それから数日後。梅雨時期特有の蒸し暑さが、午後の空気を重たくしている。
生徒会の仕事の合間、大和は中庭の様子を見回っていた。
「あれは...」
池の縁に佇む細い背中。グレージュの髪が、湿った空気で僅かに濡れている。大和の目は自然とその姿を追っていた。最近、よく目が合う。偶然にしては多すぎる。でも、それを不思議に思う暇もないほど、彼の存在が自然なものになっている。
蓮が中腰になって池を覗き込む。その姿は、まるで水面に映る自分の姿と対話するよう。大和は声をかけた。
「蓮」
振り向いた表情には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「大和先輩...」
「何を見てたんだ?」
蓮は再び池を覗き込む。
「睡蓮の花です」
大和も隣に腰を下ろす。泥で濁った池の水面に、確かに睡蓮の花が咲いていた。薄桃色の花びらが、曇天の下でも凛として美しい。
「泥の中からでも、こんなに綺麗に咲くんですね。
僕も、そうありたいと思っているんです」
「そう、ありたい?」
蓮はゆっくりと目を閉じる。
「はい。どんな環境でも、自分の美しさを失わない強さを持ちたいんです」
その言葉に、大和は何かを感じた。蓮の横顔が、曇り空の下でひときわ神々しく見える。
「先輩は、僕のような花を、美しいと思いますか?」
突然の問いに、大和は少し戸惑う。だが、答えは自然と口をついて出た。
「ああ。泥の中でも咲き誇る姿は、むしろ純粋で...」
「純粋、ですか...」
蓮の唇が微かに震える。
「ありがとうございます。その言葉、大切にします」
風が吹き、睡蓮の花が揺れる。その動きに合わせるように、蓮の髪も揺れた。
(蓮のこの言葉は、ただの比喩じゃない。自分自身の存在を問うものだ)
大和は心の中で思う。蓮の言葉は、彼自身の魂を映し出す鏡のようだ。
「もうすぐ放課後ですね」
蓮が立ち上がる。
「今から図書室に行くんですけど、先輩は今日も図書室に行かれますか?」
大和は頷く。この偶然の出会いが、また新しい糸を紡ぎ出したような予感がした。
――✲――✲――✲――✲――✲――
放課後の図書室。夕陽に染まった窓際で、一冊の詩集を手にした蓮の姿に、大和は足を止めた。その横顔は、まるで絵画で見たヴィーナスのように美しい。その姿に見とれずにはいられなかった。
「ランボーの詩集か」
蓮は目を細めて本を閉じ、優雅に振り向いた。
「大和先輩...この詩、とても素敵なんです」
「お前、意外だな。詩なんて読むタイプに見えなかった」
「そうですか?」
蓮は艶やかな唇を僅かに曲げ、意味深な微笑みを浮かべた。
「詩は、僕の本当の心を隠すにはちょうどいい道具なんです」
(この儚げな表情...少しあざとすぎやしないか?)
疑問が頭をよぎるが、蓮の存在感に押し流されるように消えていく。
「例えば、この一節なんて...」
蓮は朗々と詩を読み上げ始めた。
「『私は美しい顔の中に全てを閉じ込めることができる――あなたの欲望も、絶望も、愛も』」
その声は陶酔していて、まるでこの世界には二人だけしかいないような錯覚を与えた。
「それ、どういう意味だ?」
「意味なんて考えちゃダメですよ、先輩」
蓮の指が詩集の角をなぞる。その仕草が妙に艶めかしく、大和は思わず喉を鳴らした。
「詩は、ただ感じるものです。心の中に何か引っかかるものがあれば、それでいい」
(この距離感、この雰囲気...いったい何なんだ?)
そんな疑念が浮かびかけた瞬間、蓮の指が大和の手の甲に触れた。その一瞬の接触で、全ての思考が停止した。冷たい指先なのに、触れた場所だけが熱を持つ。
(俺は何に惹かれているんだ?)
気を取り直して、大和は会話を続ける。
「そういうものか...詩って。ランボーらしい狂気と美しさがあるような...」
大和がそう言うと、蓮は少し照れたように目を伏せた。詩集の余白に、鉛筆で丁寧に書き写された詩の文字が目に留まる。
「実は...」
蓮は恥ずかしそうに、頬を薄く染めた。
「この詩は、僕が書いたものなんです」
「え?」
「へへっ...」
蓮は少し恥ずかしそうに笑う。
「ランボーに影響されすぎて、つい...」
「お前の詩なのか...」
大和は驚きとともに、何か温かいものが胸の中に広がるのを感じた。
「お前、凄くない?驚いた。普通にランボーの詩かと思った」
「本当ですか?」
蓮の瞳が輝きを増す。2人は詩や他愛もない会話をして、数分後大和は図書室を後にする。
大和は自分の心の変化を、素直に受け入れ始めていた。だが、それは蓮の策略に乗せられているからなのか、自分自身の心が動かされているのか、その区別がつかなくなっていた。
この日を境に、蓮は更に大和の生活に入り込んでくる。休み時間、放課後、部活の後...。気付けば、大和の視界には必ず蓮がいた。そして、全ての変化は、ある放課後から始まった。
バスケの練習後。夕陽が部室の窓を染める頃、汗を拭いながら、大和は意図的に演技を始めた。
(ちょっと、からかってやろうか。村上の言ってた事が本当か分かるかもしれないし)
「痛っ...」
腰を押さえながら、わざとらしく顔をしかめる。視界の端で、蓮の様子を確認する。
案の定、蓮は本を閉じて近寄ってきた。その足取りには、いつもより僅かな焦りが混じっている。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっと腰が...」
大和は言葉を濁し、ちらりと蓮を見上げた。
「蓮、お前...マッサージ出来る?」
その瞬間、蓮の瞳に浮かんだ鋭い光、月光のような光を、大和は見逃さなかった。
(引っかかったな)
大和は内心で笑う。
(どんな反応するか、楽しみだ)
しかし、この時の大和はまだ気付いていなかった。
本当に罠にかけられたのは、自分の方だったということに。
「で、できます...」
蓮の声が僅かに震える。
「でも、ここでは...」
「二人きりの方がいい?今は誰も来ない時間帯だろ?」
大和は意図的に言葉を選ぶ。
蓮がどれだけ自分を意識しているか、試すように。
夕暮れの部室。沈みゆく太陽が、オレンジ色の光を投げかける。時計の針は、もう誰も部活をしていない時間を指していた。
シャツのボタンを一つ一つ外しながら、大和は小さな笑みを浮かべる。
「じゃあ、お願いしていい?マッサージして!」
シャツを脱ぎながら、大和は悪戯っ子のように蓮にねだり、マットレスに寝転ぶ。内心は笑っていた。
(どんな反応するか、楽しみだ)
「しっ失礼します...」
その瞬間、大和の思考は停止した。蓮の指が、背中に触れる。予想していなかった感覚。柔らかく、しかし確かな力加減。小さな電流が走ったような痺れ。
(なっ...何だ、この感覚)
「ここ、痛いですか?」
「っ...ああ」
声が上ずる。蓮の指が触れるたび、不思議な痺れが走った。
「ここが、凝ってますね...」
蓮の声が、大和の耳元で囁くように響く。
その吐息が、首筋をかすめる度に、背筋が震える。
「力加減は、これくらいでいいですか...?」
蓮の指が、肩甲骨を的確にほぐしていく。その動きには無駄がない。まるで、何度も練習したかのように。
(まずい...からかうつもりが、逆に...)
「先輩の背中、とても美しいです」
蓮の囁きが、大和の理性を溶かしていく。背骨1つ1つ丁寧に親指で挟み、手の平全体を脇に滑らせていく。その度に、大和の呼吸が乱れる。
「骨格も筋肉も綺麗すぎる...」
(俺からの罠のはずなのに...どうして、こんなにも心が乱されるんだ)
「肩甲骨も凄く綺麗です。天使の羽みたい...
ここをマッサージすると肩凝りも良くなりますよ」
大和は、しっかり背中全体をほぐされて、快感に身を委ねて、次第には睡魔が襲ってきていた。
「先輩、他の人にマッサージ頼んじゃダメですよ。僕以外には、絶対触らせないで下さい」
その束縛めいた言葉に、大和は何か違和感を覚えながらも、深い眠りに落ちていった。
目が覚めると、部室は既に薄暮に包まれていた。シャツがきちんと着せられ、肩には上着が掛けられている。
「ん...」
部室の鏡で自分の姿を確認すると、覚えのない、首に赤い痣のような物を発見した。辺りを見回しても、蓮の姿はもうそこにはない。
それは新しい習慣となった。練習後の部室。二人きりの時間。触れ合う体温。漂う吐息。そして、大和は気付いていなかった。蓮の瞳に宿る、獲物を捕らえた蛇のような輝きに。
翌日から、蓮の様子が少しずつ変わっていった。図書室での視線が、以前より熱を帯びている。購買での「偶然」の出会いが、明らかに意図的に感じられるようになった。
そして何より、大和自身の心の中で、ある感情が芽生え始める。それは、違和感と引力が混ざったような、不思議な感覚だった。
生徒会の仕事の合間、大和は中庭の様子を見回っていた。
「あれは...」
池の縁に佇む細い背中。グレージュの髪が、湿った空気で僅かに濡れている。大和の目は自然とその姿を追っていた。最近、よく目が合う。偶然にしては多すぎる。でも、それを不思議に思う暇もないほど、彼の存在が自然なものになっている。
蓮が中腰になって池を覗き込む。その姿は、まるで水面に映る自分の姿と対話するよう。大和は声をかけた。
「蓮」
振り向いた表情には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「大和先輩...」
「何を見てたんだ?」
蓮は再び池を覗き込む。
「睡蓮の花です」
大和も隣に腰を下ろす。泥で濁った池の水面に、確かに睡蓮の花が咲いていた。薄桃色の花びらが、曇天の下でも凛として美しい。
「泥の中からでも、こんなに綺麗に咲くんですね。
僕も、そうありたいと思っているんです」
「そう、ありたい?」
蓮はゆっくりと目を閉じる。
「はい。どんな環境でも、自分の美しさを失わない強さを持ちたいんです」
その言葉に、大和は何かを感じた。蓮の横顔が、曇り空の下でひときわ神々しく見える。
「先輩は、僕のような花を、美しいと思いますか?」
突然の問いに、大和は少し戸惑う。だが、答えは自然と口をついて出た。
「ああ。泥の中でも咲き誇る姿は、むしろ純粋で...」
「純粋、ですか...」
蓮の唇が微かに震える。
「ありがとうございます。その言葉、大切にします」
風が吹き、睡蓮の花が揺れる。その動きに合わせるように、蓮の髪も揺れた。
(蓮のこの言葉は、ただの比喩じゃない。自分自身の存在を問うものだ)
大和は心の中で思う。蓮の言葉は、彼自身の魂を映し出す鏡のようだ。
「もうすぐ放課後ですね」
蓮が立ち上がる。
「今から図書室に行くんですけど、先輩は今日も図書室に行かれますか?」
大和は頷く。この偶然の出会いが、また新しい糸を紡ぎ出したような予感がした。
――✲――✲――✲――✲――✲――
放課後の図書室。夕陽に染まった窓際で、一冊の詩集を手にした蓮の姿に、大和は足を止めた。その横顔は、まるで絵画で見たヴィーナスのように美しい。その姿に見とれずにはいられなかった。
「ランボーの詩集か」
蓮は目を細めて本を閉じ、優雅に振り向いた。
「大和先輩...この詩、とても素敵なんです」
「お前、意外だな。詩なんて読むタイプに見えなかった」
「そうですか?」
蓮は艶やかな唇を僅かに曲げ、意味深な微笑みを浮かべた。
「詩は、僕の本当の心を隠すにはちょうどいい道具なんです」
(この儚げな表情...少しあざとすぎやしないか?)
疑問が頭をよぎるが、蓮の存在感に押し流されるように消えていく。
「例えば、この一節なんて...」
蓮は朗々と詩を読み上げ始めた。
「『私は美しい顔の中に全てを閉じ込めることができる――あなたの欲望も、絶望も、愛も』」
その声は陶酔していて、まるでこの世界には二人だけしかいないような錯覚を与えた。
「それ、どういう意味だ?」
「意味なんて考えちゃダメですよ、先輩」
蓮の指が詩集の角をなぞる。その仕草が妙に艶めかしく、大和は思わず喉を鳴らした。
「詩は、ただ感じるものです。心の中に何か引っかかるものがあれば、それでいい」
(この距離感、この雰囲気...いったい何なんだ?)
そんな疑念が浮かびかけた瞬間、蓮の指が大和の手の甲に触れた。その一瞬の接触で、全ての思考が停止した。冷たい指先なのに、触れた場所だけが熱を持つ。
(俺は何に惹かれているんだ?)
気を取り直して、大和は会話を続ける。
「そういうものか...詩って。ランボーらしい狂気と美しさがあるような...」
大和がそう言うと、蓮は少し照れたように目を伏せた。詩集の余白に、鉛筆で丁寧に書き写された詩の文字が目に留まる。
「実は...」
蓮は恥ずかしそうに、頬を薄く染めた。
「この詩は、僕が書いたものなんです」
「え?」
「へへっ...」
蓮は少し恥ずかしそうに笑う。
「ランボーに影響されすぎて、つい...」
「お前の詩なのか...」
大和は驚きとともに、何か温かいものが胸の中に広がるのを感じた。
「お前、凄くない?驚いた。普通にランボーの詩かと思った」
「本当ですか?」
蓮の瞳が輝きを増す。2人は詩や他愛もない会話をして、数分後大和は図書室を後にする。
大和は自分の心の変化を、素直に受け入れ始めていた。だが、それは蓮の策略に乗せられているからなのか、自分自身の心が動かされているのか、その区別がつかなくなっていた。
この日を境に、蓮は更に大和の生活に入り込んでくる。休み時間、放課後、部活の後...。気付けば、大和の視界には必ず蓮がいた。そして、全ての変化は、ある放課後から始まった。
バスケの練習後。夕陽が部室の窓を染める頃、汗を拭いながら、大和は意図的に演技を始めた。
(ちょっと、からかってやろうか。村上の言ってた事が本当か分かるかもしれないし)
「痛っ...」
腰を押さえながら、わざとらしく顔をしかめる。視界の端で、蓮の様子を確認する。
案の定、蓮は本を閉じて近寄ってきた。その足取りには、いつもより僅かな焦りが混じっている。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっと腰が...」
大和は言葉を濁し、ちらりと蓮を見上げた。
「蓮、お前...マッサージ出来る?」
その瞬間、蓮の瞳に浮かんだ鋭い光、月光のような光を、大和は見逃さなかった。
(引っかかったな)
大和は内心で笑う。
(どんな反応するか、楽しみだ)
しかし、この時の大和はまだ気付いていなかった。
本当に罠にかけられたのは、自分の方だったということに。
「で、できます...」
蓮の声が僅かに震える。
「でも、ここでは...」
「二人きりの方がいい?今は誰も来ない時間帯だろ?」
大和は意図的に言葉を選ぶ。
蓮がどれだけ自分を意識しているか、試すように。
夕暮れの部室。沈みゆく太陽が、オレンジ色の光を投げかける。時計の針は、もう誰も部活をしていない時間を指していた。
シャツのボタンを一つ一つ外しながら、大和は小さな笑みを浮かべる。
「じゃあ、お願いしていい?マッサージして!」
シャツを脱ぎながら、大和は悪戯っ子のように蓮にねだり、マットレスに寝転ぶ。内心は笑っていた。
(どんな反応するか、楽しみだ)
「しっ失礼します...」
その瞬間、大和の思考は停止した。蓮の指が、背中に触れる。予想していなかった感覚。柔らかく、しかし確かな力加減。小さな電流が走ったような痺れ。
(なっ...何だ、この感覚)
「ここ、痛いですか?」
「っ...ああ」
声が上ずる。蓮の指が触れるたび、不思議な痺れが走った。
「ここが、凝ってますね...」
蓮の声が、大和の耳元で囁くように響く。
その吐息が、首筋をかすめる度に、背筋が震える。
「力加減は、これくらいでいいですか...?」
蓮の指が、肩甲骨を的確にほぐしていく。その動きには無駄がない。まるで、何度も練習したかのように。
(まずい...からかうつもりが、逆に...)
「先輩の背中、とても美しいです」
蓮の囁きが、大和の理性を溶かしていく。背骨1つ1つ丁寧に親指で挟み、手の平全体を脇に滑らせていく。その度に、大和の呼吸が乱れる。
「骨格も筋肉も綺麗すぎる...」
(俺からの罠のはずなのに...どうして、こんなにも心が乱されるんだ)
「肩甲骨も凄く綺麗です。天使の羽みたい...
ここをマッサージすると肩凝りも良くなりますよ」
大和は、しっかり背中全体をほぐされて、快感に身を委ねて、次第には睡魔が襲ってきていた。
「先輩、他の人にマッサージ頼んじゃダメですよ。僕以外には、絶対触らせないで下さい」
その束縛めいた言葉に、大和は何か違和感を覚えながらも、深い眠りに落ちていった。
目が覚めると、部室は既に薄暮に包まれていた。シャツがきちんと着せられ、肩には上着が掛けられている。
「ん...」
部室の鏡で自分の姿を確認すると、覚えのない、首に赤い痣のような物を発見した。辺りを見回しても、蓮の姿はもうそこにはない。
それは新しい習慣となった。練習後の部室。二人きりの時間。触れ合う体温。漂う吐息。そして、大和は気付いていなかった。蓮の瞳に宿る、獲物を捕らえた蛇のような輝きに。
翌日から、蓮の様子が少しずつ変わっていった。図書室での視線が、以前より熱を帯びている。購買での「偶然」の出会いが、明らかに意図的に感じられるようになった。
そして何より、大和自身の心の中で、ある感情が芽生え始める。それは、違和感と引力が混ざったような、不思議な感覚だった。



