俺が由良のことを初めて意識したのは、高校一年の一学期。ちょうど夏が始まったぐらいの季節だった。
 当時の俺は、まだバスケというスポーツに対する情熱があり、髪も黒く、少なくとも今よりは至って真面目に部活に通っていたように記憶している。だが、この高校のバスケ部というのはとにかく最悪だった。何がどう最悪かって、そもそもスポーツチームとしての体裁すら成していない――いわゆる不良の集まりだったのである。
 先輩たちは部室でゲームをしたり、体育館で騒いだりするばかりで、まったくバスケをしようとしなかった。顧問も指導する気など皆無で知らん顔を決め込んでおり、それまで真面目にバスケと向き合いながら生きてきた俺は、活動方針の価値観が合わない先輩たちとしょっちゅう揉めて口論になっていたのである。
 由良の存在を初めて知ったその日は、特に激しく先輩と揉めた日だったような気がする。言い合いは徐々に激しさを増し、最後には派手に突き飛ばされて、俺は足首を(ひね)ってしまったのだ。
 そうして訪れた保健室にいたのが、由良だった。由良は手早く湿布を取り出して俺の足を治療し、苛立ちと不機嫌さを露骨に出したまま治療を受けていた俺に、おずおずと声をかけてきた。
「あのさ……これ、多分折れてはないと思うけど、動くと痛むと思う。念のために今日は部活切り上げて、病院行った方がいいよ」
 だが、俺は由良の助言に聞く耳を持たなかった。
「大丈夫だろ、どうせ部活に戻ったって大した運動しねーよ。先輩方はみんな、ゲームにスマホに大忙しだからな」
 苛立ちのままに皮肉を(つむ)ぎ、鼻で笑う。
 当時の俺は由良と別のクラスで、面識もなく、話したのもその時が初めてだ。もちろん名前すら知らなかったが、履いていたスリッパの色で同級生だということだけは分かっていたため、つい気を緩めて愚痴をぶつけてしまっていた。
「あーあ、マジでムカつく。分かり合えないヤツといくらケンカしても、どうせ意味なんかねえのに。あいつらはバスケがしたいんじゃねーんだよ、緩い部活で暇潰せるならなんでもいいだけなの」
「…………」
「なんで俺、こんなつまんねーことしてんだろ。やる気のねえ部活に顔出して、ただ無意味にボール投げて、虚無の時間過ごして……まあ、こういう道を選んだのは、俺なんだけどさあ……」
 最後は弱々しくぼやいたあと、頬杖をついたまま虚空を見つめる。
「……やっぱ、もう辞めよっかな。バスケなんて」
 呟いた言葉に、由良は黙って耳を傾けていた。やがて俺は、関係ないヤツにこんなことを愚痴っていても仕方がないと頭を冷やし、「あー、色々ごめん、ありがとね」と一言伝えて、そのまま保健室を出た。
 足を引きずって部活に戻る道すがら、次第に虚しさが増長して、渡り廊下で立ち止まる。
 窓越しに仰いだ空は、どこまでも青く澄んでいた。一方で、体育館へと向かう足は、とてつもなく重く感じた。怪我の痛みのせいではなかった。精神的な負荷が蓄積して山になり、心が重たいと感じていたのだ。
(こんなこと、いつまで続けんの、俺)
 外で鳴いている蝉の声が、俺を嘲笑っているようにすら聞こえる。いくら先輩たちに不満をぶつけたって、顧問に掛け合ったって、俺の言葉は一週間で死ぬ蝉の騒音よりも価値がなく、誰の心にも響かない。唯一、同級生のコバだけは俺の考えに賛同してくれていたが、たった二人ではバスケなんてできるはずもない。
 バスケはチームスポーツだ。五人が揃って初めてひとつのチームになれる。
 俺はそのチームから逃げた。その結果がこの有り様なのだと、自分でも分かっていた。
「何ヘコんでんだか……全部俺のせいなのに……」
 窓の外を見ながらぽつりと呟く。その時、誰かが廊下を走ってくる足音が、耳に届いた。
「――あの!」
 走ってきたそいつに声をかけられ、反射的に振り返る。そこにいたのは由良だった。彼は息を荒らげ、俺に一枚の湿布を差し出す。
「これ……っ、」
「え?」
「はあ、はあ……。一応、剥がれた時の、予備に……」
「ああ、湿布……」
「う、うん! それだけ! それじゃ……!」
 短く用件を伝えると、由良はぎこちない会釈と共に背を向けた。そのまま足早に保健室へと戻っていく。
 わざわざこんなもんを届けるためだけに、走って追いかけてきたのだろうか。へえ、アイツ、良いヤツなんだな――そう感心しながら由良の背を見送り、もらった湿布を何気なく裏返す。
 すると、そこには、サインペンで下手くそな絵が描いてあった。
(え……)
 はた、と硬直し、二回ほどまばたきをする。湿布に描かれていたのは、短い手と足が生えたバスケットボールだ。いびつな線で描かれたボールには、ブサイクな顔も描かれていて、フキダシの中に『負けるな』と小さなメッセージまで書いてある。
 その下手くそな絵を見た瞬間、それまで(すさ)んでいた俺の心は、若干の落ち着きを取り戻した。
(……え? 何? アイツ今、わざわざこれ描いて、急いで走ってきたん?)
 想像するとつい笑みがこぼれてしまい、噛み殺しきれずに少しだけ吹き出す。
 由良が咄嗟の判断で描いてくれたであろう励ましの気持ちは、あれほど負担に感じていた足の重みを、いささか和らげた気がした。
(なんだそれ、可愛いかよ。なんか、ちょっと元気出た)
 先ほど湿布を手渡してくれた由良のことを思い出しながら、夕方の廊下で小さく微笑む。今思えば、この時から俺は、由良のことを意識するようになったのだろうと思う。
 由良からもらった湿布は、それから一度も使用することなく、リュックの内ポケットに入れて持ち歩いていた。先輩たちとの関係は依然として改善しなかったものの、結局部活を辞めることもせず、心が荒みかけた時は、由良が描いた湿布の絵を見て心を落ち着かせて耐えるという手法で乗り越えた。由良が書いた『負けるな』に、俺は心を支えられていたのかもしれない。
 部活に行くのが辛い時、逃げ込む先は、水曜日の保健室。
 最初は月に一度、行くか行かないかの頻度だった。だが、〝辛い時に逃げ込む〟という用途が、いつしか〝会いたいから会いに行く〟という理由に変わっていた。
 やがて恋愛的な感情に気付き、由良に惹かれていくまで、あまり時間はかからなかったと思う。
 気がつけば、由良に会うためだけに、毎週水曜日の保健室に通うようになっていたのだ――。

 そういった由良との馴れそめを思い返しながら、購買での用事を済ませ、俺はコバと一緒に教室へと戻ってくる。相変わらず、コバは俺のことをグチグチ言っていた。説教くさい彼の言葉を聞き流しつつ、俺は自分の席に座り、ぼんやりと目の前を見つめる。
(よく飽きもせず、俺に説教できるよなあ、コバ……。まあ、それだけ俺がコイツの期待を裏切るようなことしちまってんのかもしれないけど)
 はあ、と小さなため息を吐く。コバの苛立ちや説教はもっともだ。あれだけバスケ部の腐敗に抗おうと奔走していた俺が、結局のところ一番腐って、今では先輩たちの方針に合わせるようになってしまっているのだから。
 きっと失望されている。そう思うと、気分が重くなっていく。
 背後では、やはり由良が俺のことを見ているような気がした。俺のことを意識してくれているのは嬉しいが、こんな情けない姿まで見ないでくれとも思う。
 だが、その時、ふと、俺は冷静に考えた。
 俺は由良のことを好きになるきっかけがあったが――由良が、俺を好きになるようなきっかけなんて、今まであっただろうか。
(いや、なくね?)
 悪寒を覚えながら真に迫る。いや、きっかけなくね? マジで。
(由良が俺を好きになる要素とか、果てしなくゼロなんですけど? だって俺、いつも一方的に保健室通いしてただけだし、ほぼ話したこともないし……)
 浮かれていた感情が急速に熱を失い始め、徐々に不安が勝り始める。
 ていうか、俺、そもそも本当に告白されてたのか?
 あの時ちょっとウトウトしてたし、実はあの告白自体、すべてが俺の生み出した妄想で、寝ぼけて見ていた夢とか、幻だったり……。
(あ、やべ、なんか自信なくなってきた)
 疑心暗鬼に陥り出して、ネガティブな想像が次々と頭の中身を埋めていく。どくん、どくん、嫌な鼓動まで大きくなる。
 俺は岐路に立たされていた。
 あの告白は、寝ぼけた俺の妄想か、それとも、ちゃんと現実だったのか。
 一刻も早く真相を確かめなければならない――そう思った。
(妄想だったとしたら、マジでやばい。いよいよ末期かもしれん。一度ちゃんと確かめよう。次の水曜日に、もう一度保健室で寝たフリをして、アイツが告白してくるかどうか試して……!)
 俺は密かに決意する。その時、前の席のコバが「おい」と声をかけてきた。
「お前さ、ちゃんと俺の話聞いてる?」
「……え? お前まだ説教してたの? 聞いてなかった」
 ――ボコォッ!
 容赦なくグーパンされた肩は、一時間目の授業が始まる頃まで痛むことになった。