「よく連絡をしてくれました。私は、『バルーンの会』に所属している、心理カウンセラーの秋元稔(あきもとみのる)と申します」

「深町日彩です。よ、よろしくお願いします」

 『梨の花』を訪れた二日後、近所の喫茶店で、ヤングケアラーの集い『バルーンの会』に所属している秋元さんと初対面を果たした。
 連絡をしたのは昨日だ。
 初めての問い合わせだったので、メールを送信する時は手が震えた。二時間後に秋元さんから返信が来て、「明日空いているので早速話しましょう」と言われた時は驚いた。まさか、そんなに早くお会いすることになるなんて、思っていなかったから。

「そんなに畏まらなくていいよ。と言っても、緊張するよね」

「い、いえ。そんなことは」

 答えながら、ガチガチに筋肉が強張っていることに気づく。秋元さんは、四十代前半ぐらいの、人の良さげなおじさんだった。今日私の自宅の近くの喫茶店を指定してくれたのは彼の厚意で、おかげでこうして気軽に喫茶店に来ることができている。

「ざっくりとでいいから、深町さんの今の状況を教えてくれるかな?」

 カウンセラーなだけあって、秋元さんにそう聞かれると、落ち着いて話そうという気になれた。

「中三の頃から、祖母の認知症が悪化して、私と母で祖母の面倒を見なければならなくなりました。それまでは母だけで祖母を見ていたのですけれど、状況が悪くなってしまって。母は仕事も忙しく、家を空けていることが多いので、私が家事全般を担っています。それから、祖母の排泄の処理と、入浴介助は私の仕事です」

 こうして冷静に語っていると、それほど大したことではないように感じられた。けれど、私の話を聞く秋元さんの目が、すっと細くなるのを見て、ああ、私って普通じゃないんだと悟った。

「なるほど。分かりました。深町さんは、自分が家事をしたり、おばあさんの介護をしたりすることについて、どう思ってる?」

「それは……」

 鋭い質問を受けて、じわりといろんな感情が込み上げてきた。

「最初は、家族の仕事を家族で分担するのは当たり前だって思って、特に問題だとは思っていなかったんです。家の事情はそれぞれの家庭で違いますし、きっと私なんかよりもっと大変な思いをしている子供だっている。自分は特別じゃない。部活ができなくても、友達と遊べなくても、勉強ができなくても、仕方がないって諦めてました。でも……最近、分からなくなったんです。私は、誰のためにこんなに頑張ってるんだろうって。将来就きたい仕事もあるんですけど、時間やお金の問題で、多分専門学校にも行けません。家族のためだって分かってはいるのに、心がどんどん歪んでいくんです。私は……自分の人生を、生きたいのにって……」

 いつのまにか、私の人生は私のものではないような気がしていて。
 ずっと抱えていた不安が、今日会ったばかりの秋元さんを前にして爆発した。

「話してくれて、ありがとう。深町さんのような中高生に、これまで何人も会ってきたんだ。だから、きみの気持ちは十分理解できるつもりだ。深町さんは、自分が世間で“ヤングケアラー”と呼ばれているのを知っているかな」

「はい。知っています」

「そうか。そのヤングケアラーの人たちの中には、家族を“ケア”しているという認識に欠けている人が多いんだ。深町さんのように、家族を助けるのは当たり前だから、他人に相談することではないと思っている人たちがいる。でもそんなふうに考えることで、僕たちみたいな第三者に助けを求めるのが遅くなって、取り返しがつかないことになることもあるんだよ」

 秋元さんは、真剣なまなざしで遠い目をして語った。彼が今まで出会ってきたヤングケアラーたちのことを思い出している様子だった。

「高校や大学で勉強することは、これからのきみたちの将来を豊かにするためにとても重要だ。一度社会の路線から外れてしまったら、簡単には戻れない。だから僕たちは、きみたちのような若いヤングケアラーたちに、できるだけ早く、何かしらの助けを求めてほしいと思ってる。その点、深町さんはこうして今僕に胸のうちを話してくれた。きっと、かなり勇気がいることだっただろう」

 優しい彼の言葉に、溜まっていた涙が溢れそうになり、目頭を抑えた。それから、ゆっくりと「はい」と頷く。

「きみは、きみの人生を諦める必要はない。おばあさんのことは、介護施設に入居させるという方法もある。本人が嫌がるようだったら訪問介護だってあるしね。とにかく、一人で抱え込む必要はないんだ。それからきみのお母さんのことだけど、違ったらごめん。きみは、お母さんから日々愚痴を聞いたりしていないかい?」

 まるで私の生活を見てきたかのような口ぶりに驚く。

「は、はい。よく愚痴を聞いています。仕事やおばあちゃんのことで疲れが溜まってるから。つい二日前も、過労で倒れてしまって……」

「なるほど。その母親の愚痴を聞くっていうのも、ケアの一つなんだよ。続けていると、君の方が擦り切れて潰れてしまう。だからお母さんと、ちゃんと話した方がいい」

 秋元さんにそう言われて、はっとさせられた。
 母のことをケアしているなんていう自覚はまったくなかった。むしろ、私と母で祖母の面倒を見ているとばかり思っていたから。

「母のことは、正直全然、考えてもいませんでした。でも、言われた通り、母とはちゃんと話がしたい……です」

「そうだね。そうするといい」

 一通り話し終えて、ようやくほっと息をつくことができた。
 秋元さんとは今日初めて会ったのに、自分のことを根掘り葉掘り聞かれても、全然嫌な感じがしなかった。むしろ、どうして今までこの人に相談しなかったんだろうって、後悔したくらいだ。

「また、困ったことがあればいつでも相談しにおいで。『バルーンの会』にはきみと同じようなヤングケアラーたちがいるから、彼らと交流することで、心が軽くなることもあると思うし、単純に僕に会いに来てくれるだけでも嬉しいから」

「はい、ありがとうございます」

 温かい他人の温もりに触れて、冷え固まっていた心が嘘のように溶けていく。
 梨斗と初めて出会った日も、こんな気持ちにさせられた。
 彼と出会ってから、変わらないと思っていた日常が、少しずつ変わっていっていることに気づいた。美玖たちに心のうちを打ち明けて、母ともこれから話し合おうと思えている。何より、梨斗と過ごす十五分間の時間が楽しくて、私に希望と勇気をくれる。
 梨斗は私にとってもう、なくてはならない存在なのだと、この時はっきりと自覚した。