気付けば、蓮の存在は大和の日常に溶け込んでいた。

 若草の香る風が、廊下から吹き込んでくる。大和の髪が、その風に僅かに揺れる様子に、蓮の胸は高鳴った。昼休み、購買でパンを選ぶ大和に蓮が声をかける。

「大和先輩、このメロンパン、今日は焼きたてですよ」

「また来てたのか。そんなにパンが好きなのか?」

 蓮は微笑みながら首を振る。その瞳には、パン以上に「好きなもの」が映っていることは明らかだった。大和が去った後、深いため息をつく。偶然を装うことに、少しずつ疲れを感じ始めていた。

「計画は順調なのに...」

 胸の奥がチクチクと痛む。計算外の感情の芽生えに蓮は驚く。大和の笑顔に、純粋に心が躍る。それは演技ではない、紛れもない本物の感情だった。

 放課後、図書室の薄暗がりで蓮が囁く。

「先輩、僕にとってあなたとの出会いは、運命以上のものなんです」

 大和の表情が一瞬揺れる。その微細な変化を、蓮は逃さない。彼の視線は、ただの好意ではなく、もっと深い何かを孕んでいた。

「僕は、先輩の鏡になりたいんです」

 大和は眉をひそめた。

「鏡?」

「はい。先輩の光も、影も、すべて映し出す存在に」

 その言葉に、大和は戸惑いの表情を浮かべた。

「それって...俺のことを観察したいってこと?」

 蓮は一瞬言葉に詰まった。大和の鋭い直感に、計画の一端が見透かされたような不安が走る。

「観察...というより、理解したいんです」

 慎重に言葉を選びながら、蓮は続けた。

「先輩の中にある、誰も知らない一面まで」

 その言葉に、大和は返す言葉を失った。

「蓮、お前って本当に…」

「狂ってますか?これが僕の愛なんです」

 蓮は微笑みながら言った。その笑顔の奥に潜む狂気を、大和は見逃さなかった。しかし、その危うさに自分の感情が揺さぶられることを、隠せない。

 そして、この狂気じみた愛に、どこか安らぎを感じている自分に気づいていた。


――✲――✲――✲――✲――✲――


 学園祭準備の日の朝。美術室で、蓮は昨夜描き上げた大和の肖像画を見つめる。キャンバスに映る横顔は、青嵐に揺れる体育館のカーテン越しの一瞬を切り取ったもの。汗で濡れた髪が輝き、真摯な眼差しが遠くを見つめていた。

(もう、隠しきれない)

 昨日の放課後。マッサージの最中、大和が見せた表情が蓮の心を揺さぶった。背中に触れる度、大和の呼吸が乱れ、首筋が紅潮していく。その反応は、蓮の計算を超えた、演技では作れない本物の感情を示していた。

「こんなはずじゃ...」

 大和の背中に触れる度に、計算された冷静さが崩れていく。温もりを確かめるように、自分の掌を見つめる。

「先輩の反応は計算通り。でも、この鼓動は...」

 予定外の感情が溢れ出す。大和への気持ちが、観察対象から恋愛対象に変わっていき、蓮の心を侵食し、もう止められない。

「計画が狂う...」

 蓮はスケッチブックを開いて、大和の背中を克明に描写する。筋肉の一つ一つ、骨格の曲線まで、全てを記憶したように描いていた。これはもう単なる記録ではない。愛する人の姿を永遠に留めておきたいという、純粋な願いなのだ。

「完璧...先輩の全てが、僕のものに...
これは芸術でも観察でもない。これは...」

 指先で絵の輪郭を優しくなぞる。瞬間を切り取った数々の素描は、観察の記録から愛の形へと変わっていく。最初は冷静に計画を進めていたはずなのに、いつの間にか想いは制御不能になっていた。

「でも、まだ足りない。もっと、先輩の全てを...
先輩は、僕のことをどう思っているのかな?」

 蓮は自分の指先を見つめる。大和の背中の感触を覚えている指が、微かに震えていた。計算通りに動いていたはずの心が、予想外の方向に向かう。

 大和の純粋な想いを、感じれば感じるほど、蓮の中で罪悪感が膨れ上がっていく。全ては計画通り。大和の心を掴むことにも成功したのかもしれない。でも、その過程で予想外の感情が芽生えてしまった。

(これ以上、先輩を騙し続けることはできない)

 ただの憧れが、本物の愛に変わってしまった。狂おしいほどの執着と純粋な愛が混ざりあう。その変化に、蓮自身が戸惑っていた。

「愛しているからこそ...全てを告白しなければ。この想いが、先輩の心に届くことを...」

 真実を告げれば、大和は離れていくかもしれない。それでも、嘘の上に築かれた関係を続けることはできないのだ。本物の愛を感じたからこそ、真実を伝えずにはいられない。

 雨音が、美術室の窓を叩き始めた。

 蓮は決意を固める。

(先輩の純粋な想いを、これ以上汚すわけにはいかない)

(たとえ、この想いが届かなくても)

 蓮は最後に、スケッチブックの新しいページを開いた。そこに描かれたのは、告白後の大和の表情。想像でしかない、その絵には悲しみと怒りが混ざっていた。

(これが最後の肖像画になるのかもしれない)

 窓の外は、強い雨。まるで、これから起こる嵐を予感させるように。

――✲――✲――✲――✲――✲――

 雨季特有の重たい空気が、教室を満たしていた。学園祭の準備で誰もいない放課後、黒板に装飾を付けながら、大和は違和感を抱いている。

「今日、お前変だな?何か変な事考えてる?」

「いいえ、緊張しているんです。ちょっと…」

(全てを、告白しなければ)

 蓮は黒板の装飾を手伝いながら、胸の高鳴りを抑えられなかった。

(これ以上、嘘をつき続けることはできない。この想いが、歪んでいようと、狂っていようと...)

 それは些細な変化の積み重ねだった。図書室での視線が執着めいていること。休み時間の「偶然」の出会いが増えすぎていること。そして何より、マッサージの時の指先に宿る、抑えきれない感情のような震え。

「先輩」

 大和が振り返ると、蓮が立っていた。白い肌が曇天の光に青白く照らされている。その姿は、まるで月光に照らされた薔薇のように儚く、そして危うかった。

「話があります」

 その声にはこれまでにない重みがあり、覚悟のようなものが滲んでいた。
大和は黒板の装飾から手を離し、蓮に体を向ける。窓を叩く雨音が、二人の間の緊張を高めていく。

(これで全てが終わる)

「僕たちの出会い...」

 蓮は一度、深く息を吸った。その仕草に、いつもの優雅さはなく、準備していたはずの言葉が、喉に引っかかる。

「全て、僕が仕組みました」

 教室の空気が、一瞬で凍りついた。大和の瞳に、信じがたいという感情が浮かぶ。

「体育館裏での助け...あれは僕が計画しました。不良たちに、お金を払って協力してもらったんです」

 言葉が、一つ一つ刃となって、大和を突き刺す。

「図書室での再会も、パンの差し入れも...待ち伏せしてたんです」

 蓮の声が震えている。

 大和の中で、何かが音を立てて崩れていくのが表情に現れていた。今までの違和感が、一気に形を成していく。深い悲しみと怒りが混ざった表情をしている。

「どういう事だ?」

 大和の声が低く響く。その瞳には、裏切られた悲しみと、理解できない何かへの戸惑いが混ざっていた。今まで感じていた違和感が、一気に形を成していく。

「先輩に近づきたかったから」

 蓮の瞳が、狂気的な輝きを帯びる。

「先輩の全てが欲しくて、その美しさも、強さも、優しさも...全てを自分のものにしたかった」

「俺を...騙してたの?」

 大和の声が震える。

「違います!」

 蓮の叫びが、教室に響く。
その声には、これまで隠してきた感情の全てが込められていた。

「確かに最初は僕が仕組みました。でも...」

 一歩近づくたび、大和は一歩後退る。
まるで、永遠に交わることのない平行線のように。

「普通に声かけて、知り合いになればいいんじゃないの?」

 大和の声には、怒りよりも深い悲しみが滲んでいた。

「僕には、それが出来なくて、ズルするしか先輩に近づけないと思ったんです…」

「去年から、図書室で会った事あったし、そんな事しなくても、知り合いになれたと思うんだけど」

 その言葉に、蓮は息を呑んだ。大和は自分のことを、既に認識していた事を知る。

「でも、僕は先輩の完璧な姿に圧倒されて...自分から話しかけるなんて出来ませんでした...でも、どうしても、近づきたくて...」

 大和の声が冷たく響く。

「観察対象?実験台?それとも、お前の歪んだ愛の捌け口?」

 その言葉の一つ一つが、蓮の胸を刺し貫く。

「違います!確かに最初は...でも、今は...」

 言葉が途切れる。今の自分の感情を、どう説明すればいいのか分からない。計算外の、制御不能な、この想いを。

「失望させてごめんなさい...」

 蓮の声が切迫していく。

「ちょっと、ショックみたい俺...もう行くわ」

 大和は蓮を置いて、教室を飛び出した。廊下を歩く足音が空虚に響く。

 誰もいない教室で、蓮は呟く。

「全て計算通りだった...はずなのに。この胸の痛みは何?
先輩に嫌われる事が、こんなにも苦しいなんて…そんなの、計算外だ」

「でも、先輩への狂おしい程の想いだけは...消えない」

 窓に打ち付ける雨が、蓮の告白に応えるように激しさを増す。

「最初は、全て計算通りだった…でも、気づけば、先輩の一挙手一投足に心が振り回されていたんだ」

 その言葉は、誰にも届かない。

 大和は、雨の中傘も差さずに歩く。髪を濡らす雨は、混乱した思考を洗い流すように降り続ける。蓮の告白は、彼の心に深い傷を残しながらも、どこか引っかかるものがあった。その純粋さが、嘘と真実の境界線を曖昧にしていく。

――✲――✲――✲――✲――✲――

 蓮は、図書室に向かう。足取りが重い。
ここで過ごした時間が、走馬灯のように蘇る。

 マッサージの時の、先輩の温もり。図書室での、何気ない会話。すれ違う度に交わした視線。全ては計算ずくで、でも――
その過程で芽生えた想いは、紛れもない本物だった。

 蓮は窓際に立ち、雨に濡れる校庭を見下ろす。
 遠くに、傘も差さずに歩く大和の姿が見えた。

(先輩は、僕から逃げ出した...この狂おしい愛から、目を逸らして...)

 でも、それでいいと思った。むしろ、そうあるべきなのかもしれないと。本物の愛とは、相手を束縛することではない。時には、自由に羽ばたかせることなのかもしれない。

「ごめんね...先輩」

 その言葉は、雨音に溶けて消える。この日、二人の運命は悪戯に引き裂かれていく。そして、この告白は、本当の物語の始まりでしかなかった。