その日も、美咲美は「楓庵」の引き戸を開けた。
外はしとしとと雨が降り続き、湿った空気が店内に入り込む。いつも通りの静かな夜。しかし、今日はなぜか店の奥の席に誰も座っておらず、店内には美咲美と悠慎しかいなかった。
「今日も静かね。」
カウンターに座りながら、美咲美は濡れた髪をかき上げた。少し遅い時間だったこともあり、常連客の姿もない。
悠慎は黙って湯のみを用意し、彼女の前に置いた。
「風邪をひくぞ。」
低い声だが、その一言に優しさが滲んでいる。美咲美は口元に微笑みを浮かべ、湯気の立つ湯飲みをそっと手に取った。
「ねえ、悠慎。」
「…なんだ。」
「あなたの料理って、誰かのために作ってるの？」
悠慎の手が、一瞬だけ止まった。
「…そんなことはない。」
「本当に？」
美咲美はゆっくりと湯飲みを口に運びながら、彼の表情を探る。しかし、悠慎はすぐにいつものように包丁を握り直し、淡々と仕込みを再開した。
「作るのが好きなだけだ。」
「…そう。」
美咲美はそれ以上何も聞かず、静かにお茶を飲んだ。しかし、その視線はどこか探るようで、まるで彼の奥底にある何かを見抜こうとしているようだった。