起きる。眠い。明らかに寝不足だ。夢見が悪くてほとんど寝ていない。
 八橋。杜若と流水の上の橋の着物を着る。

 食堂に降りると、宗十郎がいた。本日は軍服姿だった。
「……ご出勤ですか?」
「いや、正装だ」
「ああ……」
「……眠れたか?」
 宗十郎がこちらの顔を見る。どうやら顔色が悪いようだ。
「……あんまり」
「そうか。途中で眠くなったら無理せず休んでくれ」
「はい」
「朝の散歩も、やめておこうか?」
「あ……」
 どうしよう。考えていなかった。
 体はそこまで疲れていない。
「……少し、外の空気を吸いたいです」
「わかった」
 宗十郎がほのかに笑った。少し安心してくれたようだった。
 それほど自分は酷い顔をしているのだろうか。どうにも鏡を見る習慣が身につかない。

 朝食が運ばれてきた。

 文乃はあまり食欲もなくて、少なくしてもらっているにもかかわらず、残してしまった。
 胸がずきずき痛んだ。

 朝食後、外に出た。今日も良い天気だった。思えばここに来てからずっと良い天気だ。
「ここら辺は、いつもお天気がいいところなんですか?」
「うん? いや、特別そういうわけでもないな。山の方だから、霧が出ると一気に視界が悪くなる。夜はもちろん、昼間でも気をつけた方がいい。そういえば夜に外に出たことはまだないか」
「そうですね……」
 今のところ夜に外へ出る必要も生じていない。
「ここから見る月も星もきれいだから、今夜……は無理か。今度いっしょに見よう」
「はい」
 一気に夜に外へ出るのが楽しみになるのだから、我ながら単純だ。

 今朝は散歩というよりも庭を眺めながら過ごした。
 館の壁沿いを歩くと、西洋式のテーブルと椅子が庭に置いてあった。
「館や調度は大体西洋式なのに、お庭は日本式なのですね」
 鉄製のテーブルを物珍しい気持ちで眺めながら、文乃はつぶやいた。
「祖父が館を建てた頃はまだ西洋の植物があまり本邦に入ってきていなかったらしい。中途半端な庭にするよりは、日本式の庭にしたいというのが祖父の意向だったようだ。これがしっかりした庭の造りなのかは、俺は知らないけれど」
 宗十郎は庭を眺めながら、そう言った。
「具体的な庭の形式は枯山水くらいしか思いつきません……」
「ああ、あれもわかりやすく見えて、なかなか奥が深いらしいな」
 そんな雑談をして、散歩を終えた。

 典堂と祓井は連れだってやって来た。
「おはよー」
「おはようございます、お邪魔します」
 口々にそう言って、勝手にふたりとも食堂の椅子に掛けた。
 六個ある椅子の四つがあっという間に埋まる。
「文乃ちゃん、気分はどう?」
 文乃の隣に掛けた典堂が、もはやことわりもなく脈をとりながら、尋ねてきた。
「はい、大丈夫です」
「本当? ちゃんと寝れた? 緊張していない?」
「緊張はしてます……」
「そっかー。まあ、私もお兄さんに会うのは初めてだし、気楽に行こー」
「そうなんですね」
「というか、若旦那ともせいぜい半年くらいの付き合いだもん」
「えっ……」
 一年ほどこの館にいると言っていたハナより短い付き合いと言うことになる。
「とても打ち解けてるように見えてました……」
「私はわりと誰にでもこんな感じだしね。逆に若旦那は誰にでもどっかツンツンしてるし」
「悪かったな」
 宗十郎が苦笑混じりにそう言った。
「でも、文乃ちゃんには優しいわよねー」
「誰かさんが優しくしたいと思えない言動ばかりなだけだ」
 宗十郎がばっさりと切り捨てた。
「ひどいなあ。私はそんなんだけど、祓井と若旦那は古い付き合いなんでしょ?」
「まあ、一応親戚なんで、付き合いは代々ありますね。それこそ冬一さんが現れるより前からです」
 典堂に振られて、祓井が答えた。
「そうだ、文乃さん、帰り際に自分も声かけるようにしますけど、お互い紙の回収忘れないようにしましょうね」
「は、はい。お世話掛けます」
「いえいえ。これ、うっかりするとちょっと忘れそうなんで、もう少しいい仕組み考えたいですねえ」
 わいわいとまるで旧知の友のように会話が流れていく。

 不思議な感じがした。文乃がここに来て、まだ数日だ。それなのにこの人達と文乃はずいぶんとなじんでしまった。普通の人間関係とはこういうものなのだろうか。

 そうこうしているうちに、中山が食堂に現れた。
「宗十郎さま、冬一さまがお着きです」
「迎える」
 宗十郎がさっと立ち上がった。
 文乃も慌てて立ち上がる。
 宗十郎がこちらをチラリと見て、うなずいた。
「……典堂と祓井はここで待っていてくれ」
「はーい」
「はい」
 二人の返事を背に、二人は食堂から玄関へ向かう。
「……食堂にいると、玄関の音って聞こえませんよね」
 一昨日、宗十郎が帰ってきたときのことを思い出しながら、文乃はそう言った。あの日も、ハナが駆け込んできたから、宗十郎の帰りに気付いた。
「ああ、一階は音が通りにくくなっている。もうひとつ応接間があるが、そちらも同様だ。使用人室にはよく聞こえるようにできているから、人がいる限りは特に問題にならないが」
「なるほど。そういえば、私、毎朝、ハナさんを呼ぶのに鈴を鳴らしているのですが、あれって宗十郎さんうるさくないんですか?」
「たぶんその時間にはもう下に降りている」
「そうでしたか……」
「俺は呼び鈴は使っていないから、文乃さんを起こすことはないと思うが……」
「はい、大丈夫です」
「そうか、よかった」
 玄関に着く。
 そこには、もう人が着いていた。

 神倉冬一はすらりと背の高い青年だった。
 少し伸びたくせ毛、めがねを掛けている。鼠色の竪縞の着物に紺色の羽織を着て、手には風呂敷を持っている。
 顔には柔和な笑みが浮かんでいる。物腰柔らかで、落ち着いた雰囲気。
 宗十郎の兄とは言われていなければ、そうとは思わなかっただろう。
 それほどまでにふたりの雰囲気は違った。
 いかにも軍人といった風体の宗十郎と、まさに学生といった風情の冬一。
 あまりにも正反対である。
「おひさしぶりです、宗十郎さん」
「はい、ごぶさたしております、兄さん」
 宗十郎は頭を下げると、文乃を手のひらで示した。
「こちらが自分の婚約者、塵塚文乃嬢です。文乃さん、こちら兄の冬一です」
「文乃と申します、よろしくお願いいたします」
 文乃は頭を下げた。
「初めまして、文乃さん」
 柔らかな声で冬一はそう言った。
「どうぞ、お上がりください」
「はい。ああ、この家は土足だったね、いつ来ても慣れないなあ」
 朗らかに笑って、冬一は玄関から廊下へ下駄に包まれた足を踏み出した。

 冬一が軽くお辞儀をしながら、文乃の横を抜け、宗十郎に並ぶ。ふたりが歩き出す後ろに、文乃はついていく。
 横を抜けていった冬一からは、ほのかに墨の香りがした。文学の研究をしていると聞いた。墨書もたしなむのかもしれない。

 食堂では典堂と祓井が居住まいを正して、待っていた。
 先ほどまでのだらりとした空気は、どこへか消えている。
「ごぶさたしています、冬一さん」
 祓井が頭を下げた。
「ええ、お久しぶりです、清太郎(せいたろう)くん」
 祓井の下の名を文乃は初めて知った。
「兄さん、こちら典堂弥生さん。ええと、文乃さんの主治医をしていただいている」
「初めましてー、お噂はかねがね」
 紹介された弥生が明るく手を振った。
「お初にお目に掛かります。典堂家のお名前は聞いたことがあります」
「まあ、恥ずかしい」
 ころころと典堂は笑った。

「掛けようか」
 宗十郎に促され、皆、座る。
 宗十郎と文乃はいつもの席。
 文乃の向かいに冬一。
 文乃の隣に典堂。
 冬一の隣に祓井。
「冬一さま、お飲み物は何がよろしいでしょうか。日本茶は煎茶と緑茶と抹茶、他に紅茶やコーヒー、あるいは炭酸水などもご用意ございますが」
 中山がそう言った。炭酸水まであるとは初耳であった。
「では緑茶をいただこうかな」
「はい、少々お待ちくださいませ」
 中山が去って行く。
 部屋の中には五人だけになる。

 沈黙。

 何から話すか、誰から話すか、せめぎ合いを感じる。
 こういうときに普段ならしゃべり出しそうな典堂も何故か沈黙していた。
「ええと、ここまでいらっしゃるのに苦労はありませんでしたか」
 口火を切ったのは宗十郎だった。
「ええ、まあ、遠くはありますが、車で参りましたので」
「そうでしたか、明日の帰りは送ります」
「いやいや、遅くならないうちにさっさと帰りますから、気にしないでください、宗十郎さん」
「……自分が兄さんに長居してほしいので」
「おや、嬉しいことを言ってくれる」
 冬一が破顔した。
 兄弟の会話はどこかぎこちない。そもそもお互いに敬語を使っている。
 兄が弟をさん付けで呼ぶのは、妾の子故の引け目だろうか。宗十郎も言葉を選び選び話している。
 どこかぎりぎりの緊張感があった。

 お茶が配られ、一段落ついてから、冬一が文乃を見た。
「ところで、文乃さんのお着物の意匠は八橋ですか?」
「あ、は、はい」
 不意打ちに話しかけられて、文乃は慌てて返事をする。どもってしまったことを今更ながら恥じながら、典堂の方を見やる。
「こちらのお着物は典堂さんから譲っていただきました」
「そうでしたか」
「趣味がよいでしょう」
 典堂がにこにこと笑いながら続ける。
「冬一さんは文学を研究なさっていると宗十郎氏から聞いております。八橋、つまり伊勢物語にも造詣が深くてらっしゃるのかしら」
「深いというわけでもありませんが、まあ、雑談に乗れるくらいには、読んでいますよ」
「では、是非に芥川の話をいたしましょう。そして弟さんの微笑ましい話でもしましょう」
 こほんと宗十郎が少し咳払いをしたが、典堂はその程度では止まらない。
「芥川……?」
「鬼が出る段です。男が女を背負って駆け落ちするのですが、その際に渡った川が芥川ですので、特別その段の話がしたいときなどは、芥川と呼びます。八橋も地名ですね」
 冬一がすらすらと講釈を述べる。
 そうか今まで『鬼の話』としか呼んでいなかったあれは、芥川と言ったのか。
 典堂は知っていたようだが、宗十郎はどうなのだろう。
「そうでしたか、俺は随分昔に呼んだきりだったので」
「宗十郎さんは鬼や摩訶不思議な話はずいぶんと読んでいますもんね。雨月物語(うげつものがたり)も、耳嚢(みみぶくろ)も」
 冬一からは知らない書名が飛び出してきた。
「それはどちらも兄さんが勧めてくれた本ですね」
「おや、そうでしたか」
 冬一はめがねの奥の目を軽く見開いた。
「年はとりたくないものですね」
「お互いまだ二十代でしょう」
「ははは」
 宗十郎の反論に、冬一は笑った。
「そういえば鬼の話……芥川について文乃さんと話していて気付いたのですが、あの鬼は退治されないのですね」
「ああ、宗十郎さんはそちらが専門ですからね。気になってしまいますか」
「ええ、まあ」
「でも、退治されない鬼というのもままいますからね。歴史に名高い頼光四天王と対峙したことで有名な茨木童子は、鬼の首魁である酒呑童子が殺された後も逃げ延びたと言う逸話があります」
「そういえば……」
 宗十郎が少し納得した様子を見せる。
「まあ、伊勢物語の鬼は退治されなくて当然という見方もできますね」
「そうなのですか?」
「はい。あれは鬼と呼ばれているが、実は人だという見方です。本によってはそう説明書きまで添えているものもありますが……宗十郎さんが読んだ本にはありませんでしたか?」
「ええと……」
「ありませんでした」
 思い出そうとうする宗十郎に代わって、文乃が答えた。何しろ読んだばかりである。そのような説明があれば覚えている。
「なるほど。女性の素性についてと、鬼と呼ばれているのは女性の兄弟であるという説明が書かれているものがあるのです」
「きょうだい……」
「つまり攫おうとした女の家族に取り戻されてしまったのを、鬼に攫われたなどと言っているわけですね」
「それは、なんとも……」
 どう解釈していいか迷う話だった。
 文乃に置き換えてみれば、塵塚家がこの場所から、文乃を取り戻してしまったという話になるだろうか。それは確かに家族を鬼と呼びたくもなるかもしれない。
「あの話に鬼など存在しなかった……のですか……?」
 呆然と宗十郎がそう言った。
「あはははは」
 宗十郎の様子があまりに面白かったのか、典堂が笑い声を上げた。
 そこまで笑われてしまうと、なんだか気の毒になる。
「また他の解釈もあります。女が食われたとき、雷の音が激しく男には何も聞こえなかったとあることから、女は雷に打たれて死んだのだ、と」
「雷を……鬼にたとえた……」
「どちらにせよ、今は昔。本当のことは誰にももうわかりません」
 冬一がそう締めた。
 宗十郎はなんだか考えこむように首をひねっている。
「文乃ちゃんはどちらが好み?」
 典堂がまだ笑いの残る顔で尋ねてきた。
「家族に連れ戻された説と雷に打たれた説」
「ええと……」
 正直どちらも嫌だ。
「私は断然雷説。あんまりにも救いがないんだもの」
「救いがない方がお好みですか?」
 冬一が質問する。
「ええ、大好き。それに家族に連れ戻されて生きていましたなんて、じゃあもう一回攫いなさいよ、根性なしって思うわね。まあ、両思いだった場合だけど」
 典堂の言葉に文乃の思考は切り替わる。自分は攫われて幸福だったけれど、そうではない人だっているのだろう。
「たしかに……。女性にとってただの誘拐だったなら、鬼という名の家族に連れ戻されたのは、むしろ女性側はめでたしめでたしになってしまいますね……」
 男が勝手に泣いているだけだ。
「というか平安時代に駆け落ちなんてしたところで、ろくな生活できないからね。露も知らない箱入りお姫様抱えて逃げるなんて、無理無理」
「典堂さんは現実的な方ですね」
 冬一は楽しそうに目を細めながらそう言った。
「でも、ある程度同意です。伊勢物語『芥川』の悲劇は、あくまで男にとっての悲劇ではないか、と。雷説も兄弟説も、女性にとってみれば、一瞬で亡くなってしまうか、元の家に戻るかです。彼女の視点に立てば、前者なら悲劇を感じるいとまもなく、後者なら回帰の物語でしかないわけですから」
「はあ……」
 なんだか、難しい。
「宗十郎さんは? どうですか」
 文乃の疑問を察したのか冬一は弟に水を向けた。
「……俺なら、鬼を斬り、女性を取り戻します」
「うん、物騒ですね」
 冬一は苦笑いをした。
「添い遂げると覚悟を決めて連れ出したのなら、そのくらい当然のことです」
「……念のために聞きますが、君、文乃さんを連れ出したとき、文乃さんの家族を斬ったりしてませんよね?」
 強硬な宗十郎の返答に不安を感じたのか、冬一がそう言った。
 まさかとは思うが、気絶していた文乃には何も言えない。
「まさか」
 宗十郎がそう言った。
「さすがにそこまではしません」
「どこまでならすんのよ……」
 典堂が呆れた声を出した。

 会話が途切れる。ふと、ここまで無口な祓井が気になり、視線をやった。
 彼はじーっと冬一を見ていた。
「あのお」
 そして祓井が口を開いた。
「昔何かで読んだもので、少し気になる取り合わせがあるのですが、お聞きしてもいいでしょうか?」
「ええ、もちろん。自分に答えられることだといいのですが」
「塵塚と文車が出てくる文学って、お心当たりはありませんか?」
 宗十郎と典堂が怪訝そうに祓井を見た。
 塵塚と文車。文乃の父の家系と母の家系。
「塵塚、文車……。徒然草ですか」
「あー!」
 祓井が元気よく立ち上がった。
「それだー!」
 言うなり祓井は食堂を去ってしまった。
「……なんだ、あれ」
 宗十郎がぽかんと祓井が開け放った扉を見つめる。隅に控えていた中山がすすと歩み寄り、扉を静かに閉めた。
「あ……えっと、こないだ雑談の中で何かが引っかかってたみたいで……。文車家に塵塚があって、そこに紙を集めてる。あとは名は体を表すとかなんとか……」
 我ながら要領を得ない説明をしながら、文乃は手紙の中身を思い出す。塵塚家の物の怪。
「そうなのか。……兄さん、塵塚と文車がどうしたのですか?」
「そういう段があるんですよ。徒然草は随筆、筆者の考えが記されているものです。筆者曰く物が多いのは基本的にはみっともないが、多くともよいものについて、『多くて見苦しからぬは、文車の(ふみ)、塵塚の塵』と書いています。ここでの文は手紙ではなく書物ですね。あるべきところにあるとはいえ、書物とゴミをいっしょにしているところに、僕は兼好のアイロニーを感じます」
「あいろにい?」
 外来語に疎い文乃は首をかしげた。
「皮肉という意味です」
「皮肉……」

 塵塚と文車がいっしょになるのは、皮肉なことだったのだろうか。
 いや、皮肉だと思うのはあくまで冬一の感想だ。そして塵塚と文車を並べたのは徒然草の作者だ。
 そこに今のことがなんの関係があるだろうか。
 いや、悩んでいる時点で、関係は生じてしまっているのだ。文乃が、そして祓井も、今まさに関係ないと思えないでいるのだ。
「そういえば、徒然草には宗十郎さんが好きな鬼の話もありましたね」
「ありましたか」
「ええ、鬼がいるという噂を聞いて、多くの人が鬼を探して右往左往した。結局、鬼は見つからなかったが、探していた人たちは後に病気になってしまったという内容です。今なら、疫病のせいだと思われそうな内容ですね。鬼と言われていたのも、病人だったのかもしれません」
「鬼は見つからなかったのですか」
 宗十郎が尋ねた。
「ええ、残念ですか?」
 どこか楽しそうに冬一が訊く。
「そうですね、いたのなら、斬れたろうに」
「ははは、我が弟ながら勇ましい」
 冬一は笑った。
「いくらなんでも病人を斬らないでほしいわね……」
 典堂がぼやいた。

「ありましたー!」
 大声とともに祓井が食堂に戻ってきた。
「扉は自分で閉めろ、祓井」
 宗十郎が鋭く言った。
「あ、はい、失礼しました。すみません、あ、中山さん、自分でやります、やりますので……」
 中山が扉に向かおうとするのを制し、祓井は食堂の扉を閉めて、席に戻る。
「いやー、馬鹿みたいに探しましたよ。というか宗十郎さん、あの書棚はちゃんと整頓した方がいいですよ。せっかく専門家のお兄様が来ているんだから手伝ってもらうといい」
「お前、人の書斎と書棚を勝手に……」
「まあまあ、照れないで」
 宗十郎を祓井は軽くいなす。
 照れる。そういえば書棚を見られるのは気恥ずかしいと言っていたか。
「見られて恥ずかしいと思えるほど、自分の中身があるというのは、恵まれたことですよ」
 弟を眺めながら、冬一がふんわりと呟いた。

 その言葉は文乃の中にすっと落ちてきた。
 恥ずかしいと思うのは中身があるから。
 自分が書いた『宗十郎の元婚約者殿』という文字を文乃は恥じて、祓井に対しても隠した。
 あの文字には文乃の感情がこもっていた。文乃の中身があった。他の文字は疑問でしかなかった。
 文乃は『宗十郎の元婚約者殿』が気になる。
 これは嫉妬というものだろうか。
 とにかく、なるほど、恥ずかしい。
 自分というものが見えるのは、思う以上に恥ずかしいものである。

「で、何を探してきたの」
 典堂が話を進める。
「徒然草です」
「それならもう冬一さんが解説してくれたわよ……」
「え」
「あんな雑な質問で答えられる人なんだから、当たり前でしょ」
「…………」
「わ、私、読んでみたいです」
「はい……ここです……」
 祓井が本を開いたまま、隣の冬一に渡す。冬一は一旦文乃の方を見て、机の大きさに断念し、宗十郎に渡す。
 そして宗十郎から文乃に徒然草は手渡された。
「いやしげなるもの……」
 始まりを読み上げる文乃の横で、典堂が祓井を呆れた目で見やる。
「それで、それがなんなの」
「いや、思い出せて良かったなって……」
「それだけなの……?」
「いや、ですから、えっと……塵塚と文車がいっしょになる、ということに何らかの意味があったのかな、って……」
「なにそれ」
 典堂が顔をしかめた。文乃は徒然草を読む手を止め、顔を上げた。
「徒然草に綴られたということは、ざっと……五、六百年は書物の中で一緒だったってことでしょう?」
「ええ、徒然草の成立は鎌倉時代末期と言われていますからね」
 冬一が解説を挟む。
「だったら……もう表裏一体の術は完成していますよ」
「……流通しているような本で、ですか?」
 思わず文乃は尋ねていた。
「はい」
 祓井はこくりとうなずいた。
 信じ難いというか、想像がつかない。
「……つまり?」
 典堂が促した。
「文乃さんのご両親の縁組みには、何か意図があったのではないかと言うことです」

 しん……と場が静まりかえった。
 
「……まあ、そうだとして俺たちの知ったことではないな。二十年近く前の話だ」
 静かに宗十郎がそう言った。
 本当にそうなのだろうか、文乃は宗十郎の顔をうかがう。
「まあ、そうですよねー」
 しかし当の祓井が朗らかにそう言ってしまったので、それ以上何かを聞く機会はなくなってしまった。