湯気の立つ鍋を見つめながら、美咲美がぽつりと呟く。
「ねえ、悠慎。」
「…なんだ。」
「あなたにとって、大切なものって何?」
悠慎は手を止める。
「…考えたこともない。」
「嘘。」
美咲美は即答する。
「あなたの料理には、明らかに誰かを思う気持ちがあるもの。じゃなきゃ、こんな優しい味にならないわ。」
悠慎は答えなかった。ただ、静かに出汁をすくい、味を確かめる。
美咲美は、彼が過去を語ることを期待していたわけではない。ただ、少しだけ知りたかった。
彼がどんな思いで料理を作っているのか。
「…誰かのために作ってたことは、ある。」
悠慎がぽつりと漏らす。
美咲美は驚き、彼をじっと見つめた。
「誰?」
「…今はいない。」
それだけだった。
けれど、それだけで十分だった。
悠慎の中には、過去に誰かがいた。そして、その人のために料理を作っていた。それは、もう遠い記憶になっているのかもしれない。
でも――。
「今は?」
美咲美は、静かに問いかけた。
悠慎は、彼女の瞳を見つめたまま、わずかに息を吐いた。
「…今は、ただ作ってるだけだ。」
「ふぅん。」
美咲美は、それ以上何も言わなかった。
でも、彼がほんの少しだけ何かを話してくれたことに、彼女は確かな手応えを感じていた。