夜遅く、神倉宗十郎は、疲れた体を引きずり、自分の神倉別邸に帰った。
 この季節は夜もまだ蒸し暑い。

「お帰りなさいませ、宗十郎様」
 中山が出迎えてくれる。
「ただいま、文乃さんは?」
「お部屋でお休みです」
「わかった。夕食は握り飯を置いておいてくれ、後でいただく。中山ももう休め」
 宗十郎はまっすぐ二階へ上がる。

 冬一の一件が済んでから、文乃は三日昏睡していた。
 その間、腕からは例の墨が溢れ、ベッドや部屋を黒く汚した。
 宗十郎はその間、文乃のベッドのそばから離れず、また中山やハナが止めるのも聞かず、その掃除を自分で行った。
 宗十郎が文乃にしてやれるのは、そのくらいだった。
 命に別状はないとは典堂のお墨付きであったが、それでも胸を締め付けた。
 呪いも墨も彼女にとっては常だとしても、改めて目の当たりにするのは辛いものがあったし、何より腕の傷跡が痛々しかった。
 こんなに傷ついてまで、宗十郎を文乃は助けようとしてくれた。
 そんな彼女に、宗十郎は何を返せるというのだろう。

 しばらくして目を覚ました文乃は、一ヶ月の絶対安静を言い渡された。
 今は宗十郎は冬一周りの処理に追われ、ろくに彼女との時間が取れていない。
 夜、眠る前のあるいは寝てしまった文乃のそばにたたずむことしかできていない。

 文乃の部屋のドアを叩く。
 返事はない。
 寝ていても開けてよいと彼女から許可をもらっているので、宗十郎はそっとドアを開けた。
 かすかに明かりの灯る部屋。
 ベッドの中に彼女はいる。
 そっとそばに忍び寄る。
 黒い髪が顔の周りに絡みついていた。
 そっと指でそれをよけてみる。彼女の顔が見たかった。
「……わー!」
「うおっ!?」
 その少し間の抜けた大声が、文乃から出たのだと気付くまでだいぶ時間がかかった。
 出し慣れていない大声。
 体をのけぞらせ驚く宗十郎に文乃はふふと小さく笑った。
「あ、文乃さん……起こしてしまったか?」
「ええ。でも、珍しいものが見れましたから」
 文乃は嬉しそうにそう言った。
「……こんな醜態でよければ、いくらでも」
「宗十郎さん、部屋の電気をつけていただけますか?」
「ああ」
 明かりをつける。
 部屋中が明るくなる。
 その間に文乃は身を起こす。
「こちら、見てください」
 微笑みながら、文乃が衣桁のある方を指さした。
 例の裲襠は直しに出していた、その代わりそこには新品の着物がかかっていた。
 その柄は、紫陽花だった。
「……綺麗だ」
 月並みなことしか言えない自分がもどかしかった。
 きっと文乃が着たらもっと綺麗に見えるだろう。
 そのくらい気の利いたことをちゃんと言いたいのに、どうにも気恥ずかしいのか口から出て行かない。
「そうでしょう?」
 一ヶ月の安静を言い渡された文乃と、事後処理に追われる宗十郎。
 紫陽花を見に行く約束は、果たせなかった。
「紫陽花、見に行けなかったので、一着は紫陽花で仕立てていただこうと思ったんです。」
「うん」
「宗十郎さんと一緒に見たかったので……やっと見られました」
 そのいじらしさに宗十郎は余計に言葉に詰まる。
 自分が出来なかったとただ嘆いてたことを、彼女はどうにか成し遂げようとしている。
 なんとか言葉を絞り出す。
「……来年は、これを着て見に行こう」
「はい!」
 文乃が笑う。キラキラと笑う。
 この笑顔が見られただけでも、値千金だと自分に言い聞かせる。
「お仕事、まだ忙しいとは思いますけれど……、落ち着いたら私の次の着物を一緒に選んでくださいませんか?」
「一緒に……。俺にはそういう素養がまったくないが……」
「はい、ハナさんから聞きました」
 何を聞いたのやら。あのおしゃべりの使用人が彼女に何を吹き込んだのか、心当たりはありすぎるほどにあった。
「それでも、選びたいのです。……あなたに選んでいただいた着物を、着てみたいのです」
 文乃が頬を染めてうつむいた。
「……わかった。必ず」
 夏の着物はあらかた仕立てたと聞いている。次までまだ時間はあるだろう。
「秋になるまでに、絶対に時間を作ってみせる」
「ご無理はなさらないでくださいね」
 ベッドの上から文乃が、気遣わしげにこちらを見上げた。
「うん」
 宗十郎はうなずいた。
「……宗十郎さん、ええと、お話ししなければいけないことが、いくつかあって」
「うん」
「夜が遅いのですが……お時間いただけますか?」
「もちろんだ」
 文乃がベッドの端をなでつけ、ならしてくれる。宗十郎はそこに腰掛けた。
「今日お客様がいらしたのですが……」

 文車奏子の来訪について語る文乃の表情はコロコロ変わった。
 時に楽しげで、時に憤り、時に悲しげで、そして照れてみせた。
 宗十郎は気付けばその表情を眺めるのを楽しんでいた。

「…………」
 話し終えると、さっきまでの饒舌が嘘のように、彼女は黙り込んでしまった。
 ひとまず文乃が保管していた奏子の手紙に目を通す。
 本当に当たり障りのないことしか書いていなかった。
「……会いに行かれるのですか?」
「うん」
 宗十郎はうなずいた。
「それが俺の責務だから」
「そうですか……」
 文乃が心配そうな顔をしている。
「……兄は、文車の呪いについては何も話してはくれないと思う」
 宗十郎は自分に言い聞かせるようにそう言った。
「宗十郎さん……」
「それでも会いに行きたい。それを文車家が許してくれるのなら」
「そう、ですか……」
「大丈夫。家に帰れば君がいるんだ。百人力だ」
「……私なんて半人前にも至りません」
 文乃はそう言って微笑んだ。
「どうして宗十郎さんが選んでくださったのか、今でもわからないんです」
 奏子は彼女に何も言わなかったようだ。奏子らしい気まぐれなのか、奏子らしい気遣いなのか。
「腹が立ったんだ」
 ぽつりと宗十郎はそう言った。
「……え?」
「君の境遇を知って、腹が立った。だから、壊そうと思った。……それだけなんだ、すまない」
「……いえ」
 文乃は静かに首を横に振った。
「そのおかげで、私、ここにいられます。……人生万事塞翁が馬、です」
 どこか決意のみなぎる顔で彼女はそう言った。
 人生万事塞翁が馬。そういえばそれは奏子の口癖だった。
 文乃もその言葉で励まされたのかもしれない。
「私、宗十郎さんのそばで、頑張って胸を張ってみます」
「頑張らなくていい。君はいてくれるだけでいい。俺にはそれだけで十分だ」
「十分ではないです。呪いは解かないと」
「うん、そうだな、最初はそのためだったけれど……」
 文乃を見つめる。
「今はただあのとき、手を伸ばしてくれた君が恋しい。それ以上を望むなんて贅沢だ」
「…………」
 文乃はしばらく考え込んでいた。
「いえ、望んでください」
 まっすぐ宗十郎を見つめ返して、文乃はそう言った。
「贅沢を言ってください。私に望んでください。宗十郎さんに、そうしてもらえればそうしてもらえるほど、私、頑張りたくなるから。何をしていいかわからなかった私が、それをしたいって思えるから……」
「そう、か」
 言いたいことがたくさんある。無理をしないでほしいとか、そういうことがたくさん。けれども今一番言いたいことは、それではなかった。
「果報者だ、俺は。愛する人にここまで言ってもらえるなんて」
「愛する人……」
 文乃がぽかんと口を開けた。
「ん……」
 思い返してみれば、愛の言葉をしっかり口にしたのはこれが初めてだっただろうか。
 自覚してから、ここまで多忙に追われてろくに話もしていなかったのだから当然である。
 文乃の顔をうかがう。驚き。遅れて恥じらい。
 口を少しもごもごとさせて、何か言いたそうなそぶり。
 宗十郎は、待つ。
 逸る気持ちを必死に抑えながら、彼女を待つ。
「嬉しい……」
 文乃からこぼれ落ちてきた言葉には万感の思いがこもっていた。
「……私、あなたに……恋を、しています」
 そう言って塵塚文乃は顔を真っ赤にしながら微笑んだ。
 宗十郎は思わず手を伸ばす。
 不安になるほど細くて、たおやかな文乃の体。
 壊してしまうのではないかと不安になりながらも、宗十郎はその腕の中に彼女を強く抱き締めた。

 蒸し暑い夜は、更けていく。