夢のあと

 オーラが違う。舞台とまったく無関係な三年七組の教室でそれを思い知らされることになるなんて夢にも思わなかった。しかし、橘優子という人間は事実として私を含めた三十人全員の視線を見事に奪った。
(たちばな)優子(ゆうこ)と申します。担当教科は音楽です。教員生活は三年目、担任を持つのは初めてですが、それを言い訳にしないよう一年間職務をまっとういたしますので何卒よろしくお願いいたします」
 窓際一番後ろの私の席までよく通る美声。私もこんな声に生まれていればと嫉妬した。始業式の校長の話はおそらくみんな寝ていて誰も聞いていなかったが、彼女の話はちゃんと目を見て聞いていた。
 橘先生はすらっとしていて綺麗な人だ。整った鼻筋、切れ長な目。男装をすれば間違いなく稀代の麗人となるであろう彼女の美貌は一歩間違えれば彼女に恋をしてしまいそうなほどだ。彼女に見とれていて、配付されたプリントが一枚余っていることにすらなかなか気づかなかった。
「一枚余りました」
 三枚ほど別のプリントが配られた後でようやく気付き、教壇まで余りのプリントを返しに行く。自席から見ただけでも背が高いのは分かったが、近くに行くと身長差を実感する。推定百七十四センチ。羨ましいほどに足が長い。
「ありがとうございます。お手数かけてごめんなさいね」
 橘先生はにこやかに微笑んだ。
渡会(わたらい)(はるか)さん、ちょうどよかった。放課後、お時間はありますか?」
 先ほどまでとは打って変わって小さな声で突然名前を呼ばれ、予定を確認される。
「三時までなら大丈夫です」
 今日のレッスンは四時からだ。個人面談の内容はおおよそ予想がつくが、何時間もやるようなことではない。
「では、ホームルームが終わったら音楽家準備室に来てください。なるべく手短に済ませますので」
 去年までの威圧的な担任と違って、橘先生は常に丁寧な口調だった。出会って十分足らずで私はもう橘優子という人間に惹かれていた。去年までの選択音楽の授業の担当が橘先生でなかったことが悔しい。
 私が席に戻ると新年度恒例の自己紹介タイムが始まった。
「相川塁っす! 部活は野球部。今年は甲子園優勝するんでみんな応援来てな!」
「浅沼蘭でぇす。選択授業は音楽をとろうと思ってまぁす。将来の夢は声優でぇす」
 いつもの調子の男子に比べて、浮足立った何人かの女子は露骨に先生に好かれようとしていた。若い男の先生相手にもしないようなあざといアピールだった。
井上(いのうえ)(はな)です。歌うことが大好きです。一年間よろしくお願いします」
 私の数少ない友人、花も当然のように彼女の虜になったようだ。普段はおとなしくて目立つようなことを言うようなタイプではないのに、恋をすると周りが見えなくなるところは変わらないようだ。
「吉野健です。将来の夢はラグビー選手です」
 スポーツ選手に芸能人と、私立の非進学校らしく将来の夢は堅い職業よりも華やかな職業に寄っている。学校として部活動に力を入れていることもあり、結果を出している運動部の生徒はそのままスポーツの道に進む人も他の学校と比べれば少なくない。
「渡会遥です。選択授業は音楽をとろうと思っています。初めましての人も二度目ましての人もよろしくお願いします」
 あっという間に自己紹介は出席番号三十番の私の番になり、私もちゃっかり橘先生に媚を売る。仕方がない。お近づきになりたいと思ってしまったから。身近な人間にこういう感情を持つのは負けた気がして悔しいが、恋も憧れも本能のようなものだ。
 男子よりも女子からの好感度の高い美人で優しい担任と個性豊かな生徒たち。この橘学園高校に特に思い入れはなかったけれど、最後の年は案外いい思い出になるかもしれない。そう思った。
「皆さん、夢の話を聞かせてくださってありがとうございます。昨年度の終わりに提出していただいた進路希望調査票には目を通していましたが、皆さんの新たな面を知ることができました」
 先生の顔からはいつの間にか微笑みが消えていた。
「ですが、本当に真剣に将来について考えていますか? 私にはそうは思えません」
 声がワントーン低くなり、ほんの数秒前まで和やかだった教室の空気が一瞬で凍り付いた。
「スポーツ選手の平均引退年齢を知っていますか? サッカーやラグビーは二十六歳、野球は二十七歳と言われています」
 まだ選手になってもいないのに、いきなり引退というワードを突き付けられた運動部の人たちはたまったものではないだろう。
「一方で二〇〇七年生まれの男性の半分が百歳まで生きるという研究結果はもうずいぶん前にアメリカで発表されています。女性はもっと多いでしょう」
 次々と出されるデータ。静まり返る教室。
「夢が終わってからも人生は続きます。残りの七十年、八十年、どうするおつもりですか?」
 先生の問いかけには誰も答えなかった。
「素行、学業成績、どれをとっても社会で生きていけるようには見えません三十歳になったあなたたちが悪い大人に騙されて食い物にされる。そんな未来をお望みですか?」
 有無を言わさない迫力で紡がれる言葉たち。攻撃されているのは私ではないのに、教室という空間を初めて息苦しく感じた。早くこの地獄みたいな時間が終わってほしいと思った。
「芸能界を目指している皆さん、他人事だと思っていませんか?」
 背筋がヒヤッとした。新年度初日に、運動部で活躍するクラスの一軍を軒並み敵に回したかと思いきや、キラキラ女子からオタクまで満遍なく心を刺して、いったいどういうつもりなのだろう?
「誰とは言いませんが、デジタルタトゥーという言葉を知らない人がいらっしゃいますね。YouTubeで一攫千金を夢見るなとは言いませんが、その夢がどんな結末を迎えようと一度流した個人情報は永遠にインターネットから消えないということを頭に入れたうえで活動してください。もしも大金持ちになったとして、実家の住所も親兄弟の名前も何もかも世間に知られている、怖くありませんか?」
 カップルチャンネルを二人でやっている森と恵美が俯いている。別れた時に確実に黒歴史になる言動はもとより、個人情報の観点からよくない配信もしているので完全に先生の言っていることは正論だ。全員の前で晒し上げることの是非はさておき。
「ネットリテラシーといえばですが、オーディション詐欺についても話しておきましょう。くだらないサイトにバナー広告を出しているものは歌い手募集でも声優募集でも全部詐欺だと思ってください。夢を餌にレッスン料の名目でお金をむしり取られたあげく、碌な指導もチャンスももらえず、搾れるお金がなくなったら捨てられます。時間とお金を搾取されて、手元には何も残らず人生がめちゃくちゃになります。目先の幸福に目がくらんで盲目にならないでください」
 金縛りにあったかのように動けない。私たちはこんなに精神を削られているのに、先生は淡々と語っている。淡々としているのに、言葉の一つ一つがナイフのように鋭い。
「若い時間は一瞬です。見た目も声も、いつかは変わります。世間に求められなくなっても、人生は続きます」
 その言葉は声優志望の蘭をはじめとして、多くの一軍女子を敵に回した。初の担任で、クラスの過半数からの好感度をゼロどころかマイナスにするなんて正気の沙汰ではない。
「夢が終わっても明日は来るんです。だから、その日に備えて勉強をすることが大事なんです。これがリスクヘッジです。進路に勉強は必要ないと考えている皆さんもこの一年死ぬ気で勉強してください。以上でホームルームを終わります」
 先生は見惚れるほどに綺麗なお辞儀をして教室を去ろうとした。
「理事長の娘だからって調子乗ってんじゃねーぞ、コネババア!」
 先生の背中に向かって相川が叫んだ。野球選手の選手生命は短いと喧嘩を売られたのだから、短気な彼としては買わずにはいられなかったのだろう。彼の発言で初めて、先生の苗字と学校の名前すなわち理事長の苗字が同じであることに気づいた。
「コネで何言っても辞めさせられないからって、高校生相手に日頃の鬱憤晴らして満足か? 自分の人生上手くいかないからって生徒に八つ当たりしてんじゃねえよアラフォーババア!」
 彼女はとても若く見えたから、教員三年目と聞いて二十五歳くらいだと思っていた。三十歳を超えているようにはとても見えない。私が学校内の情報網に疎すぎるのか、相川が詳しすぎるのかはわからないがよく知っているなと感心した。
「そうですよ。コネですよ。アラフォーではなく今年で三十三歳ですが」
 それ以上に暴露と侮辱を同時にされても顔色一つ変えない先生の精神力に感心した。まさか開き直るだなんて考えもしなかった。
「コネでもなければ三十歳未経験の人間を雇ってくれる職場なんてそうそうありません。あなたにはありますか?」
 相川を強い眼差しでじっと見つめる。相川がたじろいだ。
「いや、そういうのダセエよ。そんな生き方するくらいなら死んだ方がマシだわ」
「そうですか。そういう生き方をしたくなかったら、きちんと勉強をしてくださいね。私みたいな恥ずかしい生き方は嫌でしょう?」
 そう言い放つと颯爽と教室を出ていった。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花を体現する彼女。彼女の思想にはまったく共感できないが、その後ろ姿には思わず見とれてしまった。彼女からは初恋もどきの面影を感じる。
 思想と言動の是非はさておき、彼女のオーラは本物だった。事実として、あれだけ派手に歯向かった相川ですら声を上げたのは演説がすべて終わった後だ。彼女が話している間、彼は反論しなかったのではなくできなかったのだ。
 彼女の雰囲気にはそうさせる“何か”があった。橘優子は間違いなく神に選ばれた側の人間だ。今のところ、神に選ばれていない側の私からすると、彼女がうらやましくて仕方がない。