「――――はっ!」
覚めたばかりの目で、私は慌てて周囲を見回した。
すっかり見慣れた夢の世界。あの椅子の上で、私は目を覚ましていた。
しばらく来られていなかったけれど、ようやく――身体を起こした時、ふと背後から、すっかり馴染みの声が耳を打った。
「やぁ、陽和」
「もう、遅――」
遅いじゃない。そう口にしたつもりだった言葉は、それを目にした瞬間、掠れ、途切れてしまった。
「陽向…!? ちょっと、変じゃない? す、透けてる……?」
陽向は無言で頷いた。
背後立つ陽向を見る目は、その身体を透かして、向こう側に存在しているはずの景色をも捉えていた。
薄れ、まるでこれから消えゆくように。
「ど、どうしたの、眠いの……? あ、そっか、疲れてるんだ…! もう、早く言ってよ、まだもうちょっとくらい休んでくれてても――」
「――陽和」
陽向は被せるように私の名前を呼んだ。首を横に振って、その気遣いを遮った。
「分かってる筈だよ。君が強く願っても、僕の方もそれを容認しても、もうしばらく、ここに来られなかった事実に。気付いてるでしょ?」
「そ、それは……」
「ごめんね。一つ、隠していたこと――いや、勘違いしていたことがあった。ううん、やっぱり、そのどっちもだ」
「勘違い……?」
「うん。とっても大事なこと。よく聞いてね」
いつになく真剣な眼差しに、声に、私は少ししてから黙って頷いた。
「僕はこの空間について、君に干渉する為に創り出し、そこに君が願いや夢の象徴であるピアノを創り出したんだって、そう言ったよね」
「う、うん……」
「それが、間違いだった。あれは――ピアノは、君だけじゃない、僕の願いでもあったんだよ」
「願い……それって、私に干渉するためじゃなくて?」
「うん。僕の――そうだな。思い、かな」
陽向は背を向けて、上の方に目をやった。
「ピアノを失ってしまった君に、弾く為に力を思い出させるための空間――いや、それも違うな。君が欲しがっていた才能の欠片は、双子である僕の方が強く持った状態で分かれてしまったんだ。だから、ここはそれを譲渡する為の空間だった、とでも言えばいいかな」
「じ、譲渡……? 陽向に、ピアノを弾く才能があったってこと?」
「弾く力じゃない。読む力さ。君が唯一出来なかった、ピアノを弾く為に必要なもう一つの力。本来、僕らは一つだった。双子として分かれていなければ、そのどれをも持って生を受けていたはずだ。けれど、僕らは分かれてしまった。いくら双子だと言っても、全く同じ人物なんていないからね」
「ちょっと待って、言ってる意味が……譲渡ってどういうことなの?」
「陽和だって、本当は気付いてるんじゃないのかい? ここで読んだ、練習したことは、現実の世界でも使えるものになった――が、代わりに、ここへ来られる頻度も少なくなってきていたことに。そう、まるで、その二つが比例しているかのようにね」
陽向の言うそれは、私自身、何となく気にかかっていたことでもあった。
読めば読むほど、弾けば弾く程に、気持ち悪さはなくなっていって、向こうでの力も確実についていって――その代わりとでも言うように、ここへはあまり来られなくなっていた。けれどそれは単なる偶然で、別にそれが関係している訳ではないんじゃないか、と私は反論したけれど、陽向ははっきりと首を横に振って否定した。
「干渉したがった理由が、ここを創り出した理由こそが、僕がまだ君に伝えていないことなんだよ」
確かに――その具体的な話はされていなかった。
双子だったから、もう一つの命がくっついてしまったという話を聞いただけだ。
陽向はまた、私の方へと向き直った。どこか寂しそうにも見える目で。
「僕は、それを持っていることを知っていた。君の中で自我を持った時に自覚したんだ。けれど、それを本当に欲しているのは君の方だった。だから、それを渡す為の――くっついてるだけで眠ったままのそれを目覚めさせるために、僕はこの空間を創り出したんだよ」
「目覚め、させる……」
「一度は二つに分かれかけて、しかしくっついて――そろそろ、それが完全に溶け合い、一つになろうとしている。だから僕は、何としても君にこの力を託さないといけなかったんだ」
陽向は苦しそうに笑った。
「はっきりとした目的の為に創られたこの空間は、勿論それを遂行する為の場所だ。達成されれば――いやそうでなくとも、じきに消えてしまうことだろう。必要がなくなるからね」
「消え――ちょっと待ってよ、何で、おかしいじゃん…! 一緒にいるって言ったでしょ!? 消えるとか、嘘だね……?」
震える声で言いながらも、私は何となく理解していた。
学習障害というものは基本治らない。それが、ここに来たことで、治ったかのように楽譜を読めるようにもなった。
それはつまり、楽譜が読めないということの原因が、障害によるものではなかったということだ。
幼い頃の私は、読んだ楽譜は同じように見えるのに、それを見たままに書くことが、奏でることが出来なかった――読むための力、という言葉からも考えると、『整理』という工程が出来なかっただけなんだ。
この数ヶ月の成長は、現実で得た情報を一旦は夢であるここへと持ち込み、そこで陽向が整理したものを反芻することで、現実でも成せるようになっていたというだけの話。
逆を言うなら、今また弾けない、読めないようになっているのは、数日とは言え考えることをやめ、整理という工程を全く行わなくなってしまったからだ。
こっちで読んで、弾く程に、向こうでも気持ち悪さを感じなくなっていたのは、その能力がしっかりと備わりつつあり、それに身体もついていけるようになっていたから。
以前『現実で見た楽譜を夢で起こされることで読めるよう、弾けるようになる』と感じたのは、間違いじゃなかった。
「これまで陽和が驚異的な速度で成長出来ていたのは、僕がその処理役を担っていたから。本来ある処理速度に、身体を慣れさせる必要があったからね。もう間もなく、僕の意識はなくなる。けれど、それは本来持っていた筈の能力だ。僕がいなくなっても、君は思う通りにピアノを弾くことが出来るようになるんだ」
「そんな――でも、そんな急に消えるなんて……」
「急に? いいや、僕は確かに言った筈だよ。『時間の許す内は、僕が君の先生だ』ってさ」
「言ってた、けど……」
ここにいる間は、という意味でなく、消えるまでの時間は、だったなんて。
「……嫌だよ」
私は小さく拒絶した。
「お母さん、もういなくなるかも知れないのに……陽向まで消えちゃったら、私……」
「それは違う。僕は消えるんじゃない。君と、本当の意味で一つになるんだ。分かれてしまっていたものが、繋がるだけだ」
「同じことだよ…! 私、甘えるのって下手だから、お母さんにも涼子さんにも、どうやって弱みを見せたら分かんないし……陽向だけが、この場所だけが、何もかも忘れて、素の自分でいられる唯一のものだったのに……」
「いいや。陽和はもう、手にしている筈だ。僕がいなくたって、どんな自分でも見せられる場所を。そして君自身、強くなっていることも。ちゃんと、分かってるでしょ?」
「そんなの、分かんないよ……」
「もう、まったく――」
呆れたように笑って、陽向は肩を竦める。
目の前まで歩いてくると、小刻みに震える私の身体を、いつかのように優しく抱き寄せた。
「本来、僕たちは話せるはずもなかったんだ。それがこうして話せて、触れて、君の心に寄り添うことが出来た。それがどれだけ幸せなことか。分からない君じゃないでしょ?」
「うん……でも…」
「僕はもうじきいなくなる。ここには、来られなくなる。でもそれは、悲しいことじゃない。君が強くなった証で、僕に頼らなくたって大丈夫になったという成長の結果だ。胸を張っていいことなんだよ。もう、ナルコレプシーに悩まされることもなくなる」
「…………やだ」
「うん、僕も嫌だ。けれど、そればかりは変えられない。陽和なら大丈夫。もう、心配はいらない」
「やだよ……私、今だって泣いてるし、全然強くなんか……いつでも寝落ちさせてくれてもいいからさ、もっと、ううん、ずっと一緒にいたいよ…!」
「泣けるのは強さだよ、陽和。ずっと頑張って来たから、我慢してきらから、それだけ一気に溢れて来るんだ。よく頑張ったよ。とっても素敵な、強くて優しい自慢の妹だ」
「うぅ……陽向ぁ…!」
「もう、ほら。せっかくの美人が台無しじゃないか、みっともない」
「いいもん、ここだけなんだから……」
縋るように回した手に、一層の力を籠める。
私と陽向は、違う人格であると互いに認識していながら、本来同じものだと言ったけれど――今のこの気持ちは、陽向に抱く愛情は、偽物なんかじゃない。
森下陽向、その人に、私は確かな愛情を抱いているんだ。
「最後に、君と話せてよかった。一つになって、いつでも一緒にいられるようになるけれど、もうこうして話すことは出来なくなるだろうからね」
「……うん」
「いい返事だ」
頷くと、陽向は私から離れて、真っ直ぐに、涙で滲んだ瞳を向けて来た。
「陽和は今、楽譜が読めない。そして、音も分からない。そうだね?」
「う、うん……陽向と会う前、ううん、会ってからしばらくの間とも、同じ感じ」
「なら答えは簡単だ。僕らが出会ってから、まずやったことは? 覚えてるかな?」
「私たちが、出会ってから……」
この素敵な世界に落とされて、少し歩いたところで、このピアノを見つけて。
不思議な声に誘われるようにして、まずやったことと言えば。
「…………楽譜」
ぽつりと呟く私に、陽向は大きく頷いた。
「読めず、弾けなかったものは、ここに持ってくることで整理をつけ、陽和は現実に反映させてきた。あの速度で処理することが出来るのは、精々あと一回くらいだろう。一晩、と言い換えてもいい。それでも――たった一度だけでも、いや一度だからこそ、それに相応しい曲だってあるでしょ?」
「相応しい曲……」
私はすぐに思い当たった。考えるまでもない。
けれども、それ以上に恐怖もあった。
読めないかも知れないしれない恐怖。読めたとしても、奏でられないかもしれない恐怖。奏でられたとしても、一番届いて欲しい人に、届かないかもしれない恐怖。
それら全てが叶ったとして――その瞬間、本当に別れが来てしまう恐怖。
「私……私は――」
「陽和はこれまで、大きな決断と選択をいくつもしてきた。そしてその最たるものは、他でもないピアノだ。大好きだったのに、弾きたかったのに、母さんの横に立ちたかったのに、それが叶わないものだと知ると、君は認めたくなかったけどちゃんと受け入れて、別離という選択をした。それがどれだけ大きなものだったかは、君が一番よく分かってるはずだ」
「それは……」
「君の――君自身の意志で選んで、後悔のないよう前を向いて欲しい。陽和には、それが出来るだけの力も強さも、ちゃんとある。僕は、そう信じてる」
「後悔……」
後悔。心残り。思い浮かぶのは、ただ一つだけだ。
「私……まだ、お母さんにだけ、あの曲を聴いて貰えてないの」
「うん、そうだね。なら、陽和が今やるべきことは?」
「…………分かったよ」
躊躇いはある。けれど、私は敢えて力強く頷いた。
「いい返事だ。さあ、うかうかしてられる時間はないよ。陽和のやりたいことに、正直になりなさい」
「う、うん…!」
一段と気合を入れて答える。その刹那、陽向の身体が眩しく光ったかと思うと、意識はまた、遠のいて行くような感覚に襲われた。
『全ては、心の在り方次第だ。人は、思い一つで、なんだって出来る』
どうして――
『どうか忘れないで。君の音は、まだ死んじゃいない』
どうして陽向は、欲しい言葉を、欲しい時にくれるのだろう。
ああ。こんなことなら――
「陽向! 私、頑張るから…! 私、私ね――」
言葉が届くよりも、早く。
私は、病棟の端にあるソファの上で、目を覚ました。
~・~・~
覚めたばかりの目で、私は慌てて周囲を見回した。
すっかり見慣れた夢の世界。あの椅子の上で、私は目を覚ましていた。
しばらく来られていなかったけれど、ようやく――身体を起こした時、ふと背後から、すっかり馴染みの声が耳を打った。
「やぁ、陽和」
「もう、遅――」
遅いじゃない。そう口にしたつもりだった言葉は、それを目にした瞬間、掠れ、途切れてしまった。
「陽向…!? ちょっと、変じゃない? す、透けてる……?」
陽向は無言で頷いた。
背後立つ陽向を見る目は、その身体を透かして、向こう側に存在しているはずの景色をも捉えていた。
薄れ、まるでこれから消えゆくように。
「ど、どうしたの、眠いの……? あ、そっか、疲れてるんだ…! もう、早く言ってよ、まだもうちょっとくらい休んでくれてても――」
「――陽和」
陽向は被せるように私の名前を呼んだ。首を横に振って、その気遣いを遮った。
「分かってる筈だよ。君が強く願っても、僕の方もそれを容認しても、もうしばらく、ここに来られなかった事実に。気付いてるでしょ?」
「そ、それは……」
「ごめんね。一つ、隠していたこと――いや、勘違いしていたことがあった。ううん、やっぱり、そのどっちもだ」
「勘違い……?」
「うん。とっても大事なこと。よく聞いてね」
いつになく真剣な眼差しに、声に、私は少ししてから黙って頷いた。
「僕はこの空間について、君に干渉する為に創り出し、そこに君が願いや夢の象徴であるピアノを創り出したんだって、そう言ったよね」
「う、うん……」
「それが、間違いだった。あれは――ピアノは、君だけじゃない、僕の願いでもあったんだよ」
「願い……それって、私に干渉するためじゃなくて?」
「うん。僕の――そうだな。思い、かな」
陽向は背を向けて、上の方に目をやった。
「ピアノを失ってしまった君に、弾く為に力を思い出させるための空間――いや、それも違うな。君が欲しがっていた才能の欠片は、双子である僕の方が強く持った状態で分かれてしまったんだ。だから、ここはそれを譲渡する為の空間だった、とでも言えばいいかな」
「じ、譲渡……? 陽向に、ピアノを弾く才能があったってこと?」
「弾く力じゃない。読む力さ。君が唯一出来なかった、ピアノを弾く為に必要なもう一つの力。本来、僕らは一つだった。双子として分かれていなければ、そのどれをも持って生を受けていたはずだ。けれど、僕らは分かれてしまった。いくら双子だと言っても、全く同じ人物なんていないからね」
「ちょっと待って、言ってる意味が……譲渡ってどういうことなの?」
「陽和だって、本当は気付いてるんじゃないのかい? ここで読んだ、練習したことは、現実の世界でも使えるものになった――が、代わりに、ここへ来られる頻度も少なくなってきていたことに。そう、まるで、その二つが比例しているかのようにね」
陽向の言うそれは、私自身、何となく気にかかっていたことでもあった。
読めば読むほど、弾けば弾く程に、気持ち悪さはなくなっていって、向こうでの力も確実についていって――その代わりとでも言うように、ここへはあまり来られなくなっていた。けれどそれは単なる偶然で、別にそれが関係している訳ではないんじゃないか、と私は反論したけれど、陽向ははっきりと首を横に振って否定した。
「干渉したがった理由が、ここを創り出した理由こそが、僕がまだ君に伝えていないことなんだよ」
確かに――その具体的な話はされていなかった。
双子だったから、もう一つの命がくっついてしまったという話を聞いただけだ。
陽向はまた、私の方へと向き直った。どこか寂しそうにも見える目で。
「僕は、それを持っていることを知っていた。君の中で自我を持った時に自覚したんだ。けれど、それを本当に欲しているのは君の方だった。だから、それを渡す為の――くっついてるだけで眠ったままのそれを目覚めさせるために、僕はこの空間を創り出したんだよ」
「目覚め、させる……」
「一度は二つに分かれかけて、しかしくっついて――そろそろ、それが完全に溶け合い、一つになろうとしている。だから僕は、何としても君にこの力を託さないといけなかったんだ」
陽向は苦しそうに笑った。
「はっきりとした目的の為に創られたこの空間は、勿論それを遂行する為の場所だ。達成されれば――いやそうでなくとも、じきに消えてしまうことだろう。必要がなくなるからね」
「消え――ちょっと待ってよ、何で、おかしいじゃん…! 一緒にいるって言ったでしょ!? 消えるとか、嘘だね……?」
震える声で言いながらも、私は何となく理解していた。
学習障害というものは基本治らない。それが、ここに来たことで、治ったかのように楽譜を読めるようにもなった。
それはつまり、楽譜が読めないということの原因が、障害によるものではなかったということだ。
幼い頃の私は、読んだ楽譜は同じように見えるのに、それを見たままに書くことが、奏でることが出来なかった――読むための力、という言葉からも考えると、『整理』という工程が出来なかっただけなんだ。
この数ヶ月の成長は、現実で得た情報を一旦は夢であるここへと持ち込み、そこで陽向が整理したものを反芻することで、現実でも成せるようになっていたというだけの話。
逆を言うなら、今また弾けない、読めないようになっているのは、数日とは言え考えることをやめ、整理という工程を全く行わなくなってしまったからだ。
こっちで読んで、弾く程に、向こうでも気持ち悪さを感じなくなっていたのは、その能力がしっかりと備わりつつあり、それに身体もついていけるようになっていたから。
以前『現実で見た楽譜を夢で起こされることで読めるよう、弾けるようになる』と感じたのは、間違いじゃなかった。
「これまで陽和が驚異的な速度で成長出来ていたのは、僕がその処理役を担っていたから。本来ある処理速度に、身体を慣れさせる必要があったからね。もう間もなく、僕の意識はなくなる。けれど、それは本来持っていた筈の能力だ。僕がいなくなっても、君は思う通りにピアノを弾くことが出来るようになるんだ」
「そんな――でも、そんな急に消えるなんて……」
「急に? いいや、僕は確かに言った筈だよ。『時間の許す内は、僕が君の先生だ』ってさ」
「言ってた、けど……」
ここにいる間は、という意味でなく、消えるまでの時間は、だったなんて。
「……嫌だよ」
私は小さく拒絶した。
「お母さん、もういなくなるかも知れないのに……陽向まで消えちゃったら、私……」
「それは違う。僕は消えるんじゃない。君と、本当の意味で一つになるんだ。分かれてしまっていたものが、繋がるだけだ」
「同じことだよ…! 私、甘えるのって下手だから、お母さんにも涼子さんにも、どうやって弱みを見せたら分かんないし……陽向だけが、この場所だけが、何もかも忘れて、素の自分でいられる唯一のものだったのに……」
「いいや。陽和はもう、手にしている筈だ。僕がいなくたって、どんな自分でも見せられる場所を。そして君自身、強くなっていることも。ちゃんと、分かってるでしょ?」
「そんなの、分かんないよ……」
「もう、まったく――」
呆れたように笑って、陽向は肩を竦める。
目の前まで歩いてくると、小刻みに震える私の身体を、いつかのように優しく抱き寄せた。
「本来、僕たちは話せるはずもなかったんだ。それがこうして話せて、触れて、君の心に寄り添うことが出来た。それがどれだけ幸せなことか。分からない君じゃないでしょ?」
「うん……でも…」
「僕はもうじきいなくなる。ここには、来られなくなる。でもそれは、悲しいことじゃない。君が強くなった証で、僕に頼らなくたって大丈夫になったという成長の結果だ。胸を張っていいことなんだよ。もう、ナルコレプシーに悩まされることもなくなる」
「…………やだ」
「うん、僕も嫌だ。けれど、そればかりは変えられない。陽和なら大丈夫。もう、心配はいらない」
「やだよ……私、今だって泣いてるし、全然強くなんか……いつでも寝落ちさせてくれてもいいからさ、もっと、ううん、ずっと一緒にいたいよ…!」
「泣けるのは強さだよ、陽和。ずっと頑張って来たから、我慢してきらから、それだけ一気に溢れて来るんだ。よく頑張ったよ。とっても素敵な、強くて優しい自慢の妹だ」
「うぅ……陽向ぁ…!」
「もう、ほら。せっかくの美人が台無しじゃないか、みっともない」
「いいもん、ここだけなんだから……」
縋るように回した手に、一層の力を籠める。
私と陽向は、違う人格であると互いに認識していながら、本来同じものだと言ったけれど――今のこの気持ちは、陽向に抱く愛情は、偽物なんかじゃない。
森下陽向、その人に、私は確かな愛情を抱いているんだ。
「最後に、君と話せてよかった。一つになって、いつでも一緒にいられるようになるけれど、もうこうして話すことは出来なくなるだろうからね」
「……うん」
「いい返事だ」
頷くと、陽向は私から離れて、真っ直ぐに、涙で滲んだ瞳を向けて来た。
「陽和は今、楽譜が読めない。そして、音も分からない。そうだね?」
「う、うん……陽向と会う前、ううん、会ってからしばらくの間とも、同じ感じ」
「なら答えは簡単だ。僕らが出会ってから、まずやったことは? 覚えてるかな?」
「私たちが、出会ってから……」
この素敵な世界に落とされて、少し歩いたところで、このピアノを見つけて。
不思議な声に誘われるようにして、まずやったことと言えば。
「…………楽譜」
ぽつりと呟く私に、陽向は大きく頷いた。
「読めず、弾けなかったものは、ここに持ってくることで整理をつけ、陽和は現実に反映させてきた。あの速度で処理することが出来るのは、精々あと一回くらいだろう。一晩、と言い換えてもいい。それでも――たった一度だけでも、いや一度だからこそ、それに相応しい曲だってあるでしょ?」
「相応しい曲……」
私はすぐに思い当たった。考えるまでもない。
けれども、それ以上に恐怖もあった。
読めないかも知れないしれない恐怖。読めたとしても、奏でられないかもしれない恐怖。奏でられたとしても、一番届いて欲しい人に、届かないかもしれない恐怖。
それら全てが叶ったとして――その瞬間、本当に別れが来てしまう恐怖。
「私……私は――」
「陽和はこれまで、大きな決断と選択をいくつもしてきた。そしてその最たるものは、他でもないピアノだ。大好きだったのに、弾きたかったのに、母さんの横に立ちたかったのに、それが叶わないものだと知ると、君は認めたくなかったけどちゃんと受け入れて、別離という選択をした。それがどれだけ大きなものだったかは、君が一番よく分かってるはずだ」
「それは……」
「君の――君自身の意志で選んで、後悔のないよう前を向いて欲しい。陽和には、それが出来るだけの力も強さも、ちゃんとある。僕は、そう信じてる」
「後悔……」
後悔。心残り。思い浮かぶのは、ただ一つだけだ。
「私……まだ、お母さんにだけ、あの曲を聴いて貰えてないの」
「うん、そうだね。なら、陽和が今やるべきことは?」
「…………分かったよ」
躊躇いはある。けれど、私は敢えて力強く頷いた。
「いい返事だ。さあ、うかうかしてられる時間はないよ。陽和のやりたいことに、正直になりなさい」
「う、うん…!」
一段と気合を入れて答える。その刹那、陽向の身体が眩しく光ったかと思うと、意識はまた、遠のいて行くような感覚に襲われた。
『全ては、心の在り方次第だ。人は、思い一つで、なんだって出来る』
どうして――
『どうか忘れないで。君の音は、まだ死んじゃいない』
どうして陽向は、欲しい言葉を、欲しい時にくれるのだろう。
ああ。こんなことなら――
「陽向! 私、頑張るから…! 私、私ね――」
言葉が届くよりも、早く。
私は、病棟の端にあるソファの上で、目を覚ました。
~・~・~



