頭が真っ白になった。ヅカオタで現役時代の夢野杏樹を見たことがあることまでは知られているとしても、ファンレターを送るほどの大ファンだったことが本人にばれている。私のこの一年間の反抗的な態度が全部ツンデレの一言で片づけられてしまうじゃないか。顔から火が出るほど恥ずかしい。私の感情はもっと複雑なものなのに。
「まさかファンレター送ってきた人の名前、全員覚えてるんですか」
 他の人の名前を憶えているのかなんてこの際どうでもいい話なのに、とにかく適当に話題をそらした。
「人の顔と名前覚えるのは得意な方ですから。それに、定期的に読み返しているんですよ。希望の役がもらえなかった日も、劇団側から契約更新ができないと言われてトップスターになる夢が完全に終わった日も」
 当り前だけれども、タカラジェンヌになったらそれで終わりではない。生涯舞台女優として生きていける人間なんて一握りどころか一つまみくらいしかいない。頭ではわかっていた。でも、まだ何者でもない私には実感がなかった。目の前の、夢に生きた人間の生の言葉を聞いて初めて実感した。
「悔しくて泣いた日も、挫折した日も、同じ二十四時間なんです。時間は待ってはくれなくて、変わらず明日は来るんです。夢が終わっても、生きていかなければいけないんです」
 この一年、橘優子が何度も言った言葉。「夢が終わっても人生は続く」私は、クラスのみんなはそれを「あなたの夢は叶わない」と解釈していた。でも、思い返してみれば彼女は「落ちたら」「負けたら」「叶わなかったら」そういう言葉は一切使わなかった。彼女の言う夢の終わりは夢の舞台に立った後、その舞台を降りなければならなくなった日のことを指していたのだろう。冷徹な話し方に騙されていたが、彼女はいつだって、私たちが夢の舞台に立つ前提で話していたのだ。
 眩しい夢の舞台に憧れているだけの子供には見えない舞台上の現実。それにいつか曝されたときに壊れないように。
 中には私のように夢の舞台に立てずに散った人たちもいる。でも、誰も死ななかった。何事もなかったかのように彼らは卒業式に来た。そして私も今生きている。夢が叶わなかったらその場で舌を噛み切って死んでやるくらいの覚悟で受験に臨んだのに、死に損なった。
 それはきっと一年をかけて刷り込まれたからだ。夢が終わっても明日は来ると。生き続けなければいけないと。
「どうやって、折り合いつけたんですか」
 私はこの人のように強くは生きられない。私は凡人だった。夢野杏樹のような特別な人になれなかった。きっと体も頭も心も何もかも作りが違うんだ。
「今までにいただいたファンレターを読み返したんです。トップにはなれなかったけれど、誰かの心に確かに残ることができた。それで充分幸せだった。それを思い出して区切りをつけることができたんです」
「宝塚以外の場所で女優を続けようとは思わなかったんですか?」
 あの頃の私はどんな形でも夢野杏樹に舞台に立ち続けてほしかった。十年越しの恨み言をぶつける。
「残念ながらやっていけるビジョンが見えませんでした。だから、きっぱり別の道に進むことにしたんです。幸いにも家業が学校法人でしたから、私は恵まれていました。今までしてこなかった勉強をして、高卒認定試験をとって、浪人して大学に入って、小学校がかぶらないくらい年下の人たちに混ざって教師になりました。ごめんなさいね、格好悪くて。幻滅させてしまいましたね」
 華やかな舞台から一転して、泥臭い生き方へ。夢の舞台の輝きを知った後、私はその落差に耐えられただろうか。いつか泣くことになるとしても、その光を浴びてみたかったけれど。
「強いんですね」
「それが、人と違う人生を生きるということですよ。オーソドックスな人生と違う道を選んだら強く生きていくしかないんです」
 ようやく気付いた。この人は意地悪でみんなの夢を否定していたわけじゃない。夢に生きる上で絶対に念頭においておかなければいけないことを言っていただけだ。耳が痛いことを言う悪役を買って出た偽悪者で、本当は誠実な人だった。少なくとも“絶対に”夢は叶う、と無責任に言った大人や毒にも薬にもならない綺麗事を言い続けた大人たちよりはずっと。
「なんでわざわざ憎まれ役やってたんですか。優しい言い方で優しい先生としてやんわりと忠告することだってできたはずじゃないですか。どうして自分が損するような道を選んだんですか」
「確かに優しい先生に救われる人は多いのでそうすべきだったのかもしれません。でも、父の学校はいい学校なんです。優しい先生と熱血教師ばかりなんです。学校生活を振り返ってみると、案外印象に残っているのは厳しくて冷血な先生の言葉だったりするでしょう? そういう役が足りないと思ったので私がその役割になることにしました。いつか人生に疲れたときに帰る場所としての恩師は他の先生におまかせして、私は大嫌いだったけれど言葉だけはなぜか心に残っている鬼教師に徹するのが皆さんのためになるかなと」
「損な役回りじゃないですか。そうしろって、理事長のお父様に言われたんですか」
「いいえ。私の意志です。私は一度死んだ身ですから。この命は未来ある若者のために使おうと思ったんです」
 やられた。稀代の名女優・夢野杏樹は学校を舞台にクラス全員に憎まれる教師を演じきったのだ。きっと花だけがそれに気づいていた。私は馬鹿だ。人を見る目がないのは私の方じゃないか。かつて人生の指針にするほど憧れた人を信じることができなかった。
「でもね、生徒には全員幸せになってほしいとはいえ、やっぱり遥ちゃんは特別なんです。あなたの人生の節目とあらば、こうして関西まで飛んでくるくらいには」
 世界で一番美しい顔を向けて杏樹様は私に語り掛ける。
「それ、花が聞いたら嫉妬で泣きますよ。依怙贔屓だーって」
「ええ、依怙贔屓です。教師だって人間ですから。私が開き直る姿、何度も見て来たでしょう?」
 悪戯っぽい顔を向けられれば簡単に落ちてしまいそうだ。私が憧れた人はそういう星のもとに生まれた人だ。私はそんな世界を目指していた。
「依怙贔屓してくれるなら、最後に一個だけお願いしてもいいですか」
「ええ。私ね、遥ちゃんには幸せになってほしいんです。あなたには無限の可能性があるんですから」
 わざわざそういう言葉を選ぶところがずるい。私が何をお願いしようとしていたのかわかっているみたいじゃないか。
「私をレナだと思って、『亡国のソナタ』のレナの兄の最期のセリフ言ってください」
 憧れの人のセリフがきっかけで目指した夢。その夢が終わってしまったから、同じ言葉を糧に歩き出す。うん、素敵だ。これで文字通り夢物語に終わった私の物語に区切りをつけることができる。
「いいですよ、手を握ってもらえますか」
 銃弾に撃たれ倒れた場面での台詞だ。服が汚れるのもいとわず杏樹様は砂利にまみれた地面に寝そべる。私は杏樹様の手を握り、膝をつく。杏樹様の息遣い、表情、そのすべてが空気を作った。名も知らない小さな公園が、遠い昔の異国の戦場へと姿を変える。
「君は何にだってなれる。どうか幸せになってくれ」
「はい、お兄様。約束します」
 これでいい。夢は終わってしまったけれど、夢を追いかけていたからファンとしては最高の幸せを手に入れることができた。完璧なハッピーエンドとまではいかなくても、救いのないバッドエンドじゃない。
 青春全部かけて挑んで負けた。空っぽになってしまっても人生は続いていく。それでも、いつかこの日々のすべても私の歩んできた足跡だと自信を持てる日が来るように、がむしゃらに生きていく。
「ありがとうございました。それと、おかえりなさい、杏樹様」
「ただいま。本当に、舞台に帰ってきたみたいだった。こちらこそありがとう」
 杏樹様は起き上がると、緑茶を開けた。
「乾杯しましょうか、再会の記念に」
 遠い昔の大切な思い出。私の原点。かつての憧れに、かつてのファンとして再会できた。私はミルクティーを開けてその言葉に応える。
「舞台は演者とお客様の共同作業で作るものですから十年ぶりの共同作業になるのでしょうか。かつて同じ舞台を作った友に、乾杯」
「乾杯」
 コン、とペットボトルをぶつけ、少しぬるくなったミルクティーを飲む。いつも飲んでいるものよりも甘かった。
「|Should auld acquaintance be forgot《旧友は忘れていくものなのだろうか》……」
 おもむろに杏樹様が『蛍の光』のメロディーを歌い出した。日本では別れの歌として歌われているけれど、原曲『オールド・ラング・サイン』は旧友と再会し、盃を交わす歌だ。新しい年を迎える際に歌われる、始まりと祝福の歌だ。私も杏樹様の声に合わせて歌う。
「|We'll tak a cup o' kindness yet for auld lang syne《親愛の盃を飲み交わそう、懐かしき日々のために》」
 パチパチパチとたどたどしい拍手の音が聞こえた。ふと視線をずらすと、女の子が小さな手で一生懸命拍手をしてくれていた。ちょうど私が初めて宝塚の舞台を見た時と同じくらいの年頃の子だった。
――いつか私もタカラジェンヌになって杏樹様と共演して、いっしょに歌いたいです。
 遠い昔、ファンレターに書いた言葉。理想通りとはいかなかったけれど、私の夢は形を変えて叶ったのかもしれない。二人だけのステージを見届けてくれた小さなお客様の心の片隅にほんの少しでも残れたら、これ以上の幸せはない。
 そして、わかったことがある。やっぱり私はお芝居が好きだ。
「私、やっぱり演劇の道に進みます。たとえ修羅の道でもやっぱり諦めきれません。とりあえず、浪人して大学受験して、シェイクスピアの勉強しようかと思うんですけど……今からでも遅くないですかね?」
「もちろん。私の夢が終わった時よりずっと若いんですから」
 一度挫折した。才能の限界を知った。ここから先は、傷つくとわかりきった茨道。人と違う道を生きるということは、痛みを選んで生きるということだ。
 それでいて、夢が叶うとは限らない。夢の先で、想像もつかないほど大きな傷を負うかもしれない。それでも私は生きていく。余生ではなく第二の人生を。
「もしもまた明日が来るのが怖くなったら、その時は会いに行ってもいいですか?」
「ええ、渡会さんはずっと私の生徒ですから」
「ありがとうございます。そうしたらまた、第三の人生、第四の人生を始められる気がします」
 何度傷ついたって、死にたい夜は明ける。夢追う人にも夢破れた人にも平等に明日はやってくる。より幸せな明日を生きるため、私は前を向いて今日を生きる。
「さっき、最後って言ったんですけど、やっぱりもう一個お願いいいですか? 心機一転ってことで、芸名に私に道しるべをくれた人の名前をいただきたいんです」
「あら、夢野杏樹を襲名してくださるんですか? それは光栄ですね」
「いいえ。夢野杏樹様に憧れてタカラジェンヌを目指した私は成仏したんです。恩師の苗字からとって、橘はるかって名乗らせてください」
 主演・橘優子、助演・渡会遥の学園ドラマの終わりならこの結末が一番美しい。一年間、すべての夢追い人の心に残る教師を演じきった名女優に最大の敬意と感謝を込めて教え子は第二の人生を歩き出す。清く正しく美しく、私はこれからも生きていく。綺麗事だけじゃ生きていけなくとも、傷だらけの日々でも。
「ええ、橘はるかさんの未来に幸あらんことを」
 明日から私は橘はるかとして生きていく。その前に渡会遥として伝えたいことがある。私は深く、恩師に向かって頭を下げた。
「一年間ありがとうございました。橘先生」