あの後何人かはラインで花に謝ったようだけれど、花は翌日も学校に来なかった。花の視点では私は花を見捨てた薄情な人間だろうから、こちらから連絡するのも憚られた。学校とレッスンを終えて家に帰ると、スマホに花から不在着信が入っていた。とりあえず掛けなおしてみる。
「もしもし」
「もしもし、あのね、今日先生が家に来てね、これからのこととか色々話したんだ」
 弱々しい声で心配になった。
「あー、大丈夫?」
「うん。出席日数は足りてるから学校はお休みして、課題と試験だけでなんとかしてもらえるように、先生がかけあってくれるって。やっぱり、まだ怖いからさ」
「そうなんだ」
 こんな時、どう言葉をかけたらいいかわからない。
「先生に言ってくれたの、遥だよね? ありがとう」
「へ?」
 つい素っ頓狂な声が出た。
「先生が言ってたよ。『グループラインのこと渡会さんが教えてくれました。渡会さんはあなたの味方です』って」
 なんで私だってわかるんだろう。私につながる情報は何もないはずなのに。
「今は先生のこと好きだから、こんなこと言っても説得力ないかもしれないけどさ。私、遥のこと好きになってよかったよ。ありがとう」
「ああ、うん。こちらこそありがとう」
 花に告白されて、振って、お互いになかったことにしてずっとやってきた。でも、人を好きになることも、恋愛感情はなくとも友情を継続したいと思うことも、おかしいことじゃない。だから、過去の感情に蓋をする必要なんてなかったのだとようやく気付いた。
「ねえ、遥って将来の夢ある?」
「え、なんでいきなりそんなこと聞くの?」
 私が次の言葉に迷っている間に、唐突に話題が変わる。
「私ね、今回のことで橘先生みたいな教師になりたいなって思ったの。でも、高校で不登校になったらそういう夢を見るのもダメなのかなって思ったんだ。でも、先生も高校行ってなくて、高認とって二十代後半になってから大学入ったんだって。だから、心配しないで夢を追いかけなさいって。進路相談いっぱい乗ってくれて、どこの大学行ったらいいのか一緒に真剣に考えてくれたんだ」
 橘が高校に行っていないのは、中学三年生の時に宝塚音楽学校に受かったからであって花とはだいぶ事情が違うが、花の励みになっているのなら結果オーライなのかもしれない。
「それにしても、夢見るな現実見ろしか言わないあの橘がそんなこと言うなんて、花、相当応援されてるんじゃないの?」
「いやーでも脈ナシだよ、完全に。生徒としてはすごく大事にしてもらってるけど」
「だろうね。花以外の人の夢は否定しまくりだもん、あの人」
「そんなこともないと思うけどな……。遥も何か言われたの?」
「別に」
「でさ、遥って将来何になりたいの? ほら、よく言うじゃん。夢は口に出した方がいいってさ」
「あははー、どうなんだろうね」
 普通ならここで私も将来の夢を打ち明ける。それが綺麗な物語だ。花はきっと応援してくれる。そして、今の花には言いふらす相手がいない。だから、関係ない第三者から「叶うわけないじゃん」と馬鹿にされるリスクはゼロだ。でも、結局私の夢のことは言えなかった。
 翌日、朝一番に音楽科準備室に向かう。確認したいことがあるからだ。
「なんで、メール送ったのが私だってわかったんですか」
「半年も担任を持っていればわかりますよ。あなたが友達を見捨てることができないことくらい」
「でも、証拠がないじゃないですか。証拠もないのに、渡会さんは味方だなんて言うの無責任じゃないですか? もし私が花の敵だったら、花がめちゃくちゃ傷つくことになると思うんですけど」
「確かに迂闊だったかもしれませんね。でも、仮に通報したのがあなたではなく、井上さんに悪意を抱いていたとして、実際に加害した可能性はありますか? あなたがそんな非合理的なことをするほど愚かしくは見えませんが」
「いじめなんて時間の無駄だし、将来リークされたらやばいってことですか」
「話が早くて助かります。理解できていない方も多いですからね」
  確かに、ゴシップの的になっているのが花以外の人だったとして私が噂話に対してノリノリで誹謗中傷をしたかというと、しなかったと自信を持って言える。倫理観云々の前に、私にデメリットしかないからだ。
「それに井上さんから聞きましたから。去年あなたたちの間に何があったか。あなたは人の好意を馬鹿にするような人ではないでしょう? だから、渡会さんのことは信頼できると思いました」
「まあ……そうですね。ていうか、花には随分優しいんですね。教師になるための面倒見るなんて。音楽の授業の後も花には個人的にアドバイスしたりしてたし」
 自分に告白した生徒がいじめにあった罪悪感からだろうか。それとも、歌い手のような叶う確率が低い夢から教師のような地に足の着いた夢に進路を変更した方が好ましいと思っているのだろうか。
「別に贔屓をしているつもりはありませんが」
「だって、私が宝塚受験のアドバイス求めても協力してくれなかったじゃないですか」
「もう現役を引退してから長いですから。技術的なアドバイスに関してはスクールの先生にお任せした方がいいと思いますよ。私は高校の指導要領の範囲でしか指導できませんが、その範囲においては渡会さんは完璧ですので何も教えることはありません。井上さんにも大したことはしていませんよ。成績と照らし合わせて、教育学部のある学校をいくつかピックアップしただけですから。担任として当たり前のことです」
「女優とかスポーツ選手みたいな夢は応援しないのに、教師って夢は応援するんですね」
 つい刺々しい言い方になってしまう。この人が昔私の背中を押してくれた人ではなかったら、たぶんこんなに突っかかることもなかっただろうけれど。
「そうですね。井上さんの将来に関してはあまり心配していません。私がこれだけ嫌われているのを見ても教師になりたいと言っているんですから、理想と現実のギャップに悩む心配もないでしょうし。今の精神状態に関しては心配ですが、学校が変われば人間関係も変わりますし、時間が解決してくれると思います」
 つまり、無理して学校に来ることもないと言っているのだろう。普通生徒が不登校になったら学校に来るように指導する。この人は、今まで出会ってきた教師とは根本的に何かが違う。
「話変わって、これは個人的な質問なんですけど、夢って口に出した方がいいって本当だと思いますか?」
 なぜこんなことを聞いているのか、自分でもわからなかった。
「体育科の先生にダンスを習うということですか? 正直、この学校にあなたが求めるアドバイスができる先生はいらっしゃらないと思いますよ」
「そういうことじゃなくて、花に言えなかったんですよ。宝塚目指してるって。これって、覚悟ができてないってことになるんですかね」
 本当に自分が何をしているのか自分でもよくわからない。大した信頼関係もない人に人生相談なんて時間の無駄なのに。
「井上さんに技術的なアドバイスは無理だと思いますよ。それに、今は自分のことで精一杯でしょうから。友達だからと言って何でも明け透けに話す必要はありません」
「意外。『夢は周囲の人に伝えてどんどん応援してもらいましょう』とかいうものだと思ってました。教師ってそういう人多いじゃないですか」
 中学の時、宝塚受験を先生に勝手にばらされた。どう考えても守秘義務違反なのに「みんなで渡会さんを応援した方がいいと思ったから」と正当化された。それが嫌だったから高校では先生に、他の人には宝塚受験のことを言わないでほしいと口止めをしたが、そもそも宝塚受験そのものにいい顔をされない。本当に両極端でちょうどいい教師がいない。
「あんな悪意に満ちたクラスで自分の夢を話せなんて無責任なことを言えるわけがないでしょう。一人に話したら、どこから漏れるかわかりませんからね」
「自分のクラスに対してあんな悪意に満ちたとか言うの、やばくないですか」
「事実でしょう。夢を追うことは恥ずかしいことではありませんが、人の夢を馬鹿にする心無い人は事実として存在するのですから。綺麗事だけ信じていては、夢にとってマイナスになることだってあります」
 普段人の夢を否定してばかりのくせに、今日だけはまともなことを言っているように聞こえる。
「わかりました。じゃあ、失礼します。花のことよろしくお願いします」
「こちらこそ、井上さんのこと教えてくれてありがとうございます。それと、面接までには言葉遣いを直した方がいいですよ」
「言われなくても他の先生にはちゃんとした言葉遣いで話してますから」
 私はこの人が嫌いだ。でも、花がこの人を好きになった理由はなんとなくわかった気がした。