雨音が静かに響く深夜、街の片隅に佇む小さな食堂「楓庵」は、ひっそりとした灯りをともしていた。店内には、どこか懐かしい木の香りが漂い、柔らかな照明が落ち着いた空間を演出している。カウンターの向こうには、鍋の湯気がゆらゆらと揺れ、出汁の豊かな香りが鼻腔をくすぐる。
この店の店主である**悠慎(はるちか)**は、黒い作務衣に身を包み、静かに包丁を握っていた。身長は高く、がっしりとした体格の彼は、一見すると近寄りがたい雰囲気を醸し出している。鋭い目つきに無愛想な表情、さらに低く抑えた声が拍車をかけ、知らない者からは「怖そうな男」と誤解されがちだった。しかし、彼の手元に目を向ければ、その印象はすぐに覆される。彼が持つ包丁さばきは驚くほど繊細で、食材に触れる仕草には愛情すら感じられた。
「…。」
悠慎は無言のまま、カウンターの隅で小さな白い皿を取り出し、ふわふわの出汁巻き卵を載せた。それをじっと見上げるのは、足元で丸くなった一匹の小さな子猫だった。毛並みの美しい茶トラ猫は、じっと悠慎を見つめ、彼が視線を向けると小さく喉を鳴らした。
「ほら、少しだけな。」
低く抑えた声で言いながら、悠慎は小皿に乗せた卵を細かく割り、ほんの少しだけ猫の前に差し出す。子猫はすぐに顔を近づけ、嬉しそうに食べ始めた。そんな光景を誰かが見れば、「無愛想で怖い料理人」のイメージとは真逆の優しさに驚くだろう。しかし、この食堂を訪れる客は少なく、悠慎の本当の姿を知る者はほとんどいなかった。
そんな静かな空間に、**美咲美(みさみ)**が現れるのは、偶然だったのか、それとも必然だったのか――
店の木製の引き戸が滑らかに開き、雨の夜に不釣り合いなほど洗練されたヒールの音が響いた。
「…こんな時間に、こんな店が開いているなんて、驚いたわ。」
美咲美は傘を畳みながら、店内を見渡した。彼女の姿は、どこかこの場にそぐわないように見えた。高級ブランドのコートを羽織り、髪はしっとりと整えられ、その立ち居振る舞いはまるで夜会に向かう令嬢のようだった。しかし、その瞳の奥には、どこか計算されたような冷静な光が宿っている。
悠慎は彼女を一瞥し、無言のままカウンターの席を指さした。
「食べるなら、座れ。」
美咲美は片眉を少し上げ、面白そうに口元を緩めると、悠然とカウンター席に腰を下ろした。
「ふふ、無愛想ね。でも、そういう男、嫌いじゃないわ。」
「…何を食う。」
「そうね…おすすめは?」
悠慎は少し考え、静かに「出汁巻き卵」と短く答えた。彼が作る出汁巻き卵は、ふわりと柔らかく、口の中でじんわりと優しい出汁の風味が広がる。見た目こそ素朴だが、丁寧に出汁をとり、火加減を極めた職人の技が詰まった一品だった。
「じゃあ、それを。」
美咲美は上品に微笑みながら注文し、指先でコートの襟を直す。その仕草は自然なものだったが、どこか場違いな空気を醸し出している。それを見て、悠慎は小さく息をつき、黙々と調理を始めた。
静寂の中、卵をかき混ぜる音、出汁を注ぐ音、そして火の上で卵がじわじわと固まっていく音だけが響く。
「…あなた、名前は?」
「名乗る必要はない。」
「ふふ、相変わらず無愛想ね。でも、あなたの料理を食べるなら、名前くらい知っておきたいわ。」
悠慎はしばし沈黙した後、低い声で答えた。
「悠慎だ。」
「悠慎…ね。いい名前。」
美咲美は目を細めながら、目の前に置かれた出来立ての出汁巻き卵を見つめた。そして、ゆっくりと箸をとり、一口食べる。その瞬間、ほんの少しだけ彼女の表情が変わった。
「…あら、美味しいじゃない。」
「当たり前だ。」
悠慎はそっけなく答えたが、その言葉にはどこか誇りが滲んでいた。
「あなた、無愛想で怖そうな見た目のくせに、料理の腕は本物ね。」
「…見た目で判断するな。」
「ふふ、面白いわ。もっと話したくなった。」
美咲美は楽しそうに笑い、再び箸を進める。彼女の目は、悠慎の静かな手さばきを追っていた。
――この出会いが、二人の間にどんな変化をもたらすのかは、まだ誰も知らない。