新緑の風が窓を揺らす中、蓮はスケッチブックを開く。ページの中で、大和は静かに微笑んでいた。

「先輩の影も光も、全て愛しているのに...」

 半年前の出会いまで遡る日記を広げる。大和との出会いは、蓮の人生を変えた瞬間。蓮の世界にカラフルな色彩が加わった日。それは単なる恋愛以上の、存在の再定義だった。

 その日、図書委員の蓮は本を整理していた。午後の柔らかな光が差し込む図書室で、ランボーの『イリュミナシオン』を開いていた時のことだ。

「私は美しい顔の中に全てを閉じ込めることができる――あなたの欲望も、絶望も、愛も」

 詩に目を落としていた瞬間、低い声が静寂を破った。

「えっと…どこにあるんだろう」

 顔を上げると、そこには大和青葉が立っていた。剣道部とバスケ部の主将として知られる彼が、図書室で本を探す姿は意外で、それだけで心を奪われた。

(初めて見る至近距離の彼は、思っていたより美しいな…ギリシャ神話の登場人物のような神々しさも兼ね備えている…)

「何かお探しですか?」

 思ったよりも、震えた自分の声に蓮は驚く。大和が振り向いた瞬間、時間が止まったような気がした。ブルーローズの花びらのフラワーシャワーが舞い、胸が高鳴る音だけが脳内で響きわたる。

「ああ…武術の本を探して。『武士道』とか、『禅と剣術』みたいなやつ」

 普段の凛々しい姿とは違う、戸惑った表情で、思わず微笑んでしまう。本棚の間を案内しながら、彼の気配を感じた。その存在感は、まるで月光のように清らかで、確かな熱を感じた。

 探していた本を差し出した瞬間、指が触れ合った。一瞬の接触が、永遠のように感じられた。

「あの...ついでに、これもどうですか?」

 差し出したランボーの詩集に、大和は眉をひそめた。

「詩集?」

「武術の精神と詩の世界は、意外にも似ているんですよ。特にこの詩は...」

 その瞬間から、全てが始まる。計算ずくで仕掛けた出会いから芽生えた想いは、皮肉にも本物の愛へと変わっていった。

 その日以降、蓮は図書室で彼を待つようになる。大和は週に一度、決まって図書室を訪れた。最初の出会いは偶然だったが、それ以降は全て計算済みの「偶然」である。武道の本を借りに来る時は、どこか初々しい表情を見せ、その姿は、体育館での凛々しい佇まいとは違う、誰も知らない一面だった。

 蓮はその瞬間から、彼の「鏡」になることを決めていた。最初に仕掛けたのは、体育館裏で不良に頼んで助けてもらうという、陳腐なシナリオだった。優しい大和は、計算通り蓮を助けて、それから会うきっかけが出来、顔見知りになれた。

 何度も偶然の出会いを装って、色んな場所で遭遇したが、全てが待ち伏せ。大和はいつも優しく対応し、最近では蓮にも少し好意を持っているように見えた。

 最初から、正々堂々向き合っていれば、と後悔した事もあったが、蓮にはそれが出来るわけがない。彼は美しすぎたのだ。蓮が思う「美しい顔」その物だった。

 いくら反省しても、この罪は消えない…

(先輩が許してくれるまで、謝り続けるしかない。僕の愛を受け入れてくれる日を願って…)

――✲――✲――✲――✲――✲――

 半年前の話に戻る。図書室での最初の出会いから、一週間後。

 蓮は放課後の図書室で、いつものように本の整理をしていた。そこに大和が現れた時、心臓が大きく跳ねた。借りていた『禅と剣術』を返却しに来たのだ。

「加賀見、また会えたな」

(あなたに会いたくて待ち伏せしているんです。いつもいるでしょ?とは言えない…)

「はい!」

「またランボー?」

 大和は蓮の手元の本を覗き込んだ。その仕草は、以前よりも自然になっていた。

「はい。今日は『地獄の季節』です」

「その詩集も貸してくれないか?」

 予想外の申し出に、蓮は一瞬言葉を失った。

「この間の『イリュミナシオン』が面白かったんだ。特に...なんていうか、言葉の向こう側に見える風景が」

 大和は少し照れたように頭を掻いた。その仕草に、胸のトキメキが止まらない。

「お前の言った通り、何か引っかかるものがあるんだ」

 その瞬間、彼の瞳に映る光が、蓮の心に矢を刺した。武道に打ち込む彼が、詩の言葉に魅せられる姿。その二面性に、蓮は息を呑んだ。

「先輩は、美しい矛盾を持っているんですね」

 思わず漏れた言葉に、彼は首を傾げた。

「矛盾?」

「はい。厳格な規律と繊細な感性。強さと優しさ。相反するものを、先輩は自然に併せ持っているんです」

 大和は少し困ったように笑った。その表情が、また新しい「顔」として蓮の中に刻まれていく。

「実は、俺も自分でよく分からないんだ」

 大和は窓際に寄りかかりながら言った。

「強くなきゃいけない。でも、それだけじゃない気がして」

 その言葉に、蓮は震えるような衝動を覚えた。

(ああ、これが運命なんだ)

「先輩...剣道の試合の時と、今の表情は全然違いますね」

 思わず口をついて出た言葉に、大和は少し驚いたような顔をした。

「俺の事、よく見てるんだな」

(見てます。いつも、どこでも、先輩の全てを!)

 蓮の頭の中では常に二つの声が交錯していた。一つは計算高い自分、もう一つは純粋に大和を想う自分。

「これは単なる芸術的観察ではない」

 祈りに似た感情が胸を満たす。母から受け継いだ「見えすぎる目」は、大和の中に完璧な美しさを見出した。その美しさは、蓮の心を根底から揺さぶった。

「先輩は僕の芸術であり、信仰であり、全て」

 蓮は、大和という「美しい顔」の中に、自分の全てを閉じ込めようとしている。欲望も、絶望も、愛も――全てを。そうして蓮は、大和への想いを重ねながら、少しずつ距離を縮めていった。計算の中で育まれた想いは、誰にも予測できない本物になっていた。

(先輩...あなたは、僕という鏡の中で、どんな顔を見せてくれるのでしょう)

 水無月の陽が傾きかける頃、蓮は今日も大和を待っていた。若葉風に揺れるカーテンの向こうで、彼の姿を追う。一枚また一枚と絵を描き続ける。描くたびに、想いは深まっていく。