保健室へ入るなり、片桐先生に挨拶をしながら速やかにベッドに潜る。
 気が休まらない。
 胃を摩りながら大きなため息を吐いた。
 早く寝てしまいたいのに、城崎先輩が頭から離れてくれない。

 数分遅れで入室した先輩は、片桐先生と談笑し始めた。
「先生、昨日はごめんなさい」
 どうやら昨日キスしちゃった事件の謝罪をしている。こういう律儀なところがあるから憎めないのだろうと思われた。
「別に、もう怒ってないよ。でも二度とすんなよ」
 城崎先輩の頭を掻き乱しているのか、カーテンの向こうから先輩の笑い声がした。
 片桐先生も嫌厭するでもなく普通に話している。いつもは熟睡していてるから、盗み聞きするのは初めてだった。
 どうやら片桐先生も同性愛者で、恋人もいるらしいと、二人の会話から推測できる。
 だから城崎先輩は、自分の恋が報われないと知っていたんだ。
 
 でも特に蟠りもなく普通に先生と生徒の関係に戻れる二人を、少し尊敬してしまった。
 信頼関係なのか、先生も自分のことを城崎先輩に包み隠さず話している。
 先生と生徒というより、親友のような関係に思える。そんな二人を羨ましいとも……。
 
 俺は相手が誰であれ、話すことが苦手だ。
 雅久や律樹は付き合いが長いから理解してくれているというだけの話だ。

 昨日は失恋したと泣いていたのに、今日は笑いあっている。
 本当に傷ついてるのか疑わしい。
「別に、仲良いじゃん」呟いた直後に目を瞠る。
 何で、イライラしてんだろ。
 ――分かんない。でも、ずっと先生と話してる城崎先輩が嫌だ。
 変なの。こんなこと、初めて思った。

「天使くん、寝ちゃった?」
「……」
「起きてんじゃん。あの律樹くんって子、良い子だねぇ。天使くんのこと、いっぱい教えてくれたよ。いいなぁ。高坂も律樹くんも、俺の知らない天使くんを見てきたんだなって思うと羨ましい」
 そんなの、昨日出会ったばかりの人と子供の頃から一緒にいる人が同じだけ知ってるわけない。
 それに、幼少期の俺を知ったところで特にメリットもない。
 どうせ話題作りの一環だろうと、何も答えず横になったまま窓の外に目を向ける。
 今日も抜けるような青空が広がっていた。

 城崎先輩は昨日と変わらず、お構いなしに喋り出す。主にさっき律樹から聞いた俺の子供の頃の話だった。
 律樹は学園の人気も成績もトップの城崎先輩を前に、妙にテンションが上がってしまったのか、恥ずかしくなるほど昔の話を聞かせていた。
 日本人離れした顔立ちは子供の頃の方が際立っていて、誰もが見惚れていたこと。
 近所に住む同い年の子供なのに、全く別の生き物のような別格の存在だったこと。
 着ている服も、どこで買っているのか分からないオシャレなものばかりだったこと。
 大人しくて引っ込み思案で、でもそれが返って特別感を醸し出していたこと。

 聞いている方が恥ずかしくなる。
 しかも全て律樹本位な意見でしかなく、そのどれもが外見にまつわる情報だった。外見のことを言われるのは苦手だ。反応に困るし、子供の頃に変な顔だと言われ、自分ではむしろコンプレックスなくらいだ。

「もう、勘弁してください」
「オレはもっと教えて欲しかったんだけど、律樹くんも部活があるとかで行っちゃった。残念」
 本当に残念そうに肩を落とす。
 本心なのか揶揄っているのか、判断に困ってしまう。

 俺にとっては昨日初めて出会った人。なのに、隣で寝られても気付きもしなかった。それだけでカナリ動揺している。
 基本的に、一人じゃないと寝られない体質だから。
 雅久や律樹でさえ気が散って目が冴えてしまう。学校行事での旅行は全日寝られず、その後体調を崩して学校を休むのが定番の流れだった。
 
 なのに、俺はこれまで何度も城崎先輩に寝顔を晒していた。
 それだけではない。昨日なんて隣で眠っていたのだ。
 有り得ない。
 自分で自分に驚きすぎて言葉を失ってしまったほどだ。
 雅久も同じように驚愕していて、昨日は何度も「大丈夫か?」「どういう経緯で一緒に寝たんだ?」「何もされていないんだな?」と繰り返し詰問され、俺だって混乱しているのに分かるわけないと最終的にちょっとキレた。

 とにかくいきなり心情を掻き乱され、気が休まらない。
 平和な日々に戻りたい。
 でもそれはもう、不可能な気がしている。
 昨日からずっと落ち着かない。この気持ちの正体が分からなくて焦っている。

 自分がこんな状態なのに、側に来て欲しいだなんて何で思ったんだろう。
「……寝ます」
「うん、おやすみ……の前に、一つだけお願い聞いて欲しいんだった。あのさ、文化祭の女装コンテストに出ることになったから、天使くんに応援してほしいんだ」
「城崎先輩も?」
 昨日、雅久に頼まれたばかりだ。
 城崎先輩は拳を見せつけて「高坂だけには負けられない」と意気込む。
「このままでは、成績も人気も結局決着がつかないまま卒業を迎えてしまう。そんな時、このコンテスト募集を知って、出ることにしたんだぁ」
「そう、ですか」
 ということは、雅久も出ると知ってて応募を決めたということだ。当日になって諍いになるのは避けたいか、ちょっとだけ安心した。
 この学校の二大イケメンが出るともなれば、相当な盛り上がりをみせそうだ。興味ないけど。
 
「それでね、これがオレの投票権なんだけど、これを天使くんに預けるからオレに入れて。それで、天使くんもオレに投票してくれたら二票が確実になる」
 名案だとろうと、鼻を高くしている。

 デジャヴかと思った。
 雅久と城崎先輩が何かと衝突するのは、あまりにも言動が似過ぎているからではないかと思われた。

 城崎先輩は強引にオレの制服のポケットに投票権を捩じ込み、今度こそ「おやすみ」と言って頭を撫でた。

 心地よさが復活する。
 昨日、誰かに頭を撫でられている気がしたのは、実際に城崎先輩がやっていたのだと判明した。
 指がするりと髪を滑る。
 掬うように毛先をすり抜けていく感触は、春風に似ていた。
 ウトウトと微睡んでくる。

 まただ。また俺は、城崎先輩がいるのに眠くて眠くて仕方ない。
 目を瞬かせ、ゆっくりと眠りに落ちていく。

 そうして次に目覚めた時、やはり隣で城崎先輩も眠っていた。
 人の体温が暖かくて、潜り込みたくなってしまう。
 起きたくなくてうっすらと開いた目を再び閉じると、城崎先輩が無意識に反応し、オレの頭を引き寄せ、頭を撫でる。

 昼休みが終わり、スッキリと目覚めた時、俺は城崎先輩に言ってしまった。
「悔しいです」と。

 先輩は困惑の色を浮かべて「何で? 熟睡できなかった?」と慌てている。
 熟睡できたから悔しいのだと、口には出さずに「失礼します」と言って保健室を後にした。