それからの毎日は、暗闇のトンネルの中に光が差したみたいに、少しずつ煌めきだした。 
 一日が終わる時間に、祖母が寝ているのを確認して、そっと家を抜け出す。母はその時間、二つ目の仕事に行っているか、疲れ果てて眠っていることがほとんどだ。誰にも気づかれずに外へ出かけることができた。

「やあ、日彩」

「こんばんは」 

 彼は、私を見つけると決まって「やあ」と声をかけてくれる。ひょうきんな彼の挨拶に、いつも心をくすぐられた。観覧車に乗ると、街並みはどんどん小さくなって、私たちを現実から遠ざけてくれる。この非日常の時間が、私にとってはとても居心地が良かった。

「聞いて、梨斗。今日は学校で居眠りせずに済んだよ」

「へえ〜すごいね! えらい、えらい」

「その言い方、なんか馬鹿にしてない?」

「してないよ、まったく。日彩は頑張り屋さんだから、無理してないかいつも心配だし」

「オカンですか」

「オカンより心配性かも」

 梨斗はいつも、私のしょうもない話に笑顔で相槌を打ち、小さなことで褒めてくれる。居眠りをしないなんてあまりにも当たり前すぎることなのに。「偉い」と褒められて、途端に嬉しくなってしまう自分がいる。素直にありがとうと言えばいいのに、客観的に見た自分はなんだか小さな子供みたいで、照れ隠しをするのも何度目だろう。

「梨斗は普段何してるの?」

「僕? 僕はいつも妄想してる」

「妄想っ? 何考えてるのっ」

「最新のゲーム機をゲットしたらどのゲームがしたいかとか、テストで満点取ったらどうなるんだろうとか、可愛い女の子と付き合いたいな、とか」

「……なにそれ、下品」

 最後の一つの「妄想」に関して、思わず口から直球の感想が漏れる。

「下品とは失敬な。これぐらい普通だって。僕だって十七歳の健全な少年だよ」

「そっかー健全な男子高校生かっ! うちの学校ではどうも見ないみたいだけど」

「はは、僕ってレアキャラだから。そんなに簡単には見つからないのさ」

 くるくる、ころころ、ピエロが踊るように頬を緩ませる梨斗。あまりにもくだらなすぎる会話なのに、彼と話しているだけで心が軽くなる。家でのことも、学校でのことも、ここでは思い出さなくて済む。私と梨斗だけが切り取られた唯一無二の世界。

「ねえ、日彩は学校のクラスでどんな感じなの?」

「学校? うーん、あんまり話したくないな」

「ド陰キャすぎて人との関わりは皆無。先生から当てられた時以外ほとんど口を開かない——って感じ?」

「うう……なにその推論。ド陰キャで悪かったね……」

 梨斗に言い当てられて、ぐうの音も出ない。
 私だって、本当は仲の良い友達と昼休みや放課後に楽しくおしゃべりしたり、恋愛話に花を咲かせたり、テストを頑張って一目置かれてみたり、高校生活を謳歌したい。好きで友達との約束を反故にしているわけじゃないし、居眠りや遅刻、欠席だって本当はしたくないんだ。
 それなのに、何もそんなストレートに言わなくても……。
 こちらの心の声が聞こえたのか、梨斗は「ごめんごめん」とすぐに謝った。

「馬鹿にしてるわけじゃないんだ。むしろ、さっきも言った通り心配してる。日彩が、どうしたらもっと楽しい顔してくれるかなって考えてて」

「楽しい顔? 私、梨斗と会ってる時、つまんなそうな顔してる?」

「いや、そんなことないよ。日常生活で疲れてそうな割には楽しそう。でも、話を聞く限り学校ではやっぱり大変なんだろうなって感じるから」

「……」

 ようやく分かった。
 梨斗はきっと、人一倍感受性が豊かな人だ。
 口では軽い感じのテンポで受け答えをしているように感じられるけれど、今みたいに、本当は私の言葉の端々からいろんなものを感じ取っている。初めて会った時に、彼の言葉が深く胸に浸透したはずだ。
 梨斗は私のことを見てくれている。
 たった十五分だけの関係の中で、五感の全てを使って、私を知ろうとしてくれている。
 その事実が、私の胸を熱くした。

「梨斗はどうして……」

 そんなにも、優しいの?
 そう尋ねようとした。けれどこの日はそこで観覧車が地上へと着いてしまって。結局質問をするには至らなかった。

「また明日ね」

「うん。おやすみなさい」

 いつも通りの挨拶をして、彼と遊園地の前でお別れをする。
 こんなことを繰り返して、今日でまる一週間が経った。
 梨斗が何者なのか。その答えに、私はまだ辿り着けそうにない。

——きみが、自分の気持ちともっと真正面から向き合うことができたら、自ずと僕の正体も分かってくると思う。

 梨斗は以前そう言ったけれど、その言葉の意味も、十分に理解できていないんだ。

「自分の気持ちと真正面から向き合う、か……」

 一人の帰り道で、ぽつりと呟いた声は、漆黒の闇に溶けて消えていく。
 帰ったら、明日の学校の準備をしなくちゃいけないな。
 夢の世界から現実の世界へ。彼との別れの瞬間はいつも、熱くなっていた心に冷や水をかけられたみたいにしゅんと切なく、冷めていく。
 明日も彼に会えますように。
 夜空に浮かぶ星々を眺めながら、祈るようにして、思った。