別れの曲

 二次予選当日。
 朝、私は、自分でも怖いくらいに落ち着いていた。
 夜は熟睡でき、呼吸も整っていて、コンディションはばっちり。
 杏奈さんの家からそのままタクシーで会場まで赴き、自分の番が来るまでは練習室へ籠る予定の為、母や涼子さんにはメールで連絡を入れておいた。
 返信が来るのを待っていようかとも思ったけれど、まずは最終確認が先だ。
 母も涼子さんも、メールに返信をしなかったことはない。今確認しないのは、会場で舞台袖に回ってから、最後に一発気合いを入れる為に取っておくのが良いだろうと思ったからだ。
 私へメールだけ打って携帯を仕舞って、楽譜を開く。そうしてそれに目を通しながら、私は頭の中に旋律を浮かべ始めた。



 会場は先日と同じだと言うのに、辺りにはその参加者や家族らしい人影は見えたけれど、並々ならない緊張感が漂っていた。
 ドレス。タキシード。私服。
 どれを着ている者も例外なく、誰一人として無駄な言葉を発していないのだ。
 漏れ聞こえてくる会話は全て、最低限音楽に関する会話のみ。一人一人の関係性こそ分からないものの、誰も、井戸端会議に花を咲かせている者はいない。
 これから立つ舞台、そこで奏でる音のことだけを考えて、集中し切っているのだ。
 言い知れない恐怖にも似た感覚に、私は総毛立つのを感じた。

「陽和ちゃん」

 思わず立ち尽くす私の名前を、杏奈さんが優しく呼ぶ。
 首だけで仰ぐそちらでは、穏やかに微笑む姿があった。

「飲まれたら駄目よ。決して。貴女は、貴女の音だけに集中するの。誰の音も、声も、その一切を遮断しなさい。ここからはもう、私の声も聞かなくて良い」

「あ、杏奈さん……?」

 乾いた喉から出た声に、杏奈さんは私の手を取ると、今までより一等優しく、温かな声で語り掛けた。

「大丈夫よ、陽和ちゃんなら。この谷北杏奈が認めた子よ? これは自慢だけど、昔『神童』なんて言ってもてはやされたんだから。堂々と、ただ貴女の思うまま、心のままにに弾いて来なさい。楽譜なんて無視よ」

「え、えっ…!?」

「あくまで心持ちの話だけどね。楽譜ばかりに縛られるより、どうだこれが私の演奏だ、まいったか、くらいの意気で完奏するくらいじゃないと、すぐに空気に飲まれてしまうわ」

「わ、分かりました!」

「ふふっ。そう気負わなくても大丈夫。一次を突破している時点で、ある意味で言えば、もう夢は叶ったようなものだもの」

「えっ……?」

 杏奈さんの言葉に、私は思わず首を傾げてしまう。

「弾きたかったんでしょ? この舞台で。『別れの曲』を」

 言われて、はっとした。
 そうだ。何か功績を残すことが目標じゃない。それが出来れば更に嬉しいことではあるけれど、何より、その一曲を弾く為だけに、ただ一曲を聴かせる為だけに、私は舞台に上がる決意をしたんだった。
 コンクールは言わば、勝負の場だ。夢だった天上の音楽祭とは違い、華々しいものになるかどうかも分からない。
 けれど、結果より、それを演奏出来る機会があるということの方が、よっぽど重要だ。
 母の前で、母から聴いて育った、母へと送る大好きな曲。

(そっか……そうだよね)

 気持ちが、すぅっと軽くなった。

「うん、その調子! 怖くないからね。ちゃんと、客席から見てるから」

 杏奈さんの言葉に力強く頷くと、私たちは充てられた練習室へと足を進めた。