神倉(かみくら)は力の抜けた文乃(あやの)の体を抱き上げた。見た目以上に、薄く、軽く、か細い体だった。
 顔は青白いが、呼吸は一定。すぐに対処すべき容態ではなさそうだ。
 彼女の(まと)う着物は春も終わるというのに、裏地のついた(あわせ)だ。外に出るのには少し暑そうだが、座敷に篭もりきりだった彼女には、ちょうどいいのかもしれない。色はくすんでしまった薄曙色。柄のない色無地。それもところどころすり切れ、ほつれている。仮にも華族の末席に名を連ねる塵塚家の子女にはふさわしくない粗末なものだ。
 文乃の着物と神倉の手の間に、彼女の髪の毛が入り込んでいた。手のひらの感触から、もつれ、傷んでいることがわかる。
「…………」
 ひとまず、筆を探す。彼女が失神前に取りこぼした毛筆。墨で汚れてしまった床へと目を向ければ、存外すぐ近くに転がっていた。
 見た目には何の変哲もない筆は、しかし先ほどまで含んでいた墨はどこへやら、筆先が白くなっていた。
「…………」
 ほんの少し悩んでから、神倉は一旦筆を放置した。どのみち長持を持ち運ぶのに人員が要る。
 ずかずかと座敷を出る。いくつかの部屋を抜けた先に、ようやく外の光が見えてきた。
 文乃の座敷はずいぶんと奥にあった。改めてそう思い、彼女のこれまでの境遇を思った。

「お疲れ様です、神倉隊長」
 縁側の外、こぎれいな庭には、神倉と同じ軍服を着た人間十人ばかり待機していた。
「予定通り結界を壊し、カミを斬った。これ以上の対処は不要だ」
 軍人がうなずく。
「座敷の床に筆が一本転がっている。その筆と長持を運んでくれ。長持には文車家の家紋がついている。長持の(さお)はあるか? 塵塚の人間に聞いて、あるなら長持を運ぶのに二人、案内役にもう一人だ」
「はい」
 棹はあった。塵塚家のどこからか持ってきた棹を携えて、三人の部下が座敷の奥へ向かっていった。
「神倉隊長、予測通り、集まって来ています」
 ひとり、遠くの空をじっと見ていた軍人が、神倉に声をかけた。
「ああ、わかった。こちらは急ぐ。後は任せる」
「はい」
 神倉は庭に降り、正門を目指す。
 歩いている途中、塵塚家の人間が目に入った。家の外に出て、ざわめいている。使用人の中に、一段と仕立てのよい着物を着た壮年の男女がいた。文乃の父と義母だろう。
 足を止める。
 彼らをじっと見つめる。
「……塵塚文乃嬢の父上とお見受けするが」
「は、はい……」
 怯えた声が男から返ってきた。
「申し上げたとおり、文乃嬢はいただいていくが、何か娘御(むすめご)に言っておくことは」
「ご、ございません、何も。どうぞ神倉さまの思いのままに」
 文乃の父親はそう答えた。夫婦は揃って目線を下にやり、小刻みに震えていた。
 恐れている。こちらを視界にも入れたくないと言わんばかりだった。
 恐れているのは、文乃か、神倉か、あるいはもっと別のものか。
「暴れたものは斬った。もう畏れることはない。汚れてしまった畳の弁償はするので、費用を神倉の本家に請求してくれ」
「いえ、いえ、弁償など、滅相もございません」
「そうか。それでは失礼する」
 これ以上、この二人から得られるものはない。そう判断し、神倉はまた歩き出した。
 正門に足がかかろうとしたとき、後ろから駆け寄ってくる音が聞こえた。
 振り返ると、先ほどの塵塚夫人よりもさらに年配の女が何かを抱えてこちらへ向かってきていた。服装は茶色い着物にたすきをかけている。使用人だろう。
「こ、こちらをお持ちください」
 女がそう言って差し出してきたのは、淡い桜色の風呂敷だった。
「それは?」
「……文乃さまのお母様の形見でございます。お着物のほとんどが処分されてしまいましたが、これだけは残しておきました。……いつか、文乃さまに着ていただける日がくるのなら、僥倖でございます」
「……そうか」
 神倉はうなずいた。
 正門の外には車が止まっていて、その横に運転手が待機している。彼は軍人ではない。神倉家の使用人だ。神倉は運転手に視線を送る。
 運転手はうなずき、女から風呂敷を預かった。
 そのまま風呂敷は車の助手席に置かれた。
 その間に神倉は文乃を後部座席へと寝かせた。
 部下達が長持と筆を持ってきた。筆は神倉が預かり、長持は他の車に運び入れさせた。車へ戻り、運転手に声をかける。
「出せ、急いで戻る」
「はい」
 車が走り出す。塵塚家が遠ざかっていく。
「うん。まず、ひとつだ」
 神倉は小さくつぶやき、目を伏せた。しばしの休憩。やるべきことは山積みだった。

◆◆◆

 文乃は目を覚ました。
 ずいぶんと変な夢を見た。まずそう思った。
 知らない人がやって来て、自分に結婚を申し込む夢。そして座敷の結界を壊し、文字を切り伏せる夢。
 まさに夢だ。(うつつ)とは真逆の夢物語。
 思えば、神倉という姓を文乃は何かで読んで知っていた。カミ楽という名字を持つ人がいるのは知っている。しかし具体的な個人のことを知らない。だから夢の中ではついぞ彼の下の名前がわからなかったのかもしれない。
 そこまで考えてから、違うと気付いた。

 だって、ここは明るい。

 文乃の住む座敷は暗かった。襖は次の間に続いているし、窓もないから、外から明かりは入らない。夜、寝るときはろうそくを消してしまう。だから起きたときはいつも暗いのだ。
 しかし、この部屋は明るい。つまりいつもの文乃の座敷ではない。
 胸がどくんと高鳴った。
 明るさに気付くと、他の感覚も違いを告げてくる。
 まず寝ている場所の感触が違う。
 文乃は今、暖かな布団の中にいた。厚くふかふかした布団。感触で分かる。あまり汗をかかない文乃が、少し汗ばんでいるほど、ここはあたたかい。
 寝起きでぼんやりとした視界の中、手を敷布団の上に滑らせる。左右あちこち手探りをする。上体を起こそうとしながら、さわり心地のよい布の先に手を伸ばす。
 そして伸ばした先の布団が、急に消えた。
「ひゃっ!?」
 手が虚空に落ちる。引っ張られて、体もいっしょに落ちる。
 ああ、自分は寝台の上にいたのだ、と落ちながらようやく気付いた。
 そして文乃はどすんと床に落ちた。
「いっ……」
 幸い寝台の高さはそこまでなかったが、痛いものは痛い。しばらく痛みで床に転がる。
 落ちた先もまたふかふかしていた。寝ていたところにはすべすべとした布が敷かれていたが、こちらはふさふさとしている。毛だ。
「……絨毯(じゅうたん)、だ」
 上体を起こして、改めて注視する。
 落ち着いた赤茶色を基調とした絨毯。それが曲線が印象的な異国風の模様で彩られている。
 文乃は床に座り込んだまま、ぽけーっと絨毯の模様を眺める。曲線の先をずーっとたどる。
 物珍しくて、いくらでも眺めていられた。

 こんこん。

 不意に部屋の中に音が響いた。文乃は跳ね上がる。
「失礼してもよろしいでしょうか?」
 年配の女性の声。どうやら突然の音は、部屋の外から戸を叩いた音だったようだ。
「はい!?」
 とっさに裏返った声で返事をしてしまったが、地面に落ちた無様な状態で返事をするというのもいかがなものか?
 慌てて立ち上がろうとして、裾を踏んで、またしゃがんでしまった。
 はて、自分の着物の裾はこれほど長かったか?
 疑問に思って、服装を見ると白い襦袢(じゅばん)一枚を身につけているばかりだった。どうやら寝ている間に着替えさせられていたらしい。
 そんなふうに文乃がどたばたと無意味な格闘をしていると、いつの間にか部屋に人が入り、近づいてきていた。
「あ、文乃さま!? 大丈夫ですか!?」
 女は、見るも無惨な文乃の様子を見つけたか、慌てて近づいてきた。文乃の名前を知っている。神倉の手配した誰かだろう。
「だ、大丈夫です……」
 結局立ち上がれないまま、なんとか文乃は返事をした。
「そ、そうでございますか……?」
 ひとまず顔を上げた先には、おろおろとこちらを見下ろしている年配の女性がいた。
 白髪交じりの黒髪をきりりと結い上げて、縞模様の紺色の着物の女性。上品な雰囲気が漂っている。
「あのー、中山さん」
 年配の女性の後ろから、さらにもうひとり、若い女性の声がした。
「とりあえず文乃さまをベッドにお戻ししてよろしいでしょうか」
 そちらを見ると、洋装の女性が控えていた。
「そうね、ハナちゃん、よろしく」
「はい」
 中山さんとハナちゃん、一旦ふたりの名前を頭にたたき込む。
 ハナちゃんは白と黒の洋服を着ていた。フリルのついた割烹着のような白く長い服の下に、黒い首の長いワンピースを着ている。頭にも白い布でできた飾りをつけていた。色合いこそ地味だが、かわいらしい格好だと文乃は思った。
 ハナがこちらにやってくる。
 慌てて文乃は再度立ち上がろうとする。ハナがさっと手を広げ、文乃の体を正面から支える。
 びくりと体が跳ねる。人に触れられるのはずいぶんと久しぶりだ。いや、そういえば気を失う前にも神倉に運ばれはした。あのときは反応する元気がなかったし、そのまま気を失ったから、ちょっと忘れていた。
「このままお運びしますね」
 ハナの導きで、文乃はやっと寝台のふちに座ることができた。
「ありがとうございました……」
 息も絶え絶えに文乃は頭を下げた。ただ床から寝台に戻るだけで、一生分の運動をした気分だった。情けない。あまりにも弱々しい。
「いえ、いえ」
 ハナは笑った。ぱあっと明るい笑顔。ああ、誰かの笑顔を見るなんて、いつぶりのことだろうか。
「文乃さま、お体に具合の悪いところはございませんか?」
 文乃の状態が落ち着いたのを見て、中山がそう声をかけてきた。
「だっ、大丈夫です」
 反射的に答える。
「そうですか……」
 中山はまだ心配そうにこちらを見ていたが、いったん切り替えて、もともとしゃきっとしていた背筋をさらにすっと伸ばした。
「わたくしは中山と申します。こちらの神倉別邸で女中頭を任されています」
「……別邸」
 ここは神倉関連の場所だろうとは思っていたが、別邸らしい。何しろ相手は上位の華族だ。別邸の一つや二つ所有していてもおかしくない。
「はい、そちらの説明については主人の方から、おいおい。こちらメイドのハナです。年も近いので、ひとまず文乃さまの担当となりました」
「ハナと申します」
 ハナが頭を下げ、続けた。
「まだまだ至らぬ未熟者ですが、どうぞよろしくお願いします」
「はあ、いえ、こちらこそ……」
 至らぬというなら文乃の方がよっぽどだ。
 ハナのように人の体を補助して座らせることなど文乃にはできない。そのような肉体労働はおろか、笑顔すらおぼつかない。そもそも返事も薄ぼんやりとしている。ハナに勝るところがいっこもない。
 ハナが未熟というのなら、文乃など熟すどころか実すらつけていない枯れ木のようなものである。
「文乃さま、主人がそろそろ参りますので、一旦こちらを」
 中山が無地で灰色の綿入れを差し出してきた。文乃は慌てて袖を通す。前をささと閉め、待っていると、先ほどと同じく、こんこんと戸を叩く音がした。心なしか中山が叩いたときより力強い音だった。
「俺だ」
 神倉某。未だに名前を知らない男の声がした。
「はい」
 中山が返事をして、戸の方へ向かう。それを目で追いかけながら、ようやっと部屋の様子をうかがう。
 部屋は洋室のようだった。
 木と紙と畳で出来ていた文乃の座敷とはまるで違う。
 床は絨毯に覆われていた。壁は白いがよく見ると模様が見える。漆喰(しっくい)のようにざらざらしてはいない。布か何かが貼られている。戸は引く襖ではなく、外側に開く木の板だ。
 中山が戸を開く。蝶番の音とともに、神倉が中に入ってきた。服装は最初に座敷に来たときの軍服のままだ。
 そういえばあれからどれくらいの時間が経ったのだろう。いまさら気になる。
 神倉はまっすぐ寝台に、文乃に目を向けた。
 彼は小さくうなずいた。
「……気分は」
「も、問題ありません……」
 答えながら、何故か文乃の顔は下を向いていた。中山やハナの視線とは違い、神倉の視線を受け止めるのはなんだかとても難しかった。
 最初に出会ったときは、あまりにもいろいろなものが急で、ただ神倉の言葉に流されるままだった。しかし少し落ち着いてみると、この男相手には妙に気後(きおく)れしてしまう自分がいた。
「さっそくでもうしわけないが、説明の前に確認しておきたいことがいくつかある。人を呼んでも構わないだろうか」
「はい、どうぞ、あなたが望むままに」
「…………」
 どこか物言いたげな沈黙とともに文乃をしばらく眺めるてから、神倉は戸の方へ戻った。出て行くのかと思えば、彼は戸の外にいる誰かに何やら呼びかけていた。
 次に何が出てくるのか、文乃にはまったく想像がつかなかった。