次の日、用意されていたのもまた別の着物だった。
「……典堂さんって衣裳持ちなんですね」
「典堂家はお医者様の家系として高名らしいですよ。そこのご令嬢ですからね」
 典堂弥生という個人はあまりご令嬢という感じがしない。よく言えば気さく、悪く言えば大雑把な印象だ。
「きれいですねえ、花筏(はないかだ)
 にこにことハナが文乃の着物を眺める。
 今日の着物は灰地に、桜や菊などの花を乗せた木の筏が流水に流れている。
「行きましょうか」
「はい」
 ちらりと部屋を振り返る。文箱に目が行く。まだ開けられていない手紙。
「…………」
 また、後にしよう。
 もう少し気が乗っているときに。

 食堂には宗十郎と典堂がいた。
 本日の宗十郎は、動きやすそうな袴姿だった。無地の灰色。
 典堂はいつも文乃が座っている席の向かい側にいた。
「典堂さん」
「おはよう、文乃ちゃん。うん、それも似合っている」
 典堂は満足げにうなずいた。
 文乃が席に着くなり、典堂はぐいと身を乗り出し、口を開いた。
「どう、気分は? 昨日は疲れたんじゃない? 疲れは残っていない?」
「えっと……」
 自分の体について改めて意識を向ける。
「……体はそこまで疲れていないです」
 なんだかんだ朝の目覚めだって悪くない。
「どちらかというと、考えることがいっぱいで……」
「頭が疲れてる、か」
 典堂は笑顔を崩さずそう言った。
 同じく席に着いている宗十郎がじっとこちらを見ている。
「疲れたら、休む」
「はい」
「ちょっと食事前に脈だけ測らせてね」
「は、はい」
 典堂が立ち上がり、文乃の腕をとる。腕。白い腕。
 どくんと胸が鳴る。
 大丈夫。大丈夫。昨日だって、ちゃんと書いたのだ。白い。黒くない。大丈夫。
 駄目だ。動悸がする。脈が乱れている。
「……深呼吸してみよっか」
 典堂が軽い声で言った。
「はい……すー……はー……」
「うんうん。大丈夫」
 典堂が腕を放す。
「脈は問題なし、本日も散歩などしつつ、平穏に過ごしてください」
「は、はい」
 典堂が席に戻り、朝食が運ばれてきた。

 食事が一段落ついた頃、宗十郎が口を開いた。
「文乃さん、俺は兄を迎える準備のために今日は家にしばらくいる」
「わかりました」
「朝の散歩は行う。準備の間も何かあったら声を掛けてくれ」
「はい」
「文乃さんの方は何かあるか。伊勢物語以外に読みたいものなどあれば、先に書棚から探しておくが」
「ええと……。ごめんなさい、思いつかないです……。宗十郎さんのおすすめの本はありますか?」
 宗十郎は黙り込んで、深く考えこんでしまった。
「もっと気軽に考えればいいのに」
 たくあんをサクサクと噛みながら、典堂が茶々を入れた。
「文乃ちゃん、伊勢物語を読んだの?」
「えっと、昨日、典堂さんからお借りした着物が八橋だったので……」
「あー、あれ、伊勢物語だっけ?」
「は、はい」
「じゃあ花筏にまつわる物語でも読んだら」
「何があるんでしょうか」
「……何があるんだろ、興味ないのよね、文学とか」
 言い出しっぺが役に立たなかった。
「こういうのこそ、お兄さんが詳しいんじゃないの?」
 まだ考えこんでいた宗十郎に典堂は声を掛けた。
「ああ、多分」
 宗十郎は少し微妙な顔をした。
「まあ、物語なら無難に源氏物語とか竹取物語とかから読むのがいいんじゃない。あとは江戸の名作で……馬琴あたり?」
「竹取物語は家になかったと思う」
「なんでないのよ……」
「出てこないだろ、鬼も霊も」
「文乃ちゃん、若旦那のものの選び方はちょっとおかしいから、真似しちゃ駄目よ」
「は、はあ……」
 うなずくのも宗十郎になんだか申し訳なく、文乃は生返事でごまかす。
「源氏物語なら、あるんですか?」
「あれには生き霊が出てくるから、ある」
 そうなのか。知らなかった。
「……生き霊は斬れるんですか?」
「あんまり斬らない方がいいが、まあ斬れる」
 霊も斬れるのか。まあ、墨が斬れるのなら、何でも斬れるか。
「斬らない方がいいんですか……?」
「本職が斬ったら死ぬもんねえ」
「死ぬ……?」
「生き霊だからね。本体が死んじゃうの」
 なんともぞっとしない話だ。
「源氏物語なら探せばあるな。長いから数巻になってしまうが」
「それはしばらく本選びに難儀しなくて済みそうですね」
「それもそうか」
 宗十郎が少し微笑んだ。
「読み終わる頃には少しは体力もついているだろう。好みの本を探しに町に出るのもいい。そうだろう、典堂」
「うんうん。安心したわ、若旦那が自分の体力を基準にしてなくて」
「俺をなんだと思っているんだ」
「刀振り回すのが大好きな体力オバケ」
 典堂の即答に宗十郎はただ苦笑した。
「文乃ちゃん、竹取物語は、私の方で探しておくわ。多分持ってたはずだし」
「あ、ありがとうございます」
「言い出しっぺだから」
 典堂はそう言って微笑んだ。

 朝食を終え、宗十郎と再び外に散歩へ出た。
「今日は……どうしたものかな」
 庭をぐるりと見渡しながら、宗十郎がそう言った。どちらへ行ったものか、悩んでいるようだった。
「あの……せっかくなので私、茶室の方を見てみたいです」
「ああ、そうか、じゃあ茶室まで行って戻ろうか」
「はい」
 宗十郎が日傘を広げた。
 昨日とは違う方向、茅葺き屋根のある方へまっすぐ歩き出す。

「我が家の茶室は、便宜上茶室と呼んでいるが、どちらかというと、茶も点てられる離れと言った方が正確だ。母が住んでいた頃は母が茶会を開いていたが、今はほとんど使われていない」
「そういえば、私の使っている部屋も普段は使われていないとハナさんから聞きました」
「ああ、もとは客室だが……客室として使ったことは、俺の記憶にもないな」

 木々の間を抜け、茶室の前に到着する。
 木造平屋。宗十郎の言うとおり、単なる茶室と言うにはやや大きい。
 宗十郎は茶室の入り口に足を向けた。昨夜言っていたように鍵はかかっていないらしく、そのまま彼は引き戸を開けた。
 文乃はその背に続く。
「広い……」
 引き戸の外から並んで茶室を眺める。八畳の広さがあった。
「うん、今入ってきたところは貴人口といって、貴人をお迎えするための普通の入り口だ。普通は、あちらのにじり口から客も入るそうだ」
 宗十郎が茶室の中、横の壁を指さした。身をかがめないと入れないくらいの低い入り口があった。
「八畳のここは茶室でいうと広間になり、本来なら格式高い茶会に使う広さなんだそうだ。母が普段茶会を開くときは衝立を立てて、無理矢理四畳半にしてこぢんまりと使っていたが」
「宗十郎さんはお茶の心得が?」
「ない」
 宗十郎はきっぱりとそう言った。
「道とつくもので俺がかじったことがあるのは武道だけだ」
 なんとも宗十郎らしい。
「だが、文乃さんが興味があるのなら、神倉の本家にも茶室はある。母に頼めば、茶会も開いてくれるだろう。母が本家に持って行ったから、こちらには茶道具はほとんど残っていないんだ。仮に心得があっても、今、お茶を一服というわけにはいかない」
「興味はありますが、ちょっと恐れ多いです……。あ、でも、その、神倉家の人としてお茶を修めなければいけないのなら、もちろん私、努力します」
「いや、うちは代々無骨の家系で、母は実家で茶道をたしなんでいただけだ。この茶室も祖父が建てたのより後に、父が母のために建てたと聞いている」
「宗十郎さんのご実家らしいですね」
「ん、ははは」
 宗十郎が声を上げて笑った。
「うん、そうだ。俺らしい」
 なんだかしみじみと宗十郎はうなずいた。
 しばらく茶室を眺めていた。
 二人並んで、じっと過ごす時間。
 いくらでも続いてくれていい。そう思えた。

 茶室から神倉別邸に戻る道すがら、宗十郎が言った。
「中山が茶道の心得がある。興味があったら聞いてみるといい」
「はい」
 少し歩くと典堂が庭に出ていた。こちらに気付き手招きをした。
「これー?」
 典堂が指さしたのは、昨日の朝、文乃と宗十郎が眺め、結局名前のわからなかった紫の花だった。
「あ、はい、それです」
「クサフジだねえ」
「フジだったんですね」
「うん。あとあっちにはオオバクサフジもあるね」
 典堂が指さした先には草が生い茂っていた。
「もう少し夏になったら花が咲くよ」
「オオバクサフジ」
「見ればわかるけど葉っぱが大きいの、大葉」
「典堂さんはとても植物にお詳しいんですね」
「うん。いざというときは三日くらいなら野草だけ食べて生きられるよ、できれば冬以外がいいけど」
「どういう状況を想定してらっしゃいますか……?」
「それはもう医者の持つべき技能の域を越えていないか……?」
 文乃と宗十郎の戸惑いをよそにケラケラ笑いながら典堂は庭を見渡す。
「ちなみにフジも食べられるよ、マメ科だからね。食べ方や量には注意ね」
「食べられるんですね……」
「人の家の庭に咲いてる花を、畑の野菜を見るような目で見るな」
「あはは。じゃあ、私は戻るね」
「ああ」
「ありがとうございました」

 典堂が去って行くのを見送ってから、文乃と宗十郎は館に戻った。
 宗十郎達が神倉冬一を迎えるための準備をするというので、文乃は昼まで部屋で過ごすことにした。

 伊勢物語を開き、筆を握った。