蓮の部屋には、二つの影が色濃く残っていた。本棚に並ぶフランス文学や詩集は母の置き土産。整然と並べられた画材は父から受け継いだもの。
「人は誰でも、二つの顔を持っているのよ」
10歳の蓮は、母の膝の上でランボーの『地獄の季節』を開いていた。まだ理解できない言葉の海の中で、母の声だけが道標のように響く。
「表の顔と、心の中の顔。でも、どちらも本物なの」
窓際に立つ母は、夕陽に照らされ、その姿は美しく、儚かった。
「美しいものには、必ず影があるの。光があれば影ができるように。
でも、その影まで愛せる人こそが、本当の愛を知っているのよ」
それが、母が去る前の最後の言葉だった。翌日、母の姿は消えた。
中学2年の蓮は、久しぶりに父親に母の話を聞いた。
「父さん、なんで母さんは僕たちを置いて行ったの?」
「お前のお母さんは...感受性が強すぎたんだ。人の心の闇まで見通してしまう目を持っていた。でも、見えすぎることは時として残酷なんだ」
その夜、蓮は父の言葉の意味を考えながら、母の残した詩集を開いた。母から受け継いだ「見えすぎる目」は、やがて大和という完璧な被写体を見出すことになる。
(母は人の心の闇まで見通してしまう目を持っていた、と父さんは言った。僕も同じ目を持っているからこそ、大和先輩の中に完璧な美を見出せたのかもしれない)
与えられなかった母親からの愛を、大和を愛することで埋めようとしているのだ。
「僕は見られることを恐れていた。だから、自分から見る側になったんだ」
愛と狂気の境界線は、母が残した詩集のように曖昧で美しい。その境界線上で、蓮は今日も大和への想いを募らせていく。



