あの日の後、私は何故か強引に川辺くんと連絡先を交換させられた。帰った後も暫く状況が飲み込めなかったが、どうやらあの出来事は現実らしい。
 そして、今日も教室では女子が盛り上がっている。

「川辺くん格好良すぎない!?」
七斗(ななと)って名前も格好良いよね」
「いや、イケメンだから名前すらも格好良く見えている説ある」
「それは私たち馬鹿すぎない?笑」

 そんな会話を横で聞きながら、私は川辺くんの表情をよく見ていた。あの会話の後では、川辺くんに対する見方も変わってくる。

(あれは絶対に緊張しているなぁ。それと、そろそろ噛みそうだし。あ、ちょっと噛んだ)

「ふっ」
「月菜?」
「あ、ごめん。思い出し笑い」
「思い出し笑いってなんか怪しー」
「いやいや、昨日見た動画思い出しただけ」

 にしても、あの日の川辺くんの言葉は衝撃だったすぎた。

「宮地さん、結婚しよう」

「宮夢を諦めないで。省エネの宮地さんは嫌い」

 でも、馬鹿すぎてちょっと嬉しかったな。私のフルートを諦めないで良いって言ってくれる人がいる。それでも、あれだけ言われても、勇気を出せない私が悪いのかな。
 まだ家の押し入れに入ったままのフルートを取り出せていない。もうあの日々に戻れる気がしない。それに、間に合わなかったら……夢が叶わなかったらと想像して、川辺くんはああ言ったけれど、そんな勇気出せない。
 その時、私のスマホがピコンという通知音を鳴らした。

[今日の放課後、あの公園で宮地さんのフルート聴かせて]

「は?」
「今度はどうした、月菜」
「あ……いや、なんでもない」

 私はスマホに「無理です」と打ち込もうとしたが、途中でやめた。なんかここで逃げるのは、私の本心が絶対に嫌がっている。私は、「誰かに聞かれるの恥ずかしいから、近くの貸しスタジオで」と連絡した。
 昔よく使っていた貸しスタジオをスマホでオンライン予約して、貸しスタジオのURLを川辺くんに送る。貸しスタジオを借りる時に必要なログインIDとパスワードをいまだに覚えている自分に何故か悲しくなって笑ってしまった。

 放課後に一旦家に帰って、開かずの押し入れの扉に手をかけたら、思ったより弱い力で開いてそれがどこか嬉しかった。
 私が貸しスタジオに向かうと、すでに前に川辺くんが立っている。

「川辺くん、早いね」
「だって、楽しみだったし」

 ここまで素直に自分の気持ちを言えるなら、きっと陽キャの才能あるよ。と、心の中で宮地くんにツッコミを入れてしまう。貸しスタジオの手続きを済ませるために、受付に向かう。

「予約していた宮地です」
「宮地様ですね」

 受付手続きは慣れたものだった。受付のお姉さんも変わっていなくて安心する。お姉さんは受付の最後に絶対にいつもこう言っていた。

「「ごゆっくりお使い下さい」」

 その思い出の言葉と目の前のお姉さんの言葉が重なる。予約時間は決まっているのに、いつもお姉さんは最後にそう言ってくれるのがちょっと嬉しかった。
 スタジオの中に入っても、「懐かしい」とか「変わってなくて嬉しい」という気持ちが出てきてしまう。

「宮地さんってフルートってどこで習ってたの?」
「叔母さんがフルートの先生なの。小学六年生の時に叔母さんがフルートを吹いているのを見て、一目惚れ」
「叔母さんの演奏に?」

 川辺くんの問いに、私は人差し指を口に当てて「シー」とポーズをしてから、小声で答えた。

「叔母さんの演奏っていうか、フルートの音色自体に感動したの。こんな綺麗な音出るんだって。勿論、それは叔母さんの演奏が綺麗だったからもあるけどね」

 あの時の感動をいまだに思い出せる。心が震えるとはこういうことかと思ったのだから。

「私が辞書を作ったとしたら、『感動』の意味は絶対に『フルートの音色のこと』って書く。それくらい綺麗なんだよ」

 私はいまだに体に染み付いている動きで、フルートの音を出す準備を進める。川辺くんはそれを急かすこともなく、ただ静かに待ってくれていた。

「じゃあ、いくよ」

 あの感動の瞬間を川辺くんに味わって欲しくて、私は曲を奏でるのではなくて一音だけを10秒ほど奏で続けた。ああ、違う。嘘をついた。川辺くんにあの感動を味わって欲しかったんじゃない。私があの感動を思い出したかったの。

「宮地さん」

 川辺くんに名前を呼ばれて、自分の頬に涙が伝っていることに気づいた。一度意識してしまえば、もう戻れない。涙と共に、あの日々の感情も溢れてくる。

「ねぇ、川辺くん。今日だって、私は演奏を断れたの。でも、川辺くんの誘いに乗った。川辺くんを言い訳にして、またフルートを始めようと思った。最低でしょ?」
「それは俺がそう言ったから!」
「違うよ、ずっとまた始めるきっかけを探していたの。川辺くんが言ってくれたでしょ。省エネの私は嫌いって……私じゃ……」

 涙がさらに溢れて、言葉がうまく話せない。喉がつっかえている感じがする。

「私だって、省エネな私は……大嫌い……なの…!」

 ああ、言ってしまった。もう省エネの私に慣れたと思っていたのに、簡単に人の本質は変わらないらしい。それでも、どうやら人は弱くて。

「まだフルートの道に進む勇気が出ない。叶わなかったらって嫌でも考える。才能のある人なんて、もうどれだけでも知っているの」

 私が絞り出した言葉に川辺くんは「そっか」とだけ相槌を打った。急なそっけない返事に私は「嫌われたかな?」と不安になってしまう。
 しかし、川辺くんはやっぱり川辺くんだった。

「宮地さん、どれだけでも俺を言い訳にして良いよ。俺のせいで始めたって言っても良い。失敗したら俺のせいにしたって良い。その勇気を持って、告白したんだ」

 川辺くんは私と目を逸さなかった。

「一目惚れって言ったでしょ。俺はネガティブで良いところないけど、一途さは自信があるよ。だから、ずっと宮地さんの味方」
「あの告白って本気だったの……?」
「俺があんなに上手に嘘つけたとしたら、公園で悩んでないよ」

 川辺くんがフルートを握っている私の手に自分の手をそっと重ねる。

「あの日、公園で言ったでしょ。省エネの宮地さんが嫌いって。もっと言えば、したいことを我慢している宮地さんが嫌い。諦めたことに納得しているなら良いよ。でも、宮地さん自身が一番納得してないでしょ」

 川辺くんが私の手からフルートを奪おうとした。私は反射的にフルートを守るように抱きしめてしまう。その私の行動を見て、川辺くんは優しく微笑んだ。


「俺が辞書を作ったとしたら、『感動』の意味は絶対に『宮地さんのフルートの音』って書く。それくらい綺麗なんだよ」


 その川辺くんのセリフは、私の先ほどのセリフを真似たもの。でも、「私」のフルートの音と言った。

「宮地さん、教えて。宮地さんは何をしたい?」

 そんなの決まっている。

「私は……フルートを奏で続けていたい」
「じゃあ、決定だね」

 諦めることって簡単なようで、難しくて。省エネで生きるのだって、難しい。
 ううん、違う。一番難しいのは、自分を偽って生きること。

「川辺くん。私、もう諦めたくない」
「知っている。だって、初めて会った時から、宮地さんの目輝いてたし」
「どういうこと?」
「うーん、負けず嫌いの顔してた」

 負けず嫌いの顔ってどんな顔だろう?
 でも、どうやらまだ諦めるには早いらしい。