運命の三月三十日、宝塚音楽学校の合格発表の日。今年は今までいけなかった三次試験、すなわち最終試験まで進むことができた。面接の手ごたえは完璧。スクールの先生からも「絶対に合格できる」と太鼓判を押してもらった。
 兵庫県宝塚市、試験会場近くのホテルで静かに発表の時刻を待つ。一秒一秒が、長く感じる。そわそわする。自分でも自覚できるくらいに落ち着きがない。狭いツインルームを端から端まで行ったり来たりしている。
 ベッド脇のデジタル時計を確認する。さっきと見たのと同じ時間だ。一分も待たずにまた時計を見てしまった。落ち着かなくては、と自戒しながらも視線が今度は壁のアナログ時計に移ってしまう。秒針を目で追う。秒針の流れが今日は止まっているんじゃないかと思うくらいゆっくりだ。
「大丈夫よ、遥なら。先生も大丈夫って言ってたんでしょう?」
 一緒に泊まっていた母が見かねたのか、なだめられてしまった。
「そうだけど……」
「じゃあ絶対大丈夫よ。四度目の正直」
 学校の先生と違って、スクールの先生は私を不安にさせるようなことは言わない。年が明けてから数えきれないくらい「絶対大丈夫」と言ってもらった。それでも不安なものは不安だし、緊張する。人生がかかっているのだから。
 スマートフォンの時刻を見る。まだ発表時刻になっていないのに、Web上での合格発表用のURLを開いては何度も更新する。当然のごとく、合格発表はまだ表示されない。
「もう、何のためにアラームかけたかわからないじゃないの。大丈夫よ、遥が誰よりも頑張ってきたこと、お母さん知ってるから。ほら、こういう時は掌に三回人って書いて飲んで」
「それ、試験本番でやるやつ。今更やっても結果変わんないじゃん」
 古臭いおまじないをしようと、部屋をうろつこうと、もう結果は変わらない。頭ではわかっているのに、落ち着くことができない。
 緊張で喉がカラカラだ。限界が来て、スマホをベッドにおいて水道で水を汲んだ。飲もうとしたところで、ポロロロン、とハープを模した電子音が鳴る。母のスマホのアラームが鳴りだした。コップを放置して、急いでベッドに飛び込んでスマホを確認する。ロック画面の時計は発表時刻を指している。
 あわててPINコードを入力しようとしたが、間違えた。手が震える。深呼吸をして、二回目は間違えないように落ち着いて入力する。開いた。発表用のURLを開く。
運命の瞬間、私は意を決して画面を見つめた。

 落ちた。落ちた。落ちた。嘘だ。だって、絶対大丈夫だって言われた。毎日レッスンに通った。頑張った。人生全部かけてきた。なのに、落ちた。私の夢はこの瞬間に終わった。
「遥」
 一緒に泊まっていた母の手を振り払い、ホテルを飛び出す。どこに向かっているのかなんて自分でもわからなかった。
「遥!」
 母の呼び止める声は無視した。もう全部嫌になった。おしまいだ。本当におしまいになればいい。世界なんて滅べばいい。泣きながら宝塚音楽学校と反対方向に走った。途中、合格して入学手続きに向かっていると思われる雰囲気の人何人かとすれ違って余計惨めになった。
「渡会さん!」
 うるさいうるさい、私を呼ぶな。どうせ全部終わったんだ。何者にもなれなかった私を呼ぶな。
「渡会さん!」
 すべての感覚が鬱陶しい。私を呼ぶ声も、涙で濡れた頬を刺す風の冷たさも、世界中が敵になった気がした。
「渡会さん!」
 突然、腕を掴まれた。いるはずのない人間がここにいる。やたらラフな格好をした元担任の橘優子がそこにいた。
「何? 笑いに来たの? 見下しに来たの?」
 東京から兵庫まで新幹線で二時間以上。わざわざこんなところにまで煽りに来るなんてとんだ暇人だ。確かに私は反抗的だったかもしれないけれど、そこまで私が憎いか。
「だから滑り止めも受けとけばよかったのにって思ってるんでしょ。いいんだよ、どうせ私の人生おしまいなんだから! もう全部どうだっていい!」
「よくありません! 落ち着きなさい!」
 腕を振り払おうとすると反対の腕も強い力で掴まれた。
「離してよ! 離してってば! あんたには関係ないでしょ1」
「関係なくありません。言いましたよね、私は渡会さんの担任です。これからもずっと渡会さんは私の生徒です。生徒の岐路に担任が立ち会うのは当然のことです」
「それはあんたが勝手に言ってるだけでしょ! 私はあんたのこと先生だなんて認めない!」
 この一年、私は一度として橘を先生と呼んでいない。
「法的にはあなたは三月三十一日までは橘学園高校の生徒です。ですから、少なくとも私は明日まではあなたの担任です」
「うっさいな! そんなに法律が好きなら弁護士にでもなればよかったじゃん!」
「そうですね。そういう人生もあったかもしれません」
「だから、そういうしゃべり方がむかつくって言ってんの! いいよね、理想の人生歩んでる人は! 一発合格して、夢叶えて、卒業した後は親のコネで悠々自適な生活してさ! 四回受けて全部ダメだった私のこと見下して楽しい?」
「渡会さん、お金の話をするのは下品ですが、教職員ってだいぶ安月給なんです。それに年度末って忙しい時期なんですよ。そんな時期に、高いお金を出して新幹線に乗って、わざわざ嫌がらせしに来る……私がそんな非合理的な人間に見えますか?」
 橘が強い目力で私をじっと見つめながら言う。確かに、橘は悪く言えばつまらない大人だけれどもよく言えば合理的な人間だ。
「でも、あんたに私の気持ちがわからないのは事実じゃん」
「そうですね。それは認めます」
「夢終わった直後に、夢叶えた人の姿なんて見たくないに決まってんじゃん」
「そうかもしれませんね。無神経でした。ごめんなさい」
 手は私の腕を掴んだままだが、深々と頭を下げてきた。私が何を言っても否定しないのが逆に不気味だった。
「ほんと、何しに来たの?」
「願わくば一目見たいと思ったんです。合格して宝塚音楽学校の門をくぐる渡会さんを。ただ、もしそれが叶わない場合、渡会さんはとても危ういと思いました。合格発表がどちらの結果でも、見届ける必要があると感じました」
「よく言うよ。受かる可能性なんてゼロだと思ってたくせにさ」
「そんなこと一言も言っていません」
「だって、いつも言ってたじゃん、夢は終わるって! いつも夢が終わる前提で話してたから、みんなに嫌われてたんだよ!」
「そうですね。ほとんどの人間の夢はどこかで終わります。今の渡会さんに言うことではないかもしれませんが、私も夢の終わりを経験した側の人間ですから」
 タカラジェンヌは八年目を境に雇用形態が変わる。人気が出なかったなどの理由で、直接雇用から業務委託契約になるタイミングで卒業を選ぶ団員や、劇団側から契約を打ち切られる団員もいる。夢野杏樹もその例に漏れなかった。
「でもさあ、あんたは死にたいとまでは思わなかったでしょ! 一回は夢叶えたんだからさあ」
 どんな正論を言われたところで届かない。私と橘では根本的に境遇が違う。
「死にたいなんて言わないでください!」
 橘が切羽詰まったような大声を出した。周りの人が一斉に振り返る。注目が集まってふと我に返る。この状況はかなり恥ずかしい。大声を出したのは演技なのだろうか。
「大声出さないでよ恥ずかしい」
 先ほどまで私も泣き喚いていたけれど、一般的には学生よりもいい年をした大人が大声を出す方が恥ずかしいはずだ。
「では、少し落ち着いて話せる場所に移動しましょうか。ホテルに戻るのとあの公園に行くならどちらがいいですか?」
 道路の向かいの小さな公園を指さして質問された。
「ホテルには帰りたくない」
 母のもとに戻りたくない。何よりあのホテルは宝塚受験生御用達になっているので合格した勝組に会いたくない。
「わかりました。では行きましょう」
 橘に手を引かれて公園に向かう。入口の自販機で橘は温かいミルクティーと緑茶を買った。公園では一組の親子が砂場で遊んでいた。
「どちらがお好きですか」
 砂場から少し離れたベンチに腰掛けるや否や、買ったペットボトルを差し出された。ミルクティーの方を受け取る。温かい。温度を感じるということは生きているということだ。私は生きながらえている。夢が終わったのに生きている。
 タカラジェンヌとしての人生が始まるはずだったのに、始まる前に夢は終わった。今日からゴミみたいな余生が始まる。
「死にたい」
 ぼそっと呟いた。
「死なせませんよ、遥ちゃん」
 橘はまるで騎士のようにひざまずいて、私の手を両手で包み込むように握った。顔はすっぴんに近く服装も普段着なのに、在りし日の夢野杏樹の姿が確かに見えた。
「なんで、下の名前」
 心臓がドキドキする。この人はもう夢野杏樹様じゃないはずなのに。
「昔、ファンレターくれましたよね。渡会遥ちゃん」