◇
六日後。待ちに待った、水曜日の放課後がやってくる。
そわそわしながら一日を終えた俺の足は、さっそく保健室へと向かっていた。
(さあ来いよ、由良。確かめてやるからな)
運命の決戦を前に、俺は妙な緊張感を抱えて廊下を進み、ついに保健室の扉を開ける。
すでに職員会議に出ていってしまったのか先生の姿はなく、誰かがベッドを使用している気配もない。これは絶好の寝たフリ日和だ。この状況でたぬき寝入りに徹しておけば、今日も由良が近付いてきて、告白の練習をし始めるかもしれない。
深呼吸を繰り返し、ベッドに入り、決戦の時を待つ。
ここ数日間の由良からは、たまにこちらへ視線を送ってくること以外、変わった様子は見受けられなかった。恋愛的なアプローチを仕掛けてくる気配などないし、そもそも話しかけられることすらないのだから、告白なんてもってのほかだ。
やっぱり俺の妄想なのでは……と戦慄していたその時、誰かが保健室に入ってくる。
ハッとして、俺はすぐさま寝たフリを開始した。
――シャッ。
カーテンを開ける音がしたあと、控えめな足音が俺の元へ近付いてくる。息を呑み、鼓動を速めながら黙っていれば、足音は俺のすぐそばで止まった。
「……杉崎くん」
やがて耳元で囁かれたその声は、やはり由良のものだ。
間近で息がかかり、俺は思わず反応しそうになるが、どうにか耐える。
「寝てる……?」
「…………」
「……うん。寝てる、ね」
由良は俺が眠っているかどうかを確かめつつ、緊張した様子で深呼吸を繰り返す。
そして、ついに、はっきりと告げた。
「――好きです。俺と付き合ってください!」
(いよっしゃァァ! 告白だぁぁ! 危ねえ、よかった、俺の妄想じゃなかった!)
「いつも楽しそうにバスケしてて、真剣にバスケと向き合ってる姿がかっこよくて、好きになりました……!」
(ほら見ろ、やっぱこれ俺のことだろ!? ありがとうございます! バスケ部冥利に尽きます!)
「普段は出さないようにしてるけど、たまに地方の訛りがうっかり出ちゃうところとかも、可愛くて好きです!」
(ほらほらやっぱ俺の――ん? 俺……? 俺、だよな? え、俺ってそんなに訛りとか出てる? マジ?)
かなり具体的な人物像はある。だが、一向に名前は出てこない。
一応俺のことだと捉えられるものの、明確にそうだとも言いきれないような、なんとも言えないラインの告白だ。じれったさを感じつつヤキモキしていると、由良はため息をこぼした。
「はあ……そろそろ、ちゃんと言わないと……告白する勇気出さなきゃ……」
ひとりごち、告白の練習を一区切りさせると、由良はカーテンの向こう側へ出ていってしまう。どうやら、これで今日の予行練習はおしまいのようだった。
残された俺は静かに目を開け、ふむ、と考える。
一連の動向を見る限り、由良は告白の予行練習ばかりしていて、本番の告白ができずにいるらしい。結局誰のことが好きなのか名前は出てこなかったが、ほぼ間違いなく、俺な気がする。ってか絶対俺だろ。
(……俺、今ここで告ったらいけんじゃね? どうする、このまま俺から告白しちまうのもアリだぞ)
ゴールまでの最短距離を導き出す俺だが、〝好きな子から追いかけられたい〟という欲も同時に出てくる。
俺は目を閉じ、静かに妄想した。
放課後。
誰もいない校舎の裏。
緊張した顔で俺を呼び出し、恥ずかしそうに声を震わせて、『好きです』と告白してくる由良――。
(……見たい。正直めっちゃ告られたい)
ストレートな欲望が一気に勢力を増し、俺の脳内に攻め込んでくる。
さっさと告って両思いになりたい自分。由良が告白してくるのを待ちたい自分。両者が頭の中でせめぎ合い、一歩も譲らず睨み合う。俺は一触即発の脳内抗争を鎮めながら薄目を開き、わずかなカーテンの隙間から、由良の横顔を覗き見た。
小柄で、線は細く、柔らかそうな黒い髪が目元にかかっている。長めの前髪は消極性の表れだろうか。常に俯きがちで、眉尻も下がって、存在感ごと空気に溶けてしまいそう――そんな気の弱い由良が、コソコソ練習しながら、俺に告白しようと頑張っているのだとしたら。
(……イイジャン!! 百点!! 超応援する!!)
俺の脳内で巻き起こっていた抗争は、『由良くん可愛い』『好きって言って』のうちわを持ってカチコミをかけた〝どうせなら告られたい軍〟の猛攻により大勝利を収めた。
かくして、由良に告白されるという方針へ強引に舵を切った俺。だが、俺はかの家康公のごとく、どっしりと構えて天下統一を待つようなタイプではない。
(アイツ、このまま放っておいたら、告白しにくるまで何年もかかりそうだもんなあ。……だとしたら、俺がやることはひとつだろ)
自信がないなら、こっちが引き出してやりゃあいい。
積極性がないなら、こっちから誘い込んでやりゃあいい。
鳴かぬなら、アシストするぜ、ホトトギス。由良が告白しやすいシチュエーションを、この俺自らプロデュースして、最高の告白環境を演出してみせる!!
カーテン越しに視線を送り、たぬき寝入りで天下を狙う。
こうして、由良から告られるための俺の計画は、堂々と幕を開けてしまったのであった。
乙女の朝は早いと言うが、男の朝とて負けてはいない。
鏡の前で身だしなみをチェック。制服の下に着るインナーの色をあれこれ思案し、明るい金の髪をセットしたら、家を出る。
バッシュと制汗剤の入ったリュックを背負った俺は、春の匂いを運ぶ風に整えたばかりの髪を遊ばれながら軽い足取りで学校へ向かった。
例の計画はすでに始まっている。もはや天下は視野に捉えた。
これより俺は、迷えるホトトギスに自信をつけさせるため、告白アシスト大作戦を決行する!
「由良く〜ん」
ぽん。昇降口で靴を履き替えて早々、廊下を歩いていた華奢な肩にさりげなく手を置き、由良の背後から声をかける。
不意をつかれた野良猫のごとく大袈裟に飛び上がった由良は、「うぅわッ」と声を裏返しながら振り返った。そして、俺の顔を見るなり大きく目を見開く。
「っ……!?」
「おはよ」
「おっ……!? お、おは、よう……!?」
まるで芸能人にでも遭遇したかのような反応だ。露骨に動揺し、状況を理解できないという表情で目を泳がせる由良。
俺は口元を隠しながら密かに笑い、優越感にひたる。
(ふっふっふ……驚いてるな。そりゃそうか、俺のこと好きなんだもんな、由良よ)
ニヤつきそうになる顔を引き締め、クールなイケメンを装いながら脳内だけで調子づく。
俺の作戦は決行された。これこそが、由良に自信を付けさせるための策のひとつだ。
由良はおそらく、俺との普段の接点が多くないばかりに、いつまでも二の足を踏んだまま告白する勇気が出せずにいる。だったら、俺が自分から率先して話しかけてやることで、強制的に俺との距離を縮めさせて告白しやすくしてやればいい。
つまるところ、バスケと同じだ。チームプレイだ。
俺はパスを回す司令塔。由良をゴール下へと誘導し、俺のパスを受け取らせて、あとは万全の状態でシュートを打たせてやればいいだけ。フッ、完璧な作戦だ。ポジションがポイントガードである俺の本気のパス回しをナメるなよ。
(あとは適当に会話してりゃ、心の距離も縮まるはず。それ行け俺、いざ出陣ッ!)
脳内で〝愛〟のカブトをかぶった俺は、開戦の狼煙を上げる法螺貝を吹き、自信満々に由良と向き合う。……だが、愛の荒野へと走り出したはずの俺の愛馬は、思わぬ障壁に行く手を阻まれることとなった。
「…………」
「…………」
「……………………」
シーン――無情に流れる長い沈黙。互いに顔を見合わせているが、どちらも声を発さないまま、時が過ぎる。
それまで余裕をぶっこいていた俺の表情はこわばり、目が揺らいだ。
(あ、あれ……ちょっと待て。挨拶したのはいいけど、このあと、何を話せば……)
じわ、と背中が汗で湿っていく。腹の内側が冷えて臓器すら震えそうになる。
まずい。何も考えていなかった。とりあえず挨拶すりゃなんか会話始まるだろ、なんて安易にタカをくくっていたが、互いに無言だ。なんの話題も出てこない。
ダラダラと汗ばかりが噴き出して、目が泳ぐ。物言わぬまま時間は過ぎ、由良の表情も、徐々に訝しげなものへと変わっていく。
「あの、杉崎くん、どうかした? 俺に何か用があるんじゃ……」
「え? ああ、え、えっと……」
「……何? もしかして、こっそり動画撮ってたりとか、そういうの? ドッキリとか……」
(やっべえ! めっちゃ変な方面で疑われてる! なんか話題! 話題作らねえと!)
俺は盛大に焦り、テンパったまま適当に口を開いた。
「い、いや、ドッキリとかじゃないって! ほら、由良くんさあ、ええと……あっ、髪型変えた?」
「変えてないけど」
「変えてないよね! 分かる! 似合ってるぅ!」
「えぇ……?」
(なんだこのクソみたいな会話は!? 俺何してんの!?)
一人で暴走し、ぐるぐると目が回る。由良は明らかに怪しんでいて、俺も不自然な言動をしている自覚がしっかりとあった。
(まずい、今のところ、ただ挙動不審なとこを好きな子の前で晒してるだけだ! 自信付けさせる前に引かれるわ! なんか言えよ! いやでも何を言えばいいんですか!?)
話題がない!という緊急事態が発生し、急遽脳内サミットを開催した俺は、対・由良臨時委員会を立ち上げ、会話の出だしに最も相応しいワードの案を募って議論する。
『ごきげんよう』――不自然!
『ご趣味は?』――お見合いか?
『本日はお日柄もよく』――なんのスピーチ?
『宴もたけなわではございますが』――会話終わるぅぅ!!
俺の招集した脳内臨時委員会は揃いも揃ってポンコツばかりだった。全然使えん。即刻解散宣言を言い渡し、想像以上に自分の恋愛スキルがゼロなことを自覚して焦っていると、由良は心配そうにこちらを見る。
「……杉崎くん、大丈夫? なんか様子おかしいけど」
(全然大丈夫じゃねえよ、どう軌道修正したらいいんだこれ)
「体調悪いんじゃない? 顔も赤いし……」
問いかけられた途端、不意に由良の手がぴとりと額に触れる。好きな子に触れられた俺の緊張は極限にまで跳ね上がり、つい「うわああ!?」と叫んで後ずさってしまった。
「えええ!?」
由良もまた肩を震わせ、手を引っ込めて後ずさる。
「な、何っ!? ごめん!」
「いやっ、違っ、あ、あ、汗かいてるから……! あんま触んない方が、あはは……!」
「ええぇ……? あ、あのさ、杉崎くん、やっぱり様子がちょっと変だと思うんだけど、本当に大丈夫? 一度、保健室行こうよ。ちゃんと熱測らないと」
由良は本気で心配そうにこちらを見上げ、俺の手を握り取った。その瞬間、ただでさえ極限状態だった〝ド緊張バロメーター〟が限界突破して跳ね上がる。
(手っ、握られっ……手ぇぇ!)
先ほど後ずさった分の距離を詰められ、さらに俺の方へと身を乗り出してくる由良。
長めの黒い前髪に隠れがちな目は大きく、くっきりと二重のラインが入っていて、まつ毛も長い。俺は背が高い方ではないが、由良の方がもっと小柄だ。同じ男とは思えないぐらいに華奢で、指も細くて、色も白いし、なんかいい匂いまでするし――つまり可愛い! だから全然直視できない! どうしよう! 助けて!!
(く、くそ〜〜! 全軍撤退! 撤退だ! 今すぐ拠点へ退避せよ!!)
脳内で自分自身に退却命令を下した俺は、「だ、大丈夫だから! じゃあな!」と適当にまくし立て、由良の元を離れようとした。だが、由良は再び俺の手を捕まえる。
「こら」
思いのほか強い力で引き寄せられ、ずいっと顔が接近した。至近距離に唇が近付き、真剣な目をしている由良が、俺の瞳をまっすぐ射貫く。
「逃げちゃダメでしょ」
耳元で囁かれた直後、ひゅ、と思わず息が詰まった。
これまで、か弱い美少女だとすら思っていた可憐な由良が、低い声で、強い力で、雄々しく、堂々と、俺の行動を制している。
よく見れば骨張っている手。凛とした瞳。薄い唇はへの字に曲がり、喉仏だってくっきりと見えた。
俺は硬直し、頬にせり上がる熱を知覚する。やがて肩をわななかせ、言葉を絞り出した。
「そ……」
「そ?」
「――そんなギャップはズルいじゃんかよッ!!」
唐突なギャップ萌えに耐えきれず絶叫した俺は、由良の拘束を振り切って結局逃走する。
ぽかんとしている由良を残し、みすみす逃げ帰ってきた俺。ほどなくして適当な空き教室に飛び込んだあと、頭を抱え、反省会を開催する羽目になった。
「俺、マジ何してんの……?」
あまりに散々な結果に絶望しかできない。コミュ力には自信があるつもりだったが、まさか恋愛感情が絡むとここまでポンコツになるだなんて、まったく想定していなかった。
よく考えてみれば、俺には恋愛経験がほとんどない。自分から誰かにアプローチをしたことなどないし、ずっと部活一筋で生きてバスケ以外に見向きもしてこなかった。そう、つまり俺は、恋愛の始め方なんて何も知らない――その結果が、今回の体たらくである。
(ど、どうしよ、由良に引かれたかも……。いや、でも、由良は俺のことが好きなはずだ! 大丈夫! きっと大目に見てくれる! 多分!)
強引に自分に言い聞かせ、落ちたモチベーションを立て直す。
今のは、あくまで第一段階。計画はまだまだ序の口だ。
「お、落ち着け、次こそうまくやればいいだけだ。急いで〝アレ〟の準備をしねえと……」
俺は自身の両頬を叩いて気合いを入れ、空き教室を出て職員室に向かう。
背負っていたリュックから取り出したのは、俺が夜なべして作った簡易的なクジ引き。
スライド式の扉をガラリと開けた俺は、担任教師を見つけ出し、まっすぐデスクに向かって言い放った。
「先生! 今日、席替えしよ!」
◇
ざわざわ――いつも騒がしい教室が、今日は一段と賑やかな気がする。
席を移動し、各々が談笑し合う中、隣の席になったそいつの姿に、俺は小さくガッツポーズをした。
(いよっしゃァァ、由良の隣ゲットォ!!)
俺は見事、由良の隣の席を勝ち取ったのだ。厳密にはめちゃめちゃ強引に奪取した、と言った方が正しいかもしれない。席替えのクジに細工をして、由良の隣になるべく画策したのだから。
(くっくっく、計画通りだ。案外チョロかったぜ。夜更かしして計画を練った甲斐があったってもんよ)
口元を手のひらで隠し、悪役さながらの表情でほくそ笑む俺。隣を一瞥すれば、どこか緊張しているように見える由良が俯いている。
この席をゲットするのは、意外と簡単だった。
名前が『ゆ』で始まる由良は、出席番号が一番最後で、席も一番奥にある。順番通りにクジを引かせれば、おのずと最後にクジを引くことになるのだ。だから俺は、小箱の内部に人数分あるはずのクジの紙を、二枚だけこっそり抜いておいた。
ひとつは由良の分。そして、もうひとつは俺の分だ。
隣同士になれるペアの番号を持っておいて、俺は自分の順番が来ると、クジを引くふりをするだけ。そして由良がクジを引く番になったら、「先生ごめん、俺間違えて二枚引いちゃってた」と適当な嘘をついて、由良の分のクジを箱に戻すだけの簡単なお仕事だ。
由良はもちろん、そのクジを引く。
それは俺の隣になる番号が書かれた紙。
こうして、無事に隣の席同士になれる――という仕組みである。
(まさか、こんなトントン拍子にうまくいくとはな。なんか先生ちょっと怪しんでたけど、曇りなき目で見つめて堂々としてたらなんとかなったぜ。ふっ、さすが俺だ。これでだいぶ接点が作りやすくなった)
密かに調子に乗りながら、隣の由良を覗き見る。すると由良も俺を見ていたようで、うっかり目が合い、カッと頬が熱を帯びる。
(うお! やべ! 不意打ちの流し目ビームはやめろ! 胸キュンで心臓発作になるだろうが!)
「……杉崎くん、体調よくなった?」
「へ? 体調?」
小声で問いかけられ、俺はなんのことだろうかと思案した。
ほどなくして、今朝の意味不明なやり取りのことを心配しているのだろうと理解し、頬が引きつる。
「あ、ああ〜、あれね! 大丈夫! 今朝は心配させちゃってごめん、気にしないで〜!」
「あ、うん……大丈夫なら、いいんだけどさ……」
「それより、俺ら隣の席じゃーん! これからよろしく! 気軽に『真生』って呼んでよ、由良くん!」
ギュッ。俺はまとわりつく恥じらいを強引に投げ捨て、勢いのまま由良の手を握る。
唐突な握手に由良は息を詰め、言葉を呑み込んだ。一方、俺は余裕のある態度を崩さない。朝の反省点をふまえ、臆さず接することで、失いかけていたプライドを取り戻そうと決意したのだ。
(ふっ……朝はテンパったが、俺はもう冷静だ。いつでもお前の告白を受け取ってやるぞ、由良……!)
闘争心にも似た何かをメラメラと燃やしていれば、由良も俺の手を握り返し、やんわりと微笑む。
「うん。仲良くしてね。真生くん」
ブワァッ――一瞬、由良の背に後光が差し、巨大な羽が広がったように見えた。ついでに名前を呼びかけられただけで心臓に強烈な衝撃まで覚えた。とんでもない光度の尊さを直視した俺は思わず椅子から転げ落ちそうになるが、震える声で負けじと由良を口説き始める。
「ゆ、由良くんって、すっげー色白いね。指も細いし。ピアノとかやってた? 綺麗な手してんじゃん」
「えっ? そうかな? ピアノとかは、全然やってないけど……」
「そうなんだ〜、似合いそうなのに。てか、すっごい顔整ってるよね」
さりげなく容姿を褒めると、由良は照れくさそうにはにかんだ。
「いや、大袈裟だよ……。むしろ、真生くんの方が似合うんじゃない?」
由良はそう言い、俺の手を持ち上げ、つう、と指を滑らせる。
驚いた拍子に「ひぇ!?」と声を裏返して目を見張ると、由良は俺の手にさりげなく自分の手のひらを重ね、指の隙間から覗くようにこちらを見た。
「……ほら。真生くんの方が、手、おっきい」
――バッッッキュンッ!!
刹那、先ほどよりも強烈な衝撃に胸をうがたれた俺は、ふらりとよろけて意識を失いかける。しかし気力を振り絞って今回もなんとか持ち堪え、奥歯を噛んで平静を保った。
(なんっっだそれぇぇ!! お前ふざけんな、可愛いが過ぎるぞ!! キュンどころかバキュンって音したわ!!)
カウンターで放たれた規格外のあざとさに胸を撃ち抜かれ、内心悶絶して瀕死に陥る。すると、そんな俺の熱を冷ますかのように、耳馴染んだ声が会話に割り込んできた。
「あれ、真生。お前、また近くの席かよ」
「えっ」
不意に声をかけてきたのは、説教野郎のコバだ。彼は俺の左隣の椅子を引き、当たり前にその席に座る。
その瞬間、嫌な予感がした。
「……コバ……もしかして……お前の席、ここ?」
「そうだけど」
頷く友。俺はひくりと頬を引きつらせ、頭を抱える。
マジかよ。俺の左隣、コバなのかよ。右隣は由良だ。つまり、俺は、コイツらの間に挟まれる形でしばらく授業を受けるということになる。普通に考えたら良い席順なのかもしれない。だが、相手がコバだと少々まずい。
だって、このクソ真面目の説教マシーンが隣の席なんだぞ? 授業態度や生活態度、箸の持ち方や座る姿勢に至るまで、ありとあらゆる細かい指摘が口うるさく飛んでくることぐらい想像がつく……!
(や、やべえ! せっかく好きな子と隣になれたのに、ついでに口うるさい母ちゃんまでセットで隣になったようなもんだ! 由良に見られながら母ちゃんに説教されるとか、マジで無理! めっちゃ恥ずい!)
だらだらと嫌な汗をかき、俺はぎこちなく由良に視線を向けた。
由良はなんとなく気を遣った表情をして、「あ、俺に無理して構わなくても大丈夫だよ」とやんわり遠慮する。
「真生くん、ありがとう。俺が緊張しないように話しかけてくれたんだよね。ごめん、気を遣わせちゃって」
(い、いや、違う! 俺はお前に告白してほしくて……!)
「あ……次、移動教室だ。それじゃあ、お先に」
席替えの終了によって朝のホームルームも終わり、由良は逃げるように教科書を持って俺たちの元を離れていく。
俺は露骨にショックを受け、由良とのイチャイチャを邪魔したコバを睨んだ。
(くそ、せっかく由良といい感じだったのに……! お前のせいだぞコバ!)
「灯のヤツ、せっかちだなぁ。あんなに急いで教室出ることねえのに」
(ちょっと待て、なんかお前ちゃっかり由良のこと下の名前で呼んでない!? 仲良いの!? ずるいぞ! おい!!)
何気に由良のことを下の名前で呼ぶコバに密かな対抗心こそ抱いたものの、一応好きな人の隣の席は確保できたのだからと、俺は自分の心を落ち着かせる。
フッ……まあ、大丈夫だ、焦ることはない。チャンスはいくらでもある。
気を取り直し、コバにほんの少しのジェラシーを抱えながら、俺は引き続き『由良から告られる』ための計画を練るのであった。
席が隣同士になって以降、俺は由良に話しかけることが増えた。
「ね、由良くん。教科書忘れたから見せて」
ごく自然に、さりげなく。机を隣にくっつけて、由良との距離を近付ける。
「えっ……また?」
由良は数回まばたきをして、戸惑ったように俺を見た。そりゃそうだ。もう三日連続で、なんらかの忘れ物をしているのだから。
「いや、別に、見せるのはいいけど……真生くん、忘れ物多くない? 大丈夫?」
「あはは〜、塾に持っていってさあ、そのまま忘れちゃうんだよね〜」
嘘である。普通に持ってきているが、由良と接点を作るためにわざと忘れたことにしている。
由良は「も〜……」と呆れたように言いながら、机と机を引っ付けて、その真ん中に教科書を置いてくれた。
「ありがと〜、由良くん。優しいね〜」
「明日はちゃんと持ってきてよ?」
「うん、がんばる〜」
「――おい、真生」
しかし、上機嫌に由良とイチャついていたのも束の間。左隣から低い声を投げかけられ、俺は露骨に辟易した。
「……なんでしょーか、コバさま」
棒読みで答えると、コバは説教モードをオンにする。
「お前、灯に毎日迷惑かけてんじゃねーよ。朝ちゃんと持ち物の確認しねえから忘れ物すんだろ? だいたいなあ、次の日に必要な持ち物は、前の日から準備しといてあらかじめバッグに入れておくのが常識――」
「あっ、せんせー! 俺、その問題分かります! 解きます!」
「おいコラ! 無視すんな、真生!」
長くなりそうな説教を遮り、問答無用で逃げた俺。吠える友人を無視して黒板へ向かい、チョークを握って白い文字を滑らせた。
(ったく、コバのヤツ、油断もスキもないな。俺は忙しいってのによ〜)
「おい杉崎、お前の解答全然違うぞ」
「あれれ〜、おかしいな〜」
「何がしたいんだ、お前は! もういい、じゃあ隣の席の由良! 杉崎の代わりに解答して!」
数学の先生に軽く小突かれ、俺は席に戻される。代わりに由良が先生に当てられ、「は、はい!」と慌てて前に出てきた。
俺の誤った解答の代わりに、由良が正しい解答を……?
席に戻りながら、俺は顎に手を当てて考える。これって、もしかして〝初めての共同作業〟というヤツでは? 実質ケーキ入刀に等しいのでは? つまり入籍?などとスーパーポジティブタイムに突入し、俺は頬を緩めた。
「……おい、どうした、真生。席に戻ってきた途端に鼻の下伸ばして」
「フッ……今俺は愛の共同作業の真っ最中だ。見せつけちまって悪ィな、コバ」
「何言ってんだコイツ?」
コバは若干引いた顔だが、俺はすっかりご満悦。ここ数日間の俺は、ずっとこんな感じだった。
由良との距離を縮めるため、わざと忘れ物やドジを繰り返し、強引に由良との接点を作っては、他愛のない会話を試みる――最初は緊張からトンチンカンなことを口走っていた俺だが、今ではだいぶ自然な会話ができるようになってきた。時折、隣のオカン……じゃなくてコバが、こうして口を挟んでくるものの、コイツのありがたいお説教もなんやかんやで慣れてきて、うまく受け流しながら日々を乗り切っている。
(今のところ、由良との仲良し作戦は順調だ。もう少し距離を縮めれば、由良も自信持って俺に告白しに来るはずだぜ……くくく……)
恥ずかしそうにしながら俺を校舎裏に呼び出す由良の姿を妄想していると、不意にコバが身を乗り出し、そっと俺に耳打ちした。
「あのなあ、真生……灯が優しいからって、あんまり甘えるなよ?」
「ん?」
「自分の立場に置き換えてみろ。隣の席のヤツが毎回忘れ物するアホなんて、ただウザいだけだろ? アイツも勉強に集中できないだろうし、邪魔しないでやれよ」
片眉を下げ、小声で忠告してくるコバ。
ただウザいだけ――その言葉がぐさりと胸に突き刺さり、俺はぎこちなく目を逸らした。
(うぐ……た、確かに……。毎日やりすぎても、ただしつこくて、ウザがられるだけだよな)
調子に乗りすぎるのはよくない。普段は聞き流してしまうコバの忠告を素直に受け入れ、少しやり方を変えなければと思案する。
となると、次の作戦はどうするか。
(うーん、由良みたいな控えめな性格の場合、甘えてくる男よりも甲斐性のある男の方が好みだったりするかもな。……よし。次は〝頼り甲斐アピール作戦〟で行くか)
そういう思考に至った俺は、うんうんと頷き、いさぎよく作戦を変更する。
これまでの忘れん坊モードは一旦封印し、頼れる男だってことをアピールしてやるぜ!
「というわけで、コバ! 時は満ちた! 俺の特訓に付き合ってくれ!」
「……は? 特訓って何!?」
「俺の男を磨く特訓に決まってんだろ! 明日土曜だし、お前ん家行くからよろしく!」
「まーた急にワケの分からんことを……あのなあ、お前はそうやっていつもいつも――」
「おい! 小林、杉崎! うるさいぞ!」
「あ、すんまっせーん……」
先生に叱られて謝りつつも、「お前のせいだぞ」「いやお前だろ!」などと耳打ちし合う俺とコバ。
そんな俺らのことを、隣の由良はきょとんと不思議そうな目で見つめていた。
◇
「――はい、それでは本日の調理実習は、各班でポテトサラダとハンバーグを作っていきまーす!」
後日。家庭科の調理実習にて。
担当教師が「怪我しないように、気をつけてくださいね〜」と声をかける中、エプロン姿の俺は密かに闘志を燃やしていた。
(来たな、調理実習……今こそ、コバとの特訓の成果を見せる時!!)
俺は戦を控えた将軍のごとく強気に構え、同じ班にいる由良を視界に捉えた。
男子厨房に入らず――なんて考えはもう古い。この時代を生きる男子たるもの、料理やスイーツのひとつやふたつ、チャチャっと作れてしかるべき。腕っぷしの強さだけが漢気ではない。日々を生き抜く生活力をアピールしてこそ、真の頼れる男というもの!
……という考えに行き着いた俺は、母性あふれるコバを師と仰ぎ、特訓を申し込んだ。アイツは日頃から自分の弁当を手作りするぐらい料理が得意なのだ。俺は土日返上で小林家に通い、料理のイロハを叩き込んでもらったのだった。
(これまで料理なんてまともにしたことなかったが、今の俺はあらゆる野菜を切り刻んだ〝辻斬り〟ならぬ〝ベジ斬り〟の男……この戦、負けられぬ)
「はーい、それではまず、サラダ用のキュウリを輪切りにして、ボウルで塩揉みしていきましょう〜」
(行くぜ……コバ直伝の包丁さばき、とくと見よ!)
俺の心の中に住まう恋愛武将は闘争心に満ちあふれ、〝愛〟のカブト(三角巾)と甲冑(エプロン)を装備し、鞘から包丁を抜き取った。
隣で由良がジャガイモの皮剥きをする中、俺はキュウリに刃を当てる。
見よ、由良! これが師匠から伝授された必殺奥義!
「うおおおお!」
――トントントントントン!
軽快なリズムを刻みながらミリ幅を合わせ、まな板の上でキュウリを輪切りにしていく俺。
俺の包丁さばきを見た周囲の班員たちはワッと沸き立った。
「おおお!? 真生、お前めっちゃ切るの速くね!?」
「飲食店の厨房でバイトしてる俺より速いじゃねえか!」
「はっはっは! まだまだだなお前ら! 男ならこれぐらいできて当然よぉ! 料理は男のたしなみだぜ、男磨く前に包丁磨いて出直しな!」
気をよくしながらそれっぽい言葉をのたまい、キュウリを刻んで「一丁あがり!」と由良を見る。
あっという間に一本切り終えた俺に由良は目を輝かせ、「真生くん、すごいね!」と拍手していた。ふふん、お茶の子さいさいだぜ。
「真生くんって料理できるんだ。ちょっと意外かも」
「ふっ、まあね。これでも家庭的だし、俺」
「本当にすごいと思うよ。俺、全然そういうの向いてなくてさ」
苦笑する由良が手にしているジャガイモは、皮がうまく剥けておらず、ところどころに茶色い部分が残っている。一応ピーラーを使ってはいるが、手つきも持ち方もどこか危うく、そのうち怪我してしまいそうだ。俺は慌ててそれらを奪い取った。
「ちょ、危な! 俺、代わるよ。怪我したら大変だし」
「え……でも、俺がジャガイモの担当なのに……」
「気にしないでいいって。その代わり、由良くんは俺が切ったキュウリの塩揉みしてくんない? こっそり交代しよ」
小声で耳打ちし、担当の交代をスマートに促す。すると、由良は気恥ずかしそうに頬を綻ばせた。
「……うん、分かった。ありがと」
長めの前髪の向こうから見つめられ、俺の心臓が分かりやすく跳ねる。可愛さに目が眩みかけながらも、俺は余裕ぶって頷いた。
「ま、まあ、助け合うのは当然だし? 誰にでもするわけじゃないんだけど、由良くんには特別っていうか? うん」
「そうなんだ。――じゃあ、二人の秘密にしようね。交換したの」
直後、小さく耳打ちし返してきた由良が、不意打ちで俺にそんな爆弾を落とした。
二人の秘密。二人の秘密。二人の秘密……繰り返される甘美な響きは俺の心臓に降り注ぎ、怒涛の勢いで爆撃しながら顔の熱を上げていく。だが俺は意地で平静を保ち、「も、も、もちろん!」と紳士的な態度を崩さぬまま、心の中では絶叫した。
(オアアぁぁ〜〜〜ッ!! これってもう実質的には夫婦の会話では〜〜〜!?)
紳士にほど遠い心の中の雄叫びを気取られぬよう、表情はキリッと保ったまま歓喜する。
作戦は成功だ。堂々と見せつけてやった。俺が頼れる男だということを。
(ふっ……何もかもが完璧な仕事運びだったぜ……! コバの家で死ぬほど練習した甲斐があった、これで由良も俺のことを見直したに違いな――)
「あれ?」
だが、俺が自分を過剰に褒めちぎっていたその時、由良が小さく声を漏らした。反射的に視線を移すと、なんと、俺の切ったキュウリが、連結したまま蛇腹状に広がっている。
俺の思考はたちまち凍りついた。よく見れば、俺の切ったキュウリたちは、最後まで切り離されていなかったのだ。輪切りになったように見せかけて、底が繋がったままになっている。
ひくりと頬が引きつったその瞬間、周りにいたクラスメイトたちは盛大に吹き出した。
「ぶっ……あははは!!」
「おいおい、真生〜。お前偉そうなこと言っといて、一個もちゃんと輪切りにできてねえじゃんか!」
「腹いてえ〜、もはや高度なギャグだろ! ははは!」
俺はダラダラと冷や汗をかく。
やばい。やっちまった。恥ずかしい。
先ほどドヤ顔していた自分を殴りたくなる衝動に駆られながら汗を滲ませていると、さらに追い討ちをかけるように、今度は背後で歓声が上がった。
「うわー! コバすげえ!」
「なんだこれ、どうやってんだ!?」
歓声の中心にいたのはコバ。ぎくりと嫌な予感がして、俺は恐る恐る、彼のまな板を覗き見た。
するとそのまな板の上では、なんの変哲もないただのキュウリが、花や松の形に飾り切りにされ、アート作品さながらの神々しさをまとって並べられている。
(な、何ぃぃぃ!?)
俺は衝撃を受けた。あまりに強大なオカンの壁が立ちはだかり、圧倒的な力の差を見せつけられたのだ。言葉を失って立ち尽くす俺の傍ら、芸術キュウリたちを器に盛ったコバは不思議そうに首を傾げる。
「これ、そんなに騒ぐことかあ? 別に大したことしてねーよ。他の下処理終わったから、暇つぶしに飾りも作ってるだけ」
「いやいや、普通それができねえって! コバって料理うますぎねえ? 男のくせに」
「バカかよ、今どきは料理作んのも男のたしなみってもんだろ。男磨きてえなら、まずは包丁から磨けってな」
(やめろコバ――! 俺と同じようなセリフを吐くな、余計惨めになるわ!!)
虚勢を張った先ほどの俺の発言と天然物のコバの発言がダダかぶりし、こちらにいるクラスメイトたちは余計に吹き出して大笑いする。俺にはもう為す術がなかった。完敗だ。絶大なるオカンパワー、恐るべし。完全に出鼻をくじかれてしまった。
おのれコバ、同じ釜の飯を作ったはずの俺に、堂々と反旗をひるがえしやがって。
(あ、焦るな、俺。大丈夫だ。料理だけにすべてを賭けているわけじゃない。漢気をアピールするチャンスなんて、いくらでもある……!)
己を鼓舞し、再び俺は前を向く。このまま大人しく身内からの謀反で焼き討ちになどあってたまるものか。俺は本能寺が燃えても生還する武将だ。
(今度は別の方法で、由良へのアプローチを仕掛けてやるぜ……!)
こうして、家庭科の授業を終えた俺は、作戦を次のフェーズへ移すことになった。
とはいえ、勢いのまま色々突っ走る傾向がある俺に〝次〟の考えなどない。実質ノープランである。はてさてどうするか……アレコレ考えているうちに、気付けば昼休みへと突入してしまっていた。
(つーか、そもそも、頼り甲斐とは何だ)
そうして俺の思考は、いよいよ原点に回帰する。色々考えすぎて、〝甲斐性とは〟〝男とは〟〝人生とは〟みたいなところまで戻ってきてしまったのだ。
(漢気……漢気とは……ケンカが強いとかそういうのか? いや、でも暴力では何も解決しない……いっそ、もっと分かりやすく経済力か? 何か気の利いたもんを、さりげなくプレゼントするとか……でも気の利いたもんって何? あっ、猫飼ってるって言ってたし、猫のシールとかどう?)
そこまで考えたところで、俺の脳内に住む恋愛武将が待ったをかける。いや、うん、分かるぞ武将。自覚ぐらいある。俺のプレゼント選びのセンスは壊滅的だと。
(さすがにシールはねえよな、小学生じゃあるまいし……。はー、どうしたもんか。好きな子の気を引くって難しいな)
そうこう考えながら教室に戻る途中、ちょうど、通りかかった資料室に由良の姿が見えた。
由良は本棚の上部に置かれている段ボールを取ろうとしているようだが、背が足りず、絶妙に手が届いていない。段ボールはじりじりと動いているようだが、爪先立ちでぷるぷると足を震わせ、一生懸命に手を伸ばしていた。
(かわよ)
ドギュンッ。胸に何かが深く刺さる。
キュンもバキュンも通り越し、俺が松尾芭蕉なら一句読んで『おキュンの細道』に収録するであろう愛おしき光景だ。
カワイイを、具現化したら、由良灯。
一句読みつつ、このまま経過を観察したい衝動に駆られるが、俺は冷静な思考をギリギリ維持し、欲を振り払って状況を分析した。
(待て待て、見守ってる場合か。よく考えろ。今ここで俺が由良の代わりにあの段ボールを取ってあげたら、めっちゃ頼れるイケメンじゃね? これはどう見てもチャンスだろ)
俺の中に居座る恋愛武将が「いざ出陣!」と指揮を取る。次の作戦はこれで決まりだ。
脳内に響く法螺貝の合図に背中を押され、俺はさっそく資料室に乗り込んだ。
「由良くん」
「!」
俺の呼びかけにハッとして振り返った由良。俺はにこやかに近付いた。
「段ボール、取れないの? 俺、取ろっか」
「え……! いや、だ、大丈夫だよ、そんなわざわざ……」
「いいって、俺に任せて」
「いやでも……」
遠慮する由良と押し問答をしていると、中途半端に引っ張り出された不安定な段ボールが由良の方へと傾く。俺はハッと目を見開き、反射的に由良の腕を取った。
「あぶね!」
「っ……!」
ドサドサドサッ!
段ボールは瞬く間に落下し、俺は由良を庇った。背中に何かが落ちてきて、思いっきり直撃したが、大した衝撃はなかった。
薄く目を開くと、足元には透明なクリアファイルがいくつも散らばっている。どうやら段ボールにはこれしか入っていなかったようで、俺は息をついた。
「はー、セーフ……。重いもの入ってなくてよかったね。大丈夫?」
「あ……う、うん……」
由良に安否をたずね、目と目が合う。そして、俺は息を呑んだ。
先ほど落下から庇った際、俺は咄嗟に由良を抱き寄せてしまったらしい。壁際に押し付けるような形で密着してしまっており、互いの顔の位置がやけに近かった。愛らしい顔を直視した俺はようやく現状を把握し、たちまちパニックに陥る。
(うおおおお近ァッ!?)
つい声にならない悲鳴を上げそうになるが、男の意地で持ち堪えた。奥歯を噛み、緊張感をごまかし、冷静に状況を整理する。
狭い空間。二人きり。互いの吐息すらかかる距離感。
そこまで把握したところで状況整理をしたのが間違いだったと気付いた。緊張感が増すだけである。
(ま、まずい、どうしたら……でも、これはチャンスだぞ! かっこよく振る舞え、俺! なんかいい感じのこと言え!)
俺は震えそうになる喉に唾を流し込み、気丈に振る舞ってキリッとした顔を作る。「あの、真生くん……」と見上げてくる由良を腕の間に閉じ込めながら、俺はクールを気取って由良を見つめた。
「……由良くん、怪我はない?」
「あ……うん。大丈夫」
「それはよかった。由良くんにもし何かあったら、〝骨折りゾンビのくたびれもうけ〟だからね」
「んん……?」
(なんか難しいこと言おうとして全然違うこと言った気がする)
怪訝な顔をされてしまったが、今の不発は大きめの咳払いでごまかした。
まあ、言葉は間違えたかもしれないが、とりあえず頼り甲斐は見せつけただろう。俺はぎこちない動きで由良から離れると、散らばったクリアファイルを拾い集めて手渡した。
「はい、これ」
「……あ、ありがとう、真生くん。もしかして、外から俺が背伸びしてるとこ見えた?」
「あー、うん、可愛――じゃなくて、一生懸命なとこ見えたよ」
「あはは、恥ずかしいな……。微妙に手が届かなくてさ、ダサいとこ見せちゃったよね」
「いや、むしろ可愛――じゃなくて、こういう時は気軽に俺を頼っていいから。もし落ちてきたのが重たい段ボールだったら危なかったし」
漏れそうになる本音を呑み込み、それっぽい言葉で取り繕う。由良は俺を黙って見つめたのちに柔く微笑み、「ありがと、真生くん」と再びお礼を繰り返した。
余分なクリアファイルを段ボールに戻す俺に、由良は続ける。
「真生くんって、優しいよね。俺、あんまり面白い話とかできないのに、最近よく構ってくれて……」
「え? ああ、ほら……同じクラスだし、席も隣になったし、とりあえず仲良くなりたいな〜っていうか……」
歯切れ悪く答える俺の隣で、由良は「そっか」と呟く。なんとなく顔を背けられたようにも感じて、俺は焦燥を覚えた。
やばい、なんか今の、『同じクラスになっちゃったし仕方なく仲良くしてます』みたいな言い方に聞こえたかもしれない。
緊張感でまともな言葉が出ない自分を恨んでいると、クリアファイルはすべて段ボールの中に戻っていた。
「あ、これで全部だね。本当にありがとう、真生くん」
「ああ、うん……」
「じゃあ、俺は教室に戻――」
「あ、ユラっち! いたいた、探したよ〜」
その時、資料室に誰かが入ってきた。「あ、持田くん」と微笑む由良の視線の先には、マッシュルームカットで黒縁メガネという愛嬌ある見た目が特徴的なクラスメイト・持田の姿。
持田は笑顔で資料室に入ってきたようだったが、由良と一緒にいる俺を見た途端、楽観的な表情をこわばらせて少し息を呑んだように見えた。
「あ……す、杉崎くん……どうも……」
「? おう、どうも」
「ゆ、ユラっち! 今日は俺たち漫研の原稿の下読みしてくれる約束だっただろ!? もうみんな待ってるよ!」
「あ、うん。今、その原稿を持ち帰る用のクリアファイルを取りに来てて……」
「いいから行くよ、ほら!」
持田は俺の顔色を窺いつつ、由良の手を引いて資料室から連れ出してしまう。由良は「そんなに急がなくても……」と戸惑っていたものの、そのまま連れていかれてしまった。
俺はぽつんと一人残され、眉をひそめる。
「……なんだ、持田め。俺の顔見てビクビクしやがって」
由良を俺から引き離した持田の態度は、明らかに俺を警戒するようなそれだった。あの二人は去年から同じクラスで仲がいいようだが、持田のヤツは俺のことをあまり良く思っていないらしい。
ふん、と鼻を鳴らしつつ自分も資料室を出る。ところが、今度は俺が声をかけられる番だった。
「あ、真生〜」
(……げ!)
前から歩いてきたのは、同じバスケ部の先輩たちだ。みんな派手に髪を染め、耳にはピアスが光っている。
俺は内心辟易しながらも、表情には出さず、「お疲れっす」と笑顔で会釈した。
四、五人の先輩たちはゾロゾロと俺に近付き、先頭の一人が肩を抱いて引き寄せる。
「なあ、真生、お前さ〜、北高のバスケ部に知り合いいない? 中学ん時、あの辺のバスケクラブに入ってたって聞いたんだけど〜」
(うげえ、めんどくさ……誰だよバラしたの)
げんなりしつつ、俺は目を逸らした。
先輩たちの言うように、俺は幼い頃から北区のバスケチームに入っていて、中学もあの辺りの学校を卒業している。そして北高というのは、全国大会常連の強豪バスケチームがある高校で、俺の元チームメイトが何人か、その高校のバスケ部に所属しているのだ。
とはいえ、俺とそいつらに関わりがあったのは中学までの話。今では連絡すらしないし、正直、もう顔を合わせたくない。
「……あ〜、どうっすかね〜。俺、あんま連絡とってないんで……」
「えー、でもさぁ、北高バスケ部の連絡先は分かるってことでしょ? 誰でもいいからさあ、そいつらから女バスの連絡先もらって俺らと繋げてよ〜」
「はは……」
乾いた愛想笑いを漏らし、マジでめんどくせえ、と胸の内側だけで呟く。どうせそんなことだろうと思っていた。『バスケ部』という名前を使って、ただ女子と関わり合いたいだけなのだ、コイツらは。
「……今度、昔のチームメイトに連絡しておきます」
適当な返答をすれば、先輩たちは納得したのか「よろしく〜」と笑って俺を解放した。メンズの香水が放つキツい匂いと気だるげな足音が離れ、先輩たちは去っていく。
(ったく、本当にだるいな)
うんざりしながらスマホを手に取り、一応連絡先を確認してみる。過去のチームメイトの連絡先はまだかろうじて残っているが、もう一年以上はまともに連絡していない。
(そりゃそうだ。今さらどの面下げて連絡すんだよ。はー、ヤダヤダ)
ディスプレイから目を逸らし、かぶりを振りながらポケットにしまう。
過去のことなんてどうでもいい。楽しいことだけ考えよう。そうだな、たとえば、明日はどんな方法で由良にアプローチしようか――とか。
俺はキツい香水の残り香を振り払い、気持ちを切り替えて教室へと戻った。