智哉は大学に通い始めてから、やっと自分のペースを掴み始めていた。入学当初は緊張と不安でいっぱいだったが、徐々に周囲との関わりを深め、少しずつ日常に馴染んでいった。しかし、そんな日常に予期せぬ出来事が訪れる。彼の前に現れたのは、美理という女性だった。
美理。彼女の名前を耳にした瞬間、智哉は何となく特別な存在を感じた。彼女は、清楚で落ち着いた雰囲気を持つ女性で、その笑顔は周囲の誰もが思わず引き寄せられるような魅力を放っていた。大学内でも一目置かれる存在で、誰もが「完璧な女性」として彼女を認識していた。
智哉が初めて美理と会ったのは、キャンパスの広場で行われたイベントの準備のときだった。彼女は一人で、真剣な表情で資料を整理していた。周囲の雑多な声が響く中、彼女の姿はまるでひとつの静けさのように感じられた。
智哉はその瞬間、何故か心がざわつくのを感じた。いつもなら、人見知りな性格もあって、目立つことを避けてしまうのに、その時はどうしても声をかけたくなった。彼女の笑顔が、あまりにも優しすぎて、智哉は思わず踏み込んでしまった。
「君も、このイベントの準備を手伝ってるの?」
美理は少し驚いたように智哉を見上げたが、その目には警戒心のようなものは感じられなかった。むしろ、どこか安心感を感じさせるような、温かな眼差しだった。
「はい、私は学生団体の一員で、少しだけお手伝いしてるんです。」
「そうか。なんだか、忙しそうだね。」
「大丈夫ですよ。智哉さんも手伝ってくれるんですか?」
名前を聞かれた瞬間、智哉は自分の名前を口にするのに少し戸惑ったが、すぐに答えた。
「智哉。智哉です。」
「智哉さん、ありがとうございます。」
美理は優しく微笑んだ。その笑顔に、智哉は何か不思議な感情を抱いた。彼女の笑顔は、どこか遠くにありそうなもので、手が届きそうで届かない、そんな感覚を呼び起こすような気がした。
その日、二人は一緒に作業をしながら、何度か言葉を交わした。美理はとても礼儀正しく、また周囲の人々を気遣う態度が自然で、智哉はその姿に感銘を受けた。一方で、智哉自身は彼女に対して少し不安を感じていた。自分のような不安定な存在が、美理のような完璧に見える女性に合うはずがない、そんな思いがどこかにあった。
「本当に、智哉さんは優しいですね。」
その言葉に、智哉は少しだけ心が温かくなるのを感じた。しかし、その一方で、何かが引っかかっていた。美理はあまりにも完璧すぎて、彼女と自分の距離感がどうしてもわからなかった。
「そんなことないよ。」
智哉は恥ずかしそうに顔をそらしながら言った。彼が無理に作った優しさや誠実さが、逆に美理には伝わっているのかもしれないと思うと、少し自信をなくしてしまう。美理はその変化に気づいたのか、少し不思議そうな顔をした。
「でも、智哉さんってすごく素直で、考えすぎないタイプなんですね。」
その言葉に、智哉は驚いた。
「考えすぎない?」
「はい。少しでも相手に気を使おうとするけれど、無理をしないところが、逆に自然で素敵だと思います。」
その言葉に、智哉は何となく胸が温かくなるのを感じた。美理の優しさや、他人の意見を柔軟に受け入れる姿勢は、智哉にとってはまるで自分が知らない世界を垣間見たような感覚を与えていた。しかしその一方で、智哉は少し複雑な気持ちも抱えていた。自分のような人間が、美理と深く関わることができるのだろうか、という不安が心の中で膨らんでいくのを感じていた。
その日の作業が終わる頃、智哉は美理に礼を言って帰ろうとした。そのとき、美理が少しだけ先に歩きながら声をかけてきた。
「智哉さん、またイベントでお会いできるといいですね。」
その一言に、智哉は自分の心が少しだけ軽くなった気がした。

智哉はその日、帰り道に美理との会話を反芻しながら歩いていた。心の中で、あの日の美理の笑顔を何度も思い返していた。あの笑顔には何か特別な力があった。智哉の心を掴んで離さない、そんな不思議な感覚があった。
「また会えるだろうか…」
智哉は自分にそう問いかけたが、答えは出なかった。美理のことをもっと知りたいと思う気持ちは強くなっていたが、彼自身にはその勇気がなかった。どう接していいのか、どう自分を伝えればいいのかが分からなかったからだ。
その翌週、智哉はまた美理とキャンパスで顔を合わせた。今回は、彼女が友人と一緒にいる場面だった。智哉は遠くから彼女たちの会話を少し耳にしながら、少し躊躇して足を止めた。しかし、美理は智哉の気配に気づいたようで、ふっと顔を上げた。
「智哉さん!」
その呼びかけに、智哉は驚いて思わず足を止めると、彼女が微笑みながら近づいてきた。
「こんにちは、智哉さん。昨日のイベント、ありがとうございました。」
美理は、あの日の礼儀正しさを変わらずに持ちながらも、どこか柔らかい表情を浮かべていた。その微笑みを見て、智哉は一瞬言葉を失った。彼女は、やっぱり自分とは違う世界の人間だと思わずにはいられなかった。
「ううん、こちらこそ。また手伝えて良かったよ。」
智哉は無理に笑顔を作りながら答えた。美理と会話していると、どうしても自分の不安な部分や、彼女とのギャップを感じてしまう。それを感じるたびに、自然と自己防衛的な態度を取ってしまう自分がいることを、智哉はどこかで感じていた。
「それなら良かったです。」美理は優しく答えると、少し周りを気にしてから言った。「智哉さんって、なんだかすごく素直でいい人ですね。」
その言葉に、智哉はまた胸が詰まるような感覚を覚えた。美理は何気ない言葉で、智哉の心に何度も強く響くようなことを言ってくる。どこか、その優しさが不安に感じる時もあったが、同時に心地よくもあった。
「素直なんて…そんなことないよ。」
智哉は少し照れながら答えたが、その反応に美理は軽く笑いながら、「でも、素直さって大切だと思うんです。」と続けた。
智哉はその言葉に何か心を動かされるのを感じた。確かに、素直でいることの大切さは理解していた。けれども、どうしても自分の心がそれを受け入れることができなかった。素直でいることが怖い、そう感じる瞬間がどうしてもある。相手に期待しすぎてしまったり、自分が傷つくことを恐れたりするからだ。
「そうかな…でも、素直になれたらいいなって思ってる。」
智哉は少し本音を漏らした。美理はその言葉を聞いて、真剣な表情になった。
「私は、智哉さんの素直なところがすごく良いと思う。無理に変わろうとしなくてもいいんですよ。」
その一言に、智哉は心を打たれた。美理の言葉は、まるで智哉を包み込むように温かく、安心感を与えてくれた。しかしその一方で、彼は心の中でさらに自分と向き合わせられたような気がした。美理はどこまでも優しくて、理解しようとしてくれている。それがとても嬉しいと同時に、自分がその優しさにふさわしくないと感じてしまう自分もいた。
その後、美理と智哉は何度かキャンパスで顔を合わせることが増え、少しずつ会話が弾むようになった。しかし、智哉は美理に対してどこか遠慮してしまう自分がいた。彼女が思う以上に、智哉は自分の感情を表現することが苦手だった。美理はとても優しく、常に冷静で理性的な態度を崩さない。智哉はそんな美理に引かれながらも、同時に自分の不安定な心をどうしても隠したくなっていた。
ある日、智哉は美理から一通のメッセージを受け取った。
『智哉さん、来週のイベントのお手伝い、もう少しだけお願いできませんか?』
そのメッセージに、智哉は少し迷ったが、すぐに返信を送った。
『もちろん、手伝います。何か必要なことがあれば言ってください。』
そのやり取りを終えた後、智哉は再び自分の心に問いかけた。
「美理と、これからどうなっていくんだろう。」
智哉の心の中には、美理への感情が少しずつ膨らんでいくのを感じていたが、その感情がどこに向かっているのかをまだはっきりと掴むことができなかった。自分にとって、美理は遠くの存在でありながらも、どこか近づいてくるような気がしてならなかった。
そして、次のイベントの日が近づいてきた。

智哉は美理と再び会う機会を楽しみにしつつも、その心の中には一抹の不安があった。彼女に対する感情が次第に大きくなっていく中で、その気持ちが自分にとって何を意味するのか、どう向き合っていけばいいのかがわからなかった。
「美理さんと、こんなに何度も会っているのに、まだ…自分はどうしたいのかを理解できていない。」
智哉は自分を責めるような気持ちを抱えながらも、心の中で美理との距離感に悩んでいた。彼女の優しさに惹かれ、どこか頼りにしたいと思いながらも、彼女の完璧さと自分の不安定さを比べてしまうと、どうしても一歩踏み出せない。
その夜、智哉は友人の真白と久しぶりに会う約束をしていた。真白は智哉の昔からの友人で、どんな悩みも素直に話せる存在だ。久々に会うと、真白は智哉の顔を見てすぐにその様子を察した。
「お前、またあの子のことで悩んでるのか?」
真白は笑いながら言ったが、智哉はそれを否定することなく、苦笑いを浮かべた。
「なんでわかるんだよ…」
「お前、最近ずっと考え込んでるからな。何かあったんだろ?」
「うーん、美理さんと最近よく会うようになって…でも、どうしても自分に自信が持てない。彼女みたいな完璧な人に、俺みたいな不安定なやつがどう接したらいいのか分からないんだ。」
智哉はその言葉を吐き出すと、真白はしばらく黙っていた。そして、少しだけ真剣な表情をして言った。
「お前、思い込みが激しすぎるんだよ。相手のことを完璧だって思い込んで、自分を引け目に感じてるだけだろ? 美理だって、完璧なんかじゃないんだろ?」
「でも…」
「お前、もっと自分に自信を持てよ。美理だって、完璧に見えるだけで、誰だって悩みや不安を抱えてるんだ。それをお前が理解してあげることが大事なんじゃないのか?」
真白の言葉に、智哉はしばらく黙って考え込んだ。確かに、美理が完璧に見えていたとしても、彼女にも悩みや不安があるはずだ。智哉は、そんな美理を支えられるような存在になりたいと改めて思った。
「ありがとう、真白。少し、気持ちが楽になったよ。」
その後、智哉は自分の思いを美理にどう伝えるべきかを考え続けていた。美理はどこまでも優しく、智哉に対しても配慮を欠かさない。しかし、それが逆に智哉にとっては重く感じられることもあった。
「俺、どうしても美理さんに頼りすぎてしまうんじゃないかって怖いんだ。」
智哉はそのことを自分でどう処理すればいいのか分からず、ますます不安が募っていた。しかし、心の中で何かを変えなければならないことを感じていた。
次の週、智哉は再び美理とキャンパスで顔を合わせた。今回は少し心を決めて、美理に話しかけようと決意していた。
「美理さん。」
智哉が声をかけると、美理は驚いたように振り向いた。
「智哉さん、こんにちは。」
美理は穏やかな笑顔を浮かべながら、智哉の目を見つめた。その目が、どこまでも優しく、どこか遠くを見つめるような、心の奥に秘めた何かを感じさせるものだった。
「この前、ありがとう。真白に言われたことが、ちょっとだけ気になってさ。」
美理は不思議そうに首をかしげながら、智哉を見つめた。
「真白さんに?」
「うん。僕が美理さんに気を使いすぎて、うまく距離を取れなくなっているって…。それで、少し考え直したんだ。」
智哉は少し照れくさそうに言ったが、これが自分の素直な気持ちだと感じていた。美理はその言葉を静かに聞いてから、微笑みながら言った。
「智哉さん、そうやって自分を見つめ直せることが素晴らしいことだと思いますよ。」
その言葉に、智哉は少し驚いた。美理が自分を優しく受け入れてくれることに、どこかホッとした気持ちが湧いてきた。
「でも、俺、まだうまくできるか分からないけど、美理さんには…自分らしく接したいと思ってる。」
智哉はそう言って、少し照れくさく笑った。美理はその言葉に頷き、智哉に対して温かな視線を送った。
「それでいいんですよ。私も智哉さんのこと、無理に変わってほしいとは思っていませんから。」
その言葉に、智哉は心の中で少し安心した。美理は自分にとって、思っていた以上に優しく、理解のある人だと感じた。
「ありがとう、美理さん。これからも、よろしくね。」
智哉は少しだけ勇気を出して、そう言った。その言葉が、美理に届いていることを感じながら、二人は静かな笑顔を交わした。

第1章終