「楓庵」のカウンターには、いつものように美咲美が座っていた。
彼女がここに通うのは、もう当たり前のことになっていた。理由を聞かれたら、きっと「悠慎の料理が好きだから」と答えるだろう。でも、それが全てではないことに、美咲美自身も気づいていた。
「今日のおすすめは？」
「…ぶり大根だ。」
悠慎は短く答え、鍋の火を調整する。彼の声は相変わらず低く、表情もいつも通り無愛想だった。しかし、美咲美は気づいていた。
最近、悠慎は少しだけ変わってきた。
例えば、彼女が来ると、ほんの少しだけ目線を上げるようになった。以前は、客として扱われるだけだったが、今は確かに「美咲美」として見てもらっている気がする。
例えば、出されたお茶の温度。彼女が冷えた手を温めるのにちょうどいい温度になっている。偶然かもしれない。でも、それが重なると、決して偶然とは思えなかった。
「ぶり大根ね。楽しみ。」
美咲美は微笑みながら箸を取る。悠慎は何も言わず、静かに料理を仕上げていった。