夢に生きるクラスメイトを中心に、ほぼ全員からのヘイトを買った担任に会いに行くのはまるで裏切り者のようで居心地が悪い。彼らの目を盗んでこっそりと音楽科準備室に行った。
「失礼いたします」
「いらっしゃい。どうぞおかけになって」
言われるがままに背筋を伸ばして椅子に腰かける。
「ちゃんと背筋伸ばして座れるじゃない。始業式の時は曲がっていましたよ」
「すみません。寝不足で」
私以外にも寝ていた人はいるけれども、あくまで寝ていたことではなく姿勢が悪かったことを注意された。
「貴女は夜更かしをしてはいけない人でしょう。睡眠不足は肌に悪いですから」
教師としてはどこかずれた注意も私に対してのものならこれで合っている。
「さて、本題ですが進路希望調査票の不備についてです。第二志望以降が空欄なのはいただけませんね」
三月に提出した進路希望調査票を見せられる。第一志望「宝塚音楽学校」以下空欄。幼いころからずっと憧れてきた宝塚歌劇団に入る唯一のルート。受験は今年がラストチャンスだ。
「宝塚一本でいきます」
ダメだったら浪人します、とは言わなかった。仮にの話でも失敗する可能性を口にしたくない。
「高校受験の時は両立していたんでしょう? それに、短大や四大を併願するのも珍しいことではありません」
ホームルームでデータを元に話していたのと同じように、宝塚のことまで調べていることに驚いた。
「今年が最後のチャンスなんです。全部宝塚に捧げたいんです。人生の半分以上夢を追っているのでとっくに覚悟はできてまいす」
幼稚園の頃から、いわゆるヅカオタの母に劇場に連れていかれていた。一糸乱れぬラインダンス、豪華絢爛なステージ、圧巻の歌声、素敵な王子様とキラキラなお姫様。そのすべてが私を魅了した。子供には難しい内容のお芝居も、鬼気迫る表情とセリフにこもる熱から、理屈ではなく物語を頭ではなく心で感じていた。感動という概念は宝塚に教えられた。私にとっての王子様は幼稚園の男の子や男の先生ではなく、男役のタカラジェンヌ様だった。
宝塚音楽学校の入試は面接と歌唱と舞踊だ。学業の筆記試験はない。無駄なことに時間を割いている暇なんて一秒もないのだ。
「倍率十倍の大学を受ける人たちだって滑り止めは受けていますよ。ましてや宝塚音楽学校の倍率は四十倍です。自分の人生をギャンブルのチップにするのはやめなさい。夢という名目でリスクを見て見ぬふりするのは覚悟ではなくただの蛮勇です」
ああ、またか。夢を否定されるのは正直慣れている。宝塚音楽学校の受験には成績証明書が必要だから担任には事情を説明せざるを得ないが、反対されることも少なくない。ましてやクラス中の夢追い人に喧嘩を売った教師が私にだけは優しいなんてそんな都合のいいことがあるはずもない。でも、反対されたからと言って引き下がる私じゃない。
「やる前からできないって決めつけるなんておかしいと思います」
――君は何にだってなれる。どうか幸せになってくれ。
十年前の新人公演『亡国のソナタ』のセリフ。それを胸に私は今日まで頑張ってきた。
ヒロイン・レナの兄がレナを庇って死んだ際の言葉。その言葉を胸にレナは夢を叶える。私は兄役を演じた夢野杏樹様の名演に胸をうたれた。今まで観ているだけだった舞台に立ちたいと思った。自分も何者にだってなれるのではないか。そう思えた。
「若さゆえの無敵感は幻想です。いつかどこかで破綻します。舞台女優はなったところで一生続けられる人間はほとんどいない職業の筆頭ですからね」
わかっている。私の人生を変えたタカラジェンヌ、夢野杏樹様はその舞台の一年後に卒業した。トップスターになれるのはほんの一握りの世界。
それでも、私はこんなかっこ悪いことを言う大人になんてなりたくないと思った。相川と喧嘩をしていた時に「コネ就職だ」とはっきり開き直った姿はある意味清々しいように錯覚したけれど、顔が綺麗だから騙されていただけだ。過激な発言とカリスマチックな雰囲気で武装しているだけで、この人はダサい大人だ。
立ち上がって一歩前に出る。夢を忘れた目の前の大人に顔を近づけて啖呵を切った。
「私は私の可能性を信じています。私は絶対に夢を叶えます」
近くで見ると、やっぱり先生は杏樹様によく似ている。私が杏樹様に憧れていたのはもう十年も前だし、舞台メイクとナチュラルメイクは違う。それでも、そっくりだ。似ているという次元ではないほどに。
物心ついたころから舞台に通い、数々のトップスターに疑似的な恋をしてきた。それでも、私の人生を変えた杏樹様は特別だった。トップスターではなくても、主演歴がなくとも、杏樹様は今でも私の心の王子様だ。
だから、信じたくない。私が宝塚の道に進むときっかけになった人と、目の前で夢を否定する汚い大人が同一人物だなんて。
「夢野……杏樹様……?」
お願い、「誰ですかその人は?」って言って。先生の眉がぴくっと反応した。そのあと、小さくため息をついた。
「私のことまで知っているなんて、相当コアなファンですね。それにしても、よく気づきましたね。十年も前の話なのに」
信じたくないが、かつて憧れたタカラジェンヌは卒業後、ヤバい教師となって私の前に現れたようだ。そして、あろうことか私の夢を否定する。
「普通、生徒が昔の自分と同じ道を夢にしたら嬉しいものなんじゃないですか」
震える声で抗議した。なのに、橘は涼しい顔をしている。
「今、私はタカラジェンヌの夢野杏樹としてではなく、教師の橘優子として渡会さんとお話ししています」
「そんな簡単に切り替えられるものなんですか? 絶対バイアスとか主観とか入りますよね? 元タカラジェンヌの目から見て、私は受かりそうもないってことですか?」
三年前と一昨年は一次の面接で落ちてしまったけれど、去年は二次の声楽と舞踊の試験まで行けた。宝塚受験専門スクールの先生も順調に成長していると言ってくれている。でも、もしもプロの目から見て足りないものがあればここで聞いておかなければいかないと思った。
「試験のことについては無責任なことは言えません。私の頃とは違うこともあるでしょうし。私は一般論を話しています」
「一般論とか、リスクヘッジとか……。なんでそんなつまんない人になっちゃったんですか。杏樹様は舞台では『君は何にだってなれる』って言ってたじゃないですか」
「それは台詞でしょう? フィクションを現実に持ち込まれても困ります」
相変わらず飄々とした態度。そのすべてが私の神経を逆なでした。
「だから、そういう透かしたしゃべり方とか、意味わかんないって言ってんの! 佐原先生とは音楽の先生同士話したりもするんでしょ? 佐原先生からの話とかで私には才能ないって思ったり、受かりそうもないって思ってるんならはっきりそう言えばいいじゃん!」
私は思わず大声を出した。少しの間のあと、橘が口を開く。
「渡会さん、その口のきき方は何ですか。私は宝塚の卒業生です。宝塚の上下関係が厳しいことを知らないはずがないでしょう? ため口で口答えなんてしていいと思ってるの?」
ぞくっとするくらい冷たい目で私を見て吐き捨てた。ここで自分が勢いでしでかしたことに気づく。
「宝塚に告げ口するつもりですか?」
これから入ろうとする組織の関係者によくない態度をとった。これが試験官に知られれば、心証が悪い。それどころか一発アウトかもしれない。実際に「こいつは私に無礼な態度をとったから不合格にしてください」なんて言ったら大人げなさすぎるけれど、この人は何をしでかすかわからない。
「まさか。そんなことをして私に何の得があるというんですか? タカラジェンヌだったのは過去の栄光。今はしがないコネ娘。父親の学校の進学実績にとって不利なことをする合理性がないでしょう?」
要するに、理事長のお父さんのために進学実績が欲しいだけ。無謀な挑戦をされるよりも、手堅く大学に合格してくれる方が都合がいい。でも、宝塚に受かったらそれはそれで宣伝になるから邪魔はしない。そんなところだろう。
タカラジェンヌ夢野杏樹は死んだ。もうどこにも憧れのあの人はいない。いるのは、夢を追うことを忘れた暴言教師だけだ。
「進路調査票、お返しします。明日までに併願校を書いてきてくださいね」
「書きません、受けないので。レッスンあるので失礼します」
調査票の返却を拒否し、音楽準備室を出た。あんな奴、もう推しでもなんでもない。教師としても認めない。
「失礼いたします」
「いらっしゃい。どうぞおかけになって」
言われるがままに背筋を伸ばして椅子に腰かける。
「ちゃんと背筋伸ばして座れるじゃない。始業式の時は曲がっていましたよ」
「すみません。寝不足で」
私以外にも寝ていた人はいるけれども、あくまで寝ていたことではなく姿勢が悪かったことを注意された。
「貴女は夜更かしをしてはいけない人でしょう。睡眠不足は肌に悪いですから」
教師としてはどこかずれた注意も私に対してのものならこれで合っている。
「さて、本題ですが進路希望調査票の不備についてです。第二志望以降が空欄なのはいただけませんね」
三月に提出した進路希望調査票を見せられる。第一志望「宝塚音楽学校」以下空欄。幼いころからずっと憧れてきた宝塚歌劇団に入る唯一のルート。受験は今年がラストチャンスだ。
「宝塚一本でいきます」
ダメだったら浪人します、とは言わなかった。仮にの話でも失敗する可能性を口にしたくない。
「高校受験の時は両立していたんでしょう? それに、短大や四大を併願するのも珍しいことではありません」
ホームルームでデータを元に話していたのと同じように、宝塚のことまで調べていることに驚いた。
「今年が最後のチャンスなんです。全部宝塚に捧げたいんです。人生の半分以上夢を追っているのでとっくに覚悟はできてまいす」
幼稚園の頃から、いわゆるヅカオタの母に劇場に連れていかれていた。一糸乱れぬラインダンス、豪華絢爛なステージ、圧巻の歌声、素敵な王子様とキラキラなお姫様。そのすべてが私を魅了した。子供には難しい内容のお芝居も、鬼気迫る表情とセリフにこもる熱から、理屈ではなく物語を頭ではなく心で感じていた。感動という概念は宝塚に教えられた。私にとっての王子様は幼稚園の男の子や男の先生ではなく、男役のタカラジェンヌ様だった。
宝塚音楽学校の入試は面接と歌唱と舞踊だ。学業の筆記試験はない。無駄なことに時間を割いている暇なんて一秒もないのだ。
「倍率十倍の大学を受ける人たちだって滑り止めは受けていますよ。ましてや宝塚音楽学校の倍率は四十倍です。自分の人生をギャンブルのチップにするのはやめなさい。夢という名目でリスクを見て見ぬふりするのは覚悟ではなくただの蛮勇です」
ああ、またか。夢を否定されるのは正直慣れている。宝塚音楽学校の受験には成績証明書が必要だから担任には事情を説明せざるを得ないが、反対されることも少なくない。ましてやクラス中の夢追い人に喧嘩を売った教師が私にだけは優しいなんてそんな都合のいいことがあるはずもない。でも、反対されたからと言って引き下がる私じゃない。
「やる前からできないって決めつけるなんておかしいと思います」
――君は何にだってなれる。どうか幸せになってくれ。
十年前の新人公演『亡国のソナタ』のセリフ。それを胸に私は今日まで頑張ってきた。
ヒロイン・レナの兄がレナを庇って死んだ際の言葉。その言葉を胸にレナは夢を叶える。私は兄役を演じた夢野杏樹様の名演に胸をうたれた。今まで観ているだけだった舞台に立ちたいと思った。自分も何者にだってなれるのではないか。そう思えた。
「若さゆえの無敵感は幻想です。いつかどこかで破綻します。舞台女優はなったところで一生続けられる人間はほとんどいない職業の筆頭ですからね」
わかっている。私の人生を変えたタカラジェンヌ、夢野杏樹様はその舞台の一年後に卒業した。トップスターになれるのはほんの一握りの世界。
それでも、私はこんなかっこ悪いことを言う大人になんてなりたくないと思った。相川と喧嘩をしていた時に「コネ就職だ」とはっきり開き直った姿はある意味清々しいように錯覚したけれど、顔が綺麗だから騙されていただけだ。過激な発言とカリスマチックな雰囲気で武装しているだけで、この人はダサい大人だ。
立ち上がって一歩前に出る。夢を忘れた目の前の大人に顔を近づけて啖呵を切った。
「私は私の可能性を信じています。私は絶対に夢を叶えます」
近くで見ると、やっぱり先生は杏樹様によく似ている。私が杏樹様に憧れていたのはもう十年も前だし、舞台メイクとナチュラルメイクは違う。それでも、そっくりだ。似ているという次元ではないほどに。
物心ついたころから舞台に通い、数々のトップスターに疑似的な恋をしてきた。それでも、私の人生を変えた杏樹様は特別だった。トップスターではなくても、主演歴がなくとも、杏樹様は今でも私の心の王子様だ。
だから、信じたくない。私が宝塚の道に進むときっかけになった人と、目の前で夢を否定する汚い大人が同一人物だなんて。
「夢野……杏樹様……?」
お願い、「誰ですかその人は?」って言って。先生の眉がぴくっと反応した。そのあと、小さくため息をついた。
「私のことまで知っているなんて、相当コアなファンですね。それにしても、よく気づきましたね。十年も前の話なのに」
信じたくないが、かつて憧れたタカラジェンヌは卒業後、ヤバい教師となって私の前に現れたようだ。そして、あろうことか私の夢を否定する。
「普通、生徒が昔の自分と同じ道を夢にしたら嬉しいものなんじゃないですか」
震える声で抗議した。なのに、橘は涼しい顔をしている。
「今、私はタカラジェンヌの夢野杏樹としてではなく、教師の橘優子として渡会さんとお話ししています」
「そんな簡単に切り替えられるものなんですか? 絶対バイアスとか主観とか入りますよね? 元タカラジェンヌの目から見て、私は受かりそうもないってことですか?」
三年前と一昨年は一次の面接で落ちてしまったけれど、去年は二次の声楽と舞踊の試験まで行けた。宝塚受験専門スクールの先生も順調に成長していると言ってくれている。でも、もしもプロの目から見て足りないものがあればここで聞いておかなければいかないと思った。
「試験のことについては無責任なことは言えません。私の頃とは違うこともあるでしょうし。私は一般論を話しています」
「一般論とか、リスクヘッジとか……。なんでそんなつまんない人になっちゃったんですか。杏樹様は舞台では『君は何にだってなれる』って言ってたじゃないですか」
「それは台詞でしょう? フィクションを現実に持ち込まれても困ります」
相変わらず飄々とした態度。そのすべてが私の神経を逆なでした。
「だから、そういう透かしたしゃべり方とか、意味わかんないって言ってんの! 佐原先生とは音楽の先生同士話したりもするんでしょ? 佐原先生からの話とかで私には才能ないって思ったり、受かりそうもないって思ってるんならはっきりそう言えばいいじゃん!」
私は思わず大声を出した。少しの間のあと、橘が口を開く。
「渡会さん、その口のきき方は何ですか。私は宝塚の卒業生です。宝塚の上下関係が厳しいことを知らないはずがないでしょう? ため口で口答えなんてしていいと思ってるの?」
ぞくっとするくらい冷たい目で私を見て吐き捨てた。ここで自分が勢いでしでかしたことに気づく。
「宝塚に告げ口するつもりですか?」
これから入ろうとする組織の関係者によくない態度をとった。これが試験官に知られれば、心証が悪い。それどころか一発アウトかもしれない。実際に「こいつは私に無礼な態度をとったから不合格にしてください」なんて言ったら大人げなさすぎるけれど、この人は何をしでかすかわからない。
「まさか。そんなことをして私に何の得があるというんですか? タカラジェンヌだったのは過去の栄光。今はしがないコネ娘。父親の学校の進学実績にとって不利なことをする合理性がないでしょう?」
要するに、理事長のお父さんのために進学実績が欲しいだけ。無謀な挑戦をされるよりも、手堅く大学に合格してくれる方が都合がいい。でも、宝塚に受かったらそれはそれで宣伝になるから邪魔はしない。そんなところだろう。
タカラジェンヌ夢野杏樹は死んだ。もうどこにも憧れのあの人はいない。いるのは、夢を追うことを忘れた暴言教師だけだ。
「進路調査票、お返しします。明日までに併願校を書いてきてくださいね」
「書きません、受けないので。レッスンあるので失礼します」
調査票の返却を拒否し、音楽準備室を出た。あんな奴、もう推しでもなんでもない。教師としても認めない。



