「マッチングアプリ、かあ」

 新宿の東京支社から自宅のある甲府へと戻る途中。
 私、間宮(まみや)成紗(なりさ)はスマホに流れてきた広告を見てつぶやいた。

 私は春に大学を卒業し、アパレル業界へ就職した。

 全国に店舗を展開する小売店の、店長候補として入社して三か月。
 配属先の店舗では人間関係がうまくいかず、店長候補者として不甲斐ない毎日を送っていたのだが、八月に同じ店舗に配属された同期の異動が決まった。

 先日急な配置換えで店長が変わったこともあり、余計に人間関係をうまく築けずにいた私は、同期の異動とともに退職を決意。
 その面談のため、東京支社へとわざわざ足を運んだのだが、なんてことなく人事の方との面接を終え、帰宅しているところである。

『やる気がないなら、辞めればいいんじゃない?』

 人事の男性に言われた言葉を思い出し、乾いた笑みが漏れた。

 これが勤務であり、出張費も出るのだから笑ってしまう。

 今まで職場のお(つぼね)パートさんに散々コケにされ、店長からは使えない扱いを受けながらも在庫管理の担当を任された。

 退職しようか悩んでいるというスタッフの悩みを聞き、寄り添った末に彼が辞めていったとき、
「なんで辞めさせたの? 貴重な一人時(いちにんじ)
 と言われた時はさすがに怒りが湧いた。

 何のために働いていたのだろう。本当、笑ってしまう。
 私が辞めたって、店長にとっては〝一人時〟が一つ消えるだけだ。

【あなたに寄り添ってくれる、最高のパートナーを探そう】

 アプリの謳い文句は皮肉だ。
 仕事をするうえでは、私は単なる〝労働力〟と化す。
 代わりはいくらでもいる。

 社会人になり、初めて実家を出た。
 配属された甲府に、知り合いなんてひとりもいない。
 あと一ヶ月。
 仕事終わりの毎日に、寄り添ってくれる人が一人でもいてくれたら――。

 そんな安易な妄想が過ぎり、気付いたらアプリをインストールしていた。
 簡単な自己紹介を登録するだけで使えるようになるのだから、人と繋がるのは案外簡単だったのだなと思う。
 実際、繋がることがあるのかどうかは分からないけれど。

 ***

 甲府に戻ると、翌日もいつものように仕事だ。

 重たい体を起こし、今日もあの店舗に向かわなければいけないと病んだ気持ちを奮い立たせる。
 面接の結果を店長に伝え、退職の意志は変わらないと告げると、店長はものすごく嫌そうな顔をして私にトイレ掃除を命じた。

 それでも業務量が変わるわけじゃない。在庫管理と整理をこなし、重たい一日を終え帰宅した。
 まだ店長にしか退職の話はしていないはずなのに、今日一日、職場では私を見る皆の目が冷たい気がした。
 こんな毎日が、あと一か月も続くらしい。つらい。

 私はベッドにダイブし、スマホを開いた。
 マッチングアプリからの通知が来ている。どうやら、マッチングしたらしい。

宍戸(ししど) 瑠叶(るか)

 彼は歳は私より一つ上だが、彼は4月生まれだから同学年だ。顔写真は盛っているかもしれないが、整った顔は素直にかっこいいと思った。

【出かけるのが好きです。一緒にアウトドアを楽しめる方と出会いたいです】

 そう書かれたプロフィール。【気になる】のボタンをタップすると、すぐに彼からのリアクションが返ってきた。
 
 *** 

「成紗さん、はじめまして」

 翌日、終業後。私の勤務先近くのカフェで、彼と対面した。
 マッチングした翌日、自分も仕事にも関わらず会おうというのだから、彼のフットワークは相当軽い。

 写真の通りに整った顔の彼。短く整えられた髪は清潔感があるし、白いシャツにジーンズとサンダルを合わせたラフな装いは爽やかだ。

「はじめまして、瑠叶さん」

 窓の外の見えるカウンター席に隣同士に座った私たちは、互いにアイスカフェラテを手にしながら、そう言ってはにかみあった。
 なんだか、くすぐったい。

「同い年だよね。タメ語で話さない? 名前も呼び捨てでいいよ、俺も〝成紗〟って呼ぶ」

 彼の笑みは甘い。私は緊張とは別の意味で鼓動が早まるのを感じた。

「うん」

 そう言うと、彼は満足したようにくすりと笑う。

「この辺に住んでるんだよね。俺、韮崎」
「韮崎って、電車だと甲府のもう少し先だよね」
「そ。成紗は車持ってないの?」
「うん……」

 免許は就職前に慌てて取った。
 だけど、配属先の店舗から会社が借り上げているマンションまでは徒歩十五分。
 引っ越しで自転車を持ってきたし、近くにスーパーもあるから車がなくともなにも不都合はない。

「そっか、じゃあ山梨の魅力半減だな」

 瑠叶はそう言ってケラケラ笑った。

 彼とは昨夜メッセージのやり取りを何度かしており、就職でこの場所にやってきたこと、知り合いがいないこと、一か月後には千葉へ引っ越すことを伝えていた。

 一方、瑠叶は生まれも育ちも山梨県。職場も自宅近くの工場で、親の都合で山梨を出るつもりはないという。

 それでも私に会ってくれたのは、きっと一か月でも遊べる人がいればいいという軽い気持ちなのだろう。
 実際、【じゃあ付き合えないじゃん!】とメールで突っ込まれている。

「もったいないなあ、山梨は楽しいところがたくさんあるのに。休日は何してるの?」
「……勉強かな」

 店長候補として入社した私は、一年後に店長認定試験の合格を目指していた。
 経営の知識など無いところからのスタートだったので、休日はもっぱら勉強についやしていたのだ。
 だけど、それももう意味がない。

「真面目か!」

 そう言ってケラケラ笑う彼の隣で、私はため息をこぼした。すると彼は笑いを収め、私の顔を覗き込む。

「どうした?」
「……もう、勉強必要ないんだなって思い出した」

 苦笑いを浮かべると、瑠叶は眉をひそめた。

「ごめん」
「ううん、いいの。仕事で必要だっただけだから。今は、勉強からも解放された」
「そっか。……じゃあ、お疲れさま」

 瑠叶はそう言って、私の頭に手を置いた。思わず肩がつり上がる。

「ごめん、嫌だった?」

 瑠叶が慌てて手をのける。その動作が大げさすぎて、私は思わず笑ってしまった。

「ちょっと、びっくりしただけ。嫌では、なかったよ」

 言いながら恥ずかしくなる。これではまるで、彼に好意があるみたいな言い方じゃないか。

「なら、よかった」

 彼はそう言って私の頭を優しく撫でる。胸が、甘く疼いた。
 面映ゆい空気。互いに見つめ合う。

「あれ、間宮さん?」

 不意に声をかけられ、振り向いた。彼女は、仕事を辞めたいと私に相談してきたスタッフの一人だ。

「お久しぶりです。あの――」

 すると彼女はちらりと瑠叶を一瞥した。
 彼は「どうぞ」と言うように、両手を上に向け彼女に差し出している。

「すみません、私、間宮さんにお礼が言いたくて。間宮さんが辞めてもいいんだよって背中を押してくれたから、今は音楽に専念することができて、毎日幸せなんです」

 彼女は笑顔でそう言うと、背中に背負っていた硬いケースを撫でた。以前に彼女が話してくれた、サックスが入っているのだろう。

「本当に、ありがとうございました」

 彼女の言葉に、胸がじわんと熱くなる。

「ううん、こちらこそ。頑張ってね」
「はい。お邪魔してしまって、すみませんでした」

 彼女はそう言うと、お店の隅の席へと慌てたように行ってしまった。

「成紗は頼られるタイプなんだ」
「一応、社員だからね。もうすぐ辞めるけど」

 そう言って自嘲すると、彼は不思議そうな顔をした。

「何でまた?」
「人間関係がうまくいかなくて。多分、リーダーとか向いてないんだよね、私」
「人の心を掴むのはうまいのにな」
「え?」
「さっきの彼女の嬉しそうな顔。成紗はちゃんと人を見て、寄り添える人なんだと俺は思った」

 彼の言葉は、弱った私には優しすぎる。思わず目頭が熱くなり、下唇を噛んだ。

「ありがとう」

 涙が零れ落ちぬ間にそう言うと、瑠叶は再び私の頭を撫でてくれた。
 優しい、大きな手に、私はひどく安堵する。

「もう少し早く、瑠叶に出会えてたらよかったのに」

 思わずぽつりとこぼす。すると彼の私を撫でる手が止まった。
 彼の方を向く。瑠叶は困惑したように、視線を泳がせていた。

「どうしよ。それ、俺のセリフ」

 瑠叶はそう言うと、私の髪を撫でていた手を滑らせて、まるで恋人にそうするように私の頬を手の甲で優しくなぞる。
 その仕草に、心臓が悲鳴を上げた。

「今夜は離れたくないって言ったら、どうする?」

 じっと視線を絡めとられ、私は黙ってしまった。
 肯定するのは簡単だ。でも、私たちは結ばれない。

 しばらくの思考の後、出てきたのは小悪魔みたいなセリフだった。
 
「いいよって言ったら、どうする?」

 ***

 その後、自宅へと送ってくれた瑠叶と、ベッドにもつれ込んだ。
 一夜限りだと自分に言い聞かせ、彼と体を重ねた。

 ふわふわとした夢のような感覚に身を任せ、互いに果てた後。私は瑠叶の腕枕で、すっかり幸せに浸っていた。
 だけど、現実を忘れたわけじゃない。

「明日から、またあの毎日か」

 ぽつりとこぼすと、瑠叶は私の頭を撫でてくれた。

「仕事、つらい?」
「うん」

 今更隠すものなど無い。素直にうなずくと、瑠叶は私をぎゅっと抱きしめた。

「毎日、俺が会いに来る。それなら、仕事頑張れる?」
「え、でも……」

 ――瑠叶も大変でしょ?
 そう言おうとしたのに、瑠叶が先に口を開いた。

「その方が、俺も仕事頑張れるからさ」

 *** 

 瑠叶はその日から、本当に毎日私に会いに来てくれた。
 仕事が終わり帰宅すると、マンション前に瑠叶の車が止まっているのだ。
 職場まで自転車通勤の私は、自転車をマンションの駐輪場に止めて彼の車の助手席に乗り込む。

「今日はどこ行くの?」

 瑠叶は生まれも育ちも山梨だから、この辺りの地理には本当に詳しい。

「ここは行ったことある?」「ここは?」「え、ここはマストでしょ」

 そんなことを言いながら、毎日目星をつけた行先を提案し、連れて行ってくれるのだ。

 時間は決まって夜。それでも、色々な夜景スポットから見える甲府の夜景は綺麗だったし、彼のおすすめのレストランやカフェでの食事は本当に恋人同士のような時間を過ごした。
 彼はバイクも趣味で、大型バイクの後ろに乗せてもらい、ツーリングを楽しんだ日もある。

 私は土曜日も仕事だったから、日曜日だけは昼間に出かけることができた。
 たった一か月の間だけれど、瑠叶のおすすめだという岩盤浴やバーベキュー、有名菓子メーカーの工場見学にも行くことができた。

 何度か体を重ねたけれど、それは平日、彼が翌日に仕事で私は休みの日だけだ。
 なんとなくそういう空気になって抱き合ったけれど、それが必須だったわけじゃない。

 むしろ、瑠叶は私といる時間を純粋に楽しんでくれているようだった。
 もちろん、それは私も同じだ。

 友達以上、恋人未満。
 きっと最後になるだろうその日、体を重ねた後のまどろみの中で、ふとそんな言葉が脳裏をよぎった。
 もう少し出会うのが早ければ私たちは〝未満〟じゃなかったかもしれない。

 それでも。
 嫌な記憶で塗り固められそうだったこの場所が、楽しい思い出に塗り替えられていく。
 瑠叶と出会えてよかったと、心から思う。

 つらかった仕事も、彼に会えるのだと思うと心が躍り、頑張ることができた。
 苦手なお局さんも、店長との会話も、終えた頃に気持ちを切り替えられるようになった。

 そんなふうに仕事を乗り切り、退職手続きをした。
 思ったよりも簡単だった。今まで自分がスタッフたちにしてきた退職手続きの処理を、自分でしただけだから当たり前なのだけれど。

 引っ越しも、瑠叶が手伝ってくれた。赴任時は会社が引っ越し業者を手配してくれたが、退職時は自己手配だ。つくづく、去る者に対して厳しいなと思う。

 それでも、仕事に対しての未練も恨みもない。さっぱりと切り替えられたのも、彼のおかげかもしれない。

 だけど、山梨には未練がある。彼との楽しい思い出が、溢れてくるからだ。

 引っ越し当日。
 自転車だけは業者に頼み、荷物を瑠叶の車に詰める。
 彼の車はアウトドアが好きな瑠叶らしく、三列シートの4WDだ。後部座席は常に倒してあったから、私の赴任時に持ってきた荷物も楽々と車に積まれてしまった。

 山梨を出て、中央道を進む。
 瑠叶は運転がすごくうまい。首都高の辺りも迷いなく車を走らせていた。

「瑠叶はよく東京も来るの?」

 この辺りは、私だったらナビがあってもまごつきそうだ。思わずそう聞くと、瑠叶はくすりと笑った。

「予習済みなだけ。こういうところで迷ったりしたら、恰好悪いだろ。俺、運転くらいしか取り柄がないからさ」

 瑠叶はそう言ったけれど、そんなことはない。私をこれだけ大切にしてくれているのだ。
 やがて高速を降りて、すぐ。私の住むマンション近くになると、さすがにナビを使って目的地へとたどり着く。

「お疲れさま」
「おう。でもまだ。このくらいだったら、すぐに部屋に運べるから」

 瑠叶は宣言通り、さっさと荷物を運び入れる。それから、生活に必要なものまでリストアップし、近くのホームセンターに向かってくれた。

 なにもかも、至れり尽くせりだ。今日で会うのは最後なのに、申し訳なくなる。
 日用品を買い、荷物を下ろすと私は瑠叶に告げた。

「本当にありがとう。なにか、お礼がしたいんだけど」

 瑠叶は戸惑ったような顔をして、それからすぐにニコっと笑った。

「じゃあさ、焼き肉おごってよ。それでチャラ」
「それだけでいいの?」
「んー……」

 彼はもう一度思案した後、口を開いた。

「一晩、泊めてもらおうかな」

 近くの焼き肉店で食べ放題の焼き肉を食べ、運転のある彼のために近くのコンビニでお酒を買って帰宅した。
 引っ越しに乾杯し、酔いが回ってきたところで体を重ねた。

 好きだなあ。
 何度も心の中で思ったけれど、私は一度も口に出さなかった。瑠叶も、一度も口にしなかった。
 キスをして、互いの欲を貪るだけ。虚しいけれど、幸せな時間だった。

 翌朝、彼の声がして目が覚めた。瑠叶は洗面所で、誰かと会話しているようだ。

「だからごめんって。今日は別のところに泊まってたの」
『一年ぶりに会えるって思ってたのに!』

 電話口から聞こえたのは、女性の声だ。

「今から行くから。新しい東京の観光スポット、教えてよ」
「瑠叶?」

 思わず彼の背中に話しかける。彼は慌てたように「じゃあ、後でね」と電話を切った。

「今の、誰?」
「友達。彼女は東京に住んでるんだ」
「ふうん」

 訊きながらため息が零れた。私と彼は、恋人じゃない。だから、こういう時に責めることはできない。

「彼女のところに、泊まる予定だったんだ?」
「うん、まあ、そんなところ」

 そう言いながら、瑠叶は視線を左右に泳がせる。だけど、次の瞬間には私の唇をキスでふさいだ。

「でも、成紗と一緒にいたかったから。次、東京の方に来るときも、成紗のところに泊まらせて?」

 瑠叶は優しく笑ってそう言ったけれど、私の心にはそれが引っ掛かった。まるで次も、私に会いに来ると言っているようだ。

「これから彼女のところに行くのに? 彼女のところに泊まればいいじゃない」
「でも、成紗なら抱けるから」

 未だに優しい笑みを浮かべる瑠叶の言葉に、私は絶句した。
 そんな私を見たからか、彼は自分の失言に気付いたようで「あ……」と声を漏らした。

「私のこと、抱ける女って思ってる? さっきの相手も同じ?」
「あー……、うん、まあ、えっと、違うんだ、そうじゃなくて……」

 しどろもどろになる瑠叶を見て、確信した。
 彼は、山梨から出たに来た時に泊まる場所が欲しかった。ついでに抱ける女ならなおよし、といった具合だろう。

 私は彼に、一か月後には山梨を出て千葉に引っ越すと、初めから伝えていた。
 彼からは、お付き合いはできないと、最初から線を引かれていた――。

 もしかしたら、彼は最初から、そのつもりだったのかもしれない。

 山梨にいる間は、一緒にアウトドアを楽しめる友達。
 山梨を出たら、泊めてくれるヤレる女。

 なんだ、それ。

「瑠叶」

 まだおろおろとしている彼の名前を呼ぶ。

「私、もう瑠叶とは会えない。一か月間、お世話になりました」

 そう言って、彼を部屋から追い出した。

「私の恋は、一体なんだったんだろう」

 一人きりになった部屋の中で、私はぽつりとつぶやいた。
 簡単に恋に落ちるなと、自分を戒めながら。

(終)