オーラが違う。舞台とまったく無関係な三年七組の教室でそれを思い知らされることになるなんて夢にも思わなかった。しかし、橘優子という人間は事実として私を含めた三十人全員の視線を見事に奪った。
「橘優子と申します。担当教科は音楽です。教員生活は三年目、担任を持つのは初めてですが、それを言い訳にしないよう一年間職務をまっとういたしますので何卒よろしくお願いいたします」
窓際一番後ろの私の席までよく通る美声。私もこんな声に生まれていればと嫉妬した。始業式の校長の話はおそらくみんな寝ていて誰も聞いていなかったが、彼女の話はちゃんと目を見て聞いていた。
橘先生はすらっとしていて綺麗な人だ。整った鼻筋、切れ長な目。男装をすれば間違いなく稀代の麗人となるであろう彼女の美貌は一歩間違えれば彼女に恋をしてしまいそうなほどだ。彼女に見とれていて、配付されたプリントが一枚余っていることにすらなかなか気づかなかった。
「一枚余りました」
三枚ほど別のプリントが配られた後でようやく気付き、教壇まで余りのプリントを返しに行く。自席から見ただけでも背が高いのは分かったが、近くに行くと身長差を実感する。推定百七十四センチ。羨ましいほどに足が長い。
「ありがとうございます。お手数かけてごめんなさいね」
橘先生はにこやかに微笑んだ。
「渡会遥さん、ちょうどよかった。放課後、お時間はありますか?」
先ほどまでとは打って変わって小さな声で突然名前を呼ばれ、予定を確認される。
「三時までなら大丈夫です」
今日のレッスンは四時からだ。個人面談の内容はおおよそ予想がつくが、何時間もやるようなことではない。
「では、ホームルームが終わったら音楽家準備室に来てください。なるべく手短に済ませますので」
去年までの威圧的な担任と違って、橘先生は常に丁寧な口調だった。出会って十分足らずで私はもう橘優子という人間に惹かれていた。去年までの選択音楽の授業の担当が橘先生でなかったことが悔しい。
私が席に戻ると新年度恒例の自己紹介タイムが始まった。
「相川塁っす! 部活は野球部。今年は甲子園優勝するんでみんな応援来てな!」
「浅沼蘭でぇす。選択授業は音楽をとろうと思ってまぁす。将来の夢は声優でぇす」
いつもの調子の男子に比べて、浮足立った何人かの女子は露骨に先生に好かれようとしていた。若い男の先生相手にもしないようなあざといアピールだった。
「井上花です。歌うことが大好きです。一年間よろしくお願いします」
私の数少ない友人、花も当然のように彼女の虜になったようだ。普段はおとなしくて目立つようなことを言うようなタイプではないのに、恋をすると周りが見えなくなるところは変わらないようだ。
「吉野健です。将来の夢はラグビー選手です」
スポーツ選手に芸能人と、私立の非進学校らしく将来の夢は堅い職業よりも華やかな職業に寄っている。学校として部活動に力を入れていることもあり、結果を出している運動部の生徒はそのままスポーツの道に進む人も他の学校と比べれば少なくない。
「渡会遥です。選択授業は音楽をとろうと思っています。初めましての人も二度目ましての人もよろしくお願いします」
あっという間に自己紹介は出席番号三十番の私の番になり、私もちゃっかり橘先生に媚を売る。仕方がない。お近づきになりたいと思ってしまったから。身近な人間にこういう感情を持つのは負けた気がして悔しいが、恋も憧れも本能のようなものだ。
男子よりも女子からの好感度の高い美人で優しい担任と個性豊かな生徒たち。この橘学園高校に特に思い入れはなかったけれど、最後の年は案外いい思い出になるかもしれない。そう思った。
「皆さん、夢の話を聞かせてくださってありがとうございます。昨年度の終わりに提出していただいた進路希望調査票には目を通していましたが、皆さんの新たな面を知ることができました」
先生の顔からはいつの間にか微笑みが消えていた。
「ですが、本当に真剣に将来について考えていますか? 私にはそうは思えません」
声がワントーン低くなり、ほんの数秒前まで和やかだった教室の空気が一瞬で凍り付いた。
「スポーツ選手の平均引退年齢を知っていますか? サッカーやラグビーは二十六歳、野球は二十七歳と言われています」
まだ選手になってもいないのに、いきなり引退というワードを突き付けられた運動部の人たちはたまったものではないだろう。
「一方で二〇〇七年生まれの男性の半分が百歳まで生きるという研究結果はもうずいぶん前にアメリカで発表されています。女性はもっと多いでしょう」
次々と出されるデータ。静まり返る教室。
「夢が終わってからも人生は続きます。残りの七十年、八十年、どうするおつもりですか?」
先生の問いかけには誰も答えなかった。
「素行、学業成績、どれをとっても社会で生きていけるようには見えません三十歳になったあなたたちが悪い大人に騙されて食い物にされる。そんな未来をお望みですか?」
有無を言わさない迫力で紡がれる言葉たち。攻撃されているのは私ではないのに、教室という空間を初めて息苦しく感じた。早くこの地獄みたいな時間が終わってほしいと思った。
「芸能界を目指している皆さん、他人事だと思っていませんか?」
背筋がヒヤッとした。新年度初日に、運動部で活躍するクラスの一軍を軒並み敵に回したかと思いきや、キラキラ女子からオタクまで満遍なく心を刺して、いったいどういうつもりなのだろう?
「誰とは言いませんが、デジタルタトゥーという言葉を知らない人がいらっしゃいますね。YouTubeで一攫千金を夢見るなとは言いませんが、その夢がどんな結末を迎えようと一度流した個人情報は永遠にインターネットから消えないということを頭に入れたうえで活動してください。もしも大金持ちになったとして、実家の住所も親兄弟の名前も何もかも世間に知られている、怖くありませんか?」
カップルチャンネルを二人でやっている森と恵美が俯いている。別れた時に確実に黒歴史になる言動はもとより、個人情報の観点からよくない配信もしているので完全に先生の言っていることは正論だ。全員の前で晒し上げることの是非はさておき。
「ネットリテラシーといえばですが、オーディション詐欺についても話しておきましょう。くだらないサイトにバナー広告を出しているものは歌い手募集でも声優募集でも全部詐欺だと思ってください。夢を餌にレッスン料の名目でお金をむしり取られたあげく、碌な指導もチャンスももらえず、搾れるお金がなくなったら捨てられます。時間とお金を搾取されて、手元には何も残らず人生がめちゃくちゃになります。目先の幸福に目がくらんで盲目にならないでください」
金縛りにあったかのように動けない。私たちはこんなに精神を削られているのに、先生は淡々と語っている。淡々としているのに、言葉の一つ一つがナイフのように鋭い。
「若い時間は一瞬です。見た目も声も、いつかは変わります。世間に求められなくなっても、人生は続きます」
その言葉は声優志望の蘭をはじめとして、多くの一軍女子を敵に回した。初の担任で、クラスの過半数からの好感度をゼロどころかマイナスにするなんて正気の沙汰ではない。
「夢が終わっても明日は来るんです。だから、その日に備えて勉強をすることが大事なんです。これがリスクヘッジです。進路に勉強は必要ないと考えている皆さんもこの一年死ぬ気で勉強してください。以上でホームルームを終わります」
先生は見惚れるほどに綺麗なお辞儀をして教室を去ろうとした。
「理事長の娘だからって調子乗ってんじゃねーぞ、コネババア!」
先生の背中に向かって相川が叫んだ。野球選手の選手生命は短いと喧嘩を売られたのだから、短気な彼としては買わずにはいられなかったのだろう。彼の発言で初めて、先生の苗字と学校の名前すなわち理事長の苗字が同じであることに気づいた。
「コネで何言っても辞めさせられないからって、高校生相手に日頃の鬱憤晴らして満足か? 自分の人生上手くいかないからって生徒に八つ当たりしてんじゃねえよアラフォーババア!」
彼女はとても若く見えたから、教員三年目と聞いて二十五歳くらいだと思っていた。三十歳を超えているようにはとても見えない。私が学校内の情報網に疎すぎるのか、相川が詳しすぎるのかはわからないがよく知っているなと感心した。
「そうですよ。コネですよ。アラフォーではなく今年で三十三歳ですが」
それ以上に暴露と侮辱を同時にされても顔色一つ変えない先生の精神力に感心した。まさか開き直るだなんて考えもしなかった。
「コネでもなければ三十歳未経験の人間を雇ってくれる職場なんてそうそうありません。あなたにはありますか?」
相川を強い眼差しでじっと見つめる。相川がたじろいだ。
「いや、そういうのダセエよ。そんな生き方するくらいなら死んだ方がマシだわ」
「そうですか。そういう生き方をしたくなかったら、きちんと勉強をしてくださいね。私みたいな恥ずかしい生き方は嫌でしょう?」
そう言い放つと颯爽と教室を出ていった。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花を体現する彼女。彼女の思想にはまったく共感できないが、その後ろ姿には思わず見とれてしまった。彼女からは初恋もどきの面影を感じる。
思想と言動の是非はさておき、彼女のオーラは本物だった。事実として、あれだけ派手に歯向かった相川ですら声を上げたのは演説がすべて終わった後だ。彼女が話している間、彼は反論しなかったのではなくできなかったのだ。
彼女の雰囲気にはそうさせる“何か”があった。橘優子は間違いなく神に選ばれた側の人間だ。今のところ、神に選ばれていない側の私からすると、彼女がうらやましくて仕方がない。
夢に生きるクラスメイトを中心に、ほぼ全員からのヘイトを買った担任に会いに行くのはまるで裏切り者のようで居心地が悪い。彼らの目を盗んでこっそりと音楽科準備室に行った。
「失礼いたします」
「いらっしゃい。どうぞおかけになって」
言われるがままに背筋を伸ばして椅子に腰かける。
「ちゃんと背筋伸ばして座れるじゃない。始業式の時は曲がっていましたよ」
「すみません。寝不足で」
私以外にも寝ていた人はいるけれども、あくまで寝ていたことではなく姿勢が悪かったことを注意された。
「貴女は夜更かしをしてはいけない人でしょう。睡眠不足は肌に悪いですから」
教師としてはどこかずれた注意も私に対してのものならこれで合っている。
「さて、本題ですが進路希望調査票の不備についてです。第二志望以降が空欄なのはいただけませんね」
三月に提出した進路希望調査票を見せられる。第一志望「宝塚音楽学校」以下空欄。幼いころからずっと憧れてきた宝塚歌劇団に入る唯一のルート。受験は今年がラストチャンスだ。
「宝塚一本でいきます」
ダメだったら浪人します、とは言わなかった。仮にの話でも失敗する可能性を口にしたくない。
「高校受験の時は両立していたんでしょう? それに、短大や四大を併願するのも珍しいことではありません」
ホームルームでデータを元に話していたのと同じように、宝塚のことまで調べていることに驚いた。
「今年が最後のチャンスなんです。全部宝塚に捧げたいんです。人生の半分以上夢を追っているのでとっくに覚悟はできてまいす」
幼稚園の頃から、いわゆるヅカオタの母に劇場に連れていかれていた。一糸乱れぬラインダンス、豪華絢爛なステージ、圧巻の歌声、素敵な王子様とキラキラなお姫様。そのすべてが私を魅了した。子供には難しい内容のお芝居も、鬼気迫る表情とセリフにこもる熱から、理屈ではなく物語を頭ではなく心で感じていた。感動という概念は宝塚に教えられた。私にとっての王子様は幼稚園の男の子や男の先生ではなく、男役のタカラジェンヌ様だった。
宝塚音楽学校の入試は面接と歌唱と舞踊だ。学業の筆記試験はない。無駄なことに時間を割いている暇なんて一秒もないのだ。
「倍率十倍の大学を受ける人たちだって滑り止めは受けていますよ。ましてや宝塚音楽学校の倍率は四十倍です。自分の人生をギャンブルのチップにするのはやめなさい。夢という名目でリスクを見て見ぬふりするのは覚悟ではなくただの蛮勇です」
ああ、またか。夢を否定されるのは正直慣れている。宝塚音楽学校の受験には成績証明書が必要だから担任には事情を説明せざるを得ないが、反対されることも少なくない。ましてやクラス中の夢追い人に喧嘩を売った教師が私にだけは優しいなんてそんな都合のいいことがあるはずもない。でも、反対されたからと言って引き下がる私じゃない。
「やる前からできないって決めつけるなんておかしいと思います」
――君は何にだってなれる。どうか幸せになってくれ。
十年前の新人公演『亡国のソナタ』のセリフ。それを胸に私は今日まで頑張ってきた。
ヒロイン・レナの兄がレナを庇って死んだ際の言葉。その言葉を胸にレナは夢を叶える。私は兄役を演じた夢野杏樹様の名演に胸をうたれた。今まで観ているだけだった舞台に立ちたいと思った。自分も何者にだってなれるのではないか。そう思えた。
「若さゆえの無敵感は幻想です。いつかどこかで破綻します。舞台女優はなったところで一生続けられる人間はほとんどいない職業の筆頭ですからね」
わかっている。私の人生を変えたタカラジェンヌ、夢野杏樹様はその舞台の一年後に卒業した。トップスターになれるのはほんの一握りの世界。
それでも、私はこんなかっこ悪いことを言う大人になんてなりたくないと思った。相川と喧嘩をしていた時に「コネ就職だ」とはっきり開き直った姿はある意味清々しいように錯覚したけれど、顔が綺麗だから騙されていただけだ。過激な発言とカリスマチックな雰囲気で武装しているだけで、この人はダサい大人だ。
立ち上がって一歩前に出る。夢を忘れた目の前の大人に顔を近づけて啖呵を切った。
「私は私の可能性を信じています。私は絶対に夢を叶えます」
近くで見ると、やっぱり先生は杏樹様によく似ている。私が杏樹様に憧れていたのはもう十年も前だし、舞台メイクとナチュラルメイクは違う。それでも、そっくりだ。似ているという次元ではないほどに。
物心ついたころから舞台に通い、数々のトップスターに疑似的な恋をしてきた。それでも、私の人生を変えた杏樹様は特別だった。トップスターではなくても、主演歴がなくとも、杏樹様は今でも私の心の王子様だ。
だから、信じたくない。私が宝塚の道に進むときっかけになった人と、目の前で夢を否定する汚い大人が同一人物だなんて。
「夢野……杏樹様……?」
お願い、「誰ですかその人は?」って言って。先生の眉がぴくっと反応した。そのあと、小さくため息をついた。
「私のことまで知っているなんて、相当コアなファンですね。それにしても、よく気づきましたね。十年も前の話なのに」
信じたくないが、かつて憧れたタカラジェンヌは卒業後、ヤバい教師となって私の前に現れたようだ。そして、あろうことか私の夢を否定する。
「普通、生徒が昔の自分と同じ道を夢にしたら嬉しいものなんじゃないですか」
震える声で抗議した。なのに、橘は涼しい顔をしている。
「今、私はタカラジェンヌの夢野杏樹としてではなく、教師の橘優子として渡会さんとお話ししています」
「そんな簡単に切り替えられるものなんですか? 絶対バイアスとか主観とか入りますよね? 元タカラジェンヌの目から見て、私は受かりそうもないってことですか?」
三年前と一昨年は一次の面接で落ちてしまったけれど、去年は二次の声楽と舞踊の試験まで行けた。宝塚受験専門スクールの先生も順調に成長していると言ってくれている。でも、もしもプロの目から見て足りないものがあればここで聞いておかなければいかないと思った。
「試験のことについては無責任なことは言えません。私の頃とは違うこともあるでしょうし。私は一般論を話しています」
「一般論とか、リスクヘッジとか……。なんでそんなつまんない人になっちゃったんですか。杏樹様は舞台では『君は何にだってなれる』って言ってたじゃないですか」
「それは台詞でしょう? フィクションを現実に持ち込まれても困ります」
相変わらず飄々とした態度。そのすべてが私の神経を逆なでした。
「だから、そういう透かしたしゃべり方とか、意味わかんないって言ってんの! 佐原先生とは音楽の先生同士話したりもするんでしょ? 佐原先生からの話とかで私には才能ないって思ったり、受かりそうもないって思ってるんならはっきりそう言えばいいじゃん!」
私は思わず大声を出した。少しの間のあと、橘が口を開く。
「渡会さん、その口のきき方は何ですか。私は宝塚の卒業生です。宝塚の上下関係が厳しいことを知らないはずがないでしょう? ため口で口答えなんてしていいと思ってるの?」
ぞくっとするくらい冷たい目で私を見て吐き捨てた。ここで自分が勢いでしでかしたことに気づく。
「宝塚に告げ口するつもりですか?」
これから入ろうとする組織の関係者によくない態度をとった。これが試験官に知られれば、心証が悪い。それどころか一発アウトかもしれない。実際に「こいつは私に無礼な態度をとったから不合格にしてください」なんて言ったら大人げなさすぎるけれど、この人は何をしでかすかわからない。
「まさか。そんなことをして私に何の得があるというんですか? タカラジェンヌだったのは過去の栄光。今はしがないコネ娘。父親の学校の進学実績にとって不利なことをする合理性がないでしょう?」
要するに、理事長のお父さんのために進学実績が欲しいだけ。無謀な挑戦をされるよりも、手堅く大学に合格してくれる方が都合がいい。でも、宝塚に受かったらそれはそれで宣伝になるから邪魔はしない。そんなところだろう。
タカラジェンヌ夢野杏樹は死んだ。もうどこにも憧れのあの人はいない。いるのは、夢を追うことを忘れた暴言教師だけだ。
「進路調査票、お返しします。明日までに併願校を書いてきてくださいね」
「書きません、受けないので。レッスンあるので失礼します」
調査票の返却を拒否し、音楽準備室を出た。あんな奴、もう推しでもなんでもない。教師としても認めない。
初日にあれほど騒ぎになったのに、二か月も経てば橘の過激な発言もの一コマとなり、もはや誰も気に留めなくなった。ホームルームでは誰も彼女の話を聞いていない。
「森、爆睡かよ。起きろよ、レイドやろうぜ」
休み時間に居眠りをしている森を相川が起こしてゲームに誘うのも見慣れた光景だが、ついにホームルームの最中にもやりだした。最近は輪ゴムを飛ばして背中に当てて起こしている。
「いってーな」
そう言って森がやり返すのもお決まりの展開だ。
「輪ゴムを飛ばすのは危ないからやめなさい。教室はあなたたちだけのものではありません」
橘に注意されてもどこ吹く風だった。その後も飛ばしあう二人のもとに橘が歩いていく。橘は落ちている輪ゴムを拾うとポケットの中に入れた。
「やめないのなら没収します」
「は? 窃盗かよコネババじゃなくてネコババだな」
「PTAに言いつけるぞ」
当然のように相川たちは突っかかった。
「どうぞ。言いたければ言えばいいでしょう。本当に、人の迷惑も顧みず幼稚園児のように輪ゴムを飛ばしていたら没収されましたなんてお家の方に言えますか?」
言っていることは明らかに橘が正しいが、いかんせん煽るような口調だから相川たちのヘイトもたまる一方だ。
「チッ、コネババネコババヒスババア」
結局その場の輪ゴム飛ばしは強制終了となり、その日は席替えをして解散になった。席の決め方がくじでも自由でもなく橘に勝手に決められたことに何人かが激怒していたが、橘は気にも留めなかった。
席替えの件とは関係なく、翌日以降の休み時間も彼らは輪ゴム飛ばしをやめなかった。
「幼稚ですね。恥ずかしくないのですか?」
窓側最前列の隣同士で輪ゴムを飛ばしあう二人を見下したように橘が言った。橘はなぜか休み時間教室に来るようになった。自分の授業があるときは五分前に音楽室に帰るけれども、そうでなければギリギリまで教室にいる。
問題は橘の定位置が私や浅沼蘭の席のすぐそばだということだ。
「浅沼さん、少しは勉強したらどうですか?」
橘が友達としゃべっていた蘭に絡み始めた。
「は? 休み時間に何をしようが私の勝手でしょ? てか、私声優志望だし」
「そうですか。でしたら、休み時間もそのタブレットでアニメを見るくらいの気概を見せてほしい物ですね。イヤホンを忘れたなら貸しますよ」
「なんなのこいつ! いちいちキモイんだけど!」
蘭一派は怒って教室を出ていった。教室の空気はどんどん悪くなり、休み時間は教室を出る人が日に日に増えていった。
私は橘に絡まれたくなかったので大人しく勉強することにした。大学受験をする気はさらさらなかったけれど、期末試験で赤点をとると面倒なことになるので試験勉強くらいしても罰は当たらない。
花はなぜかわざわざ私の席まで来て一緒に勉強するようになった。たぶん花は橘のことが好きだからだと思う。帰り道やラインで「橘先生って綺麗だよね」とか「かっこいいよね」とか言ってくるのにはもう慣れた。
顔と声が綺麗なことには同意するが、それだけだ。はっきり言って橘を好きになるのは女の趣味が悪すぎる。外見が好みなら誰でもいいのか。花に人を見る目がなかったと知り、かなりショックだ。
居心地が最悪に悪い空間から逃げるために、教科書を読み続ける。男子の間では輪ゴム飛ばしが流行って盛り上がっているようだが、教室に残っている女子は完全にお通夜状態だ。
一息ついて顔をあげて教室を見回す。だいぶ教室の人数が減っている気がする。全部橘が悪い。
「うわっ、やべっ!」
相川が輪ゴムのコントロールをミスしたようだ。輪ゴムがこちらに飛んでくる。しかし、あまりにも一瞬のことで体が動かず私は目を閉じることしかできなかった。ガタンと机が動く音とパチンという何かに輪ゴムが当たる音がした。
目を開けると、目の前に橘が立ちふさがっていた。視線の先では相川たちが気まずそうにしている。
橘が私を庇った。にわかに信じがたかった。私は橘に対して反抗的だったし、休み時間もわざわざ監視されているから。
橘はつかつかと相川のもとへと歩いていく。
「相川君、右手を出しなさい」
有無を言わせない迫力で橘が言う。
「は、手が何?」
予想外のことを言われた相川は言われるがままに右手を差し出した。橘は相川の手首をつかむと再びすごんだ。
「ボールを投げる大事な手ですよね。これから甲子園に行って、プロになって……夢を掴むための手ですよね。週末は試合でしたね。今、私がこの指を折ったらどう思いますか?」
遠くで離れてみているだけの私でも怖いと感じた。その狂気が演技なのか素なのかはわからないが、向けられた相川はたまったものではないだろう。心底慌てた様子で橘の腕を振り払って後ずさった。
「は? ババア頭おかしいんじゃねえの? 輪ゴム、顔じゃなくて腹に当たっただけだろ! てか、女に指おられるほどやわじゃねーし」
相川は体を鍛えている。女性が指を折るのは至難の業だろう。
「そうですね。でも、刃物を使ったらどうなりますか? 刺し違えてでも殺すと覚悟した人間相手に無傷でいる自信はありますか?」
それが恐怖に起因するものかわからないが、相川は顔をこわばらせ、右手を背中に隠した。
「コネでしか就職できない行き遅れババア。いつもあなたが私に言っていることですよ。人生が既にめちゃくちゃになっている無敵の人の捨て身ほど怖い物はありませんよ」
「意味わかんね、何で輪ゴム当てただけで刺されたり指おられたりしなきゃいけねえんだよ」
相川の声には動揺の色がまじっていた。
「私が間に入らなかったら、渡会さんの顔に当たっていました。渡会さんの顔に傷が残ったら、どう責任をとるつもりだったんですか?」
橘の発言には驚いた。なぜ橘が私のためにここまで怒るかの心当たりがなかった。
「いや、渡会には当たらなかったし」
「それは結果論です。私が見張っていなかったら、当たっていた。顔に傷が残ったら致命的な職業目指している人もいるんです。目に当たって視力が落ちたらつけなくなる職業だってあります。あなたの軽率な行動一つで、一人の人生の選択肢を奪っていたかもしれない。あなたがしたのはそういうことです」
「いや、おかしいだろ。大体俺以外にもやってたやついるのになんで俺だけこんな言われなきゃいけねえの」
「論点をずらさないでください。あなたが飛ばした凶器が、渡会さんの顔に傷を残したかもしれない。今はそのことについて話しているんです」
橘は私が宝塚に入れるわけがないと思っている。顔に傷ができようとできまいと。なのに、どうして。
「くだらない悪ふざけで人の夢を踏みにじれる人間に、夢を追いかける資格はありません。右手を出しなさい」
「いや、意味わかんねえって。ほんと、おかしいよお前」
「わからなくて結構。自分のしたことの意味も分からないなら、大人しくしていなさい。いいですか? 実際に事件をあなたが起こしたんです。輪ゴムを飛ばすのは危ないんです。謝れとは言いません。二度とやらないと誓いなさい。次に同じことをしていたら、教師生命をかけてでもあなたの未来を壊します」
気圧されてしどろもどろになる相川と、まるでラスボスのような風格の橘。
「もうやんねーよサイコババア」
相川がぼそっと呟いた。それを確認した橘は周囲にいた男子を静かに威圧する。
「あなたたちも、何かが違っていたら事件を起こしていたのは自分かもしれないと自覚しなさい。これに懲りたら、迷惑行為はやめなさい」
男子たちはお互いに顔を見合わせると持っていた輪ゴムを一斉にポケットにしまった。橘は憑き物が落ちたかのような穏やかな顔をして教室を出ていった。
橘の行動原理はわからない。あそこで私の名前を出されたら少し気まずい。そもそも私は橘が嫌いだ。でも、橘が守ってくれなかったら私の顔に輪ゴムが当たっていたのは事実なわけで、顔に傷でも残ったら私の夢は終わっていたわけで。
私は橘が嫌いだ。でも、清く正しく美しく生きたい。私は教室を出て橘を追いかけた。
「あのっ」
橘を呼び止める。先生なんて呼びたくない。杏樹様とはもっと呼びたくない。
「ありがとうございました」
お礼を言うのは今日のこの件に関してだけだ。
「私が教室にいないときに事が起こったらどうするつもりだったんですか? 一歩間違えたら怪我をしかねない教室に意味もなく居座るなんてリスク管理ができていませんね。少しは浅沼さんたちを見習ったらどうですか」
そういえば蘭をはじめとする一軍女子は誰も教室にいない。それは間違いなく橘が教室にいるからだと思っていたけれど、言われてみればいないメンバーはアイドルやYouTuberなど顔が大事な職業を目指している子が多いような気がする。
橘は嫌いだ。でも、今回の発言は橘が正しいし、今日ばかりは恩人だ。だから口答えせずに教室に戻った。男子は橘の悪口で盛り上がっていたが、もう誰も輪ゴムを飛ばしていなかった。
「先生かっこよかったね。いいなー、守ってもらえた遥が羨ましい」
席に戻ると花が小さな声で先生語りを始める。
「私被害者なのに叱られたんだけど。輪ゴム飛び交ってる教室にいる方にも問題あるって」
「あはは、先生らしいねー。もしかして、蘭たち追い出したのもわざとなのかな? ほら、今結構声優さんも顔大事じゃん? 蘭が怪我しないように、蘭の近くの席にわざわざ来てさ。席替えもわざとだったのかもね。相川君と席離してあげたり、あー、いいな。蘭たちが羨ましい」
言われてみれば席替えのタイミングはできすぎている。私を含めた顔に傷が残ったら困る組は廊下側、相川たちは窓側と席が離れていて。
橘の定位置が私の席のすぐそばだったのは、それでも万が一が起こったときに私の顔を守れるように。さすがに考えすぎかもしれない。
しかし、事実として翌日以降輪ゴム飛ばしは行われなくなり、橘は教室に来なくなった。
二学期に入ると、輪ゴム事件のことはみんなすっかり忘れていた。あの後、私が依怙贔屓されていると叩かれることも、相川がメンツを失うこともなかった。橘がヤバいだけ。それがクラス内での共通の認識だった。
「ねえ、遥。明日先生の誕生日なんだよ。知ってる?」
花がテンションを上げて私に報告してくる。もちろん知っている。十年前、夢野杏樹は私の推しだった。推しが生まれた日に合わせてファンレターを送ったのだから。
「へえ、そうなんだ」
でも私は知らないふりをする。私が宝塚音楽学校を受験し続けていることも、不本意ながら橘が元タカラジェンヌだったことも話すつもりはない。報告するのは受かってからでいい。
友人に秘密を作ることに罪悪感はなかった。花だって傍から見てバレバレなのに、橘に恋をしているとハッキリ言ったことはない。ネットで歌い手活動をしていることは知っているが、名義は絶対に教えてくれない。友達だからと言って何でも話す必要はない。
「プレゼントとかって渡していいのかな? どう思う?」
たとえ相手が同性の教師でも、友達の恋は応援したい。でも、個人的に橘は嫌いなのでハッキリ言って花の口から橘の名前が出るだけでも嫌だ。適当にあしらうことにした。
「まあ、いいんじゃない。やりたいようにやれば」
翌日もホームルームが終わってすぐ私はレッスンに向かった。去年は担任の誕生日にサプライズパーティーをしていたけれど、今年は何もなかった。そもそも橘の誕生日を知っているのは花くらいのものだろう。花が誕生日プレゼントをどうしたかは知らない。
「遥ちゃん順調よ! この調子なら気持ちで負けなければ絶対合格するわ!」
今年に入ってから先生に絶対受かると言われることが多くなった。去年までは「去年の今よりずっと成長している」としか言われなかったけれど、ついにプロの目から見て合格確実と言われるまでになった。このラストチャンス、絶対モノにする。
帰りの電車の中でスマホを確認すると、クラスのグループトークの通知が百件以上来ていた。抜き打ちのテストや持ち物検査のリークでもあったのかと思い確認する。
「ババ専キモい」
「どっちも頭おかしい。死んだ方が社会のため」
「学校はママ活する場所じゃありませーん」
書き込んでいるのは数人だが、他にも目を覆いたくなるような大量の罵詈雑言が書かれている。
「何か言えよ」
「逃げた?」
とりあえず状況を確認するために画面を勢いよくスクロールして、発端を確認する。大元は蘭があげた一本の動画だった。
縦長の動画で場所は階段の踊り場。立っているのは花と橘。絶妙に二人の顔が特定できる確度で撮影されている。イヤホンをつけて、音声を確認した。
「先生のことが好きです。絶対内緒にするので恋人にしてください」
「気持ちは嬉しいですが……」
花が橘に告白して、橘の返答は途中で途切れている。嫌われ者の教師にクラス内で少し浮いている生徒が告白した。しかも同性愛ともなれば、ゴシップに飢えた輩にとっては恰好のスキャンダル。
お祭り騒ぎの中で、誹謗中傷はエスカレートしている。集団心理は怖い。みんなやっているからという理由で、悪口を書くハードルが下がり完全に無法地帯だ。
家について落ち着いたところで、花に連絡しようとして手がとまった。花は友達だ。友達が辛い思いをしていたら「気にすることないよ」と連絡するのが当然の振る舞いだ。
でも、私たちは友達ではあるけれど親友ではない。私たちの会話はいつもうわべだけのもので、本音で話すことは避けている。今日、橘の誕生日に合わせて花が橘に告白するということを知らなかったというのが何よりの証拠だ。
たぶん私が今何を言っても花の力にはなれない気がする。気まずい思いをさせるだけだろう。結局何もせず、スマホを置いてさっさとお風呂に入った。
湯船の中で感情を整理する。花を誹謗中傷している蘭たちは許せないけれど、花だってなんでよりにもよって橘なんて好きになるんだ。顔しか見ないで恋愛するから災難に遭うんだ。撮られるなんて迂闊すぎる、特に橘が。橘が気を付けていればこんなことにはならなかった。もう全部橘が悪いような気がしてくる。
もう何も考えたくない。明日学校に行って花に会うのも気まずいけれど、出席日数が減ると受験の時の印象が悪くなるから休むわけにはいかない。もう全部面倒くさい。明日になったらご都合主義的に全部解決していたらいいのに。あるいは、明日なんて来なければいいのに。
私の願いもむなしく、夜の間中グループトークは下品な盛り上がりを見せ、花からは音沙汰がない。せめて「助けて」って言ってくれたら助けるくらいの情はあるのに。
始業時刻ギリギリで教室に入るなり、蘭がさっそく迷惑な絡み方をしてきた。花の姿は見えない。
「ねえ、やばくない? 花ってレズなんでしょ? 遥も狙われてたりして」
予想通りの絡み方をされた。だから嫌だったんだ。
「なんかさ、一年の頃やたら遥に抱き着いてなかった? ヤバ、キモ。遥可哀想」
取り巻きたちが意地の悪い笑い方をする。何が疎ましいかというと、彼女らの陰口は完全に的外れというわけではないということだ。
「まさか、そういう意図はないでしょ」
嘘だ。二年生の夏、私は花に告白された。人を酔わせてなんぼの職業を目指す私としては別に悪い気はしなかった。ただ、花のことを恋愛対象としては見ることができなかったからそのまま友達を続けることを選んだだけ。花も絶縁と友情継続の二択なら友達を選んだだけ。あの日のことには触れないまま、今日まで過ごしてきた。
――遥のことが好きです。絶対内緒にするので恋人にしてください。
私に言ったのとまったく同じ言葉で橘に告白するとまでは思わなかったけれど。別に、私たちは付き合わなかったのだから誰に告白をしようと自由だ。でも、橘が相手だと何か負けた気がする。こんなことを思ってしまう私はきっと性格が悪い。
「抱き着いてたのもネタだよ、ネタ。花の友達がそういうノリなんじゃないの? 知らないけど」
花のために正面切って喧嘩する勇気はないけれど、「昔は渡会のことが好きだった」なんて特大の燃料を隠す程度には善人。中途半端なやり方だと思いつつも、適度に花をフォローする。
「ていうかさ、告白も仲間内の罰ゲームなんじゃないの? 花よく他クラの友達とゲームしてたしさ。花との会話で橘の名前出た記憶まったくないもん」
名前も知らない花の友人には悪いけれど、適当な仮説を作る。これで花が「罰ゲームの告白がガチだと第三者に勘違いされた災難な人」になれば、中傷もおさまるだろう。名も知らない人、巻き込んでごめんなさい。なんだかんだで花は友達だけど、あなたは友達じゃない。もっとも、告白がガチじゃないということになれば明日にはみんな興味を失うだろうからそんなに大事にはならないだろうけれど。
「いやいや、さすがにそれはないっしょ。周りに人いなかったし、ガチっぽかったもん」
私の思惑は現場を盗撮していた蘭によって防がれてしまったけれど。こうなると、変にフォローする方が新たな火種になる。適当に話を切り上げて席に着いた。
結局、花は学校に来なかった。グループトークには「何で学校来ないの?」と追い打ちをかける心無い人たちがいる。見ていて不愉快だ。クラスが異様な雰囲気なのに気づかない橘は無能だ。
気づいたところで橘はこの状況をどうにかできるんだろうか。正直、迫力だけはあるから橘が何か言ってくれるような気がする。というよりも、いい感じにヘイトを買ってくれるから面白半分に花を傷つけている人たちの矛先は橘に向かえば結果オーライだ。
盗撮動画を保存し、トークの内容をスクショする。正直、橘のことは信用していない。あの女は「これは渡会さんに聞いたのですが」と言い出してもおかしくない。情報源が私だとばれないように、捨てアドから橘のメールアドレスに誹謗中傷の証拠を送信する。捨てアドは特に絡みのないクラスメイトのアナグラムにしておいた。
担任がまともなやつだったら私だってここまで保身に走ったりしない。全部橘が悪い。そう心の中で呟いてメールを送信した。
「確認いたしました。ご報告ありがとうございます」
返信は比較的すぐに来た。明日には解決してほしいものだ。
翌日も花は学校に来なかった。何事もなかったかのように選択音楽の授業をやりすごし、ホームルームの時間を待つ。
ホームルーム、橘が教室に入ってくる。変に身構えているのもおかしいので、適当にタブレットで単語帳アプリを回し、橘とは目を合わせないようにした。
「皆さん、スマートフォンを出していただけますか?」
橘は嫌われてはいるけれど、オーラは健在で橘が話し始めると一瞬は注意を向ける。というより、どうしてもそちらを見てしまう。指示に従うかどうかは別として。
「私を盗撮した動画が出回っているようなので削除をお願いします。特に浅沼さん、グループトークに載せたものだけではなくマスターデータも消してくださいね」
名指しされたことで蘭が反応する。
「え、何のことかわかんないです」
蘭がわざとらしくとぼける。
「そうですか。ではわかりやすく言いますね。一昨日踊り場で私を盗撮した動画があるでしょう。それを消してくださいと言っています。あなたが余計なことをしたせいで、相川君が私を『ロリコンババア』と侮辱しているようですので」
「井上のやつ、チクりやがったのかよ」
相川が花が橘に言いつけたと勘違いして怒りを見せた。
「今は情報源の話はしていません。動画を消して誹謗中傷をやめてくださいと言っているんです。これ以上迷惑行為を続けるなら、肖像権の侵害で浅沼さんを訴えます」
「は?」
今度は蘭が反応した。無理もない。私も想定外だ。私は昨日「花へのいじめ」を匿名告発したはずなのに、蘭の罪状はいつの間にか「橘に対する肖像権侵害」になっている。
「訴えるとか意味わかんないんだけど」
「そのままの意味です。弁護士に今回の件を相談して、浅沼さんと法廷で戦うという意味です」
「いや、ほんとに意味わかんない! 生徒脅すとか、ありえない。盗撮よりも脅迫の方が罪重いんじゃないの? 知らないけど」
「そうですね。裁判を起こすつもりもないのに訴えると言うのは犯罪になります。でも、私は本気ですので。学校内の問題にすると有耶無耶になりかねませんし、私に有利な結論が出たらどうせ浅沼さんは私がコネ娘だからだと思うでしょう? それなら
公正な裁判官に判断を仰ぐ方が合理的だとは思いませんか?」
「いや、この大事な時期に教え子訴えるとかやばすぎでしょ」
「大事な時期にこんなくだらないことをしたのはあなたです。もう一度言います。ハッタリではありません」
冷たい目で橘が言う。蘭がたじろいでいる。
「やっぱあんた教師としておかしいよ。普通こういう時ってまず花に対する悪口とかの方を注意するでしょ? なのにまず自分ってさ」
「もちろん井上さんにも盗撮と誹謗中傷であなたを訴える権利はありますよ。ただ、それを決めるのは井上さんですから。私が告訴できるのはあくまで私に対する加害だけです」
橘は蘭から教室全体に視線を映した。
「それと、私が今回の件を井上さんから聞いたと思っている人も多いと思いますが、実際誰が私に報告したかなんてわかりませんよね? 誰にでもできることですから」
周りの人がお互いをちらちらと見あっている。幸いにも私に視線が集まることはなかった。
「いつでも誰でもラインの内容を外に漏らすことはできるんです。言い換えれば、あなたたちの推薦が決まったとき、夢が叶ったとき、人前に立つ職業に就いたときに関係者や週刊誌に誰かが情報を売ることもあり得るということです。どうですか? 少しは危機感を持てましたか?」
初日と同じ張り詰めた空気が教室を包む。
「盗撮はもちろん、誹謗中傷も程度によっては侮辱罪や名誉棄損罪に問われます。裁判で負ければ、あなたが誹謗中傷を行ったという記録が未来永劫国に保管されます。もうすぐ皆さんは少年法の適応年齢も外れます。未来の自分が困るような生き方はやめましょう」
目を閉じれば容易にその光景が想像できる、そんな話し方だった。いつものホームルームのざわめきが嘘みたいに教室は静まり返っていた。
「では改めて言います。動画の削除のご協力をお願いします。井上さんを誹謗中傷している人は即座にやめるように。あなた自身の首を絞めることになりますので。ではホームルームを終わります」
初日と同じように、橘が話し終わるまで誰も私語をしなかった。教壇がまるで橘専用のステージになったかのように、私たちの視線を釘付けにした。そして、幕が下りると全員が一斉にスマホを操作し始めた。おそらく、昨日送られてきた動画を端末から削除しているのだろう。
蘭も例外ではなかった。橘に言われた通り、スマホを操作して動画を消した。しかし、それだけでは終わらなかった。
「普通、こういう時って井上さんの気持ちを考えましょうとか、そういう切り口で説教するもんじゃないの? 週刊誌とか警察が怖いからやめようみたいなの、叱り方としておかしくない? 不適切発言、外に漏れたらあんたの方がやばいんじゃないの?」
蘭もどちらかというと女優気質かつ女王様気質の人間だ。だからスクールカーストのトップにいるのだろう。でも、今の蘭はどう見ても小物だ。
「人の気持ちを考えろと言われて考えられる人は最初から盗撮も誹謗中傷もしません。私の倫理観に口出しする前に、あなた自身の倫理観を見直してくださいね」
完膚なきまでに論破された蘭が哀れに見えるほどだった。実際に、もう花を誹謗中する気は起らないだろう。誰が告げ口したのかも有耶無耶になった。結果として問題は解決した。下手な綺麗事を並べる教師よりもよっぽど有能だ。
「それと、私の発言をインターネットに晒されても結果として教師を辞めさせられても、皆さんが思っているほど私にダメージはないと思います。時間の無駄ですから、受験勉強なりアニメを見て演技の勉強なり、自分のために時間を使った方が有意義ですよ。大事な時期ですから」
蘭のプライドをオーバーキルして、ホームルームの攻防は終わった。橘優子の完全勝利だった。
あの後何人かはラインで花に謝ったようだけれど、花は翌日も学校に来なかった。花の視点では私は花を見捨てた薄情な人間だろうから、こちらから連絡するのも憚られた。学校とレッスンを終えて家に帰ると、スマホに花から不在着信が入っていた。とりあえず掛けなおしてみる。
「もしもし」
「もしもし、あのね、今日先生が家に来てね、これからのこととか色々話したんだ」
弱々しい声で心配になった。
「あー、大丈夫?」
「うん。出席日数は足りてるから学校はお休みして、課題と試験だけでなんとかしてもらえるように、先生がかけあってくれるって。やっぱり、まだ怖いからさ」
「そうなんだ」
こんな時、どう言葉をかけたらいいかわからない。
「先生に言ってくれたの、遥だよね? ありがとう」
「へ?」
つい素っ頓狂な声が出た。
「先生が言ってたよ。『グループラインのこと渡会さんが教えてくれました。渡会さんはあなたの味方です』って」
なんで私だってわかるんだろう。私につながる情報は何もないはずなのに。
「今は先生のこと好きだから、こんなこと言っても説得力ないかもしれないけどさ。私、遥のこと好きになってよかったよ。ありがとう」
「ああ、うん。こちらこそありがとう」
花に告白されて、振って、お互いになかったことにしてずっとやってきた。でも、人を好きになることも、恋愛感情はなくとも友情を継続したいと思うことも、おかしいことじゃない。だから、過去の感情に蓋をする必要なんてなかったのだとようやく気付いた。
「ねえ、遥って将来の夢ある?」
「え、なんでいきなりそんなこと聞くの?」
私が次の言葉に迷っている間に、唐突に話題が変わる。
「私ね、今回のことで橘先生みたいな教師になりたいなって思ったの。でも、高校で不登校になったらそういう夢を見るのもダメなのかなって思ったんだ。でも、先生も高校行ってなくて、高認とって二十代後半になってから大学入ったんだって。だから、心配しないで夢を追いかけなさいって。進路相談いっぱい乗ってくれて、どこの大学行ったらいいのか一緒に真剣に考えてくれたんだ」
橘が高校に行っていないのは、中学三年生の時に宝塚音楽学校に受かったからであって花とはだいぶ事情が違うが、花の励みになっているのなら結果オーライなのかもしれない。
「それにしても、夢見るな現実見ろしか言わないあの橘がそんなこと言うなんて、花、相当応援されてるんじゃないの?」
「いやーでも脈ナシだよ、完全に。生徒としてはすごく大事にしてもらってるけど」
「だろうね。花以外の人の夢は否定しまくりだもん、あの人」
「そんなこともないと思うけどな……。遥も何か言われたの?」
「別に」
「でさ、遥って将来何になりたいの? ほら、よく言うじゃん。夢は口に出した方がいいってさ」
「あははー、どうなんだろうね」
普通ならここで私も将来の夢を打ち明ける。それが綺麗な物語だ。花はきっと応援してくれる。そして、今の花には言いふらす相手がいない。だから、関係ない第三者から「叶うわけないじゃん」と馬鹿にされるリスクはゼロだ。でも、結局私の夢のことは言えなかった。
翌日、朝一番に音楽科準備室に向かう。確認したいことがあるからだ。
「なんで、メール送ったのが私だってわかったんですか」
「半年も担任を持っていればわかりますよ。あなたが友達を見捨てることができないことくらい」
「でも、証拠がないじゃないですか。証拠もないのに、渡会さんは味方だなんて言うの無責任じゃないですか? もし私が花の敵だったら、花がめちゃくちゃ傷つくことになると思うんですけど」
「確かに迂闊だったかもしれませんね。でも、仮に通報したのがあなたではなく、井上さんに悪意を抱いていたとして、実際に加害した可能性はありますか? あなたがそんな非合理的なことをするほど愚かしくは見えませんが」
「いじめなんて時間の無駄だし、将来リークされたらやばいってことですか」
「話が早くて助かります。理解できていない方も多いですからね」
確かに、ゴシップの的になっているのが花以外の人だったとして私が噂話に対してノリノリで誹謗中傷をしたかというと、しなかったと自信を持って言える。倫理観云々の前に、私にデメリットしかないからだ。
「それに井上さんから聞きましたから。去年あなたたちの間に何があったか。あなたは人の好意を馬鹿にするような人ではないでしょう? だから、渡会さんのことは信頼できると思いました」
「まあ……そうですね。ていうか、花には随分優しいんですね。教師になるための面倒見るなんて。音楽の授業の後も花には個人的にアドバイスしたりしてたし」
自分に告白した生徒がいじめにあった罪悪感からだろうか。それとも、歌い手のような叶う確率が低い夢から教師のような地に足の着いた夢に進路を変更した方が好ましいと思っているのだろうか。
「別に贔屓をしているつもりはありませんが」
「だって、私が宝塚受験のアドバイス求めても協力してくれなかったじゃないですか」
「もう現役を引退してから長いですから。技術的なアドバイスに関してはスクールの先生にお任せした方がいいと思いますよ。私は高校の指導要領の範囲でしか指導できませんが、その範囲においては渡会さんは完璧ですので何も教えることはありません。井上さんにも大したことはしていませんよ。成績と照らし合わせて、教育学部のある学校をいくつかピックアップしただけですから。担任として当たり前のことです」
「女優とかスポーツ選手みたいな夢は応援しないのに、教師って夢は応援するんですね」
つい刺々しい言い方になってしまう。この人が昔私の背中を押してくれた人ではなかったら、たぶんこんなに突っかかることもなかっただろうけれど。
「そうですね。井上さんの将来に関してはあまり心配していません。私がこれだけ嫌われているのを見ても教師になりたいと言っているんですから、理想と現実のギャップに悩む心配もないでしょうし。今の精神状態に関しては心配ですが、学校が変われば人間関係も変わりますし、時間が解決してくれると思います」
つまり、無理して学校に来ることもないと言っているのだろう。普通生徒が不登校になったら学校に来るように指導する。この人は、今まで出会ってきた教師とは根本的に何かが違う。
「話変わって、これは個人的な質問なんですけど、夢って口に出した方がいいって本当だと思いますか?」
なぜこんなことを聞いているのか、自分でもわからなかった。
「体育科の先生にダンスを習うということですか? 正直、この学校にあなたが求めるアドバイスができる先生はいらっしゃらないと思いますよ」
「そういうことじゃなくて、花に言えなかったんですよ。宝塚目指してるって。これって、覚悟ができてないってことになるんですかね」
本当に自分が何をしているのか自分でもよくわからない。大した信頼関係もない人に人生相談なんて時間の無駄なのに。
「井上さんに技術的なアドバイスは無理だと思いますよ。それに、今は自分のことで精一杯でしょうから。友達だからと言って何でも明け透けに話す必要はありません」
「意外。『夢は周囲の人に伝えてどんどん応援してもらいましょう』とかいうものだと思ってました。教師ってそういう人多いじゃないですか」
中学の時、宝塚受験を先生に勝手にばらされた。どう考えても守秘義務違反なのに「みんなで渡会さんを応援した方がいいと思ったから」と正当化された。それが嫌だったから高校では先生に、他の人には宝塚受験のことを言わないでほしいと口止めをしたが、そもそも宝塚受験そのものにいい顔をされない。本当に両極端でちょうどいい教師がいない。
「あんな悪意に満ちたクラスで自分の夢を話せなんて無責任なことを言えるわけがないでしょう。一人に話したら、どこから漏れるかわかりませんからね」
「自分のクラスに対してあんな悪意に満ちたとか言うの、やばくないですか」
「事実でしょう。夢を追うことは恥ずかしいことではありませんが、人の夢を馬鹿にする心無い人は事実として存在するのですから。綺麗事だけ信じていては、夢にとってマイナスになることだってあります」
普段人の夢を否定してばかりのくせに、今日だけはまともなことを言っているように聞こえる。
「わかりました。じゃあ、失礼します。花のことよろしくお願いします」
「こちらこそ、井上さんのこと教えてくれてありがとうございます。それと、面接までには言葉遣いを直した方がいいですよ」
「言われなくても他の先生にはちゃんとした言葉遣いで話してますから」
私はこの人が嫌いだ。でも、花がこの人を好きになった理由はなんとなくわかった気がした。
結局花はあの後一回も学校に来ることはなく二学期を終え、自由登校期間に入った。私は宝塚、花は大学の受験のための準備で忙しかったとはいえ、それなりの頻度で連絡はとっていたが、花は比較的元気そうだった。ストレスの要因から離れることができたのがプラスに働いたのかもしれない。そう考えると、橘に相談したことは間違っていなかったような気がする。
「大学受かった!」
卒業式前日、受験番号のスクショとともに花から連絡が来た。
「おめでとう」
「ありがとう! 先生の母校なんだよー。春から先生の後輩!」
相変わらず橘が好きなところに呆れつつ、適当にスタンプを送ってお茶を濁す。
「遥も大学受かったら教えてね! 応援してる!」
花は私が大学を受けるものだと勘違いしたままだ。受かったら報告するつもりではあるけれど、試験も合格発表も三月の下旬なので当分先だ。
卒業式で泣いている人はそれなりにいたけれど、それは友達との別れが名残惜しくて泣いているのだろう。担任に対する感情がこんなにないクラスは初めてだ。他のクラスは寄せ書きをしたりプレゼントを買ったりしていたけれど、このクラスでは何の計画も立ち上がらなかった。
卒業証書授与の時以外は担任が隣の席に座っていて妙に居心地が悪かった。出席番号の関係でそういう席配置になった自分の運の悪さを呪うしかない。
卒業式後、最後のホームルームで橘が話し出す。相変わらず声は綺麗だし、卒業式で正装していると顔の美しさが際立つ。
「皆さんご卒業おめでとうございます。さて、夢だった職業に就いた人も、進学して夢を追い続ける人も、夢を終わらせる決断をした人もいると思います」
運動部の人たちは、プロからスカウトが来た人もいれば最後の大会で結果が振るわず高校卒業を機に競技をやめる人もいる。しかし、卒業式の日にまた随分と火種になりそうな話題を選んだなと思う。
「ですが皆さん、これだけは覚えていてください。夢が終わっても人生は続きます。私たちは生きていかなくてはいけないのです」
卒業式で夢の終わりの話をするのは本当にどういう神経をしているんだろう。
「特に、人と違う生き方を選んだ皆さんは、この先壁にぶつかることも多いと思います。それが何歳の時でも、どんな形で夢が終わっても、平等に明日は来ます」
相変わらず縁起が悪い話をしている。人を惹きつける話し方をしているくせに、話している内容が最悪だから質が悪い。おかげで一年間、この似非教師から話し方のコツみたいなものは勉強させてもらえたけれど。
「明日をどう生きたらいいかわからなくなった時はここに帰ってきてください。教師にとって生徒はいつまでも生徒です」
そういうセリフは好かれている教師が言うから感動するのであって、信頼関係が構築できていない教師が言っても茶番にしかならない。
最後のホームルームの担任の言葉より、式の時に橘が歌っていた『蛍の光』の美声の方がよっぽど印象に残った。私が夢野杏樹のファンのままだったら大喜びだったのだろう。それどころか、この一年そのものが幸せだったに違いない。残念ながらそうではいられなかったけれど。
運命の三月三十日、宝塚音楽学校の合格発表の日。今年は今までいけなかった三次試験、すなわち最終試験まで進むことができた。面接の手ごたえは完璧。スクールの先生からも「絶対に合格できる」と太鼓判を押してもらった。
兵庫県宝塚市、試験会場近くのホテルで静かに発表の時刻を待つ。一秒一秒が、長く感じる。そわそわする。自分でも自覚できるくらいに落ち着きがない。狭いツインルームを端から端まで行ったり来たりしている。
ベッド脇のデジタル時計を確認する。さっきと見たのと同じ時間だ。一分も待たずにまた時計を見てしまった。落ち着かなくては、と自戒しながらも視線が今度は壁のアナログ時計に移ってしまう。秒針を目で追う。秒針の流れが今日は止まっているんじゃないかと思うくらいゆっくりだ。
「大丈夫よ、遥なら。先生も大丈夫って言ってたんでしょう?」
一緒に泊まっていた母が見かねたのか、なだめられてしまった。
「そうだけど……」
「じゃあ絶対大丈夫よ。四度目の正直」
学校の先生と違って、スクールの先生は私を不安にさせるようなことは言わない。年が明けてから数えきれないくらい「絶対大丈夫」と言ってもらった。それでも不安なものは不安だし、緊張する。人生がかかっているのだから。
スマートフォンの時刻を見る。まだ発表時刻になっていないのに、Web上での合格発表用のURLを開いては何度も更新する。当然のごとく、合格発表はまだ表示されない。
「もう、何のためにアラームかけたかわからないじゃないの。大丈夫よ、遥が誰よりも頑張ってきたこと、お母さん知ってるから。ほら、こういう時は掌に三回人って書いて飲んで」
「それ、試験本番でやるやつ。今更やっても結果変わんないじゃん」
古臭いおまじないをしようと、部屋をうろつこうと、もう結果は変わらない。頭ではわかっているのに、落ち着くことができない。
緊張で喉がカラカラだ。限界が来て、スマホをベッドにおいて水道で水を汲んだ。飲もうとしたところで、ポロロロン、とハープを模した電子音が鳴る。母のスマホのアラームが鳴りだした。コップを放置して、急いでベッドに飛び込んでスマホを確認する。ロック画面の時計は発表時刻を指している。
あわててPINコードを入力しようとしたが、間違えた。手が震える。深呼吸をして、二回目は間違えないように落ち着いて入力する。開いた。発表用のURLを開く。
運命の瞬間、私は意を決して画面を見つめた。
落ちた。落ちた。落ちた。嘘だ。だって、絶対大丈夫だって言われた。毎日レッスンに通った。頑張った。人生全部かけてきた。なのに、落ちた。私の夢はこの瞬間に終わった。
「遥」
一緒に泊まっていた母の手を振り払い、ホテルを飛び出す。どこに向かっているのかなんて自分でもわからなかった。
「遥!」
母の呼び止める声は無視した。もう全部嫌になった。おしまいだ。本当におしまいになればいい。世界なんて滅べばいい。泣きながら宝塚音楽学校と反対方向に走った。途中、合格して入学手続きに向かっていると思われる雰囲気の人何人かとすれ違って余計惨めになった。
「渡会さん!」
うるさいうるさい、私を呼ぶな。どうせ全部終わったんだ。何者にもなれなかった私を呼ぶな。
「渡会さん!」
すべての感覚が鬱陶しい。私を呼ぶ声も、涙で濡れた頬を刺す風の冷たさも、世界中が敵になった気がした。
「渡会さん!」
突然、腕を掴まれた。いるはずのない人間がここにいる。やたらラフな格好をした元担任の橘優子がそこにいた。
「何? 笑いに来たの? 見下しに来たの?」
東京から兵庫まで新幹線で二時間以上。わざわざこんなところにまで煽りに来るなんてとんだ暇人だ。確かに私は反抗的だったかもしれないけれど、そこまで私が憎いか。
「だから滑り止めも受けとけばよかったのにって思ってるんでしょ。いいんだよ、どうせ私の人生おしまいなんだから! もう全部どうだっていい!」
「よくありません! 落ち着きなさい!」
腕を振り払おうとすると反対の腕も強い力で掴まれた。
「離してよ! 離してってば! あんたには関係ないでしょ1」
「関係なくありません。言いましたよね、私は渡会さんの担任です。これからもずっと渡会さんは私の生徒です。生徒の岐路に担任が立ち会うのは当然のことです」
「それはあんたが勝手に言ってるだけでしょ! 私はあんたのこと先生だなんて認めない!」
この一年、私は一度として橘を先生と呼んでいない。
「法的にはあなたは三月三十一日までは橘学園高校の生徒です。ですから、少なくとも私は明日まではあなたの担任です」
「うっさいな! そんなに法律が好きなら弁護士にでもなればよかったじゃん!」
「そうですね。そういう人生もあったかもしれません」
「だから、そういうしゃべり方がむかつくって言ってんの! いいよね、理想の人生歩んでる人は! 一発合格して、夢叶えて、卒業した後は親のコネで悠々自適な生活してさ! 四回受けて全部ダメだった私のこと見下して楽しい?」
「渡会さん、お金の話をするのは下品ですが、教職員ってだいぶ安月給なんです。それに年度末って忙しい時期なんですよ。そんな時期に、高いお金を出して新幹線に乗って、わざわざ嫌がらせしに来る……私がそんな非合理的な人間に見えますか?」
橘が強い目力で私をじっと見つめながら言う。確かに、橘は悪く言えばつまらない大人だけれどもよく言えば合理的な人間だ。
「でも、あんたに私の気持ちがわからないのは事実じゃん」
「そうですね。それは認めます」
「夢終わった直後に、夢叶えた人の姿なんて見たくないに決まってんじゃん」
「そうかもしれませんね。無神経でした。ごめんなさい」
手は私の腕を掴んだままだが、深々と頭を下げてきた。私が何を言っても否定しないのが逆に不気味だった。
「ほんと、何しに来たの?」
「願わくば一目見たいと思ったんです。合格して宝塚音楽学校の門をくぐる渡会さんを。ただ、もしそれが叶わない場合、渡会さんはとても危ういと思いました。合格発表がどちらの結果でも、見届ける必要があると感じました」
「よく言うよ。受かる可能性なんてゼロだと思ってたくせにさ」
「そんなこと一言も言っていません」
「だって、いつも言ってたじゃん、夢は終わるって! いつも夢が終わる前提で話してたから、みんなに嫌われてたんだよ!」
「そうですね。ほとんどの人間の夢はどこかで終わります。今の渡会さんに言うことではないかもしれませんが、私も夢の終わりを経験した側の人間ですから」
タカラジェンヌは八年目を境に雇用形態が変わる。人気が出なかったなどの理由で、直接雇用から業務委託契約になるタイミングで卒業を選ぶ団員や、劇団側から契約を打ち切られる団員もいる。夢野杏樹もその例に漏れなかった。
「でもさあ、あんたは死にたいとまでは思わなかったでしょ! 一回は夢叶えたんだからさあ」
どんな正論を言われたところで届かない。私と橘では根本的に境遇が違う。
「死にたいなんて言わないでください!」
橘が切羽詰まったような大声を出した。周りの人が一斉に振り返る。注目が集まってふと我に返る。この状況はかなり恥ずかしい。大声を出したのは演技なのだろうか。
「大声出さないでよ恥ずかしい」
先ほどまで私も泣き喚いていたけれど、一般的には学生よりもいい年をした大人が大声を出す方が恥ずかしいはずだ。
「では、少し落ち着いて話せる場所に移動しましょうか。ホテルに戻るのとあの公園に行くならどちらがいいですか?」
道路の向かいの小さな公園を指さして質問された。
「ホテルには帰りたくない」
母のもとに戻りたくない。何よりあのホテルは宝塚受験生御用達になっているので合格した勝組に会いたくない。
「わかりました。では行きましょう」
橘に手を引かれて公園に向かう。入口の自販機で橘は温かいミルクティーと緑茶を買った。公園では一組の親子が砂場で遊んでいた。
「どちらがお好きですか」
砂場から少し離れたベンチに腰掛けるや否や、買ったペットボトルを差し出された。ミルクティーの方を受け取る。温かい。温度を感じるということは生きているということだ。私は生きながらえている。夢が終わったのに生きている。
タカラジェンヌとしての人生が始まるはずだったのに、始まる前に夢は終わった。今日からゴミみたいな余生が始まる。
「死にたい」
ぼそっと呟いた。
「死なせませんよ、遥ちゃん」
橘はまるで騎士のようにひざまずいて、私の手を両手で包み込むように握った。顔はすっぴんに近く服装も普段着なのに、在りし日の夢野杏樹の姿が確かに見えた。
「なんで、下の名前」
心臓がドキドキする。この人はもう夢野杏樹様じゃないはずなのに。
「昔、ファンレターくれましたよね。渡会遥ちゃん」
頭が真っ白になった。ヅカオタで現役時代の夢野杏樹を見たことがあることまでは知られているとしても、ファンレターを送るほどの大ファンだったことが本人にばれている。私のこの一年間の反抗的な態度が全部ツンデレの一言で片づけられてしまうじゃないか。顔から火が出るほど恥ずかしい。私の感情はもっと複雑なものなのに。
「まさかファンレター送ってきた人の名前、全員覚えてるんですか」
他の人の名前を憶えているのかなんてこの際どうでもいい話なのに、とにかく適当に話題をそらした。
「人の顔と名前覚えるのは得意な方ですから。それに、定期的に読み返しているんですよ。希望の役がもらえなかった日も、劇団側から契約更新ができないと言われてトップスターになる夢が完全に終わった日も」
当り前だけれども、タカラジェンヌになったらそれで終わりではない。生涯舞台女優として生きていける人間なんて一握りどころか一つまみくらいしかいない。頭ではわかっていた。でも、まだ何者でもない私には実感がなかった。目の前の、夢に生きた人間の生の言葉を聞いて初めて実感した。
「悔しくて泣いた日も、挫折した日も、同じ二十四時間なんです。時間は待ってはくれなくて、変わらず明日は来るんです。夢が終わっても、生きていかなければいけないんです」
この一年、橘優子が何度も言った言葉。「夢が終わっても人生は続く」私は、クラスのみんなはそれを「あなたの夢は叶わない」と解釈していた。でも、思い返してみれば彼女は「落ちたら」「負けたら」「叶わなかったら」そういう言葉は一切使わなかった。彼女の言う夢の終わりは夢の舞台に立った後、その舞台を降りなければならなくなった日のことを指していたのだろう。冷徹な話し方に騙されていたが、彼女はいつだって、私たちが夢の舞台に立つ前提で話していたのだ。
眩しい夢の舞台に憧れているだけの子供には見えない舞台上の現実。それにいつか曝されたときに壊れないように。
中には私のように夢の舞台に立てずに散った人たちもいる。でも、誰も死ななかった。何事もなかったかのように彼らは卒業式に来た。そして私も今生きている。夢が叶わなかったらその場で舌を噛み切って死んでやるくらいの覚悟で受験に臨んだのに、死に損なった。
それはきっと一年をかけて刷り込まれたからだ。夢が終わっても明日は来ると。生き続けなければいけないと。
「どうやって、折り合いつけたんですか」
私はこの人のように強くは生きられない。私は凡人だった。夢野杏樹のような特別な人になれなかった。きっと体も頭も心も何もかも作りが違うんだ。
「今までにいただいたファンレターを読み返したんです。トップにはなれなかったけれど、誰かの心に確かに残ることができた。それで充分幸せだった。それを思い出して区切りをつけることができたんです」
「宝塚以外の場所で女優を続けようとは思わなかったんですか?」
あの頃の私はどんな形でも夢野杏樹に舞台に立ち続けてほしかった。十年越しの恨み言をぶつける。
「残念ながらやっていけるビジョンが見えませんでした。だから、きっぱり別の道に進むことにしたんです。幸いにも家業が学校法人でしたから、私は恵まれていました。今までしてこなかった勉強をして、高卒認定試験をとって、浪人して大学に入って、小学校がかぶらないくらい年下の人たちに混ざって教師になりました。ごめんなさいね、格好悪くて。幻滅させてしまいましたね」
華やかな舞台から一転して、泥臭い生き方へ。夢の舞台の輝きを知った後、私はその落差に耐えられただろうか。いつか泣くことになるとしても、その光を浴びてみたかったけれど。
「強いんですね」
「それが、人と違う人生を生きるということですよ。オーソドックスな人生と違う道を選んだら強く生きていくしかないんです」
ようやく気付いた。この人は意地悪でみんなの夢を否定していたわけじゃない。夢に生きる上で絶対に念頭においておかなければいけないことを言っていただけだ。耳が痛いことを言う悪役を買って出た偽悪者で、本当は誠実な人だった。少なくとも“絶対に”夢は叶う、と無責任に言った大人や毒にも薬にもならない綺麗事を言い続けた大人たちよりはずっと。
「なんでわざわざ憎まれ役やってたんですか。優しい言い方で優しい先生としてやんわりと忠告することだってできたはずじゃないですか。どうして自分が損するような道を選んだんですか」
「確かに優しい先生に救われる人は多いのでそうすべきだったのかもしれません。でも、父の学校はいい学校なんです。優しい先生と熱血教師ばかりなんです。学校生活を振り返ってみると、案外印象に残っているのは厳しくて冷血な先生の言葉だったりするでしょう? そういう役が足りないと思ったので私がその役割になることにしました。いつか人生に疲れたときに帰る場所としての恩師は他の先生におまかせして、私は大嫌いだったけれど言葉だけはなぜか心に残っている鬼教師に徹するのが皆さんのためになるかなと」
「損な役回りじゃないですか。そうしろって、理事長のお父様に言われたんですか」
「いいえ。私の意志です。私は一度死んだ身ですから。この命は未来ある若者のために使おうと思ったんです」
やられた。稀代の名女優・夢野杏樹は学校を舞台にクラス全員に憎まれる教師を演じきったのだ。きっと花だけがそれに気づいていた。私は馬鹿だ。人を見る目がないのは私の方じゃないか。かつて人生の指針にするほど憧れた人を信じることができなかった。
「でもね、生徒には全員幸せになってほしいとはいえ、やっぱり遥ちゃんは特別なんです。あなたの人生の節目とあらば、こうして関西まで飛んでくるくらいには」
世界で一番美しい顔を向けて杏樹様は私に語り掛ける。
「それ、花が聞いたら嫉妬で泣きますよ。依怙贔屓だーって」
「ええ、依怙贔屓です。教師だって人間ですから。私が開き直る姿、何度も見て来たでしょう?」
悪戯っぽい顔を向けられれば簡単に落ちてしまいそうだ。私が憧れた人はそういう星のもとに生まれた人だ。私はそんな世界を目指していた。
「依怙贔屓してくれるなら、最後に一個だけお願いしてもいいですか」
「ええ。私ね、遥ちゃんには幸せになってほしいんです。あなたには無限の可能性があるんですから」
わざわざそういう言葉を選ぶところがずるい。私が何をお願いしようとしていたのかわかっているみたいじゃないか。
「私をレナだと思って、『亡国のソナタ』のレナの兄の最期のセリフ言ってください」
憧れの人のセリフがきっかけで目指した夢。その夢が終わってしまったから、同じ言葉を糧に歩き出す。うん、素敵だ。これで文字通り夢物語に終わった私の物語に区切りをつけることができる。
「いいですよ、手を握ってもらえますか」
銃弾に撃たれ倒れた場面での台詞だ。服が汚れるのもいとわず杏樹様は砂利にまみれた地面に寝そべる。私は杏樹様の手を握り、膝をつく。杏樹様の息遣い、表情、そのすべてが空気を作った。名も知らない小さな公園が、遠い昔の異国の戦場へと姿を変える。
「君は何にだってなれる。どうか幸せになってくれ」
「はい、お兄様。約束します」
これでいい。夢は終わってしまったけれど、夢を追いかけていたからファンとしては最高の幸せを手に入れることができた。完璧なハッピーエンドとまではいかなくても、救いのないバッドエンドじゃない。
青春全部かけて挑んで負けた。空っぽになってしまっても人生は続いていく。それでも、いつかこの日々のすべても私の歩んできた足跡だと自信を持てる日が来るように、がむしゃらに生きていく。
「ありがとうございました。それと、おかえりなさい、杏樹様」
「ただいま。本当に、舞台に帰ってきたみたいだった。こちらこそありがとう」
杏樹様は起き上がると、緑茶を開けた。
「乾杯しましょうか、再会の記念に」
遠い昔の大切な思い出。私の原点。かつての憧れに、かつてのファンとして再会できた。私はミルクティーを開けてその言葉に応える。
「舞台は演者とお客様の共同作業で作るものですから十年ぶりの共同作業になるのでしょうか。かつて同じ舞台を作った友に、乾杯」
「乾杯」
コン、とペットボトルをぶつけ、少しぬるくなったミルクティーを飲む。いつも飲んでいるものよりも甘かった。
「|Should auld acquaintance be forgot《旧友は忘れていくものなのだろうか》……」
おもむろに杏樹様が『蛍の光』のメロディーを歌い出した。日本では別れの歌として歌われているけれど、原曲『オールド・ラング・サイン』は旧友と再会し、盃を交わす歌だ。新しい年を迎える際に歌われる、始まりと祝福の歌だ。私も杏樹様の声に合わせて歌う。
「|We'll tak a cup o' kindness yet for auld lang syne《親愛の盃を飲み交わそう、懐かしき日々のために》」
パチパチパチとたどたどしい拍手の音が聞こえた。ふと視線をずらすと、女の子が小さな手で一生懸命拍手をしてくれていた。ちょうど私が初めて宝塚の舞台を見た時と同じくらいの年頃の子だった。
――いつか私もタカラジェンヌになって杏樹様と共演して、いっしょに歌いたいです。
遠い昔、ファンレターに書いた言葉。理想通りとはいかなかったけれど、私の夢は形を変えて叶ったのかもしれない。二人だけのステージを見届けてくれた小さなお客様の心の片隅にほんの少しでも残れたら、これ以上の幸せはない。
そして、わかったことがある。やっぱり私はお芝居が好きだ。
「私、やっぱり演劇の道に進みます。たとえ修羅の道でもやっぱり諦めきれません。とりあえず、浪人して大学受験して、シェイクスピアの勉強しようかと思うんですけど……今からでも遅くないですかね?」
「もちろん。私の夢が終わった時よりずっと若いんですから」
一度挫折した。才能の限界を知った。ここから先は、傷つくとわかりきった茨道。人と違う道を生きるということは、痛みを選んで生きるということだ。
それでいて、夢が叶うとは限らない。夢の先で、想像もつかないほど大きな傷を負うかもしれない。それでも私は生きていく。余生ではなく第二の人生を。
「もしもまた明日が来るのが怖くなったら、その時は会いに行ってもいいですか?」
「ええ、渡会さんはずっと私の生徒ですから」
「ありがとうございます。そうしたらまた、第三の人生、第四の人生を始められる気がします」
何度傷ついたって、死にたい夜は明ける。夢追う人にも夢破れた人にも平等に明日はやってくる。より幸せな明日を生きるため、私は前を向いて今日を生きる。
「さっき、最後って言ったんですけど、やっぱりもう一個お願いいいですか? 心機一転ってことで、芸名に私に道しるべをくれた人の名前をいただきたいんです」
「あら、夢野杏樹を襲名してくださるんですか? それは光栄ですね」
「いいえ。夢野杏樹様に憧れてタカラジェンヌを目指した私は成仏したんです。恩師の苗字からとって、橘はるかって名乗らせてください」
主演・橘優子、助演・渡会遥の学園ドラマの終わりならこの結末が一番美しい。一年間、すべての夢追い人の心に残る教師を演じきった名女優に最大の敬意と感謝を込めて教え子は第二の人生を歩き出す。清く正しく美しく、私はこれからも生きていく。綺麗事だけじゃ生きていけなくとも、傷だらけの日々でも。
「ええ、橘はるかさんの未来に幸あらんことを」
明日から私は橘はるかとして生きていく。その前に渡会遥として伝えたいことがある。私は深く、恩師に向かって頭を下げた。
「一年間ありがとうございました。橘先生」