夜、祖母をお風呂に入れて眠ったのを確認すると、私は一人、ひっそりと家を出た。母もよっぽど疲れているんだろう。祖母が眠る前に自室に入っていった。
 二十三時、十二分。
 昨日のことを思い出しながら、JRの駅まで向かう。今日は制服じゃなくて、ちゃんと私服に着替えてきた。艶を失った肌と唇にほんのりとファンデーション、リップを乗せた。とてもプロとしてやっていけるレベルではないけれど、これで少しは高校生っぽく見られないで済む。
 遊園地へと向かう電車に乗り込むと、そっと胸に手を当てる。
 真夜中の逃避行。
 決して遠くはないけれど、あの家から少しでも離れたい。
 そしてもう一度、きみに会いたい。
 ただその一心で出た行動だった。
 遊園地に着くと、春の夜の物寂しげな空気がそこらじゅうを漂っていた。きょろきょろと辺りを見回す。誰もいない。そりゃそうだ。廃園後の遊園地に、それもこんな真夜中に来る人間なんていない。

「あれ?」

 誰もいないと思っていたのだか、よく見ると園内でささっと動く人影があった。

「誰……?」

 遠くてよく見えないが、自分よりは背が高く、ガタイもいい。男の人だということは分かった。一瞬梨斗かと思ったが、彼はもう少し線が細かった。梨斗ではない、誰か。その誰かが園内を歩き、観覧車の方へと向かっていく。

「あの!」

 思わず声を上げる。自分でもなんでそんな大胆なことができたのか、不思議でたまらない。
 人影がぴくりと立ち止まり、こちらを振り返る。遠くて顔がよく見えない。向こうからもきっと、私の顔は見えていないだろう。けれど、園内に忍び込んでいるのを見られたことが後ろめたかったのか、私が声をかけるとすぐに園の奥の方へそそくさと走り去って行った。

「ちょっと待ってください!」

 呼び止めても、立ち止まらない影。
 私は一体何がしたいんだろう。自分でも分からない。呼び止めたところで、どこの誰なのかも分からないし。
 結局その人は、その後一度もこちらを振り返らなかった。やがてすぐに男の人の姿を見失った。

「日彩?」

 不意に名前を呼ばれてぴくんと身体が跳ねる。
 声のする方を振り返った。そこには、紛れもなく梨斗が佇んでいた。
 前回と同じ、城北高校の制服に身を包んでいる。昼間に学校で、彼の存在をいろんな人に否定されたことが思い浮かんだ。

「り、梨斗」

「やあ、また会ったね。こんばんは」

 ひょうきん者のように、片手を挙げて挨拶をしてきた。
 こんな時間に、こんなところで会って「やあ」はおかしいだろう。呆れる私を前にしても、彼は依然としてにこにこと人当たりの良い笑みを浮かべている。

「昨日、急にいなくなっちゃったから心配したんだよ! 誰かに攫われたんじゃないかって一瞬思ったぐらい」

「はは、それはごめん。ちょっと急用を思い出してさ」

「こんな夜中に急用なんてあるの?」

「うん、実は、ある」

 大真面目に頷く彼を、私はじーっと見つめる。
 やっぱり、普通の男の子……だよね?
 それなのに、こんな夜中に制服姿で遊園地に来て……彼は一体何者なんだろう。

「どうして今日も、ここにいるの?」

 思い切って尋ねてみた。

「それはこっちの台詞だよ。日彩の方こそ、なんでここに来たの?」

 質問に質問で返すのは良くないって、小学校の先生に教わった。けれど、彼の疑問は尤もかもしれない。

「私は……ただ、あなたに会いたくて」

 びっくりするぐらい素直な気持ちが口から溢れ出る。実際、言った後にはっとしてしまっていた。

「いや、今のはその、言葉の綾というか……。なんとなーく、今日もあなたの顔が浮かんだだけ、です」

 全然言い訳になってない。
 むしろ、「あなたの顔が浮かんだ」なんて、まるで恋する乙女みたいじゃないか。
 梨斗は私の回答を聞いて何を思ったのか、「そっか」と意味深に頷く。気まずくなった私はそっと顔を伏せる。

「じゃあ、また観覧車、乗る?」

 静かに園内の方を指差した。 
 そこにはもちろん、明りのついていないアトラクションたちが息を潜めて佇んでいるだけだ。

「うん」

 無意識のうちに頷いていた。
 もう一度、彼と観覧車に乗って話ができるんだ。
 それだけでもう、どうしようもなく胸がドキドキと高鳴っている。私、馬鹿だな。昨日出会ったばかりの少年に、こんなにも興味をそそられているなんて。私ってこんなにちょろかったっけ? 我が身を振り返ってみたけれど、そういえば今まで人生で、異性の友達ができたことはなかった。
 梨斗が初めてだ。
 初めてできた男の子の友達。
 彼の方は友達と思ってくれているのか怪しいけれど。昨日、自分の中で抱えきれなかった本音を吐き出させてくれた時点で、私にとっては友達だった。
「じゃあ、行こうか」

 昨日と同じように、梨斗がポケットから鍵を取り出して門を開ける。重厚な門が開かれて、私たちは遊園地の中へと一歩踏み出した。

「梨斗、私、聞きたいことがいっぱいあるんだけど」

 観覧車までの道すがら、彼の隣に並んで問いかける。

「そりゃ、聞きたいことだらけだろうね。そうだなあ。いっぱいあっても答えられないかもしれないから、三つまでにしよう」

「えー何それ、ケチ」

「僕ってあんまりサービスとかしないタイプだから」

「質問に答えるぐらいいいじゃん。何個だって」

「内容次第ってとこかな」

 梨斗との会話は、学校の友達との会話とは全然違う。なんだか、ふわふわとした雲の上を行き来しているかのような感覚に陥る。この人と、要領を得た話がしたいのに、上手くかわされてしまう、みたいな。けれど昨日の晩、私を励まし、勇気づけてくれたことは確かだった。
 だから、日常会話がこんなふうに緩やかなものでも、彼はちゃんと私の声に耳を傾けてくれるって信じられるのかもしれない。

「もう、分かったよ。とりあえず一つ目」

「あ、ちょっと待って。観覧車の中で話そうよ。スイッチ入れるからそこで待ってて」

 いつのまにか観覧車の足元まで辿り着いていたことにようやく気づく。
 お預けをくらった私はうずうずとした心持ちで管理室へと消えていく彼を待っていた。
 やがて、昨日と同じようにババッと観覧車の明りが灯る。ゆっくりと回り始めるゴンドラ。二回目なので驚きはしないけれど、やっぱり勝手に廃園後の観覧車を動かしていることには罪悪感が拭えなかった。

「乗ろうか」

 管理室から出てきた彼が私に手を差し出す。少し迷ってから、その手をそっと握る。温かい。私の手は汗ばんでいて、彼に汗かきだと思われてはないかと不安だった。

「ふう。やっとゆっくり話せるね。十五分だけだけど」

「十五分しかないし、早くさっきの続き!」

「はいはい、分かってるって。一つ目の質問、どうぞ」

 テレビのリポーターのように、手でマイクを作って私の方へと向ける梨斗。私は、コホンと一つ咳払いをしたあと、ゆっくりと息を吸った。

「さっきね、梨斗が来る前、遊園地の中に人影があったの。大人の男の人っぽかったけど……誰か、知らない?」

 最初に頭に浮かんだ疑問はそれだった。
 梨斗に声をかけられる直前のこと。気になりすぎて、さっきからずっと胸がざわついていたのだ。
 私の質問を聞いた梨斗は、意外にも両方の眉を大きく動かした。
 無防備なその表情を、思わず食い入るようにして見つめてしまう。

「男の人? うーん、誰だろう。ちょっと分からないな」

 返ってきた答えは期待したものとは違っていた。

「そっかあ。梨斗も、知らないか。こんな時間に廃園後の遊園地に忍び込む人間が他にいても、おかしくないのかなあ」

「いや……変だとは思うけど。心当たりがないよ」

「だよね」

 言いながら、私たちも十分「変な人」たちなのだと気づく。そもそも梨斗が遊園地の鍵を持っているのも疑問なんだけれど。

「侵入者だろうね。でもその人、日彩にしか見つかってないからセーフだ。警察じゃなくてよかったよね」

「その言葉、そっくりそのまま自分たちにも言えることじゃない?」

「僕なら大丈夫だよ。鍵だって持ってるし」

「そもそもその鍵……」

 鍵のことを質問しかけて、慌てて口を閉じる。
 今日は他に聞きたいことがあるのだ。ここで質問を一回分消費するわけにはいかない。

「次の質問、いい?」

「どうぞ」

 観覧車は四分の一の地点に到着した頃だ。大丈夫。まだ時間はある。こうして観覧車から街を見ると、真夜中だというのに思っていた以上に明るいことに気づく。
 少しずつ上昇していく私たち二人の空間が、地上での時間から切り取られていく。
 ここには、二人だけ。
 私と梨斗だけが息をしている。

「昨日、出会ったときに『今晩泊めてくれないか』って聞いたじゃん。あの質問の真意を教えて」

 真剣な声で聞いた。
 すると、彼はなぜか「ぷっ」と吹き出した。

「何か、おかしい?」

「いや、三つしか質問できないのにそれかーって」

「そりゃ気になるよ! だって私は女の子で、あなたは男の子じゃん。初対面の異性に、あんなこと聞いてくるなんて普通じゃない」

「そうだね。僕は普通じゃない。でもあの質問は、普通の男の子が考えそうな簡単な心理に基づいている」

「どういうこと?」

 相変わらず要領を得ない彼の言葉に、じりじりと焦りのようなものが込み上げる。焦る理由なんて一つもないのに。それほど自分が、早く彼のことを知りたいと思っているのだと気づく。

「あれは……心理学的に言うと、『ドア・イン・ザ・フェイス』かな」

「ドア・イン・ザ・フェイス?」

 聞いたことのない心理学用語が出てきて頭の中で疑問符が渦巻く。

「そう。知らない? 人と交渉するときに、まず大きな要求をするんだ。相手に絶対断られそうな、突飛な要求。きみにとって、『泊めてくれないか』っていうお願いは、絶対に聞けないお願いだっただろ?」

「うん、当たり前じゃん」

「じゃあ、その後に僕がちょっと付き合ってほしいって頼んだ時、どうして断らずに受け入れてくれたの?」

「それは……だって、泊めるっていうのを断ったから、二度も断るのは悪いと思って」

 正直な気持ちを話した。
 梨斗は、私の回答に満足した様子で「そうだろ?」と得意げだ。

「今、日彩が教えてくれた心理に基づいたテクニックだよ。人間、誰しも同じ人物から二度も要求をされて、両方は断りづらいだろ。つまり、最初の要求はあえて断らせて、次の要求を受け入れてもらうっていう作戦なんだ。最初から、二つ目のお願いを聞いてもらうことが本望だった」

「そうだったの」

 なるほど、ようやく彼の言わんとしていることが理解できた。
 初対面の女の子に、今晩泊めてくれないか、なんて絶対にNOと言われるに決まっている。それでもあえて質問をしたのは、その後の「付き合ってくれないか」という要求をのませるため。ぐぬぬ……なんという小賢しい——じゃなくて、賢い作戦なの……。
 梨斗の作戦通り、私はまんまと彼と観覧車に乗らざるを得なくなったというわけだ。まあ、昨日、梨斗と十五分間の時間を共にしたことで、溜まっていたものを吐き出せてよかったんだけど。結果的に、私にとって大切な思い出になった。
「さて、二つ目の質問の答えはこれで大丈夫? もしかして失望した?」

「ううん、してないよ。梨斗って善良そうに見えて、そういう手を使うんだって呆れはしたけど」

「はは、失礼だな。まだ出会って一日しか経ってないでしょ。きみは、僕のことをほとんど何も知らない」

「……うん、そうだね。私は、あなたのことを全然知らない。昨日は私ばっかり喋ってたし。だからもう一つ、聞きたいことがあるんだけど」

 ちょっぴり苦い気持ちになりながらも、良い流れをつくることができたと思う。

「三つ目の質問だね。何かな?」

 子犬のような純粋な瞳に、緊張した面持ちで彼を見つめる自分の顔が映っている。私、なんでこんなにドキドキして……。
 出会って二日目の彼のことを、もっと深く知りたいという衝動に駆られている。
 私だけが日頃溜まっていた鬱憤を彼に話して、彼は私に何も話してくれないのではなんだか不公平だ。それに私は、純粋に梨斗とちゃんと友達になりたいと思っている。
 友達だったら、腹を割った話をするべきだ。
 自分に言い聞かせて、ごくりと唾をのみこんだ。

「梨斗は、幽霊なの?」

 カタカカタカタ……と、静寂に包まれる空間で、観覧車が回る音が大きく響いている。いつのまにかてっぺんに辿り着こうとしていた。昨日も味わった高さだが、何度乗ってもこの位置に来るとひやりとさせられる。早く過ぎ去ってほしいような、もう少しだけ頂上からの景色を眺めていたいような。いよいよ前のゴンドラが見えなくなった瞬間、梨斗はふっと息を吐いた。

「ご名答——って言ったらどうする?」

「え?」

 トクトクトクトク。
 心臓の鼓動がどんどん速くなる。
 まさか……本当に幽霊なの?
 疑ったのはほんの出来心からだ。
 今日、学校で葉加瀬梨斗という生徒がいないか、先生たちや美玖たちに聞いた時、みんな知らないと言った。だけど、梨斗はこうしてやっぱり城北高校の制服に身を包んでいる。どういうことだろうか——考えるうちに、この答えに至ったのだ。
 梨斗は、存在するけどみんなには見えていない。
 だから、幽霊なんじゃないかって。
 自分に霊感があるなんて知らなかったけれど、それは今まで幽霊に出会ったことがなかったから、と勝手に結論づけた。
 梨斗は私の目をじっと見つめている。息が止まるくらい、緊張していた。私は彼に、自分の疑問を肯定してほしいのか、否定してほしいのか分からない。ただ答えがほしかった。彼と、こうして真夜中に会う口実が欲しかったのかもしれない。

「半分正解で、半分不正解かな」

 意味深に笑いながら、彼はそっと答えた。
 観覧車が折り返し地点へと突入する。だんだんと近づいてくる街の景色。だが、まだ十分高い。

「どういうこと?」

 半分正解で半分不正解って? 
 つまり、幽霊ってこと? 幽霊じゃないってこと?
 どちらともつかない彼の回答に、私の頭は混乱していた。

「少なくとも、きみが考えるような幽霊ではない。でも、幽霊みたいな存在(・・・・・・・・)だっていうのは認める」

「幽霊みたいな存在? それってどういう……」

「きみが、自分の気持ちともっと真正面から向き合うことができたら、自ずと僕の正体も分かってくると思う」

「自分の気持ちと、向き合う……?」

「うん。きみはさ、今日どうしてここに来たんだっけ?」

「それは、あなたに会いたいから……ってさっきも言ったよ」

 愛の囁きとも取れる恥ずかしい言葉を、私はもう一度口にした。梨斗は私の言葉の真意を知ってか知らずか、表情を変えずに再び口を開く。

「じゃあどうして、僕に会いたいって思ったの?」

「それは……」

 思わず口籠る。
 梨斗にもう一度会いたいと思った理由。
 それは、学校や家庭で自分の居場所がないと感じて、ふと梨斗の顔が浮かんだからだ。家族の中から私がいなくなって、学校でも友達がいなくなって。だけど、梨斗は私の話を聞いて、励ましてくれた。梨斗といる時だけ、本音を吐き出すことができる。
 だから私は、きみに会いたいと思った。

「私は……存在しない人間、だから。あなたといるときだけは、自分っていう人間を、認めてもらえるような気がして」

 素直な気持ちが溢れ出る。 
 梨斗は黙って私の言葉を聞いていた。

「私は梨斗と、もっと話してみたかったんだ。そうでないと、自分の輪郭が、どんどん溶けてなくなっていくような気がするから」

 それが、本心だった。
 誰かのために自分の時間をすべて使い、友達から疎ましがられて忘れられていく。そんな未来が来るのが怖くて、必死に自分を世界に繋ぎ止めようとしている。繋ぎ止めてくれる人に、頼ろうとしていた。

「そっか。そこまで考えてるなら、そのうち僕の正体も分かるはずだよ。それまで、またこうして会おっか」

「え……いいの?」

「うん、もちろん。というか、最初にここに連れてきたのは僕の方だし。だけど一つだけ、条件がある」

「条件?」

 なんだろう、と彼の顔を覗き込む。

「会うのは、毎日夜の十二時から観覧車が回っている時間だけ。観覧車から降りたら、僕はすぐに家に帰らなくちゃいけない。だから、十五分間だけ、きみに会える」

「十五分間だけ……」

 そのあまりにも短い時間について、問いただしたい気持ちはもちろんあった。でも、真意を聞いたところで、今の彼は教えてくれない気がする。
 たった十五分でも、梨斗に会えるなら。
 私はそれでもいいと思った。

「分かった。その条件で会えるなら、よろしくお願いします」

 恭しく頭を下げる。観覧車がもう少しで地上に到達しようとしていた。

「こちらこそ、よろしく」

 にっこりと微笑む梨斗は、やっぱりどこか幻想めいていて、教室で会うクラスメイトたちとは一線を画している存在のような気がした。幽霊かと尋ねた時の、「半分正解」という答えが気にかかる。
 もしかして、小説やドラマでよくあるような、意識不明の少年の魂が今ここに現れてる……みたいな?
 聞いてみたいけれど、やっぱり核心的なことは教えてくれないだろうな。
 あまり問い詰めて、これ以上会えないと言われるのはつらい。それぐらい、梨斗と今度も関係を続けたいと思っている自分がいることに、驚く。

「あ、ちなみに連絡先とかは?」

 ダメ元で聞いてみる。

「ごめん。僕、スマホを持ってないんだ」

「そうなんだ。今時珍しいね」

「そうでしょ」

 果たしてスマホを持っていないというのが本当なのかどうかは分からないけれど、やんわりと断られて少しだけ胸にくる。

「もうすぐ終わりそうだね。日彩、明日も何もなければ、会おうよ」

「うん、明日も来るね」

 連絡先など知らなくても、こうして観覧車の中で次に会う約束ができる。
 なんだか、一昔前の恋物語みたいだなあ……なんて思って、はっとする。
 なんで私、彼とのことを「恋物語」なんて考えてるの……!
 沸騰しそうな頭から妄想を振り払って、思わず梨斗から目を逸らした。彼は不思議そうな顔をしていたけれど、これ以上彼の顔を見たら胸が破裂しそうだ。
 ……あらぬ想像をしてしまったけれど、実際お母さんたちの時代の人って、スマホで好きな人と連絡を取り合うこともなかったんだろうな。
 相手の家に電話をして、父親が出て焦ったとか、そういう話を聞いたことがある。そんな古き良き時代の恋を体験しているみたいだ。
 って、またほら、“恋”って何!? 
 私、どうしちゃったんだろう。
 まだ梨斗とは出会って二日しか経っていないのに。
 恋なんておかしい。
 第一、私が恋したって、私生活もままならないような人間のことなんて、きっと誰も興味を持ってくれないって。好きになってもらえるのは、例えばそう、日々夢に向かって頑張ってる子とか、おしゃれで可愛らしい女の子だ。私はそのどこにも当てはまらない。夢を失いつつあって、自分の身なりにも気を遣えていない、見窄らしい女だ。誰かの目に留まることなんて、これから先きっとない。
 少しだけ冷静になった心で、すっと息を吸う。
 窓から見える景色が、地上に立っている時とほとんど変わらなくなった。もう、観覧車から降りなくちゃいけない。

「もうちょっと、乗っていたかったな」

 呟いた言葉に、梨斗は何も返事を返してくれることはない。
 淡々と扉を開けて、私に手を差し出す。

「さあ、現実へ帰ろう」

 差し出された手をそっと握ると、やっぱり温かくて。彼は幽霊でも、幽体離脱した魂でもなんでもないのだ、と当たり前のことに気づかされた。

「また明日ね」

「うん、また明日」

 “明日”がこれから先も永遠に続いていく保証なんてどこにもないのに、梨斗から微笑みかけられると、何か大きなもので全身を包み込まれるような安心感を覚えた。
 彼と会えるなら、明日に希望を持って生きられるかもしれない。
 自分を見失いかけて、私という存在が透明になっていく日々の中で、たった一人、彼だけは私を見てくれている。私に会うためにこの場所にまた来てくれる。そんな気がして、心が温もる思いがした。
 
 それからの毎日は、暗闇のトンネルの中に光が差したみたいに、少しずつ煌めきだした。 
 一日が終わる時間に、祖母が寝ているのを確認して、そっと家を抜け出す。母はその時間、二つ目の仕事に行っているか、疲れ果てて眠っていることがほとんどだ。誰にも気づかれずに外へ出かけることができた。

「やあ、日彩」

「こんばんは」 

 彼は、私を見つけると決まって「やあ」と声をかけてくれる。ひょうきんな彼の挨拶に、いつも心をくすぐられた。観覧車に乗ると、街並みはどんどん小さくなって、私たちを現実から遠ざけてくれる。この非日常の時間が、私にとってはとても居心地が良かった。

「聞いて、梨斗。今日は学校で居眠りせずに済んだよ」

「へえ〜すごいね! えらい、えらい」

「その言い方、なんか馬鹿にしてない?」

「してないよ、まったく。日彩は頑張り屋さんだから、無理してないかいつも心配だし」

「オカンですか」

「オカンより心配性かも」

 梨斗はいつも、私のしょうもない話に笑顔で相槌を打ち、小さなことで褒めてくれる。居眠りをしないなんてあまりにも当たり前すぎることなのに。「偉い」と褒められて、途端に嬉しくなってしまう自分がいる。素直にありがとうと言えばいいのに、客観的に見た自分はなんだか小さな子供みたいで、照れ隠しをするのも何度目だろう。

「梨斗は普段何してるの?」

「僕? 僕はいつも妄想してる」

「妄想っ? 何考えてるのっ」

「最新のゲーム機をゲットしたらどのゲームがしたいかとか、テストで満点取ったらどうなるんだろうとか、可愛い女の子と付き合いたいな、とか」

「……なにそれ、下品」

 最後の一つの「妄想」に関して、思わず口から直球の感想が漏れる。

「下品とは失敬な。これぐらい普通だって。僕だって十七歳の健全な少年だよ」

「そっかー健全な男子高校生かっ! うちの学校ではどうも見ないみたいだけど」

「はは、僕ってレアキャラだから。そんなに簡単には見つからないのさ」

 くるくる、ころころ、ピエロが踊るように頬を緩ませる梨斗。あまりにもくだらなすぎる会話なのに、彼と話しているだけで心が軽くなる。家でのことも、学校でのことも、ここでは思い出さなくて済む。私と梨斗だけが切り取られた唯一無二の世界。

「ねえ、日彩は学校のクラスでどんな感じなの?」

「学校? うーん、あんまり話したくないな」

「ド陰キャすぎて人との関わりは皆無。先生から当てられた時以外ほとんど口を開かない——って感じ?」

「うう……なにその推論。ド陰キャで悪かったね……」

 梨斗に言い当てられて、ぐうの音も出ない。
 私だって、本当は仲の良い友達と昼休みや放課後に楽しくおしゃべりしたり、恋愛話に花を咲かせたり、テストを頑張って一目置かれてみたり、高校生活を謳歌したい。好きで友達との約束を反故にしているわけじゃないし、居眠りや遅刻、欠席だって本当はしたくないんだ。
 それなのに、何もそんなストレートに言わなくても……。
 こちらの心の声が聞こえたのか、梨斗は「ごめんごめん」とすぐに謝った。

「馬鹿にしてるわけじゃないんだ。むしろ、さっきも言った通り心配してる。日彩が、どうしたらもっと楽しい顔してくれるかなって考えてて」

「楽しい顔? 私、梨斗と会ってる時、つまんなそうな顔してる?」

「いや、そんなことないよ。日常生活で疲れてそうな割には楽しそう。でも、話を聞く限り学校ではやっぱり大変なんだろうなって感じるから」

「……」

 ようやく分かった。
 梨斗はきっと、人一倍感受性が豊かな人だ。
 口では軽い感じのテンポで受け答えをしているように感じられるけれど、今みたいに、本当は私の言葉の端々からいろんなものを感じ取っている。初めて会った時に、彼の言葉が深く胸に浸透したはずだ。
 梨斗は私のことを見てくれている。
 たった十五分だけの関係の中で、五感の全てを使って、私を知ろうとしてくれている。
 その事実が、私の胸を熱くした。

「梨斗はどうして……」

 そんなにも、優しいの?
 そう尋ねようとした。けれどこの日はそこで観覧車が地上へと着いてしまって。結局質問をするには至らなかった。

「また明日ね」

「うん。おやすみなさい」

 いつも通りの挨拶をして、彼と遊園地の前でお別れをする。
 こんなことを繰り返して、今日でまる一週間が経った。
 梨斗が何者なのか。その答えに、私はまだ辿り着けそうにない。

——きみが、自分の気持ちともっと真正面から向き合うことができたら、自ずと僕の正体も分かってくると思う。

 梨斗は以前そう言ったけれど、その言葉の意味も、十分に理解できていないんだ。

「自分の気持ちと真正面から向き合う、か……」

 一人の帰り道で、ぽつりと呟いた声は、漆黒の闇に溶けて消えていく。
 帰ったら、明日の学校の準備をしなくちゃいけないな。
 夢の世界から現実の世界へ。彼との別れの瞬間はいつも、熱くなっていた心に冷や水をかけられたみたいにしゅんと切なく、冷めていく。
 明日も彼に会えますように。
 夜空に浮かぶ星々を眺めながら、祈るようにして、思った。

 四月はあっというまに過ぎていった。
 二年生が始まった頃は、これから訪れる孤独な日々に耐えられるか不安で仕方がなかったけれど、夜に梨斗と会うようになってから、学校での時間が多少窮屈でも、なんとか乗り切ることができている。
 ゴールデンウィークは自宅に引き篭もっていた。
 みんな、友達と遊びに行ったり家族と旅行に行ったりと、楽しい連休を満喫しているようだったが、私は一年生の範囲の勉強を復習するのに時間を費やした。母は、ゴールデンウィーク中も夜のオペレーターのパートをしていた。日中の仕事は会社が休みなので入れないと嘆いていた。だから一応家には母もいたのだけれど、母は廃人のようにずっと眠っている。普段の生活でよっぽど疲れが溜まっているのだ。だから私が、いつものように家事と祖母の世話をこなす。大丈夫。これくらい、毎日やってることなんだから。連休の間、特別なことなんて何もない。学校がない分、睡眠時間だけはしっかり取れるからましだった。

 それでも勉強はやっぱり思うようには進まなかった。
 祖母が突如として私を「透くん」と呼びつける。
 排泄の世話はもちろんのこと、ちょっとしたものを取って、と言ってきたり、お腹が空いたと喚いたり。ひどい時はご飯を食べて三十分後にまた「ご飯」と言い出す。認知症患者のよくある症例の一つだ。食事をとったことを忘れてしまう。祖母の症状は、刻一刻と悪化していた。

 夜中に梨斗に会うことだけが、唯一の癒しだ。
 今日も一日頑張ったら梨斗に会える。
 最近は梨斗も少しずつパーソナリティを開示してくれるようになった。
 好きな食べ物はビーフシチュー。
 嫌いな食べ物はトマト。
 好きなテレビ番組は「お笑い! 上等」というお笑い番組。
 お笑い芸人は「ハマチ」という、何年か前にブレイクした二人組を気に入っていて、今でも追いかけている。
 ゲームは好きだけれど、今はゲーム機を持っていないのでサンタさんにお願いしたいらしい。

 彼と会うたびに、影になっていた彼の姿が浮かび上がるように、一つずつ彼のことを知っていった。彼は情報を小出しにするタイプなのか、一度にすべては語らない。一夜に一つ。彼が私に自分という人間を曝け出してくれる。十五分しか時間がないから、一つの話題だけで時間が終わってしまうのだった。
 けれど、核心的なことはまだ一つも教えてくれない。
 梨斗はどこから来て、どこへ帰っていくのか。
 どうして廃園後の遊園地に入ることができるのか。
 城北高校の制服を着ているのに、なぜうちの学校では姿が見当たらないのか。
 幽霊かどうか質問した時に「半分正解で半分不正解」と言った言葉の真意はなんなのか。
 梨斗は私のことを、どう思っているのか——。
 葉加瀬梨斗という人間の輪郭はぼやけていて、私はまだ彼を掴みきれていない。
 ただ、楽しい。優しい。彼といれば心が慰められる。その時間は、自分のためだけに時間を使っていると感じられる。そう思うのは事実だ。だからこそ、私は梨斗のことを知りたかった。
 願わくば、この先も長い時間、一緒にいたい。
 いつしか私の心は、彼と会っていない間も、彼で埋め尽くされていた。
 ゴールデンウィーク明け、学校は休み明けの気だるい空気で埋め尽くされていたけれど、一時間目が始まってみればいつもと変わらなかった。変わってない……はずなんだけど、何かが微妙に普段と違う。なんだろう。教室を見回しても、違和感を拭えない。二時間目の体育の時間や、四時間目の化学の実験室での授業の際に、ようやくピンと来ることがあった。
 美玖と恵菜が、一緒に行動していない。
 普段なら、教室移動をする時、二人は絶対に行動を共にしている。朝の時間や授業の合間の十分休みの時間も、お喋りをしていることが多い。けれど、今日は一度も二人が話をしているところを見ていなかった。
 他のクラスメイトたちは、二人が一緒にいないことなど気づいていない様子だった。
 美玖と恵菜、どうしたんだろう。
 喧嘩でもしたのかな?
 聞いてみたいけれど、二人には話しかける勇気がない。先月のあの一件以来、私は彼女たちと“友達”でいられなくなっていた。
 モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、昼休みを迎えた。
 いつもなら昼休みに、二人は机を突き合わせてお弁当を食べるはずだけど……。
 美玖たちの行動に注目する。昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴ったあと、美玖がすぐにガタッと椅子から立ち上がる。
 どこに行くんだろう? トイレかな。
 机の横にぶら下がったお弁当はそのままに、教室の外へと出ようとしていた。ちらりと恵菜の方を見やると、彼女も私と同じように美玖をじっと見つめている。恵菜が何を考えているのか分からない。二人の間にはっきりと見える壁が、教室の空気を分断しているかのように感じられた。

 私は、売店に行くふりをして財布を持って立ち上がる。
 足が勝手に動いていた、と言っても過言ではない。
 美玖の後を追って教室を後にする。恵菜は、美玖のことを追いかけるようにして出ていく私を見てどう思っただろう。恵菜が私たちを追いかけてくる気配はない。胸のざわつきを覚えながら、美玖に気づかれないように、彼女の背中を追った。
 美玖、と一言声をかければ彼女は振り返るかもしれない。
 けれど、話しかけることができない私は、気配を押し殺して彼女の後ろを歩く。美玖はどこか焦っている様子で、三階から二階へ、さらに一階へと階段を下っていく。本当に、どこに行くんだろうか。一階の職員室にでも用があるのかと思いきや、職員室の前には行かず、そのまま下駄箱へと向かう。

 下靴に履き替えて、昇降口の外をキョロキョロと見回した。私も慌てて靴を履く。彼女の後を追って校舎から出る。
 果たして辿り着いた先は、ピロティだった。
 体育館の下の、吹き抜け部分の空間だ。壁沿いに自販機が並んでいるので、飲み物を買うときは時々ここに来ることもある。けれど、用がなければほとんど立ち入らない場所だった。運動部がここでよくミーティングをしているところは目にするけれど……吹奏楽部の美玖が一人でこんなところに用があるというのは不思議だった。
 けれどそんな疑問も、すぐに解消されることになる。

「おせえよ、美玖」

「ごめん……急いで来たんだけど、ダメだった?」

「一分二十秒の遅刻。待ちくたびれたぜ」

「……」

 美玖が自販機の横に立っていた人物と会話をしている声が耳に飛び込んできた。
 男の子……?
 そこに立っていたのは、ガタイのいい男子生徒だ。私が知っている顔ではない。じっと目を凝らしてみると、ブレザーの胸ポケットのところについている校章の色が青だった。
 一年生?
 校章の色は学年ごとに分けられている。一年生が青、二年生が赤、三年生が緑。私たち二年生は赤い校章をつけているが、その男子生徒は青だった。

「まじで、俺との約束は絶対忘れんなっていつも言ってるのに」

「わ、忘れてないよ! これでもダッシュで来たんだから。一年生の教室が二階で、二年生は三階でしょ。そりゃ一年生の雄太(ゆうた)の方が早く着くよ」

「どうだか。ゴールデンウィークの休みの間に浮気でもして、俺以外の男のことでも考えてたんじゃねえのか?」

 浮気……?
 今、あの男の子——雄太という少年は確かにそう言った。
 二人は付き合っているの?
 美玖に恋人がいるなんて聞いたことはない。それも、年下の男の子だ。でも彼女と恋バナをしたのも随分前のことだ。私が知らない間に年下の恋人ができていても、不思議ではない。

「ち、違うって! 第一ゴールデンウィーク中は毎日あなたと会ってたでしょ」

「吹部の練習サボって、な」

「っ……! それは、あなたがどうしても休めって言うから」

「まさか本当に休んでくれるとは思わなかったよ」

「何を……」

 それにしても、随分と様子がおかしい。
 二人は付き合ってるんだよね……?
 その割には、彼の方が美玖に威圧的な態度を取りまくっている。年上の彼女にあんなふうに高圧的に話しかけるなんて。とてもじゃないが、好き合っているようには見えないけど……。

「お前、俺の兄貴みたいだな。おどおどして、言いたいこと何も言えないって感じ?」

「そんなこと……。兄貴って……確か梨斗くんだっけ?」

 ぴたり、と耳が重要な音を拾った。
 今、美玖はなんて……?
 確か、リト、と言ったような。

「そう。お前に名前教えたことあったっけ。あいつの話なんかほとんどしねえからな」

「珍しい名前だから、覚えてたの。この前、知り合いから『葉加瀬梨斗っていう男の子を知らないか』って聞かれて、あなたのお兄さんのこと、思い出した。でも苗字が違うし、別人だね」

 “知り合いから”というところで、少しだけ美玖の声が小さくなったような気がした。
 私たちはもう友達じゃ、ないのか。
 美玖の中で、自分が友達として認識されていないことを突きつけられて、胸がぎゅっと締め付けられた。

「……そいつ、誰? お前に梨斗のこと聞いてきたやつ」

 男の子が美玖に問う。

「クラスメイトだけど……名前教えてもあなたは知らないと思う」

「いいから教えろって」

「……深町日彩」

 美玖に名前を呼ばれて、ぴくんと身体が反応した。でもさすがに、ここで出ていくわけにもいかず、物陰からじっと二人のことを見つめる。

「なに、何かあるの? 葉加瀬梨斗って、雄太と関係ない人だよね」

「そりゃ、な。苗字違うし」

 一瞬、男の子が返事に迷っているような素ぶりを見せたのを見逃さなかった。けれど、梨斗について、彼がそれ以上何かを問うことはなかった。

「そんなことより、とにかくお前、俺との待ち合わせには遅れんなよ」

「だから、好きで遅れたわけじゃ」

「いいから口答えすんなよ。俺は、お前の彼氏なんだから。大切な彼女に一分一秒でも早く会いたいって思うのは悪いことか?」

「それは……」

 男の子の言い分に、美玖は眉根を寄せる。
 大切な彼女——か。
 とてもじゃないが、彼が美玖のことを大切に思っているようには見えない、けど。
 美玖、どうしてそんな人と付き合ってるの?

「雄太、私……あなたと——」

 逡巡しながら、美玖が何か言いかけた。けれど、男の子の方は黙って手で制止のポーズをとる。その仕草に、美玖はもう何も言えないというふうに黙り込んだ。
 結局その後、二人はピロティから校舎の方へと移動していったので、私はそれ以上彼らを追いかけることができなかった。
 あの少年と一緒にいる時の美玖は、ひどく怯えているみたいだった。
 それに、彼が話していた「リト」は、梨斗のことなんだろうか。
 苗字が違うと言っていたけれど、男の子の方は「葉加瀬梨斗」という名前を聞いて、何か知っていそうな顔をしていた。
 分からない。不可解なことが多すぎて、頭の中で整理が追いつかない……。
 もやもやとした気持ちを抱えたまま、教室に戻る。美玖はまだ教室に戻ってきていない。昼休みは残り十五分になっていた。
「ねー、美玖のこと、どう思う?」
「どうって……やっぱり、ありえないと思う」
「そうだよねー。ゴールデンウィーク中の練習サボって、男とイチャイチャしてたんだもんね」
「次期部長が欠席って言うから熱でもあるのかと思って心配したうちらの気持ちは何?」
「てか前から思ってたんだけど、美玖の考える練習メニュー、きつすぎ。土日は九時から十八時までって、どこぞのブラック企業かよっ」
「あたし、土曜にフルタイムで働いてる親より帰り遅いもん」

 教室の扉を開けると、真っ先に飛び込んできた美玖の悪口に、はっと身体が凍りついた。廊下側の後ろの方。ちょうど、恵菜が座っている席に、五人の女子が群がっていた。みんな吹奏楽部の人間だ。囲まれている恵菜の顔は正直よく見えない。けれど、周りに立っている五人は、呆れているような、怒っているような、いろんな表情を滲ませていた。

「先輩たちも、美玖が真面目っぽいから部長候補にしたんだろうけどさ、正直私は恵菜の方が良かった」
「そうそう。恵菜だったら、あんな厳しいメニュー考えなさそうだし」
「優しいから後輩たちにも人気じゃん」
「わかるう。恵菜が部長だったら、誰も反発しないよね」
「てかさ、美玖って中学の頃、ちょっとハブられてたって聞いたんだけど」
「まじ? うわー、なんか分かる。恵菜、同じ中学でしょ? 知ってた?」
「……」

 部員たちは次々と、恵菜を推していく。
 当の恵菜は返答に困っているのか、何も口を挟まない。
 あんなふうに、陰で悪口言われるんだ……。
 普段から団結力が強い吹奏楽部の子たちが、一斉に美玖の悪口を言っているのを見て、胃がキリキリと痛んだ。
 美玖の悪口、言わないでよ。
 心の中で自分がそう反発していることに、はっとした。
 私だって、美玖や恵菜から呆れられて、もう友達じゃないふうに思われているのに。
 それが悲しくて仕方がなかったのに、いざ美玖が他人から陰口を言われているところを見ると、居た堪れなくて仕方がない。
 美玖は……みんなのために、厳しい練習メニューを考えているんじゃないの?
 次期部長としての役割を果たしてもなお他人から疎ましがられる美玖が、家の中で家族のために動き回る自分と重なる。
 それに、美玖がゴールデンウィーク中に練習を休んだことをみんなは恨んでいるようだけれど、さっき、ピロティで雄太という少年と美玖が会話をしていたのを思い出す。美玖は、雄太に付き合わされて、しぶしぶ連休中に部活を休んでいたようだった。そんな事情も知らずに、みんな、美玖が全部悪いみたいに……。

「美玖が昔ハブられてた理由も分かるわ。他人に厳しくて自分に甘い人間なんでしょ」

 一人の女子の言葉に、全員が納得している様子だった。恵菜は……と彼女の表情を確かめようとするけれど、やっぱりよく見えない。否定の言葉が飛んでこないところを見ると、恵菜もみんなと同じ気持ちなのかな。
 それにしても美玖が中学の頃にハブられていたというのは初耳だ。恵菜は知っているんだろうか? これに関しても、彼女は黙りこくったままだ。
 お願い、もうやめて。
 これ以上、美玖を悪く言わないで!
 叫び出しそうになる心をなんとか落ち着かせようと、胸をぎゅっと掴んで、抑える。けれど、心臓の鼓動は、どんどん速くなるばかり。
 どうしよう、私……。
 これ以上、教室にはいられない。
 息が苦しくて、ひゅーひゅーという掠れた空気が口から漏れて出る。私の異変に気づいたクラスメイトたちが、「ちょっと、大丈夫?」と近づいてきた。その声に反応したのか、恵菜がガタン、と椅子から立ち上がる。

「日彩……?」

 親に捨てられた子猫のようなか弱い声が耳に響いた。
 最初は恵菜の声かと思ったのだが、違った。

「日彩、大丈夫っ?」

 声は教室の扉の方からこちらへとずんずん近づいてくる。
 美玖だった。
 教室の外から帰ってきた美玖が、息苦しそうにしている私を見つけて、急いで駆けつけてくれていると分かった。

「だ、大丈夫……」

 美玖が声をかけてくれたことへの戸惑いと、みんなの前で過呼吸になっていることへの羞恥が混ざり合って、咄嗟に強がってみせる。

「保健室、行った方がいいよっ。一緒に行こうか?」

 美玖の手が目の前に差し出される。驚いて、反射的に身体が揺れた。

「一人で……行くよ」

 美玖の厚意を断って、胸を抑えながら教室を後にする。ちょうどその時、昼休みが五分後に終わる予鈴が鳴った。
 おずおずと教室から出た私は、そのまま一階へと向かう。
 とにかく教室にはいられない。けれど、保健室に行くのも憚られた。
 迷った私は、一階に降りたその足で、下駄箱へと向かっていた。
 ガタン、ガタン。身一つで校舎から飛び出した私は、無意識のうちに電車に乗り込んでいた。教科書や財布は全部学校に置いたまま。ブレザーのポケットにICカードを入れていたので、電車賃はなんとかなった。
 その足で、自宅に向かうことなく、遊園地の最寄駅へと降り立つ。
 身体が勝手にそこへ向かっていた。昼間の駅はそれほど人が多くなくて、制服でいると目立つような気もしていたけれど、誰も自分に注目なんてしていなかった。

「梨斗……」

 駅から出て、ふらふらと遊園地の方へと向かう。
 彼の名前をそっと呟いてみても、もちろん彼は現れない。約束の時間は夜の十二時だもん。昼間のこの時間帯に、梨斗がいるはずがない。と、頭では分かっているものの、心が彼を求めていた。
 遊園地の前で、何をすることもなくぼうっと辺りを眺める。こんなところで、私は一体何をしているんだろう。時間があるなら家に帰って祖母の面倒でも見ればいいのに。そう思うのに、身体は遊園地の前から動かない。先生に無断で学校を飛び出したこと、明日お咎めを受けるだろうな。怒られるのは嫌なはずなのに、今すぐ学校に戻る気にもなれなかった。

「あれ……」

 ちょうどその時だ。
 遊園地の扉から、男の人が出てきたのは。

「あの人、この前の」

 以前、遊園地の中を歩いているのを見た、男の人だった。
 何を思ったのか、自分でもよく分からない。私はすぐさま彼の方へと駆け寄った。

「あの、すみませんっ!」

 思い切って声を張り上げると、男性ははっと私と目を合わせた。

「……何か用かい?」

 男の人は思ったよりも優しい声色でそう聞いた。ガタイがいいので、怖い感じの人かと思ったけれど、よく見てみれば目は垂れていて、人当たりが良さそうな顔をしている。

「あの、私、この遊園地に興味があるんですけど……おじさん、この間もここに入ってましたよね。廃園してるのに、何してるのかなって、気になって」

 知らない男の人にこうして話しかける勇気があったことに、自分自身驚く。
 おじさんはしばらく私の顔をじっと見つめた後、「もしかして」と口を開く。

「きみ、この前ここに立っていた」

「はい、そうです。人と待ち合わせをしていて」

「待ち合わせ、か。あんな時間に?」

「それは……ちょっと事情があって。おじさんこそ、あんな真夜中に何をしていたんですか?」

「私は、この遊園地の持ち主なんだ」

「え?」

「正確には、私の会社のものなんだけどね」

「へ、へえ……」

 遊園地の持ち主?
 突然出てきた「持ち主」という言葉にかなり面食らってしまう。
 じゃあ、どうして梨斗は遊園地の門の鍵なんて持っているの?
 他所様の持ち主の遊園地に、勝手に入っていたっていうこと……?
 それじゃあ、私たちの方が悪いことをしているってことじゃないか。

「去年の春、廃園したここを買い取ったんだ。それで、時々様子を見に来てる」

「そう、だったんですね。なるほど……」

 もはやそれしか言いようがない。自分の持ち物の様子を見に来ているのなら、第三者があれこれ口出しすることはできない。

「す、すみませんでしたっ!」

「え? ちょ、ちょっと待って」

 男性が引き止めるのにも構わず、恥ずかしくなった私はその場にいられなくなって、一目散にダッシュする。あれじゃ、私の方が不審者だ……! あの男性のことを、少しでも怪しいと思った自分が恥ずかしい。他人の土地に勝手に入り込んで、観覧車に乗って男の子との時間を楽しんで……。言葉にするとかなり恥ずかしくて、頭がカッと熱くなった。
 梨斗は知ってるんだろうか。
 あの遊園地が、おじさんの会社のものだってこと。
知らずに入っているのだとしたら、絶対に何かの罪に問われるはずだ。
 ドクドク、と脈拍がどんどんと速くなるのにも構わず、私は最寄駅まで走り続ける。少しでも早く、男性の元から離れなくちゃいけないと思った。
 
 家に帰り着く頃には、全身汗だくになっていた。
 五月初旬、気温は夏日のそれを超えている。
 急いで家に上がるとお風呂場でシャワーを浴びた。母はまだ一つ目の仕事から帰ってきていない。家にいたらまだ学校のあるこの時間帯に帰ってきたことを問われるだろうから、いなくてほっとした。

「透く〜ん、今日は早いんだねえ。小学校(・・・)、四時間で終わったのお?」

 部屋から顔を出した祖母がにこにこと話しかける。

「う、うん。今日は学校、短い日だったの」

「そっか、そっかあ」

 祖母は夏日だというのに、例のカーディガンをずっと羽織っている。夏場も着ているから、見ているこちらが暑くなる。いい加減、時期も時期なんだからカーディガンなんてやめたらいいのに。
 祖母の機嫌がいいのは、私の心をいくらか軽くした。日によっては、家に帰った瞬間大声を出して泣き喚く時もある。服が脱げない、お腹が空いた、トイレに行きたい、など泣く理由は様々だ。帰宅して一番に喚かれると、一日の疲れが一層膨らんでいくから、機嫌が良いのは良いことだった。
 今から学校に戻る気はもちろんないので、部屋で家に置いてある問題集を広げて今日の復習をした。一年生の内容から理解が遅れているので、今日の授業の復習をするのに二時間以上もかかってしまった。けれど、久しぶりに腰を据えて勉強ができたのは良かった。

「学校を早退しないと時間をつくれないなんて、馬鹿みたい」

 ふと考えたことを一人呟く。
 こうして無断で学校を飛び出してきて、家に帰ってようやく勉強する時間ができるなんて、皮肉すぎて笑ってしまう。
 それに、今は祖母の機嫌が良いから、たまたま時間が取れただけだ。たとえば明日、同じように早退したとしても、今日みたいに勉強時間が取れるかどうかは分からない。行き当たりばったりな毎日を送っている自分に、嫌気がさしてきた。
 勉強はほどほどに切り上げて、ベッドに寝転がる。
 身体の疲れが溜まっているのはもちろんだったけれど、今日は学校でいろんなことが起こったせいで、気持ちがずっとざわついていた。少しでも気分を鎮めようと、頭を休める時間が必要だった。

「美玖、大丈夫だったかな……」

 私が教室を飛び出した後、美玖は恵菜と、恵菜の周りを囲んでいる吹奏楽部員たちを見てどう思っただろうか。私だったら、普段自分と仲良くしている友達が別の友達と集団になっているところを見て、いい気はしない。それに、勘のいい美玖のことだから、自分の悪口を言われていたことにも気づいているだろう。
 私だったら、耐えられないな……。
 私には、美玖のことを心配する資格はないのに。美玖が、ピロティで雄太という少年と話していた時の怯えた様子を思い出すと、どうしても気になってしまう。

 あんなの、彼氏彼女の関係じゃないよっ……。
 美玖が一方的に雄太に圧をかけられて、まるで脅されているような。
 雄太に無理やり連休を付き合わされて、それで仲間からひどいことを言われるのは、あまりにも美玖が可哀想だ。
 美玖はただ、部員みんなのために、厳しい練習メニューを考えていただけなのに。
 他人のために動いて空回りしている彼女が、家族のために身を窶している自分と重なる。
 美玖も、私と同じなのかもしれない。
 自分の人生を生きているはずなのに、いつしか他者から求められる仕事をこなして、いっぱいいっぱいになっている。求められるままに動いて、自分を見失っている。

 美玖とほとんど会話をしなくなっていたから、気づかなかった。
 もしかしたら恵菜だって、同じように私の知らないところで抱えているものがあるのかもしれない。
 悶々と考えていると、身体がベッドに沈んでいく感覚に陥った。ああ、まただ。いつも横になると、すぐに眠ってしまう癖がある。こんな時間から眠りこけている暇はない。
 なんとか身体を起こして、祖母の居間へと向かう。祖母がソファの上で寝転んでいるのを発見した。

「ソファで寝るのは危ないっていつも言ってるのに」

 以前、ソファの上で眠っている祖母が転げ落ちて大惨事になったことがある。その時は打撲で済んだけれど、骨折する可能性だってある。祖母の身体を抱えて、無理やり床へと下ろす。この作業だけで本当に身体が疲れてしまう。

 その後、夕飯の準備をして、お風呂掃除も済ませる。部屋に掃除機をかけて、溜まっていた可燃ゴミをまとめておいた。ゴミ出しは朝だけれど、最近は夜中に出かける際に先に出すようにしている。家事はどれだけ効率よく進められるかが勝負だ。祖母が眠っている時間が、一番捗る。なんだか子育て中のママのような生活をしている気がして、ため息が漏れた。
 午後八時ごろ、祖母が起き出してきて一緒に夕飯を食べた。

「透くん、今日も美味しいねえ」

「うん、お母さんのために頑張って作ったから」

「ありがとうね」

 にこにこ笑いながら“透くん”の作った鶏の唐揚げと、豆腐の味噌汁、ほうれん草のおひたしに箸を伸ばす。今この瞬間に、深町日彩はこの家にいない。自分でない誰かを演じるのにもすっかり慣れてしまった。

「ごちそうさま」

 早々に食事を切り替えて、残っていた家事を済ませた。