「終電を逃したから泊めてくれない?」
私の日常は、あの日、彼の——葉加瀬梨斗の一言で大きく色を変え、形を変えた。
夜の十一時、閉店したスーパーの前で、紺青色の空の下、大きく息を吸って、止める。ずっと、うまく呼吸ができない。頭の中をぐわらんぐわらんと鳴り響く耳鳴りのような音が、本当の私を身体の外へ締め出していく。だから、彼が放ったその一言も、最初は自分に向けられたものだと気づかなかった。
「ねえ、聞こえてる?」
耳元で囁かれて身体がびくんと跳ねた。
「え、わ、私ですか?」
「うん、きみしかいないよ。こんな夜更けにスーパーの買い物袋下げて、思い詰めた顔してる高校生」
「……高校生ってなんで分かるんですか?」
「だってきみ、制服着てるじゃん」
そう言われてはたと気づく。自分が制服のまま家を出てしまったことに。まだお風呂にも入れていなくて、髪の毛はボサボサ。制服から私服に着替えるのも忘れてたなんて、我ながらひどい。
「あなたも、高校生なんですか?」
私は、隣で声をかけ続ける彼に、ようやく視線を合わせる。
黒髪のさらさらとした長めの髪の毛が夜風に揺れる。優しい垂れ目をした少年がそこに立っていた。背丈は一七五センチくらいだろうか。こんな時間にも関わらず、私と同じ制服に身を包んでいる。警察に見つかったら補導されかねない身なりだ。と、他人のことは言えないけれど。
「うん、高校生。あと一時間後に十七歳になる」
「えっ、一時間後? 四月十日生まれってこと?」
今日は四月九日で、あと一時間で日付が変わる。彼は「そう」と真顔で頷いた。
「誕生日が早いから、これまで同級生にはほとんど気づいてもらえない人生を歩んできたんだ。だから今年は、きみという同年代の子に祝えてもらえそうで嬉しいよ」
まだお祝いするとも言っていないのに、にひひと笑顔を浮かべる彼はどこか楽しそうだ。十七歳。私と同じ、高校二年生だ。私は十月生まれだからまだ十六歳だが、こんなところでこんな時間に同級生に会うなんて、思ってもみなかった。
それに……と、彼の制服を見て気づく。
同じ学校の生徒だ。私の通う、城北高校の男子のブレザーが夜の闇に溶けている。胸ポケットの部分に、学年別に色分けされた校章が付いているはずなのだが、外しているらしかった。ひと学年で五百人近くいるマンモス校なので、同級生だとしても顔も名前も知らないということはよくある。私は彼のことを、学校では見たことがなかった。
「あの、えっと……。とりあえず、お誕生日おめでとうございます。私も高校二年生だから、同級生です」
「そうなんだ、嬉しいな。ありがとう」
彼は、満更でもない様子で微笑む。
「それで、さっき言ってた『泊めてくれないか』っていうのは、どういうことでしょうか」
話しかけられてからずっと気になっていたことを聞いた。
初対面で、しかもこんな夜更けにスーパーの前で、いきなり「泊めてくれない?」はかなり怪しい声の掛け方だ。新手のナンパにしてもタチが悪い。しかも相手は高校生だし。あまりに不純じゃない?
「はは、言葉通りの意味だよ」
「笑い事じゃないです。泊められるわけないじゃないですか」
「そうかあ。それは、残念」
残念、と言いながら、やっぱりちょっとばかり楽しそうで、私は複雑な気分にさせられる。
早く家に帰りたい。いや、帰らなきゃいけないんだけど……。でも、どうしてかすぐに「さようなら」と彼の前から去ろうという気にもなれない。本当に、どうしてだろう。自分の中でむくむくと湧き上がる不思議な感覚には名前が付けられそうにない。
「それならさ、ちょっとだけ付き合ってくれない?」
「付き合うって……?」
「それは、行ってからのお楽しみ。こんな時間に出会ったのも何かの縁でしょ。それに、偶然同級生だって分かったんだし、嬉しくてさ。慈善事業だと思って、ね? 誕生日プレゼントを僕にくれないかな」
私がこの人に誕生日プレゼントとしてこれから付き合う義理なんてまったくないはずなのに、すぐに否定しない自分に、自分自身驚いた。
「まあ、いい、けど」
返事をしてようやく気づく。
私、帰りたくないんだ。
家に帰りたくない。帰りたかったらとっくに目の前の彼とさよならしている。それをしないということは、心が遠くへ行ってしまいたいと願っている証拠だった。
「おお、ありがとう。ここからちょっとかかるけど、いい?」
「うん、大丈夫。警察に補導されないようにだけ気をつけなきゃ」
「確かにそうだね。でも多分大丈夫。僕って幽霊みたいに存在を消すのが得意なんだ」
「なにそれ。変なの」
流石に彼の言っていることがおかしくてくすくすと笑い声を上げてしまう。いつの間にか、初対面の彼の話に乗せられていた。
「それじゃ、行こうか」
彼が青信号になった横断歩道へと一歩踏み出す。私は、買ったばかりの食材を抱えて、なんとも奇妙な“付き合い”の旅に出た。
しばらく歩いて、自分たちが駅の方へと向かっていることに気づく。
「あれ、さっき終電逃したって言ってなかったっけ?」
いつのまにか敬語が取れてタメ口になっていることに、私は自分で気づかない。
「うん。地下鉄のほうね。今から乗るのはJR」
「なるほど」
短い問いの後、一呼吸おいて再び尋ねる。
「そういえば、名前なんていうの?」
「名乗ってなかったね。僕は葉加瀬梨斗。きみは?」
「私は、深町日彩です」
「日彩さん。綺麗な名前だね」
出会ったばかりの彼の声は透き通るように澄んでいて、私の心にすっと溶けていく。
深く沈んでいく青の下で、初対面の私たちは夜の端っこへと歩いていく。
電車に揺られて約二十分。たどり着いた場所は昔訪れたことのある遊園地だった。けれど確か、今は廃園していて中へは入れないはず。ぼんやりと考えていると、隣でひょいっと梨斗が制服のズボンのポケットから鍵を取り出した。
「これで中に入れるよ」
どういうわけか、門の鍵を持っていた彼に呆気に取られながら、私は遊園地の中へと足を踏み入れた。
廃園している夜の遊園地は、物寂しさ全開だった。色とりどりの乗り物はいまだに朽ちることなくずっしりと園内に佇んでいる。すぐにでも動かせそうなほど、まだまだ綺麗だった。
「こっちこっち」
メリーゴーランドやコーヒーカップ、ジェットコースター、お化け屋敷なんかを素通りして、梨斗はずんずんと園内を進んだ。広い園内で、彼の足取りは妙に軽く、ついていくのに必死になる。冷静に考えて、こんなふうに廃園後の遊園地に忍び込んで、初対面の男の子と一体何をしているんだろう。どこか夢心地な気分で歩いた。
「ここだよ」
彼の足がぴたりと止まる。
目の前には大きな観覧車。
昔、何度も乗ったことのあるそれは、県内で一番大きな観覧車と言われていた。
梨斗は、観覧車の前にある「管理室」と書かれた小さな部屋で機械を何やら操作する。しばらくすると、パッと観覧車が煌めきを放つ。それから、ゆっくりとゴンドラが回り出した。
「え、動くの?」
「そう、動くんだ」
にこにことした顔で頷く梨斗と、呆気に取られる私。
「さあ、上がって」
「で、でも……いいの? てか勝手に動かして、怒られない?」
「大丈夫、大丈夫」
何がどう大丈夫なのか分からないけれど、梨斗は観覧車の乗り込み口までひょいっと登って、私に手を差し出す。
「十五分で終わるから。ここで、ゆっくり話そう」
「十五分……」
それだけなら、いいか。
梨斗に言われるがまま、私は彼と一緒に観覧車に乗り込んだ。
もうどうにでもなれ、という感じ。大人に見つかったら大目玉を喰らうだろう。心臓の音はドキドキと激しく鳴っている。けれど、今この状況を心のどこかで楽しんでいる自分がいた。
観覧車は回り始める。
真夜中にスーパーの前で初めて出会った少年と、ひっそりと息をする私を乗せて。
時は、十二時間前まで遡る。
四月九日、水曜日。
城北高校の二年生になって、今日は三日目の登校日。二年一組の教室は、クラス替えしたてのほやほやとした新鮮な空気が漂っている。一年生の時からクラスが一緒の友達もいるけれど、大抵は新しく知り合う人たちばかりだ。なんてったって、城北高校には一学年五百人近くの生徒がいる。初めまして、を何度繰り返しても、全員と知り合うのは不可能なのだ。
新しいクラスで、クラスメイトたちは一年生の時からの友達とつるんだり、新しい友達を早速つくって談笑したり、新たな学年の幕開けをそれなりに楽しんでいる様子だった。そんな中、私は一人、出席番号順に並んだ一番後ろの席でそっと周囲の様子を窺うので精一杯。昼休みも、自分の席について、購買で買ってきたパンを咀嚼する。クラスの大半の人はお弁当を持ってくるか、学食でお昼を食べるかのどちらかだが、私は一年生の時から購買で食事を買うのが常だった。
時間がない。
気力がない。
お弁当を作るために必要なこの二つの条件が、私には欠けていた。
母親と祖母と私の三人暮らしの我が家では、母親が昼も夜も働き詰めで、家事という家事は私がすべて担っている。家族のために働くので精一杯で、自分のためにお弁当を作るなんてとてもじゃないが考えられなかった。
それに、祖母は——。
「ひーいーろっ」
コッペパンを齧りながらついいつもの癖で生活について考えていると、机の前にひょっこりと姿を現す人物が二人いた。
「み、美玖、恵菜」
苗代美玖と、石原恵菜。二人とも中学の頃から一緒で、同じ吹奏楽部だった仲間だ。私がクラリネットで、美玖がトランペット、恵菜はフルート担当。二人は高校でも吹奏楽部に所属していて、美玖は来年の部長候補らしい。が、私は帰宅部。一年生の時に一緒に吹奏楽部に入ろうと誘ってくれたけれど、私は二人の誘いを断ったんだ。
だってきっと、放課後に時間なんて取れないと分かっていたから……。
本当は吹奏楽部に入りたい気持ちを抑えて、彼女たちの誘いを断った時、私と二人の間にはくっきりとした溝が生じた。二人の世界と私の世界に線引きがされて、私は二人の世界へもう行くことができない。寂しいし、辛い。けれど、仕方ない。放課後に私が部活なんてしていたら、我が家は回らなくなってしまう。必死に本音を飲み込んで、私は一人、こちら側の世界でひっそりと生きることを選んだ。
「日彩、大丈夫? なんか顔色悪いよ?」
「本当だ。お腹でも痛い?」
美玖と恵菜が心配そうに私の顔を覗き込む。吹奏楽部に入るのを断ってからも、二人はいまだにこうして私と仲良くしようとしてくれている。それはありがたくもあり、苦しくもあった。
「だ、大丈夫。考え事してただけだからっ」
「そっかー。なんか思い詰めてる感じだったから、身体でも悪いのかなって」
美玖の鋭い洞察に、私の心臓はズンと軋む。
「心配かけてごめん。本当になんでもないの」
「分かった。それでさ、今日の放課後のことなんだけど、この前話してた通り、行けそう?」
「今日の放課後……」
美玖に言われて、はたと思考を巡らせる。
えっと……何か、約束していたっけ。
思い出せない。最近、頭がぼうっとしていて上手く回らないことが増えた。睡眠不足も相まって、記憶力が落ちている気がする。
私が答えられずにいると、恵菜が「忘れたの?」と少し尖った声で訊いてきた。彼女は基本的におっとりとしていてマイペースだが、苛立ちが滲むと途端に声色が変わる。だから今の恵菜はちょっと怖い。
「駅前にできた新しいカフェ、三人で行こうって約束したでしょ? 今日、たまたま私たち部活が休みだから、久しぶりにみんなでどうかなって誘ったはずなんだけど」
恵菜がキリキリとした口調で今日のことを教えてくれる。
そうだ、そうだった。確か先月、春休みに入る前に二人が私に連絡をくれたんだ。その時、先の予定だったので特に用事もなく、「いいよ」と返事をしたのを思い出す。基本的に放課後も土日も部活で忙しい二人と遊びに行けるのは珍しく、絶対に時間をつくろうと決意したはずだ。特に城北高校の吹奏楽部は、春からもう二年生が主体となって練習メニューを組むのだと教えてくれた。だから二人とも、今ちょうど代替わりで忙しくなっている時期だろう。
なのに、それなのに……。
現状、私は今日という日を無防備に迎えてしまっていた。
昨日約束のことを思い出していたら、今日の分の家事やスーパーへの買い出しを事前に済ませておけたのに。なんという失態だ。二人に申し訳なくて、言い訳すら思い浮かばない。何も言葉を発しない私を見て、二人は何かを察したのか、「はあ」と大きなため息を吐いた。
「なんか、忘れられてそうだな〜って思ってたんだ。恵菜ともさっき、話してたところ。もしかしたら日彩が約束忘れてるかもしれないから、聞きに行こうって」
「……ごめん」
これに関してはもう、平謝りするしかない。
友達が貴重な部活休みの放課後を自分との遊びに使ってくれるというのに、部活動をしていない自分が、約束を忘れてしまうなんて。
我ながらひどい人間だと思う。どうして忘れてたんだろう。私のばか……。
「で、今日どうする? もし日彩さえ良ければ話してた通り一緒にカフェに行きたいんだけど」
美玖も恵菜も、私を責めたいわけじゃないということは分かっていた。けれど、言葉の端々に滲み出る苛立ちをつい察知してしまう。二人と友達でいたいのに。こんなふうに互いの顔色を窺って駆け引きみたいなことをするのは本望じゃないのに。
「ごめん、ちょっと今日は行けそうにない……かも」
「やっぱりそうだよね」
予想していたと言わんばかりに、落胆してみせる美玖。恵菜はもう端から期待していないのか、黙りこくっていた。
「本当にごめん。誘いを受けた時は、いろいろ段取り組んだはずなんだけど、つい……」
忘れてて、という言葉をはっと呑み込んだ。
自分たちとの約束を忘れたなんてはっきりと言われて、いい気はしないだろう。
今日の約束を二人とした時、確か母にも相談した。私が珍しく放課後に友達と遊びたいと言ったら、母は「じゃあその日は仕事を休むわ」と言ってくれたことを思い出す。だが、今日になって母も忘れていたんだろう。忙殺される日々の中で、職場の人間に休むことを伝え忘れていたのかもしれない。どちらにせよ、美玖と恵菜を傷つけてしまったことには変わりない。
「もういいよ。忘れてたなら仕方ないって。今日は無理なんだよね。また吹部が休みの時があれば、誘うから」
「うん、またの機会にね」
「……ありがとう」
口では優しい言葉をかけてくれているが、二人が内心私に対して呆れていることは火を見るよりも明らかだ。
去っていく二人の背中を眺めながら、齧りかけのコッペパンを再び口に入れる。高校生になってから、もう何度食べたか分からないぐらい、何度も口にした味。特別に甘かったり味が付いていたりすることはない。購買で一番安く手に入るパン。昨日も、一昨日も食べた。もう飽き飽きしているのに、どうしてか今日は普段よりもしょっぱく感じられた。
「ただいまー」
六時間目までの授業が終わり、クラスメイトたちが各々部活へと向かっていく中、私はまっすぐに帰宅した。城北高校から電車に揺られること三十分。近くもなく、遠くもない地域に住む私は、おんぼろの戸建ての家の扉を開けた。
「……」
部屋の奥から返事はない。引き戸をガラガラと閉めて玄関を確認する。使い古した平たい靴はちゃんとそこにあった。だったらちゃんと家にいるはず。ただそれだけのことに、安堵のため息を漏らす。
「おばあちゃん、ただいま」
居間を抜けて座敷へと続く襖を開けると、祖母は縁側でじーっと地面を見つめていた。何をしているんだろう、と後ろから覗き込むと、シロアリの行列が歩いていて、思わず「ひっ」と悲鳴を上げる。
この前退治したばかりなのにどうして、また。
苦手な虫退治をするのにはものすごい気力と労力がいる。仕事で忙しい母にはそんなことをしている余裕がなく、この手の問題を解決するのはいつも私の役目だった。
「おばあちゃん、ねえ、何してるの」
シロアリを見てしまったことで、つい苛立ちが声に滲む。祖母はそこでようやく私に気づいたのか、はたと後ろを振り返った。
「あらあ、おかえりぃ」
間延びした声で私を迎える祖母。自分の心とは対照的な呑気なその物言いに、焦燥感が募る。
いや、落ち着け。まだ祖母と顔を合わせて一分も経ってない。いちいち気にしたらダメ。
「ただいま。こんなところにずっといたら風邪引くよ」
四月とはいえ、夕方のこの時間は肌寒い。見れば祖母は薄手のカーディガンを着ているだけで、かなり無防備な格好をしている。
このカーディガン、真冬もずっと着てたな……。
私や母が厚手のカーディガンに変えようよ、と提案しても頑なに拒み続けた。袖や襟ぐりが伸び切った薄いカーディガンを、よくもまあずっと着ていられるものだ。おかげで、祖母のために買った分厚いカーディガンは私が着る羽目になった。ばば臭さ全開のカーディガンを人前で着るのは恥ずかしいから、家の中で部屋着として使っている。
「シロアリ、またこんなに増えててすごいなあって思って。この生命力、おばあちゃんも見習わないとねえ」
「なに呑気なこと言ってるの。いいから早く中に入って、窓閉めて」
湧いてきたシロアリを見て生命力に感動する人間がどこにいるだろうか。
人の苦労も知らないで……。
生命力なんて、それ以上なくていいよっ。
ふと、自分が心の中で酷い台詞を呟いたのに気づいてはっとする。
私、今何を考えたんだろう。
シロアリの除去に腐心しているからと言って、祖母の何気ない言葉にいちいちカッカするのは良くない。祖母はきっと、訳も分からず思ったことをぽんっとそのまま口にしているだけだ。深く考えすぎるな。
なんとか自制心を保ちながら、祖母を縁側から部屋へと引きずる。窓を閉めると、シロアリが部屋の中へ侵入していないかと確認した。
たぶん、大丈夫なはず……。
前回は部屋の中までシロアリの行列ができていたから、あの時のことを思えばまだ被害は少ない。
今日中にでも業者に除去を頼むかあ。
お金がかかるから、本当は自分で退治したいところだけれど、あいにく時間も労力も残ってないし。二度も三度もあの気持ち悪い生き物と向き合いたくない。
今度はのほほんと畳のいぐさを撫でる祖母を置いて、自室へと入る。財布を取り出してお小遣いを確認した。
「ギリギリ足りるかな……」
何が楽しくて、自宅のシロアリ除去にお小遣いを使わなくちゃいけないんだろう。本当なら今日、このお金は美玖たちとカフェで美味しいものを食べるのに使っていたのに。
後悔しても遅い。すべては自分の不注意が招いた結果だ。
でも……だけど。
そもそも家のことに追われていなければ、約束だって忘れなかったはず。
そう思うと、私や母を働くだけ働かせておいて、自分ではなーんにもできない祖母のことを恨めしく思った。
こんなふうに思う自分が嫌になる。
祖母のこと、嫌いなわけじゃないのに。
むしろ、好きだ。
私はおばあちゃんのことが好き。
好きだからこそ、どうにもならなくて苦しくなることがある。
祖母のことを考えていると胸がじんじんと熱を帯びたように痛くなる。
感傷的になっている場合じゃない。夕飯の準備を、しなくちゃ。
台所へと行き、冷蔵庫の扉を開ける。中はほとんど空っぽで、今日スーパーへ買い出しに行かなくちゃいけないことに気づいた。けれど、祖母はここのところ夜寝る時間がまちまちだ。私が買い物に行っている間に寝てしまうかもしれない。そうなる前に夕飯だけは食べさせておかなくちゃいけない。
ひとまず、今ある食材で適当にご飯を作ろう。買い出しは後回し。今日の夕飯ぐらいは作れる材料は揃っている。簡単なものしかできないけど、十分だろう。
頭の中で段取りを組みつつ、冷蔵庫の中からなけなしの食材を取り出した。お米をセットして炊いている間に具材を切る。どこからか祖母の鼻歌が聞こえてきた。いつの時代の歌かも分からない演歌調の曲だ。祖母のお気に入りなんだろう。何度も鼻歌で聞いたことがあるのに、曲名は知らない。祖母に尋ねる気にもならなかった。
「おばあちゃーん、ご飯できたよー」
夕方六時ごろ、出来上がったチャーハンをお皿に盛って、祖母を居間に呼んだ。うたた寝をしていたのか、先ほどよりも髪の毛がぼさっとしている。
本当、自由気ままでいいなあ……。
「美味しそうな匂いだね」と、ほのぼのとした口調で言いながら私の目の前の椅子に座る。子供みたいにきちんと両手で「いただきます」と手を合わせてから、チャーハンを咀嚼する祖母。抜けている歯があるので、もごもごと口を動かす。そのなんともいえない口の動きをじっと見ていると、皮肉にも無心になれた。
「やっぱり上手ねえ、透くんの作ったご飯、お母さん、すごく好きなんだあ」
「……っ!」
私の方を見ながら——しかし焦点は合わないまま、「透くん」と今は亡き父の名前を口にする祖母。父は祖母——深町たえの息子だ。私の家は、母と、父の母親である祖母の三人暮らし。母にとっては父がいない今でも姑である祖母と一緒に暮らしていることになる。口には滅多に出さないが、母がそれ相応のストレスを抱えていることは知っていた。
「透くん、また明日もご飯作ってね。お母さん、楽しみにしてるから」
にこにこと人当たりの良い笑顔を浮かべて、やっぱり食べづらそうに口を動かしている。
祖母は認知症だ。
発覚したのは今から四年前、私が中学生になった頃。でもその頃はまだ、時々物忘れをしている程度の症状で、今ほどひどくはなかった。身の回りのことは普通に自分でやれていたし、今みたいに私を父と間違えることもなかった。認知症だと診断されて、悩んでいた祖母の苦悶の表情を思い出す。症状が進行した今ではもう、その時みたいに苦渋に満ちた顔つきになることもない。むしろ、今みたいににこにこと笑っていることが増えた。物事への関心が薄くなったのが原因だろう。
私のことを父と間違うようになったのは、つい一ヶ月前のこと。それまでもちょこちょこ私に「透くん」と話しかけることはあったが、一時的なものだった。すぐに「日彩ちゃんだったわねえ。ごめんねえ」と私のことを思い出して謝ってくれていた。が、最近は一度私を父だと思い込むと、その思い込みが一日中解けない。
私が、私でなくなっていくような感覚に、恐怖を覚える。
母は、母と二人の時には私を「日彩」と呼ぶけれど、祖母の前では祖母を刺激しないように、私の名前を呼ばなくなった。
私、いつかこの家からいなくなっちゃうのかな。
存在を消されて、祖母に一生思い出してもらえなくなるのかな……。
そうしたら私、もう誰のために頑張ってるのか、分からなくなるな。
「……」
私を息子の「透くん」だと勘違いしている以上、祖母とできる会話はない。父のフリをして話すなんて無理だし、誰かのフリをして会話をするなんて虚しすぎる。
今この瞬間に、この家に“私”はいない。
どれだけ祖母の面倒を見ても、祖母は私に感謝してくれるどころか、私という孫の存在を認めてもくれない。
それがどれだけ惨めなことか……きっと、同年代の友達に話したところで理解してもらえないだろう。美玖や恵菜の顔をそっと思い浮かべる。彼女たちは放課後の時間を、吹奏楽部という自分の好きなことをする活動に充てている。吹部の練習はきつすぎると愚痴を聞くこともあるけれど、二人のことを羨ましいと思う。
だから、二人には愚か、友人の誰にも家庭の事情を打ち明けたことはなかった。
去年の担任の三上先生と、今年の担任の安西先生にだけは事情を話しているけれど、それで心が軽くなることはない。学校を遅刻したり欠席したりした時には先生が心配してくれるが、だからと言って現状が変わるわけではなかった。
「ごちそうさま」
祖母とできるだけ長い時間顔を合わせたくなくて、スプーンでかきこむようにして急いでチャーハンを平らげた。
「お母さん、この後お風呂だよ。準備しといて」
「はあい」
私のことを「透くん」と呼ぶ以上、あまり祖母を刺激したくない。だからあえて「お母さん」と呼んだ。一度刺激してしまうと、パニックに陥ったみたいに騒ぎ出すことがあるから。そうなったら私の手には負えず、母が帰ってくるまで耐えなくちゃいけなくなる。それだけは避けたかった。
午後七時、少し早いが祖母をお風呂に入れた。
この作業が、祖母の世話の中で二番目に嫌いだ。一番嫌いなのは排泄物の処理。後者は単純に匂いが不快なのと、時々床を汚すことがあり、その後始末が大変すぎるから。
対して入浴介助の方は力仕事なので、疲れるのだ。
そもそも、女子高生がお年寄りとはいえ一人の成人をお風呂に入れるなんて、かなり無理がある。中学の頃私は吹奏楽部に所属していて、体育会系でもない。筋トレなんて体育の授業でしかしたことないし、体力だって乏しい。だから、祖母をお風呂に入れるだけで一日の体力のうち半分は削られる。お風呂の後に宿題なんてしようものなら疲れて頭が回らない。だから学校の課題はできるだけ学校にいる間に済ませるようにしていた。
祖母の服を脱がせ、身体を洗い、なんとか湯船に浸からせる。ここまでで三十分。自分がお風呂に入る時は十五分程度で終わることだ。
湯船に祖母を浸けて、一時休戦。何かあった時のために、脱衣所で待機する。その間、大抵はスマホで溜まっていたメッセージの返信をする。とはいえ友達からの連絡はほとんどない。あるのは母親から、「今日は何時に帰ります」という業務連絡だけだ。母は仕事を掛け持ちしている。九時から十七時までOA機器メーカーでフルタイム勤務をして、夜はクレジットカード会社のオペレーターのパートが二十時〜深夜二時まで入っている。パートの方は毎日とはいかないが、週に二、三回は行っているような気がする。フルタイム勤務だけでも、祖母の介護と併せるとかなり大変なのに、パートもある日はもう母はクタクタすぎて、家では寝てるだけだ。
だからこの家では主に私が、炊事に洗濯、掃除、祖母の介護を一人で担っている。
少しでもお母さんを楽にしてあげたい。
最初はその一心で働いていたけれど、最近は身も心も疲れすぎて、祖母の介護をただの“作業”だと感じてしまっていた。それでも、祖母は大切な家族の一員だから、祖母を見放すことはできない。施設に入れることも頭をよぎったけれど、きっと祖母が納得しない。この家は「透くん」と過ごす大切な場所なのだ。息子と離れることを、祖母が望むはずがなかった。
考え事をしていると、十分も経っていたことに気がつく。
そのうち祖母が「あつい、あつい」と言い出す。
熱いならさっさと出ちゃえよ、と思わず心の中で愚痴が漏れる。一人で出ることなんてできないのに。私の介助が必要だって分かっているのに。心の中でこぼれた本音に、自分自身ぞっとしてしまった。
「はいはい、上がろうね〜」
努めて優しい口調で、祖母の身体を支えた。祖母が今度は「さむい」とこぼす。うるさいな。さっき「熱い」って言ったのは自分でしょ。と、また腹黒いことを考えて罪悪感を覚える。
私、大好きなおばあちゃんになんて酷いことを……。
頭の中で、“意地悪な”自分を振り払う。
私はお母さんとおばあちゃんと三人で幸せに暮らす女の子だ。
決しておばあちゃんのことを疎ましく感じてなんかいない。
そんなこと、思ったらいけないんだ……。
なんとか自分を宥めつつ、祖母をお風呂から上げた。身体を拭いて髪の毛を乾かす。午後八時二十分。お風呂に入れるだけなのに、一時間二十分も要した。刻一刻と削られていく自分の時間に焦りを覚えることももうなくなってしまっていた。
いい加減感覚が麻痺している。
私は普通の女子高生なら当たり前にできる、放課後の部活動や勉強ができない。遊びに行くのなんてなおさら無理だ。それも、仕方がないことなんだと諦めている。
祖母がもう寝るというので、自室に連れていく。寝るといっても結局寝ないのがいつものオチだが、部屋にいてくれる分にはありがたい。何かあれば「透く〜ん」と呼ばれるし、それまでは休もう。
自分の部屋に戻った私は、学校でやった宿題の漏れがないか確認する。宿題をやるので精一杯で、授業の復習は全然できない。おかげで成績は下がりっぱなし。一年生の基礎がなってない今、二年生の内容についていけるかどうか、不安しかない……。
勉強で遅れをとっているのが不安であるにも関わらず、いざこうして少しでも時間ができた時に、机に向かう気になれないのがまた疎ましい。
机の抽斗から、手慰みに取り出したのはリップやアイブロウ、ファンデーションといった化粧品の数々と、鏡。
「これ、使うことないな」
手のひらの上でリップをコロコロと転がしながら独りごちる。
私の夢は、メイクアップアーティストになること……だった。そのために、高校を卒業したら専門学校に行きたい——と思い描いたのは中学生の頃。中学三年生になり、祖母の介護が始まってからは、その夢も叶わないんじゃないかと諦めている。
金銭的な問題もあるけれど、それ以上に、圧倒的に時間がないもの……。
手鏡を手に自分の顔をじっと見つめる。
パサパサの髪の毛、目の下にくっきりと浮かび上がるクマ、ぽつぽつとでき始めたニキビ、荒れ放題の肌。
自分の顔がこんなにも醜いものになっているとは思ってもおらず、ひどく取り乱した。
「私、こんな顔で学校に行ってたんだ……」
さすがに、これは見るに耐えない。
美玖も恵菜も、そりゃ私の顔を見て心配してくれるはずだ。こんな顔で、もう学校に行きたくないな……。
他人を綺麗にする仕事に就きたいのに、自分がこんなに醜く廃れているなんて、馬鹿みたい。これじゃ、誰かを綺麗にするなんて到底できやしない。
鏡を閉じて、椅子から立ち上がる。ベッドの上に仰向けになって静かに目を閉じた。束の間の休息。視界から光を遮断すると、眠っていなくても自然と頭が休まる気がする。気がするだけで根拠なんてないけれど、せめて身体だけは少しでも楽にしておきたかった。
世間では、私のように家事や家族の介護に追われている子供を、ヤングケアラーと呼ぶらしい。でも私はこの言葉がしっくりこない。
ケアって、なんだろう。
私は、家族を“ケア”してるのかな。
ただみんなで生きるために役割分担をしているだけ。祖母のことは確かに大変だと思う。だけど、祖母は認知症なんだから仕方がない。病気の家族を労わるのは普通のことだ。
私は家族をケアするための存在じゃない……。
ゆっくりと思考が深いところへと沈んでいく。ああ、だめだ。意識が途切れそう。身体が睡眠へと誘われる。やがて抵抗するのも虚しく、私は眠りに落ちていった。
「ん……」
重たい瞼を持ち上げて、ベッドの上で知らず眠っていたことに気づく。ぐわんと一瞬揺れた視界の中で時計を見ると、時刻は午後十時過ぎ。
「わ、いけない!」
慌てて身体を起こし、ベッドから飛び降りる。もうこんな時間!? 私、一時間以上眠りこけたのか……。疲れが溜まってうたた寝してしまうことはよくあるけれど、夜のこの時間帯に眠ってしまうなんて、ものすごく時間の無駄遣いをした気分だ。
せっかくなら、趣味の時間に使いたかった。
身体を休めることよりも、自分の時間が失われたことがショックだ。
バタバタと自室を出て祖母の部屋をノックする。
「おばあちゃん、まだ起きてる?」
返事がないので部屋の扉を勝手に開けさせてもらう。部屋の中では布団の上で目を閉じる祖母の姿があった。
「もう、また掛け布団被らないで……」
というか、掛け布団の上で寝てるじゃん。
「はあ」
ため息を吐きながら、なんとか祖母の身体を持ち上げて下敷きになっていた掛け布団を、祖母の身体の上に掛ける。こんなところで無駄な労力を使わせないでほしい。心の中で悪態をつきながらも、さっきまでの寝方で祖母が風邪を引いていないか、ちょっぴり心配だった。
「そうだ、買い物行かなきゃ!」
祖母の部屋を後にしたところで、気づく。
冷蔵庫の中をもう一度確認して、足りない食品を思い浮かべる。ダッシュで支度をして家を飛び出した。制服から私服へと着替えるのを忘れていたことに、気づかないまま。
夜十一時に閉店するスーパーに滑り込んだのは、午後十時四十五分のこと。スーパーの陳列は大体把握しているので、急いで必要なものをカゴに投入していく。もうほとんど無意識に、あれこれとメニューを考えもせずにレギュラー食材たちをどんどん手に取った。この時間だと値下げされている商品も多く、その辺はちょっぴりラッキーだった。
「ふう……間に合った」
なんとか閉店前にレジで会計を済ませ、お店の外に出た。信号待ちをしながら、なんでこんなに毎日必死なんだろうと、考えてしまう。
だめだ。余計なことを考えるな。
考えれば考えるほど、虚しくなる。
自分は何のために生きてるんだろうって。
もちろん、家族のため、と言われればそれまでだ。家族のために家事も介護も頑張ろうと思っているし、それに対して文句を言いたいとも思わない。大事な家族が困っているならば助け合うのが普通だ。これは決して“ケア”なんかじゃない。ただの手伝い。人として当たり前のこと。だから私が特別なんじゃない——。
「あの」
近くで誰かの吐息の音がした。
自分が話しかけられているとは思わず、無視する。
「終電を逃したから泊めてくれない?」
「……」
「ねえ、聞こえてる?」
耳元で囁かれて身体がびくんと跳ねた。
「え、わ、私ですか?」
驚いて、声のする方を見やる。そこにいたのは、ブレザーの制服に身を包んだ少年だった。
葉加瀬梨斗。
これが、私が初めて彼に出会った夜の話だ。