそ、そばにいてくれてありがとう」

 思えばお父さんが亡くなった日も、泣きじゃくる私の背中をさすり、抱きしめてくれたのは祖母だった。母は茫然自失状態で、娘の私にまで気を配る余裕がなかったから。祖母だって辛いはずなのに、一心に私を慰めようとしてくれた。
 その後も、祖母がいてくれたから、父を失った悲しみから少しでも早く回復することができた。
 私のほうが、いっぱい祖母に支えてもらっていた。
 今更こんなことに気づくなんて、遅いよね。

「……あれえ、スタッフさん、どうしたの?」

 隣にいた祖母の声色が、落ち着いたものから子供みたいな高い声に突然変わった。私を見る目が、先ほどとは違い、訝しそうな目になっている。おまけに呼び方も「日彩ちゃん」じゃなくて、「スタッフさん」に戻っていた。
 私は、ごしごしと両目を擦った。
 祖母の中から、再び私が消えたことを自覚し、胸がツンと痛い。けれど、確かにこれまでとは違う温もりがまだ残っている。祖母が、完全に私のことを忘れたわけではないということを、知っているから。祖母だってきっと闘っている。身近な人を忘れていく痛みと隣り合わせで、闘ってるんだ。
 だから私は、にっこりと笑顔を浮かべて言った。

「なんでもありません。息子さんと観覧車に乗るんですよね。息子さんは、今どこに?」

「さっきまでこの辺にいたんだよお! もう、本当にどこに行ったのかしら」

 きょろきょろと辺りを見渡して「透くん」を探す祖母。その間に、私は母に電話を入れて祖母を迎えにきてもらうように頼んだ。
 しばらくして母がやって来る。私と祖母が遊園地の中で一緒にいるのを見て驚き、それからすぐに祖母の手を引いた。

「帰りましょう。透くんは、家に帰ってきたから」

「えーそうなの? あの子、あんなに観覧車に乗りたがってたのにぃ?」

「ええ。お母さんのご飯が食べたいって言ってたわ」

「ふふ、そうなの。それじゃ、仕方ないわねえ」

 母が上手いこと祖母を宥めて、二人は出口の方へと歩き出す。母は私を連れていこうとはしない。きっと私が、これから“友達”に会うことを知っているから。

「またねえ、スタッフさん! 梨斗くん(・・・・)と楽しんでえ。早く彼のところへいってあげてね。大切な人が目の前からいなくなる前にね」

 祖母が振り返って手を振った。
 祖母の口から飛び出してきた彼の名前に、はっと祖母を見つめ返す。
 おばあちゃん、なんで知ってるの。
 不可思議に思いながら、記憶を探る。そうだ、確かに私、以前祖母の前で「梨斗のところへ行ってくる」と言ったことがあったっけ……。
 でも、そんな私の言葉をいちいち覚えていたなんて。
 さっき、確かに繋がってたその手を見つめながら、私も大きく手を挙げる。

「またね、おばあちゃん」
 祖母たちと別れてから、ゆっくりと周りを見回してみた。
 梨斗、梨斗、梨斗。
 声に出して彼の名前を呼んでみる。静寂の訪れた園内には自分以外に誰の気配もないように思われる。でも、彼は確かにここにいる。この遊園地のどこかにいる——そう、確証していた。
 私がここへ入って来る時、遊園地の門は開いていた。門が開いていたからこそ、祖母が遊園地の中に入ることができたのだ。
 それに祖母がさっき、透くんが観覧車に乗りたがっていると言っていたけれど、祖母は遊園地の中で梨斗のことを見たのではないかと思う。梨斗を、「透くん」だと勘違いした祖母は、記憶が入り乱れて、「透くん」と観覧車が結びついたんじゃないかって。
 だとすればやっぱり梨斗はこの遊園地のどこかにいる。
 そう信じて、園内を走り回った。
 思えば私は、梨斗のことを本当に何も知らない。
 初めて出会ったのはスーパーの前で、そこからすぐに遊園地へとやってきた。彼と会えるのは夜中の十二時、観覧車の中でだけ。だから、彼が昼間にどういう生活をしているか、まったく分からない。聞いてもきっと教えてくれないだろうって、諦めていた。
 でも、今なら彼の深淵に近づけるような気がしている。
 だって彼は、昔私と——。

「梨斗!」 

 愛しい人の名前を何度も叫ぶ。静寂の中にこだまする自分の声が、夜の闇に溶ける。ふと気を抜くと、寂れた巨大な園内に取り残される心細さに、足がすくんでしまいそうになった。
 妙な胸騒ぎが止まらない。普段なら、彼は時間ぴったりに門の前に現れるのに、今日はいなかった。何かが変わろうとしている。予感はやがて、確信へと変わった。

「梨斗……」

 メリーゴーランドの前で、亡霊のように佇む彼の後ろ姿を見つけた。今日はどうしてかいつも着ている制服ではない。瞬時に思い出したのは、出会った日に彼が放った言葉だ。

——僕って幽霊みたいに存在を消すのが得意なんだ。
 
 それから私が彼のことを幽霊ではないかと疑った時に、彼が答えてくれた言葉も。

——少なくとも、きみが考えるような幽霊ではない。でも、幽霊みたいな存在だっていうのは認める。

 彼の頭からつま先までをなぞるように、視線を動かす。ちゃんと手と足があって、足は地面についている。どこからどう見ても、いたって普通の人間に見える。だけど、本当はもしかしたら。

「梨斗は、やっぱり幽霊なの? それとも、意識不明の少年が幽体離脱した魂、とか?」

 突如として後ろからおかしな問いを投げかけられた彼は、ぴくりと身体を揺らして振り返る。私を見る、彼の顔を見て心臓が跳ねた。
 額と、頬と、顎と、唇に、切り傷や打撲の跡があった。
 さらに、目元は腫れて暗闇の中でも青く盛り上がっているのが分かかる。手や足は長袖に長ズボンを着ているので素肌が見えないけれど、顔と同じように傷があるのは容易に予想がついた。

「見つかっちゃった……か」

 てへへ、と可愛らしく頬を掻きながら小さく笑う彼は、本当は私に見つかることを望んでいたのだとすぐに分かった。

「どうしたの、その顔……」

 聞かずにはいられなかった。
 痛々しい顔を私に向けている彼はどうしたって普通じゃない。

「言ったでしょ。僕は、幽霊みたいな存在だって」

「それってどういう」

「観覧車に乗らない?」

 柔和な笑みを浮かべながら、いつものように彼が提案した。無意識のうちに頷く。梨斗と深い話をするのは、あの観覧車の中でなきゃ、だめだ。
 二人きりの世界で、観覧車の元へと歩き出す。その間、彼の身体に見える傷には意識を向けないように、必死に目を逸らし続けた。

「さあ、行こう」

 もう何度目か分からない。彼と観覧車で過ごす十五分間。でも今日は、二人の間にいつもと違う緊張感が漂っていることに気づいた。
 私たちの十五分が始まる。
 後悔しないように、彼と真正面から向き合って、話そう。