《薔薇の棘は月明かりの詩(ばらのとげはつきあかりのうた)

 五月の終わり、新緑の眩しい季節が過ぎようとしていた。校舎の窓から見える、ミラベルの白い花が、風に揺れている。

 夕暮れの体育館裏。橙色の光が、その出会いを運命めいた色合いで染め上げていた。

「や、やめろよ...」

 か細い声が、 大和青葉(やまとあおば)の足を止めた。体育館の陰で、月光を織り込んだようなグレージュの髪の少年が壁際に追い詰められている。制服の襟元を掴まれても、その瞳は妙に冷静だった。

 大和は一瞬、胸の奥にざわめきを覚えたが、それを打ち消すように声を張った。

「おい。何してんだ?」

 不良たちは振り向いたが、大和の声を聞いた瞬間、顔色を変え、舌打ちしながら立ち去った。

「助けていただいて、ありがとうございます。2年B組の蓮... 加賀見蓮(かがみれん)です」

 怯えていたはずの蓮は、整えた髪を撫でながら微笑んでいた。その笑顔は、どこか計算されたものに見え、大和は一瞬だけ眉をひそめた。

「気をつけろよ。このあたりは夕方になると物騒なんだ」

 蓮は柔らかな微笑みを浮かべ、まるで、この瞬間を永遠に記憶するように、その笑顔の奥に潜む何かを隠し持つ。その、違和感を大和はまだ見抜けなかった。

「はい。先輩と出会えたこと、偶然じゃない気がするんです。」

 大和は、その言葉の不穏さに気付くことはなかった。目の前の少年の儚げな佇まいは、そんな疑念さえも霧散させてしまうほどに美しかったのだ。

 蓮の瞳に映る夕陽は、深紅の薔薇のように美しかった。その傍らで、薔薇の棘が心に刺さったような違和感を、大和は密かに感じていた。

(この出会いが、俺の運命を変えることになるとは、この時はまだ知らなかった)

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 翌日の昼休み、食堂の喧騒を避けて自販機近くのベンチに座っていた大和の耳に、そよ風のような澄んだ声が響いた。心の片隅で、この「偶然の出会い」に違和感を覚えながらも、その声の心地よさに、疑念は薄れていく。

「大和先輩…」

 顔を上げると、そこには昨日の少年――加賀見蓮が立っていた。陽光に透かされた髪は天使の糸のように軽やかに揺れる。

(まただ...この胸の高鳴りは...でも、何かが違う)

「ああ、加賀見か」

 大和は動揺を悟られまいと、さりげなく応じた。

 蓮は小さな紙袋を両手で抱え、どこか初々しい表情を浮かべている。その仕草があまりにも愛らしく、大和は思わず視線を逸らした。

「昨日は本当に...ありがとうございました。これ、よかったらどうぞ」

 差し出された紙袋からは、甘い香りが漂っていた。

「これ...パン?」

「はい。購買の人気商品なんです。実は...朝早くから並んで」

 蓮は頬を薄く染めながら言葉を濁す。

(なんてかわいい奴なんだ!)

 大和は思わず笑みをこぼした。

「ありがとう。でも、こんな気を使わなくてもいいよ?」

 そう言いながらも袋を受け取り、大和は隣のベンチを軽く叩いた。

「ここ、座れよ」

 蓮は柔らかな微笑みを浮かべて腰を下ろした。二人の間に流れる沈黙は、不思議と心地よかった。

「実は...ずっと憧れていたんです、先輩に」

 突然の告白に、大和は思わず蓮の横顔を見つめた。夢見るような遠い目をした蓮は、自分の膝の上で指を絡ませながら続ける。

「入学してすぐの頃から...生徒会の挨拶とか、部活の試合とか。先輩の凛とした姿が綺麗で、目が離せなくて...」

 その言葉は、まるで詩のように美しく響いた。大和は思わず頭を掻く。

「そっか...そんな風に思ってくれてたなんて、少し照れるな」

「先輩...」

 蓮の瞳が潤んでいるように見えた。

「僕のこと、蓮って呼んでもらえませんか?」

「ああ、蓮...」

 その日を境に、二人の距離は急速に縮まっていった。大和は休み時間や放課後、自然と蓮を探す自分に気付く。そして必ず、蓮は彼の視界の中にいた。

 まるで、計算されたかのように...


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 バスケットボールのボールがフロアに響く音が、体育館を満たしていた。練習後の涼しい空気が、汗をかいた肌に心地よい。大和はボールを胸に抱き、部室に向かう。

 そこに、友人の村上がニヤニヤしながら近づいてきた。

「最近気になってるんだけど、あのイケメンの後輩、練習中お前の事ずっと見てるよな?やっぱり、お前の事好きなんじゃね?」

 大和はボールを床に転がし、村上の言葉に思わず笑みをこぼした。

「まっ、まさか、そんな事はないだろ。俺男なんだけど。」

 村上は肩をすくめ、茶化すように言った。

「男が好きな男なんて最近普通だろ?あんな綺麗な男なら好かれたらちょっと嬉しいかもw。お前はどうなんだよ?」

 大和はボールを拾い上げ、視線を逸らして答える。

「どうって言われても...」

 心の中では、蓮の顔が浮かんでいた。あの澄んだ目、美しい顔、細やかな仕草。自分が何かを感じていることは認めざるを得ないが、それを言葉にするのは難しい。

 村上は大和の反応を見て、さらに追い打ちをかけるように言った。

「まあ、好かれてるなら、ちょっとぐらい考えてもいいんじゃないか?お前も仲良くしてるし、少しは気になってるんじゃないの?」

 大和はもう一度ボールを抱きしめ、村上を見つめた。

「...分からないよ。ただ、何か気になることは確かにある。
それが何かはまだ分からないけど...」

 村上は大和の肩を軽く叩き、笑顔で言った。

「それが恋のはじまりかもしれないぜ。まあ、どうするかはお前の自由だ。でも、何かあったら相談しなw。」

 大和は小さく笑い、村上に感謝の気持ちを込めて言った。

「ありがとな、村上。考えてみるよ。」

 村上は「それでこそだ」と言いながら、大和の背中をポンと叩いて去っていった。大和はボールを床に置き、部室へ向かう足取りが少しだけ重くなる。蓮の視線を感じた瞬間から、自分の中で何かが変わった気がした。