「あ……」
 一気に体から力が抜けてしまって、文乃(あやの)はふらついた。
 さっきまで壁のところにいた典堂が、機敏に動いて、文乃の体を前から抱えた。
 典堂の手を借りて文乃は寝台に横になる。
「……す、すみませ」
「謝らないで」
 典堂が鋭く文乃の言葉を遮った。
「私は医者だから、あなたにこれを聞かせる許可を出し、監督を引き受けたの。だから謝られる立場にないの。これは私の仕事の内なの」
「なる……ほど……」
「うん」
 典堂が優しく微笑んだ。
「今日はここまでにしておきましょう」
 典堂がそう言って、文乃の傍を離れ、神倉に向き合う。
「ね、若旦那」
 ふかふかの寝台に埋まると、典堂の背中で神倉の顔は見えなくなった。
 神倉が今どういう表情をしていて、何を見ているのかわからなくなる。
「……いや」
 神倉はそう言うと、前に出た。
 神倉がこちらに近づくとその顔が見える。表情は変わらない。淡々としている。先ほど一瞬見せた悲しみはもう消えていた。そして神倉は典堂の横を通り過ぎて、寝台の上から文乃を見下ろした。
 なんだかこの人には見下ろされてばかりだ。
 しかし身長差を考えると、神倉が座ってでもいないと、文乃が神倉より上になることはあまりないだろう。
 神倉は背が高い。
 今のところ比較対象にできる男性は祓井しかいないが、祓井より頭一個分背が高い。その祓井も典堂中山ハナよりは背が高いので、男性としては普通かそれ以上くらいの身長だろう。
 そんなどうでもいいことをぼんやりと考えた。
「まだ君の疑問には何も答えられていない。怖い医者が睨んでいるから、すべてを話す時間はないが、ひとつくらいなら答えられる」
「…………」
 疑問。そんなのたくさんある。
 今までが間違いだったのなら、これから先はどうしたらよいのか。これからどうなるのか。
 そもそも神倉は文乃を何故あの座敷から連れ出してくれたのか。間違いだったのなら、何故もっと早く誰か来てくれなかったのか。
 神倉は自分に何を求めているのか、ここで何をしたらいいのか。
 今までの人生はただ筆で文字を書くだけでよかった。それしかなかった。
 そうだ。筆はどこに行ったのか。
 今までが間違いなら、これから文字は書かなくていいのか。
 文字を書くのは別に嫌だったわけではない。義務になったことは苦しかったけれど、文字を書くことは母との思い出だ。やめたいわけじゃない。
 そういうあれこれをじっと考えた。考えて、考えて、ふと思い出した。
「お名前、教えてください」
「え?」
 神倉が気の抜けた声を出す。それがちょっとおかしかった。
「あなたの下の名前、教えてください」
 文乃はまだ神倉の名前を知らなかった。
 神倉の目がわかりやすく驚きに見開いた。しかしすぐに静かないつもの表情に戻って彼は口を開いた。
「ソウジュウロウ――宗家(そうけ)の宗に、十字路の十、おおざとへんの郎で、宗十郎だ」
「宗十郎さん」
 頭の中に文字を思い浮かべる。神倉宗十郎、それがこの人の名前。
 もう今はそれだけで良いと思った。
「……おやすみ」
 宗十郎がそう言って立ち上がる。
「……おやすみなさいませ」
 こんな挨拶すら、ずいぶんと久しぶりだった。
 宗十郎が遠ざかっていく。
 今まで静かに控えていた中山とハナが動き出す。
 中山が綿入れを脱がしてくれる。ハナは布団をかけ直してくれる。
「何、あんた名前も教えてなかったの!? 何なら教えてるの!?」
 典堂の大声が聞こえてくるのを聞きながら、文乃は目を閉じた。

 眠りに落ちるのはあっという間だった。
 体とそれ以上に頭がずいぶんと疲れていた。

◆◆◆

 目を覚ます。さすがに二度目は部屋の違いに驚くことも、寝台から落ちることもなかった。明るい部屋、ふかふかの布団。
 そういえば、まだ明るい。
 宗十郎が文乃の座敷を訪ねてきたのは午前中、朝食のちょっと後だったから、まだ夕方になる前くらいの時間だろうか。二度も寝てしまったから、時間感覚がおぼつかない。
 この部屋には窓はあるが、カーテンが閉まっていて、外の光は漏れてくるものの、その光だけでは何時かまではわからない。
「お目覚めですか」
「ひゃわっ」
 急に声を掛けられ、変な声が出てしまった。部屋の隅にはハナがいた。すっと背筋を伸ばして壁際に立っている。まさか文乃が寝ている間中、そこに立っていたのか?
「いえ、中山さん、典堂さまと交代しながらでございます」
「そ、そうでしたか。ありがとうございます……」
 どのくらいの時間が経ったかはしらないが、3人で交代するにしたって、立って待つのは辛かろう。文乃は慌てて頭を下げる。
「いえいえ、仕事ですので」
 そう言うとハナは笑った。相変わらずぱっと明るい笑顔だった。まぶしい。
「典堂さまから、文乃さまがお目覚めになったら、お水を飲ませるようにとの指示がございました。飲めますか?」
 そう言いながらハナは寝台に近づいてきた。
 お水。言われてようやく気付いたが喉はカラカラだった。
 寝台の横の小さな机に透明な水差しと半透明のコップが置かれていた。塵塚の家は古風な家だったので、あまり洋風のものは置いていなかった。ただ母が病気になったあとは、薬を飲むのにコップを使っていた記憶がある。
 ハナがさっと水を入れてくれる。コップを受け取り、水を飲む。
「ふう……」
 水の冷たさが五臓六腑にしみわたった。
「差し出がましいこととは思いますが、宗十郎さまをお呼びする前にお着替えをされてはいかがでしょうか?」
「え、あ、はい。します。したいです」
 先ほどの目覚めでは、綿入れを羽織っていたとはいえ、襦袢のままで宗十郎に対応してしまった。宗十郎だけではなく祓井もいた。それを思い出すと顔に熱を持ってしまう。着替えてよいなら、着替えてしまいたい。

 ハナが着物を持ってきてくれた。
 てっきりこれまで着ていた普段着が持ってこられるかと思ったが、ハナが持ってきたのは知らない青の着物だった。
「こちら典堂さまのお下がりです。神倉家には年頃の子女がおりませんで、奥様、つまり宗十郎さまのお母様の着物ではいささか古すぎると」
 別に年頃の子女の着物でなくとも、着られるだけでありがたいのだから、そのようなこと気にしなくともよいのに。そう思った。
 洋装は着慣れていないから遠慮したいが、奥様のお下がりどころか、女中頭の中山が着ていた着物だって、文乃のこれまでの衣裳と比べれば十分すぎるほど上等である。
 とはいえ、すでに用意された着物を前にわざわざそんなことを主張することもない。寝台から降り、着付けを手伝ってもらう。
 典堂が持ってきてくれたのは単衣(ひとえ)小袖(こそで)。春の終わりのこの時期にちょうどよいつくりだ。淡い水色の着物地に紫色の菖蒲(あやめ)柄。帯は格子模様で、着物より色濃い青色でできている。
 個性的な格好をしていた典堂のお下がりと聞いて少し身構えたが、ごく普通のおしゃれ着という印象である。
「あの……典堂さんってお近くにお住まいなんですか……?」
 やって来たばかりの文乃のために着物まで持ってきてくれるとは。
「えっと……準備中に持ってらっしゃいました。念のためって……」
 ハナが急に言いよどんだ。
 準備中。
 典堂、それに祓井が文乃のためにやってくれたことを考えると、文乃を神倉別邸に迎え入れる準備ということになるだろうか。
 つまり、文乃がまともな着物の替えを持っていないことを彼らは予想できていたということか。
 いまいち外で自分の扱いがどうなっているのか、よくわからない。
 そこらへんをわざわざハナに聞くのもためらわれた。
「そうなんですね」
 文乃は話題を変えることにした。
「この着物の帯は後ろで結ぶんですね」
「ああ、働かれている方で前帯は今時珍しいですものね。典堂さまは白衣を着るために普段から前帯になさっているらしいですよ」
 なるほど。今まさに背中で帯の結び目を作っているが、これの上に白衣を着るのは、布が引っ張られて不格好になりそうだ。
「ですから、こちらは典堂さまがお医者様になられる前の着物ですね。もう使わないから、遠慮なく使ってと仰せでした」
「お優しいのですね、典堂さんは」
「そうですねえ」
「ところで典堂さんのあのかっこう、袖はどうしてらっしゃるのかしら」
 振袖はもちろん、色留袖であろうと、白衣の中に着物のゆったりとした袖が納まるとは思えなかった。
「袖は短いですね。えーっと、あの。(たもと)が短いって意味じゃなくて、腕に対してそもそも短いんですよね。たすきをかけるまでもなく二の腕が出ちゃってて……道着みたいになってらっしゃいます」
 ハナが自分の二の腕の真ん中あたりを手刀で示す。典堂の袖はそこまでしかないらしい。
 どうやら白衣を脱ぐと、なかなか前衛的な姿になっているようだ。
「あと白衣の前を閉めると松の模様が隠れるから、そのままお葬式に行けて便利とかなんとか」
 医者だからお葬式には縁があるのか、そもそも松の模様を隠したところで、白衣でお葬式に行ってよいものなのか。
 いや、そもそも典堂は怪異専門医と言っていたか。普通の医者だと思う方が間違いなのかもしれない。

 怪異。
 魔、邪、霊鬼神魔。いろいろな呼び方がされる理外のもの。
 呪いも含めて、そういうものがあることは身をもって知っていたが、それを専門とする医者がいるのは知らなかった。
 幽霊を成仏させる話や、鬼を退治する話などは読んだことがあるから、そういう役職なら、まだ理解できる。しかし医者の話はあっただろうか。記憶にない。しかし、文乃が知らないだけで、世の中にはあるのかもしれない。
 そもそもそれを言うなら、自分の力もまだ不思議だ。塵塚家の呪いではないという。
 それなら結局何なのか。
 半分は文車家由来の力だと宗十郎は言った。しかし文乃には文車家の人間と付き合いはない。座敷に篭もっていたからばかりではない。思い返せば母の葬儀にだって、母方の親戚はいなかった。
 あれは宗十郎の言っていた文車家で不幸が相次いでいたせいだったのだろうか。
 そして宗十郎の口ぶりからすると、母が死んでしまったのも、どうも文車家に理由があったらしい。
 しかしそれからもう十年だ。
 全滅でもしていない限り、文車家の人間は今ならさすがに余裕があるだろう。もろもろの説明をしてくれるのかもしれない。
 だが文乃の元に来たのは神倉宗十郎だった。
 宗十郎は文乃本人より文乃の事情を知っているようだが、どう知ったのだろう。
 塵塚家が神倉家と特別親しいという話も聞かない。
 聞かないが、そういえば祓井がこう言っていた。
『おとなしく文車(ふぐるま)家の人呼んでください。神倉さん、せっかく伝手(つて)はあるんですから』
 神倉家には、あるいは宗十郎には、文車家に伝手がある。
 つまり神倉にあるのは塵塚家との縁ではなく、母の実家、文車家との縁なのだろうか。
 そうなってくるともうわからない。座敷に篭もりきりだった文乃にそういう外の話が届くわけもない。
 理外のことは書物にはそうそう書かれない。書物に書かれていないことは、文乃の元には届かない。
 今の世の中では理外のことのほとんどが、もうなかったこととされている。
 古い化け物退治の話は残っていても、今となってはおとぎ話だとされている。
 文乃のような生きているだけで手から墨があふれるような妖しげな人間など、今の世の中では存在してはならないのだ。
 ふと、手を見る。貧相でか細く、血色が悪い白い手。
 この手で文乃はいつも字を書いてきた。悪いものを、あふれさせないように。
 ああ、そうだ。午前に書いていた文字の分ではまだ足りないはずだ。書かなければ今日にだって墨があふれてしまう。
 墨があふれたら、せっかく借りた着物も汚れてしまう。あの日の部屋のように、あの日の布団のように。
「あ、あの、ハナさん、私、私の筆、ご存じありませんか。私、私、文字を書かなければ」
「ごめんなさい。存じ上げません」
 ハナが申し訳なさそうに頭を下げた。
「わたくしは、それに中山さんも、そちら側の……なんといいましょう物の怪? の話のことはよく知らないのです。わたくしなんぞは普通の家の出です。神倉家に雇われたとき、そういうものがあるとだけ知っておいてくれ、指示に従ってくれと申しつけられている程度で……」
「そうですか……」
「お役に立てず、申し訳ありません」
「いえっ、いえ……」
 謝られたことに驚いて、慌てて首を横に振る。それはハナが悪いのではない。何も知らない文乃がただただ悪い。

 そうこうしているうちに、着付けは終わった。
 ハナは髪も()いてくれた。こうして身なりを整えてみると、これまでの自分が突然、恥ずかしくなってしまう。
 襦袢のまま対応した自分。
 すり切れた着物とボサボサの髪で座敷にいた自分。
 宗十郎は、初めて自分を見たときどう思ったのだろう。あまりのみすぼらしさに、がっかりしなかっただろうか。
 ちくりと胸が痛んだ。

 ハナに勧められ、ソファに腰掛けた。ハナは宗十郎達を呼んでくると言って、一旦退室した。
 ソファに座るのは初めてだった。これまたふかふかしていて、身の置き所に困った。なんだか気合いを入れていないと、転げてしまいそうだった。
 ソファの前にはテーブルがあったが、天板が膝くらいの高さだった。これで書き物をするには腰をずいぶんと折らなくてはいけないだろう。
 いっそ絨毯に正座をしてしまってもいいのかもしれない。しかし、この部屋は土足なのだ。文乃もソファに移るに当たって、スリッパを履かされた。土足の床に正座というのもいかがなものか。

 ああ、書く場所がほしい。書く紙がほしい。書く筆がほしい。落ち着かない。

 紙ならあると宗十郎は言った。しかし書く場所があるとは言ってくれなかった。そんな騙し討ちを今更されるとも思えないが、どうしても不安はくすぶった。
 とにもかくにも筆と紙。これさえあれば、文乃は安心できる。
 次、宗十郎に質問の機会があるのならこれについて聞こう。文乃はそう決めた。