「終電を逃したから泊めてくれない?」

 私の日常は、あの日、彼の——葉加瀬梨斗(はかせりと)の一言で大きく色を変え、形を変えた。
 夜の十一時、閉店したスーパーの前で、紺青色(こんじょういろ)の空の下、大きく息を吸って、止める。ずっと、うまく呼吸ができない。頭の中をぐわらんぐわらんと鳴り響く耳鳴りのような音が、本当の私を身体の外へ締め出していく。だから、彼が放ったその一言も、最初は自分に向けられたものだと気づかなかった。

「ねえ、聞こえてる?」

 耳元で囁かれて身体がびくんと跳ねた。

「え、わ、私ですか?」

「うん、きみしかいないよ。こんな夜更けにスーパーの買い物袋下げて、思い詰めた顔してる高校生」

「……高校生ってなんで分かるんですか?」

「だってきみ、制服着てるじゃん」

 そう言われてはたと気づく。自分が制服のまま家を出てしまったことに。まだお風呂にも入れていなくて、髪の毛はボサボサ。制服から私服に着替えるのも忘れてたなんて、我ながらひどい。

「あなたも、高校生なんですか?」

 私は、隣で声をかけ続ける彼に、ようやく視線を合わせる。
 黒髪のさらさらとした長めの髪の毛が夜風に揺れる。優しい垂れ目をした少年がそこに立っていた。背丈は一七五センチくらいだろうか。こんな時間にも関わらず、私と同じ制服に身を包んでいる。警察に見つかったら補導されかねない身なりだ。と、他人のことは言えないけれど。

「うん、高校生。あと一時間後に十七歳になる」

「えっ、一時間後? 四月十日生まれってこと?」

 今日は四月九日で、あと一時間で日付が変わる。彼は「そう」と真顔で頷いた。

「誕生日が早いから、これまで同級生にはほとんど気づいてもらえない人生を歩んできたんだ。だから今年は、きみという同年代の子に祝ってもらえそうで嬉しいよ」

 まだお祝いするとも言っていないのに、にひひと笑顔を浮かべる彼はどこか楽しそうだ。十七歳。私と同じ、高校二年生だ。私は十月生まれだからまだ十六歳だが、こんなところでこんな時間に同級生に会うなんて、思ってもみなかった。
 それに……と、彼の制服を見て気づく。
 同じ学校の生徒だ。私の通う、城北(しろきた)高校の男子のブレザーが夜の闇に溶けている。胸ポケットの部分に、学年別に色分けされた校章が付いているはずなのだが、外しているらしかった。ひと学年で五百人近くいるマンモス校なので、同級生だとしても顔も名前も知らないということはよくある。私は彼のことを、学校では見たことがなかった。

「あの、えっと……。とりあえず、お誕生日おめでとうございます。私も高校二年生だから、同級生です」

「そうなんだ、嬉しいな。ありがとう」

 彼は、満更でもない様子で微笑む。

「それで、さっき言ってた『泊めてくれないか』っていうのは、どういうことでしょうか」

 話しかけられてからずっと気になっていたことを聞いた。
 初対面で、しかもこんな夜更けにスーパーの前で、いきなり「泊めてくれない?」はかなり怪しい声の掛け方だ。新手のナンパにしてもタチが悪い。しかも相手は高校生だし。あまりに不純じゃない?

「はは、言葉通りの意味だよ」

「笑い事じゃないです。泊められるわけないじゃないですか」

「そうかあ。それは、残念」

 残念、と言いながら、やっぱりちょっとばかり楽しそうで、私は複雑な気分にさせられる。
 早く家に帰りたい。いや、帰らなきゃいけないんだけど……。でも、どうしてかすぐに「さようなら」と彼の前から去ろうという気にもなれない。本当に、どうしてだろう。自分の中でむくむくと湧き上がる不思議な感覚には名前が付けられそうにない。

「それならさ、ちょっとだけ付き合ってくれない?」

「付き合うって……?」

「それは、行ってからのお楽しみ。こんな時間に出会ったのも何かの縁でしょ。それに、偶然同級生だって分かったんだし、嬉しくてさ。慈善事業だと思って、ね? 誕生日プレゼントを僕にくれないかな」

 私がこの人に誕生日プレゼントとしてこれから付き合う義理なんてまったくないはずなのに、すぐに否定しない自分に、自分自身驚いた。

「まあ、いい、けど」

 返事をしてようやく気づく。
 私、帰りたくないんだ。
 家に帰りたくない。帰りたかったらとっくに目の前の彼とさよならしている。それをしないということは、心が遠くへ行ってしまいたいと願っている証拠だった。

「おお、ありがとう。ここからちょっとかかるけど、いい?」

「うん、大丈夫。警察に補導されないようにだけ気をつけなきゃ」

「確かにそうだね。でも多分大丈夫。僕って幽霊みたいに存在を消すのが得意なんだ」

「なにそれ。変なの」

 流石に彼の言っていることがおかしくてくすくすと笑い声を上げてしまう。いつの間にか、初対面の彼の話に乗せられていた。

「それじゃ、行こうか」

 彼が青信号になった横断歩道へと一歩踏み出す。私は、買ったばかりの食材を抱えて、なんとも奇妙な“付き合い”の旅に出た。
 しばらく歩いて、自分たちが駅の方へと向かっていることに気づく。

「あれ、さっき終電逃したって言ってなかったっけ?」

 いつのまにか敬語が取れてタメ口になっていることに、私は自分で気づかない。

「うん。地下鉄のほうね。今から乗るのはJR」

「なるほど」

 短い問いの後、一呼吸おいて再び尋ねる。

「そういえば、名前なんていうの?」

「名乗ってなかったね。僕は葉加瀬梨斗。きみは?」

「私は、深町日彩(ふかまちひいろ)です」

「日彩さん。綺麗な名前だね」

 出会ったばかりの彼の声は透き通るように澄んでいて、私の心にすっと溶けていく。
 深く沈んでいく青の下で、初対面の私たちは夜の端っこへと歩いていく。
 電車に揺られて約二十分。たどり着いた場所は昔訪れたことのある遊園地だった。けれど確か、今は廃園していて中へは入れないはず。ぼんやりと考えていると、隣でひょいっと梨斗が制服のズボンのポケットから鍵を取り出した。

「これで中に入れるよ」

 どういうわけか、門の鍵を持っていた彼に呆気に取られながら、私は遊園地の中へと足を踏み入れた。
 廃園している夜の遊園地は、物寂しさ全開だった。色とりどりの乗り物はいまだに朽ちることなくずっしりと園内に佇んでいる。すぐにでも動かせそうなほど、まだまだ綺麗だった。

「こっちこっち」

 メリーゴーランドやコーヒーカップ、ジェットコースター、お化け屋敷なんかを素通りして、梨斗はずんずんと園内を進んだ。広い園内で、彼の足取りは妙に軽く、ついていくのに必死になる。冷静に考えて、こんなふうに廃園後の遊園地に忍び込んで、初対面の男の子と一体何をしているんだろう。どこか夢心地な気分で歩いた。

「ここだよ」

 彼の足がぴたりと止まる。
 目の前には大きな観覧車。
 昔、何度も乗ったことのあるそれは、県内で一番大きな観覧車と言われていた。
 梨斗は、観覧車の前にある「管理室」と書かれた小さな部屋で機械を何やら操作する。しばらくすると、パッと観覧車が煌めきを放つ。それから、ゆっくりとゴンドラが回り出した。

「え、動くの?」

「そう、動くんだ」

 にこにことした顔で頷く梨斗と、呆気に取られる私。 

「さあ、上がって」

「で、でも……いいの? てか勝手に動かして、怒られない?」

「大丈夫、大丈夫」

 何がどう大丈夫なのか分からないけれど、梨斗は観覧車の乗り込み口までひょいっと登って、私に手を差し出す。

「十五分で終わるから。ここで、ゆっくり話そう」

「十五分……」

 それだけなら、いいか。
 梨斗に言われるがまま、私は彼と一緒に観覧車に乗り込んだ。
 もうどうにでもなれ、という感じ。大人に見つかったら大目玉を喰らうだろう。心臓の音はドキドキと激しく鳴っている。けれど、今この状況を心のどこかで楽しんでいる自分がいた。

 観覧車は回り始める。
 真夜中にスーパーの前で初めて出会った少年と、ひっそりと息をする私を乗せて。