放課後の図書室。大和は本棚の間を歩きながら、ふと足を止めた。

『イリュミナシオン』が、いつもの場所に戻っている。

(ここから、全てが始まったんだな...)

 本を手に取り、ページを開く。蓮が書き込んだ跡が、まだ薄く残っていた。

「私は美しい顔の中に全てを閉じ込めることができる――あなたの欲望も、絶望も、愛も」

 その言葉を目にした瞬間、美術室で見た無数の肖像画が脳裏に蘇る。あの時感じた恐れと、その奥に潜んでいた何か。今なら、その感覚の正体が少しずつ分かってきている。

 本を開いたまま、窓際の椅子に腰掛ける。この場所で蓮は、いつも大和を待っていた。夕暮れの光が差し込み、埃っぽい空気が琥珀色に輝く。

(あの時から、俺の中で何かが変わり始めていたのかもしれない)

 バスケの練習後、マッサージをしてもらっていた時のこと。蓮の指が触れる度に、なぜか心臓が高鳴っていた。それを「疲れているから」と誤魔化していた自分がいた。

 携帯を開く。着信履歴には、蓮からの未読メッセージが並ぶ。蓮の言葉が優しすぎて、逆に怖かった。あの純粋さに触れるたび、自分の心がどこに向かっているのか分からなくなるから。

 蓮からのメッセージには、いつもの切なさとは違う、何か決意のようなものが滲んでいた。

『先輩、今日の練習試合、目が離せませんでした。
あの接触プレーの瞬間、僕の心も痛みました。
でも、それ以上に...強く、美しい先輩の姿に魅せられて...』

 大和は携帯を握りしめる。これまで無視してきたメッセージの数々。その一つ一つに、蓮の想いが刻まれていたことに、今更ながら気づく。

(心配、してくれてたのか)

「大和先輩?」

 突然の声に、携帯を落としそうになる。声の主は、図書委員の男子生徒だ。

「加賀見君、最近見かけませんね。美術室で一人で絵を描いてる姿を見かけました。でも不思議なんです。前みたいに楽しそうじゃないというか...」

 大和は息を呑む。

「今日も、怪我した先輩のことを心配そうに...」

「俺、行くわ」

 立ち去ろうとした時、『イリュミナシオン』の間から一枚の紙が床に落ちる。それは大和の横顔のスケッチ。蓮が本の栞がわりに挟んでいたのだろう。汗で濡れた髪が風になびく瞬間を切り取った繊細な線。その隅には、小さな文字で記されていた。

(これは...)

『この想いは、計算外でした。
でも、それこそが本物なのだと気づきました。
先輩の傍にいられなくても、この想いは消えない。
だから──』

 続きは書かれていない。だが、その未完の言葉こそが、蓮の本心を物語っているようだった。

 窓から差し込む夕陽が、スケッチに描かれた大和の横顔を優しく照らしている。まるで、蓮の想いそのもののように。

(俺も、もう逃げられないんだ...)

 夕暮れの図書室で、大和は初めて自分の気持ちと向き合おうとしていた。蓮への恐れが、いつのまにか愛おしさへと変わっていく。その変化は、もう止められない。


――✲――✲――✲――✲――✲――


 翌朝、教室に向かう廊下。朝日に照らされた窓際に蓮が立っていた。

「おはようございます、先輩」

 振り向いた蓮の表情には、昨日の切なさは見えない。ただ、いつもの穏やかな微笑み。でも大和には、その笑顔の裏にある想いが、痛いほど分かった。

「ああ、おはよう」

 その言葉には、これまでにない温かみが混じっていた。

「先日のこと...怖がらせてしまって、申し訳...」

 蓮が言いかける。その声が僅かに震えているのに気づく。

「怖くなんてない。それがお前なんだから」

 大和は蓮の言葉を遮った。

「お前の想いは、ちゃんと受け取った。ただ...」

 言葉を探す間、蓮の瞳が揺れる。

「少し時間が欲しい。お前の気持ちの重さを、きちんと受け止めたいから」

「先輩が望むなら、僕はいつまでも待ちます」

 蓮は柔らかく微笑んだ。けれど、その瞳の奥には、どこか支配欲を感じさせる光が宿っていた。

「俺が部活の時」

 大和は少し視線を逸らしながら言った。

「まだ、描き続けてるのか?」

「はい。先輩の全ての表情が、僕にとっては宝物ですから」

 その言葉に、胸が熱くなる。こんなにも真っ直ぐな想いを向けられることが、嬉しくて、そして、切なかった。

「そうか」

 大和は悪戯っぽく微笑む。

「なら、もっと近くで見てみるか?」

「え...?」

 大和の顔が蓮に近づく。蓮の頬が赤らむ中、大和は肩を叩いてその場を去った。朝の鐘が鳴り響く。この瞬間が永遠に続けばいいのにと、蓮は思った。

 だが、それは違った。永遠に続くのは、この先始まる二人の物語。光と影が織りなす、歪な愛の形。それは、まだ誰も見たことのない絵のように...