黄昏時の美術室。大和は部活動で使う備品を取りに来ていた。絵の具とテレピン油の匂いが漂う中、窓から差し込む夕陽が埃っぽい空気を琥珀色に染めていた。

「確か、奥の物置にあるはずなんだけど...」

 薄暗い廊下を進み、物置の扉を開ける。しかし、そこは違う部屋だった。大和の目が闇に慣れていく中、エジソンランプのぼやっとした灯が、異様な光景を浮かび上がらせる。

「なっ...」

 息を呑む音が静寂を切り裂く。壁一面に描かれた無数の自画像。全て、大和の肖像画。バスケの試合中の汗まみれの顔。授業中、窓の外を見つめる横顔。マッサージの時の無防備な姿まで。それらが、まるで生きているかのように大和を見つめ返していた。

 震える手でスケッチブックを開く。ページには細かく記された日付と、大和の行動記録。

「4月15日午後3時24分、図書室で眠る。長い睫毛の影が美しい。まるで蝶が羽を休めているよう」

「5月2日午前10時15分、廊下で友人と談笑。笑顔が輝いている、この角度のEライン凄く綺麗」

「これは…全部、俺…?」

「これは僕の聖域なのに...」

 背後から響く蓮の声に、大和はゆっくりと振り向く。月光に照らされた彼の表情には、これまで見せていた儚げな美しさの奥に潜む、黒い炎のような情熱が宿っていた。

「なんで、こんなに俺の絵を描いてるんだ...?」

蓮は微笑んだ。

「...それは、先輩の全ての瞬間を残しておきたくて...」

 一歩近づく蓮の目には、懇願するような光が宿っていた。

「僕は、あなたのすべてを愛しているんです。狂おしいほどに」

「狂ってる…」

 大和は声を荒げたが、その怒りの裏には、理解できない感情が渦巻いていた。

「怖いですか?」

「ああ。いつから描いてるんだ…?」

「半年前からです。僕の想いは本物だって分ってくれましたか...?」

 大和の胸の中で、怒りと戸惑いが激しく渦を巻く。蓮のこの狂気じみた行為が、本当に愛の形なのか。それとも、ただの歪んだ執着なのか。

「お前、これが愛だというのか?」

「はい...僕の愛の形です...」

 蓮の声が静かに響く。

「この絵の一枚一枚に込められた想いを...偽物だと?」

 大和は後ずさる。しかし、その目は蓮から離れない。心の中で怒りと戸惑いがぶつかり合う。常識では拒絶すべきなのに、蓮の瞳に映る真っ直ぐな想いに、何故か完全には背を向けられなかった。

「お前の愛は...俺を縛るだけのものか?」

「いいえ。先輩が望むなら、距離を置きます。でも...」

 蓮が一歩近づく。その目には決して折れない強い意志が宿っていた。

「僕の世界は、先輩が中心にいます。先輩がいなければ、全てが色を失い、僕は…息も出来ないんです。先輩は僕の酸素だから…」

 大和の胸がざわめく。理解できないはずの言葉が、不思議と胸に引っかかる。

「お前、何を…言ってるんだ?」

(コイツ…本当に、俺が受け入れないと死ぬってこと…?)

「愛しています」

 蓮の告白が、静寂を切り裂く。その声は、儚く、鋭く、そして限りなく美しい。

「狂いそうなほど、先輩を」

 その瞬間、蓮の純粋さと狂気が交錯する美しさに、大和は息を呑んだ。その姿は妖しく、そして深く心を揺さぶった。

「先輩が『もう俺に近づくな』って言ったら…僕はきっと、この世界から消えるでしょう」

 その瞬間、大和は何かが崩れ落ちる感覚を覚える。蓮の狂気の中に、確かに温かさがあり、それが恐ろしく、でも同時に心地よかった。

「...少し、時間をくれ」

 部屋を後にする大和の背中に、蓮の切なげな眼差しが注がれる。このままでは、取り返しのつかない何かが始まってしまうだろう。そう感じながらも、大和は足を止めることができない。むしろ、その狂気じみた愛に引き寄せられていく自分がいる。

 その夜は眠れなかった。そして、気がつけば、夜明け前の池のほとりに足を運ぶ。