二学期に入ると、輪ゴム事件のことはみんなすっかり忘れていた。あの後、私が依怙贔屓されていると叩かれることも、相川がメンツを失うこともなかった。橘がヤバいだけ。それがクラス内での共通の認識だった。
「ねえ、遥。明日先生の誕生日なんだよ。知ってる?」
 花がテンションを上げて私に報告してくる。もちろん知っている。十年前、夢野杏樹は私の推しだった。推しが生まれた日に合わせてファンレターを送ったのだから。
「へえ、そうなんだ」
 でも私は知らないふりをする。私が宝塚音楽学校を受験し続けていることも、不本意ながら橘が元タカラジェンヌだったことも話すつもりはない。報告するのは受かってからでいい。
 友人に秘密を作ることに罪悪感はなかった。花だって傍から見てバレバレなのに、橘に恋をしているとハッキリ言ったことはない。ネットで歌い手活動をしていることは知っているが、名義は絶対に教えてくれない。友達だからと言って何でも話す必要はない。
「プレゼントとかって渡していいのかな? どう思う?」
 たとえ相手が同性の教師でも、友達の恋は応援したい。でも、個人的に橘は嫌いなのでハッキリ言って花の口から橘の名前が出るだけでも嫌だ。適当にあしらうことにした。
「まあ、いいんじゃない。やりたいようにやれば」
 翌日もホームルームが終わってすぐ私はレッスンに向かった。去年は担任の誕生日にサプライズパーティーをしていたけれど、今年は何もなかった。そもそも橘の誕生日を知っているのは花くらいのものだろう。花が誕生日プレゼントをどうしたかは知らない。

「遥ちゃん順調よ! この調子なら気持ちで負けなければ絶対合格するわ!」
 今年に入ってから先生に絶対受かると言われることが多くなった。去年までは「去年の今よりずっと成長している」としか言われなかったけれど、ついにプロの目から見て合格確実と言われるまでになった。このラストチャンス、絶対モノにする。

 帰りの電車の中でスマホを確認すると、クラスのグループトークの通知が百件以上来ていた。抜き打ちのテストや持ち物検査のリークでもあったのかと思い確認する。
「ババ専キモい」
「どっちも頭おかしい。死んだ方が社会のため」
「学校はママ活する場所じゃありませーん」
 書き込んでいるのは数人だが、他にも目を覆いたくなるような大量の罵詈雑言が書かれている。
「何か言えよ」
「逃げた?」
 とりあえず状況を確認するために画面を勢いよくスクロールして、発端を確認する。大元は蘭があげた一本の動画だった。
 縦長の動画で場所は階段の踊り場。立っているのは花と橘。絶妙に二人の顔が特定できる確度で撮影されている。イヤホンをつけて、音声を確認した。
「先生のことが好きです。絶対内緒にするので恋人にしてください」
「気持ちは嬉しいですが……」
 花が橘に告白して、橘の返答は途中で途切れている。嫌われ者の教師にクラス内で少し浮いている生徒が告白した。しかも同性愛ともなれば、ゴシップに飢えた輩にとっては恰好のスキャンダル。
 お祭り騒ぎの中で、誹謗中傷はエスカレートしている。集団心理は怖い。みんなやっているからという理由で、悪口を書くハードルが下がり完全に無法地帯だ。
 家について落ち着いたところで、花に連絡しようとして手がとまった。花は友達だ。友達が辛い思いをしていたら「気にすることないよ」と連絡するのが当然の振る舞いだ。
 でも、私たちは友達ではあるけれど親友ではない。私たちの会話はいつもうわべだけのもので、本音で話すことは避けている。今日、橘の誕生日に合わせて花が橘に告白するということを知らなかったというのが何よりの証拠だ。
 たぶん私が今何を言っても花の力にはなれない気がする。気まずい思いをさせるだけだろう。結局何もせず、スマホを置いてさっさとお風呂に入った。
 湯船の中で感情を整理する。花を誹謗中傷している蘭たちは許せないけれど、花だってなんでよりにもよって橘なんて好きになるんだ。顔しか見ないで恋愛するから災難に遭うんだ。撮られるなんて迂闊すぎる、特に橘が。橘が気を付けていればこんなことにはならなかった。もう全部橘が悪いような気がしてくる。
 もう何も考えたくない。明日学校に行って花に会うのも気まずいけれど、出席日数が減ると受験の時の印象が悪くなるから休むわけにはいかない。もう全部面倒くさい。明日になったらご都合主義的に全部解決していたらいいのに。あるいは、明日なんて来なければいいのに。

 私の願いもむなしく、夜の間中グループトークは下品な盛り上がりを見せ、花からは音沙汰がない。せめて「助けて」って言ってくれたら助けるくらいの情はあるのに。
 始業時刻ギリギリで教室に入るなり、蘭がさっそく迷惑な絡み方をしてきた。花の姿は見えない。
「ねえ、やばくない? 花ってレズなんでしょ? 遥も狙われてたりして」
 予想通りの絡み方をされた。だから嫌だったんだ。
「なんかさ、一年の頃やたら遥に抱き着いてなかった? ヤバ、キモ。遥可哀想」
 取り巻きたちが意地の悪い笑い方をする。何が疎ましいかというと、彼女らの陰口は完全に的外れというわけではないということだ。
「まさか、そういう意図はないでしょ」
 嘘だ。二年生の夏、私は花に告白された。人を酔わせてなんぼの職業を目指す私としては別に悪い気はしなかった。ただ、花のことを恋愛対象としては見ることができなかったからそのまま友達を続けることを選んだだけ。花も絶縁と友情継続の二択なら友達を選んだだけ。あの日のことには触れないまま、今日まで過ごしてきた。
――遥のことが好きです。絶対内緒にするので恋人にしてください。
 私に言ったのとまったく同じ言葉で橘に告白するとまでは思わなかったけれど。別に、私たちは付き合わなかったのだから誰に告白をしようと自由だ。でも、橘が相手だと何か負けた気がする。こんなことを思ってしまう私はきっと性格が悪い。
「抱き着いてたのもネタだよ、ネタ。花の友達がそういうノリなんじゃないの? 知らないけど」
 花のために正面切って喧嘩する勇気はないけれど、「昔は渡会のことが好きだった」なんて特大の燃料を隠す程度には善人。中途半端なやり方だと思いつつも、適度に花をフォローする。
「ていうかさ、告白も仲間内の罰ゲームなんじゃないの? 花よく他クラの友達とゲームしてたしさ。花との会話で橘の名前出た記憶まったくないもん」
 名前も知らない花の友人には悪いけれど、適当な仮説を作る。これで花が「罰ゲームの告白がガチだと第三者に勘違いされた災難な人」になれば、中傷もおさまるだろう。名も知らない人、巻き込んでごめんなさい。なんだかんだで花は友達だけど、あなたは友達じゃない。もっとも、告白がガチじゃないということになれば明日にはみんな興味を失うだろうからそんなに大事にはならないだろうけれど。
「いやいや、さすがにそれはないっしょ。周りに人いなかったし、ガチっぽかったもん」
 私の思惑は現場を盗撮していた蘭によって防がれてしまったけれど。こうなると、変にフォローする方が新たな火種になる。適当に話を切り上げて席に着いた。
 結局、花は学校に来なかった。グループトークには「何で学校来ないの?」と追い打ちをかける心無い人たちがいる。見ていて不愉快だ。クラスが異様な雰囲気なのに気づかない橘は無能だ。
 気づいたところで橘はこの状況をどうにかできるんだろうか。正直、迫力だけはあるから橘が何か言ってくれるような気がする。というよりも、いい感じにヘイトを買ってくれるから面白半分に花を傷つけている人たちの矛先は橘に向かえば結果オーライだ。
 盗撮動画を保存し、トークの内容をスクショする。正直、橘のことは信用していない。あの女は「これは渡会さんに聞いたのですが」と言い出してもおかしくない。情報源が私だとばれないように、捨てアドから橘のメールアドレスに誹謗中傷の証拠を送信する。捨てアドは特に絡みのないクラスメイトのアナグラムにしておいた。
 担任がまともなやつだったら私だってここまで保身に走ったりしない。全部橘が悪い。そう心の中で呟いてメールを送信した。
「確認いたしました。ご報告ありがとうございます」
 返信は比較的すぐに来た。明日には解決してほしいものだ。