「――――君との生活は美那子が一身に背負って、代わりに金銭的な面は僕が出来るだけカバーすることになった。何があろうとも仕事に集中出来るよう、事実上の『離婚』としておくことでね。君からは認知されない存在となっていた。無論、僕の方からも極力干渉しないよう気を付けて。涼子さんの助けも大きすぎる」
事実上、ということは、やっぱり本意ではなかったんだ。
何事もなければ――母の身体にも異常がなくて、陽向もこの世界で産声を上げていたなら、母も一さんも、今とは違う笑みを浮かべられていた筈なんだ。
こんなにも苦しそうな笑みを浮かべることなんて、きっとなかっただろう。
母の病状。離婚。陽向の死。それだけのことがありながら、自分がどれだけ大切に育てられてきたのか――それを実感するのと同じくらい、いやそれ以上に、それならどうして私だけが知らなかったのか、とも思う。
家族なら、大切であるなら、共有して支え合うことだって出来るのに。
(…………いや)
そう思うのは、今私が少なからず大人になったからだ。
今までの間に伝えられていたならば、どうなっていたかも分からない。
でも――どうして、教えないことに決めたんだろう。
知らない方が幸せに暮らせるから?
知らない方が辛いことなく母を送り出せるから?
知らなければ、何を怖がることもないから?
(そんなわけ……)
知らなければ、どこかで知ってしまった瞬間から、幸せな暮らしなど望めない。前向きな話しさえ出来ずに終わってしまうことだってあるだろう。
知らなければ、亡くなったそのあとで、なぜ母は突然亡くなってしまったのかと疑問に思い、そうして調べ上げた先で、悲しみはやがて、大きな後悔や怒りへと変わることだろう。
知らなければ、ずっとどこか、ただ怖いままだ。
(違う……そんなの、違うよ……)
例え、両者同意のことであったとしても。
未来に残される者の悲しみは、どう考えていたのか。
思いやりがその実、更に苦しめるだけであるようなその選択を、今はどう思っているのか。
「一さん――――どうして、私だけ……十六年もの間、私のことを騙して――」
すぐ喉元まで湧き出ていた筈の言葉――それを、私はすんでのところで飲み込んだ。
違う。そういうことじゃない。
隠して来たことじゃない。今になって、どうしてあれだけ分かり易い尻尾ばかりが溢れて来たのか、そっちの方が問題だ。
十六年――途方もない時間だ。一つの命が産まれ、幼少を経て、小、中、そして高校へと進学するだけの年月だ。
それだけ長い時間、気を付けて気を付けて、一さんは影に徹しきっていた。その存在について仄めかすようなことはなかった。一度もだ。母も涼子さんも同じだ。
ならどうして、こんなタイミングで――
母の出立。差出人の情報がない封筒。臍の緒。陽向の存在さえも。
あれだけ巧に隠して来ていた人たちが、今更たまたま綻びを見せるとは考え辛い。
このまま自身が、あるいはパートナーが亡くなるその時まで徹底しようと考えていたのだとすれば、これはあまりに稚拙な尻尾の見せ方だ。
まるで――そう、まるで、私に『気付いて』と言っているかの如く、あまりに分かり易いものばかり。隠し事と呼ぶには、聊かお粗末さが過ぎるものだ。
(そう言えば……一さん、レストランで『来てしまったのか』って言ってた。あれって、もしかして……)
あの手紙がもし、母か涼子さんに宛てられたものであったならば、驚くのは当然のこととして、私が来たことに関しては『どうして』と問う筈だ。
もしかしたら、元から私に宛てられたものだったんじゃ――『来てしまったのか』という言葉の意味は、『なぜ』ではなく、そのまま私に対して『来てしまったのか』ということ?
ともすれば、どうやって知り、ここまで来たのかという問いにも繋がる。手紙に気が付いたのか否か、あるいは何か証拠や疑問に思うようなことがあったのか否か。
だからこそ、私があの桐の箱を見せたことで、奇しくもそれに答える形になってしまっていたというわけだ。
いや、それ以前に、日にちを指定して送っていたはずの手紙が、母のいない日に来るはずがなかった。海外でのコンサートという予定を仮に知らなかったとしても、受診の機会を教えたのは他でもない一さん自身だ。
その一切を知っている涼子さんに宛てられたものなら、風邪をひいてしまったからと言って、あのままポストの中に入れたままで私の手に渡るようなヘマはしない筈。
手紙にだって書いてあったじゃないか。『ただ一度だけ、君に会いたくなった』って。
ともすれば、なんてことではない。最初から、私個人に宛てられた手紙だったんだ。
今思えば、あの時一さんはさほど驚いている様子もなかった。どちらかと言えば、ようやく来てくれたのか、ようやく会えたのか、そんな表情だった。
十六年もの間、我が子の顔すらおがむこともなくて――名目上の離婚関係だと言ったって、それが苦渋の選択であったなら当然、喜びだって感じていた筈だ。陽向の事実を知っているなら尚のこと。私は何不自由なく元気に育ち、背丈だって大きくなっているのだから。
なら――今回の一連のことは全て、私に気付かせるためのものだったのだろう。
周到であるはずの手紙が、丁度、母のいないタイミングであった理由。
包まず言うなら――全て、仕組まれていたことだった。
「一さんは……あなたは、どうして手紙を? あれって、母ではなく、私個人に対して宛てられたものですよね?」
私の言葉に、一さんは観念したように頷き、それを認めた。
「主治医の話では、極めて稀ではあるが、進行はとても遅いらしい。が、もし向こうで上手くいかなければ、もう残された時間は短いだろう。だから診断の結果がどうあれ、戻って来たら、そのうち美那子の口からは聞く話だったと思う…………けど、それでは駄目だと思ったんだ」
「駄目って……?」
「もう、隠せないと思った。いや、隠しては駄目だと、僕が勝手に思ってしまったんだ。そのうち、という話は美那子とも手紙でやり取りしてはいたんだけれど、そのうちでは駄目だ。陽和の為にって思っていたけれど、それは全くの逆効果だった。こうして知ってしまった今、君は事実、決して快くは思っていないことだろう。そうなることを悟ったから、僕は勝手に、美那子がいない日付けに手紙を送ったんだ。美那子のいない間にでも君と話して、真実を全て語って、間違いがないようにしたかった……いや。それも、多分嘘だ。君が臍の緒を持ってくるだなんて思ってもいなかったからね。本当は陽向のことに関してだけは、話すつもりはなかった。少なくとも、僕の口からは」
一さんは困ったように笑った。
そうだ。母のことを話す為だというのなら、あの桐の箱を置いておく必要はない。母の病気のこと、離婚のこと、それらはいずれ分かることかも知れないけれども、あれさえなければ、陽向のことについては知りようがなかった。
あの時の一さんの反応からも、それはそうなのだろうと思う。
私が姿を現した時ですらある程度冷静だった一さんが、あの箱を見せた瞬間だけは、心底驚いたような表情をしていた。
ただ自分の存在を露呈させるため、あるいは私に母のことを教える為、と言うのであれば、臍の緒の存在は話をややこしくするだけだ。
(一体誰が――まさか!)
気を失って運ばれた病院で、私は涼子さんに、写真以外に何かあったかと尋ねた。
涼子さんは『何もない』と言っていたけれど、答えとしてはおかしい。普通なら『何もなかった』と言う筈だ。
それは――私なら、少し考えればおかしいと気付けることだった。
運ばれた病院で、涼子さんは知らないような口ぶりだったけれど、あの箱が昔からあの場所にあったのなら、涼子さんがそれだけ知らないとは考え辛い。
知らなかったんじゃない。知らないフリをしたのだ。
今回のことにどれだけ深くかかわっているかは分からない。けれど、それを除けば、涼子さんは昔から嘘を嫌う性格だった。
ちょっとした冗談も、好奇心から吐く嘘も、一切口にしたことがない。
私がまだ幼かった頃、ふとした好奇心から吐いた嘘の一つだって、涼子さんは厳しくしつけてくれた。嘘はいけないことだって、叱ってくれた。
私からの問いかけや疑問には「どうしてそう言うの?」「どうしてそう聞きたいの?」と理由を求めるのが普通だった。
軽い怪我とともに意識まで失っておいて、それらのことで迷惑をかけた涼子さんへの謝罪ではなく「何となく見たくなって」と話す私に、どうしてそう聞いてくれなかったのか。少し考えれば、おかしいと気付けたはずだ。
反対に、涼子さんが嘘を吐こうとする時には、全て私か母が見破って来た。包丁で指を切った時。少し体調がすぐれない時。先日、熱を出して電話をかけて来た時ですら、涼子さんは決まって「何もないわ」と笑っていた。
私があの時、箱を見つけていようがそうでなかろうが、涼子さんはそのままにしておくだけの理由があったのだ。
あの時だってそうだ。
『えっと……ガラス以外に、何かなかった……?』
『以外? 倒れた貴女と、あの写真くらいだけれど――ええ、何もないわ』
何もなかった、とは返さず、何もない、と言っていた。あれは、何もなかったという事実ではなく、涼子さんがその答えについて嘘を言っていたということだ。
あれ以上に私が言及するようなことになっていたならば、無駄な言葉を重ね、あるいは私が嘘を見抜いていたかもしれない。しかしあの時、私からすればその方が都合が良かったから、それ以上詮索するようなことはしなかったのだ。
(そっか……だから)
確かではないけれど、あんなところに箱があったのなら、今までにも気が付いた筈だ。棚と同系色だとか、高さによる違いだとか、そんな話でもない。もしあそこに箱があったならば、母も涼子さんも、写真を手に取って私に見せてくれるようなことはなかった筈だ。
つまりあれは、そんな頃よりももっと後――最近になってあそこに置かれたということだ。
一さんは家にいない。箱を置いておけるのは、涼子さんしかいない。
私に、見つけさせようとしているように。
「臍の緒……あれ、ほんとならどこに仕舞ってたんでしょう。ピアノのある部屋に置いてあったんです。見つけたのはたまたまでしたけど、普通なら置いてないような場所でした。あれって、もしかして――」
「十中八九、涼子さんだろうね。彼女もどうやら、僕と似たような考えだったらしい」
「……です、よね」
涼子さんは涼子さんで、独断で、美味い具合に重なる時期に、別の動きをしてしまっていたというわけだ。
他に例外があるとするならば、予想すら出来ないようなことがあったとするならば――それは、私自身の選択だ。
皆、私と陽向くんとのやり取りまでは、どうしたって知ることが出来ないものだ。知り得ない筈の相手と話し、ピアノに触れて、気持ちが変わるなどと、一体誰が予想出よう。
「一さんは……どうして、今回のようなことを?」
私の質問に、一さんは黙り込んでしまった。俯き、長い前髪が落とす影のせいで表情は分からないけれど、強く、唇を噛んでいることだけは見て取れた。
少しすると、大きく息を吐いて、一さんは顔を上げた。
「美那子から陽向が亡くなったことを聞いた時、その瞬間強く『戻らないと』と思った。戻って、僕が美那子を、そして君を支えていかないと、と思った。でも、そうすればやっぱり、少なからず収入は減っていく。助けたいのに、助けられなくなる。護りたいのに、護ることが出来なくなるんだ……その方が、よっぽど怖いと思った。手が届く距離にいて何も進まないより、例え離れていたとしても、出来るだけ長く、そして可能な限り明るく、君と美那子には、笑っていて欲しかったんだよ」
一さんは、ようやく感情的な言葉を吐露した。
これまでは大きく表情を変えることなく、身体を動かすことなく、真面目に語って聞かせてくれるだけだった。少しばかり冷静すぎるようにも見えて、どこか怖かった。
けれどそんなこと、徹し切れるはずがなかったんだ。
愛した人と一緒になって、子どもを授かって――会わなくなったって、その理由が嫌いになったからでないのなら、その気持ちが冷めることなんて、あるはずがなかったんだ。
母とまた向かい合い、新しい命と笑い、日々を過ごしたいと誰より強く願っていたのは、他でもない、一さんだった。
「本当はずっと、ずっと後悔していた……決断を急いでしまったと、後になって辛くなった。今だってそうさ。愛する妻と、その子どもである君、その二人と一言も口が聞けないなんてんて……そんなの、耐えられる筈がない。それでも、お金の為、全ては今の治療と研究の為、そして君たちの生活の為に、仕事で自分の隙間を埋めることを選んだ。あぁ、もう自分でも何を言ってるのか分からなくなってきた……一緒にいたいって思いは確かにあるのに、それを選んだら一緒にいられる時間が短くなる可能性が高くなる。それなら影に徹して、会わないようにしようって、そう誓った。誓った、はずだったのに……なのに、どうして……どうして僕は、君に手紙を書いたんだろうね……」
一さんはまた、強く唇を噛んだ。力の入り過ぎた両腕は震えている。
どうしようもないくらいに辛かったんだと、痛いくらいに伝わって来て、私は胸の辺りに言い知れない気持ち悪さを覚えた。
「一さん……」
それが分かったから、分かってしまったからには、私は聞かなければならない。
「一さんは、どう思ってるんですか……? 秘密とか、決めたこととかじゃなくて、あなたの気持ちはどうなんですか……?」
一さんは、余計な言葉で濁すことなく言った。
「全て手遅れになる前に――愛する家族に、どうしても会いたくなったんだ」
一さんだって一人の人間だ。冷酷でも冷徹でもない、ただの人間。
一人を好んで別れたのなら別だ。けれど、それはそうせざるを得なかったからこそだ。そんな人間が、愛する者たちと離れ離れになって、寂しさを、悔しさを、感じないはずなかったんだ。
愛があるからこそ一度は別離の道を選びながらも、愛があるからこそ、今こうして戻りたいと願っている。
収入とか、治療とか、そういう現実的な話ではない。気持ちの上では、感情では、そんなことに耐えられるはずがなかったんだ。そんなことを、もう十六年も続けて来たのだから。
いい歳をした大の大人が、それも男性が、みっともなく涙を流し、鼻水まで拭っているような様子を見てしまった私には、それが苦しいくらいに分かってしまった。
悲しさも、悔しさも、それを必死に堪えて来たんだろうということも。
「――母のこと、陽向のことも、聞けてよかったです。一さんの口から。ありがとうございました」
私が頭を下げると、一さんは驚いたように俯いていた頭を上げ、目を丸くした。
「まさか、礼を言われるなんてね」
「私の父は死別したわけでも、まして私たちがすてられたわけでもなかった。それが分かっただけで、あなたには礼を言わなくてはいけないと、そう思っただけです」
「美那子のことは――」
「ちゃんと、これから話し合います。母と、涼子さんと。あと――」
少しばかり躊躇いつつも、私は敢えて口にする。「――陽向とも」私の言葉に、一さんは思わずといった様子で「えっ?」と言葉を零した。
「何でもありません。忘れてください。それでは」
「あ、あぁ――いや、ちょっと待ちなさい」
引き止められた私は、荷物を抱え直したところで足を止めた。
一さんは近くにあったメモを千切り、殴り書きにしたものを、振り返った私に手渡す。
「僕の番号とアドレスだ。何かあったら頼ってくれ。僕自身がこれ以上後悔しないためにも、必ず、君たちの力になると約束する」
強く、はっきりとした言葉に、私はしかとそれを受け取った。
そうして、最後に深く頭を下げてから、私はマンションを後にした。
自宅へと帰った私は、なるべくいつもどおり涼子さんと接した。
夢の中で少し、陽向とも話そう。そう強く思いながら、一冊の楽譜を抱いて、眠りについた。そして――陽向の元へは行けないまま、朝を迎えた。
軽くでも相談をして、気持ちを整理してから母を迎えようと思っていたのに。
そんな時、私にはまた佳乃の顔が思い浮かんだ。
せっかくの休みの日。躊躇いはしたけれど、私は佳乃にメールをした。
程なく『暇してるからいつでもおいで』と返って来た。
事実上、ということは、やっぱり本意ではなかったんだ。
何事もなければ――母の身体にも異常がなくて、陽向もこの世界で産声を上げていたなら、母も一さんも、今とは違う笑みを浮かべられていた筈なんだ。
こんなにも苦しそうな笑みを浮かべることなんて、きっとなかっただろう。
母の病状。離婚。陽向の死。それだけのことがありながら、自分がどれだけ大切に育てられてきたのか――それを実感するのと同じくらい、いやそれ以上に、それならどうして私だけが知らなかったのか、とも思う。
家族なら、大切であるなら、共有して支え合うことだって出来るのに。
(…………いや)
そう思うのは、今私が少なからず大人になったからだ。
今までの間に伝えられていたならば、どうなっていたかも分からない。
でも――どうして、教えないことに決めたんだろう。
知らない方が幸せに暮らせるから?
知らない方が辛いことなく母を送り出せるから?
知らなければ、何を怖がることもないから?
(そんなわけ……)
知らなければ、どこかで知ってしまった瞬間から、幸せな暮らしなど望めない。前向きな話しさえ出来ずに終わってしまうことだってあるだろう。
知らなければ、亡くなったそのあとで、なぜ母は突然亡くなってしまったのかと疑問に思い、そうして調べ上げた先で、悲しみはやがて、大きな後悔や怒りへと変わることだろう。
知らなければ、ずっとどこか、ただ怖いままだ。
(違う……そんなの、違うよ……)
例え、両者同意のことであったとしても。
未来に残される者の悲しみは、どう考えていたのか。
思いやりがその実、更に苦しめるだけであるようなその選択を、今はどう思っているのか。
「一さん――――どうして、私だけ……十六年もの間、私のことを騙して――」
すぐ喉元まで湧き出ていた筈の言葉――それを、私はすんでのところで飲み込んだ。
違う。そういうことじゃない。
隠して来たことじゃない。今になって、どうしてあれだけ分かり易い尻尾ばかりが溢れて来たのか、そっちの方が問題だ。
十六年――途方もない時間だ。一つの命が産まれ、幼少を経て、小、中、そして高校へと進学するだけの年月だ。
それだけ長い時間、気を付けて気を付けて、一さんは影に徹しきっていた。その存在について仄めかすようなことはなかった。一度もだ。母も涼子さんも同じだ。
ならどうして、こんなタイミングで――
母の出立。差出人の情報がない封筒。臍の緒。陽向の存在さえも。
あれだけ巧に隠して来ていた人たちが、今更たまたま綻びを見せるとは考え辛い。
このまま自身が、あるいはパートナーが亡くなるその時まで徹底しようと考えていたのだとすれば、これはあまりに稚拙な尻尾の見せ方だ。
まるで――そう、まるで、私に『気付いて』と言っているかの如く、あまりに分かり易いものばかり。隠し事と呼ぶには、聊かお粗末さが過ぎるものだ。
(そう言えば……一さん、レストランで『来てしまったのか』って言ってた。あれって、もしかして……)
あの手紙がもし、母か涼子さんに宛てられたものであったならば、驚くのは当然のこととして、私が来たことに関しては『どうして』と問う筈だ。
もしかしたら、元から私に宛てられたものだったんじゃ――『来てしまったのか』という言葉の意味は、『なぜ』ではなく、そのまま私に対して『来てしまったのか』ということ?
ともすれば、どうやって知り、ここまで来たのかという問いにも繋がる。手紙に気が付いたのか否か、あるいは何か証拠や疑問に思うようなことがあったのか否か。
だからこそ、私があの桐の箱を見せたことで、奇しくもそれに答える形になってしまっていたというわけだ。
いや、それ以前に、日にちを指定して送っていたはずの手紙が、母のいない日に来るはずがなかった。海外でのコンサートという予定を仮に知らなかったとしても、受診の機会を教えたのは他でもない一さん自身だ。
その一切を知っている涼子さんに宛てられたものなら、風邪をひいてしまったからと言って、あのままポストの中に入れたままで私の手に渡るようなヘマはしない筈。
手紙にだって書いてあったじゃないか。『ただ一度だけ、君に会いたくなった』って。
ともすれば、なんてことではない。最初から、私個人に宛てられた手紙だったんだ。
今思えば、あの時一さんはさほど驚いている様子もなかった。どちらかと言えば、ようやく来てくれたのか、ようやく会えたのか、そんな表情だった。
十六年もの間、我が子の顔すらおがむこともなくて――名目上の離婚関係だと言ったって、それが苦渋の選択であったなら当然、喜びだって感じていた筈だ。陽向の事実を知っているなら尚のこと。私は何不自由なく元気に育ち、背丈だって大きくなっているのだから。
なら――今回の一連のことは全て、私に気付かせるためのものだったのだろう。
周到であるはずの手紙が、丁度、母のいないタイミングであった理由。
包まず言うなら――全て、仕組まれていたことだった。
「一さんは……あなたは、どうして手紙を? あれって、母ではなく、私個人に対して宛てられたものですよね?」
私の言葉に、一さんは観念したように頷き、それを認めた。
「主治医の話では、極めて稀ではあるが、進行はとても遅いらしい。が、もし向こうで上手くいかなければ、もう残された時間は短いだろう。だから診断の結果がどうあれ、戻って来たら、そのうち美那子の口からは聞く話だったと思う…………けど、それでは駄目だと思ったんだ」
「駄目って……?」
「もう、隠せないと思った。いや、隠しては駄目だと、僕が勝手に思ってしまったんだ。そのうち、という話は美那子とも手紙でやり取りしてはいたんだけれど、そのうちでは駄目だ。陽和の為にって思っていたけれど、それは全くの逆効果だった。こうして知ってしまった今、君は事実、決して快くは思っていないことだろう。そうなることを悟ったから、僕は勝手に、美那子がいない日付けに手紙を送ったんだ。美那子のいない間にでも君と話して、真実を全て語って、間違いがないようにしたかった……いや。それも、多分嘘だ。君が臍の緒を持ってくるだなんて思ってもいなかったからね。本当は陽向のことに関してだけは、話すつもりはなかった。少なくとも、僕の口からは」
一さんは困ったように笑った。
そうだ。母のことを話す為だというのなら、あの桐の箱を置いておく必要はない。母の病気のこと、離婚のこと、それらはいずれ分かることかも知れないけれども、あれさえなければ、陽向のことについては知りようがなかった。
あの時の一さんの反応からも、それはそうなのだろうと思う。
私が姿を現した時ですらある程度冷静だった一さんが、あの箱を見せた瞬間だけは、心底驚いたような表情をしていた。
ただ自分の存在を露呈させるため、あるいは私に母のことを教える為、と言うのであれば、臍の緒の存在は話をややこしくするだけだ。
(一体誰が――まさか!)
気を失って運ばれた病院で、私は涼子さんに、写真以外に何かあったかと尋ねた。
涼子さんは『何もない』と言っていたけれど、答えとしてはおかしい。普通なら『何もなかった』と言う筈だ。
それは――私なら、少し考えればおかしいと気付けることだった。
運ばれた病院で、涼子さんは知らないような口ぶりだったけれど、あの箱が昔からあの場所にあったのなら、涼子さんがそれだけ知らないとは考え辛い。
知らなかったんじゃない。知らないフリをしたのだ。
今回のことにどれだけ深くかかわっているかは分からない。けれど、それを除けば、涼子さんは昔から嘘を嫌う性格だった。
ちょっとした冗談も、好奇心から吐く嘘も、一切口にしたことがない。
私がまだ幼かった頃、ふとした好奇心から吐いた嘘の一つだって、涼子さんは厳しくしつけてくれた。嘘はいけないことだって、叱ってくれた。
私からの問いかけや疑問には「どうしてそう言うの?」「どうしてそう聞きたいの?」と理由を求めるのが普通だった。
軽い怪我とともに意識まで失っておいて、それらのことで迷惑をかけた涼子さんへの謝罪ではなく「何となく見たくなって」と話す私に、どうしてそう聞いてくれなかったのか。少し考えれば、おかしいと気付けたはずだ。
反対に、涼子さんが嘘を吐こうとする時には、全て私か母が見破って来た。包丁で指を切った時。少し体調がすぐれない時。先日、熱を出して電話をかけて来た時ですら、涼子さんは決まって「何もないわ」と笑っていた。
私があの時、箱を見つけていようがそうでなかろうが、涼子さんはそのままにしておくだけの理由があったのだ。
あの時だってそうだ。
『えっと……ガラス以外に、何かなかった……?』
『以外? 倒れた貴女と、あの写真くらいだけれど――ええ、何もないわ』
何もなかった、とは返さず、何もない、と言っていた。あれは、何もなかったという事実ではなく、涼子さんがその答えについて嘘を言っていたということだ。
あれ以上に私が言及するようなことになっていたならば、無駄な言葉を重ね、あるいは私が嘘を見抜いていたかもしれない。しかしあの時、私からすればその方が都合が良かったから、それ以上詮索するようなことはしなかったのだ。
(そっか……だから)
確かではないけれど、あんなところに箱があったのなら、今までにも気が付いた筈だ。棚と同系色だとか、高さによる違いだとか、そんな話でもない。もしあそこに箱があったならば、母も涼子さんも、写真を手に取って私に見せてくれるようなことはなかった筈だ。
つまりあれは、そんな頃よりももっと後――最近になってあそこに置かれたということだ。
一さんは家にいない。箱を置いておけるのは、涼子さんしかいない。
私に、見つけさせようとしているように。
「臍の緒……あれ、ほんとならどこに仕舞ってたんでしょう。ピアノのある部屋に置いてあったんです。見つけたのはたまたまでしたけど、普通なら置いてないような場所でした。あれって、もしかして――」
「十中八九、涼子さんだろうね。彼女もどうやら、僕と似たような考えだったらしい」
「……です、よね」
涼子さんは涼子さんで、独断で、美味い具合に重なる時期に、別の動きをしてしまっていたというわけだ。
他に例外があるとするならば、予想すら出来ないようなことがあったとするならば――それは、私自身の選択だ。
皆、私と陽向くんとのやり取りまでは、どうしたって知ることが出来ないものだ。知り得ない筈の相手と話し、ピアノに触れて、気持ちが変わるなどと、一体誰が予想出よう。
「一さんは……どうして、今回のようなことを?」
私の質問に、一さんは黙り込んでしまった。俯き、長い前髪が落とす影のせいで表情は分からないけれど、強く、唇を噛んでいることだけは見て取れた。
少しすると、大きく息を吐いて、一さんは顔を上げた。
「美那子から陽向が亡くなったことを聞いた時、その瞬間強く『戻らないと』と思った。戻って、僕が美那子を、そして君を支えていかないと、と思った。でも、そうすればやっぱり、少なからず収入は減っていく。助けたいのに、助けられなくなる。護りたいのに、護ることが出来なくなるんだ……その方が、よっぽど怖いと思った。手が届く距離にいて何も進まないより、例え離れていたとしても、出来るだけ長く、そして可能な限り明るく、君と美那子には、笑っていて欲しかったんだよ」
一さんは、ようやく感情的な言葉を吐露した。
これまでは大きく表情を変えることなく、身体を動かすことなく、真面目に語って聞かせてくれるだけだった。少しばかり冷静すぎるようにも見えて、どこか怖かった。
けれどそんなこと、徹し切れるはずがなかったんだ。
愛した人と一緒になって、子どもを授かって――会わなくなったって、その理由が嫌いになったからでないのなら、その気持ちが冷めることなんて、あるはずがなかったんだ。
母とまた向かい合い、新しい命と笑い、日々を過ごしたいと誰より強く願っていたのは、他でもない、一さんだった。
「本当はずっと、ずっと後悔していた……決断を急いでしまったと、後になって辛くなった。今だってそうさ。愛する妻と、その子どもである君、その二人と一言も口が聞けないなんてんて……そんなの、耐えられる筈がない。それでも、お金の為、全ては今の治療と研究の為、そして君たちの生活の為に、仕事で自分の隙間を埋めることを選んだ。あぁ、もう自分でも何を言ってるのか分からなくなってきた……一緒にいたいって思いは確かにあるのに、それを選んだら一緒にいられる時間が短くなる可能性が高くなる。それなら影に徹して、会わないようにしようって、そう誓った。誓った、はずだったのに……なのに、どうして……どうして僕は、君に手紙を書いたんだろうね……」
一さんはまた、強く唇を噛んだ。力の入り過ぎた両腕は震えている。
どうしようもないくらいに辛かったんだと、痛いくらいに伝わって来て、私は胸の辺りに言い知れない気持ち悪さを覚えた。
「一さん……」
それが分かったから、分かってしまったからには、私は聞かなければならない。
「一さんは、どう思ってるんですか……? 秘密とか、決めたこととかじゃなくて、あなたの気持ちはどうなんですか……?」
一さんは、余計な言葉で濁すことなく言った。
「全て手遅れになる前に――愛する家族に、どうしても会いたくなったんだ」
一さんだって一人の人間だ。冷酷でも冷徹でもない、ただの人間。
一人を好んで別れたのなら別だ。けれど、それはそうせざるを得なかったからこそだ。そんな人間が、愛する者たちと離れ離れになって、寂しさを、悔しさを、感じないはずなかったんだ。
愛があるからこそ一度は別離の道を選びながらも、愛があるからこそ、今こうして戻りたいと願っている。
収入とか、治療とか、そういう現実的な話ではない。気持ちの上では、感情では、そんなことに耐えられるはずがなかったんだ。そんなことを、もう十六年も続けて来たのだから。
いい歳をした大の大人が、それも男性が、みっともなく涙を流し、鼻水まで拭っているような様子を見てしまった私には、それが苦しいくらいに分かってしまった。
悲しさも、悔しさも、それを必死に堪えて来たんだろうということも。
「――母のこと、陽向のことも、聞けてよかったです。一さんの口から。ありがとうございました」
私が頭を下げると、一さんは驚いたように俯いていた頭を上げ、目を丸くした。
「まさか、礼を言われるなんてね」
「私の父は死別したわけでも、まして私たちがすてられたわけでもなかった。それが分かっただけで、あなたには礼を言わなくてはいけないと、そう思っただけです」
「美那子のことは――」
「ちゃんと、これから話し合います。母と、涼子さんと。あと――」
少しばかり躊躇いつつも、私は敢えて口にする。「――陽向とも」私の言葉に、一さんは思わずといった様子で「えっ?」と言葉を零した。
「何でもありません。忘れてください。それでは」
「あ、あぁ――いや、ちょっと待ちなさい」
引き止められた私は、荷物を抱え直したところで足を止めた。
一さんは近くにあったメモを千切り、殴り書きにしたものを、振り返った私に手渡す。
「僕の番号とアドレスだ。何かあったら頼ってくれ。僕自身がこれ以上後悔しないためにも、必ず、君たちの力になると約束する」
強く、はっきりとした言葉に、私はしかとそれを受け取った。
そうして、最後に深く頭を下げてから、私はマンションを後にした。
自宅へと帰った私は、なるべくいつもどおり涼子さんと接した。
夢の中で少し、陽向とも話そう。そう強く思いながら、一冊の楽譜を抱いて、眠りについた。そして――陽向の元へは行けないまま、朝を迎えた。
軽くでも相談をして、気持ちを整理してから母を迎えようと思っていたのに。
そんな時、私にはまた佳乃の顔が思い浮かんだ。
せっかくの休みの日。躊躇いはしたけれど、私は佳乃にメールをした。
程なく『暇してるからいつでもおいで』と返って来た。



